竹生島流棒術の歴史紹介
二人は立ち合ったものの、ともに隙がない。弟ですらこれほどの腕だ、兄の久三郎はどれだけのものか、とあるいは内心怖れすら抱いたかも知れない。そうした心底を見透かしたのか、久三郎は身を縮め、太刀を正面に下げた。"隙ありー"とみた松木が、踏み込むや大きく打ち込もうとした刹那(せつな)、身体がよろめいてしまった。久三郎が薄縁の端を、力一杯に引いたのであった。勝負はこれで決したも同然であったろう。 地味な挿話ではあるが、棒術の最終目的が人を殺(あや)めることなく争いを収めるのをよしとするものだけに、こうした話が連綿(れんめん)と語り伝えられているのであろう。久三郎から後も竹生島流棒術は、久しくながく鶴岡にあって、十四代・関弥次兵衛(長明)に受け継がれる。十五代・岩瀬一心斎重周(いわせ いっしんさいしげちか)は、竹生島流棒術の普及のかたわら、至心流の柔術をもきわめ、明治29年(1869)に『柔術講義』(じゅうじゅつこうぎ)を著した。 十六代松浦政次郎好易は、十八歳で棒術と柔の極意を極めて岩瀬門下の名人と呼ばれ、二十五歳にして起証文を授けられた。十七代宗家の松浦良夫易信は、戦後、長崎県大村市に移り住んだ後、父・政次郎の跡を継いだ。その後、現在の第十八代の松浦寛澄は平成十八(2006)年六月に宗家を継いだ。長崎県大村市に本部道場を構え、支部道場を山形県鶴岡市に有している。 補足、言葉の意味など(国語辞典の大辞泉など参照) ・竹生島弁才天=この紹介ページを、ご覧下さい。 ・伝書=家に代々伝わる書物、秘伝などを記した書物。 ・武運長久=武士としての勝利の運が長く続くこと。 ・長刀=薙刀(なぎなた) ・込本(こみもと)=(長刀などの)刃が差し込まれた部分。 ・夢想・会得(むそう、えとく)=夢想とは夢の中に神仏が現れて教えを示すこと。会得とは、自分のものとすること。 ・経緯(いきさつ)=物事の経過。 ・冥恩(みようおん)=目に見えない神仏の恩恵。 ・開悟(かいご)=真理を悟ること。(今回の場合、竹生島流棒術を開いたと言う意味である) ・薄縁(うすべり)=布の縁をつけたござ。薄縁畳。 ・柔術講義(じゅうじゅつこうぎ)=岩瀬一心斎重周が述べたものを池田次郎が記して初版は明治29年9月刊行されている。和装の49丁=19cmの本である。現在、国立国会図書館のサイトから閲覧できる。 ・理合(りごう)=わけあい。理由。道理。 ・精華(せいか)=そのものの本質をなす、最もすぐれている点。 ・竹生島流棒術の道場=この道場紹介ページから、ご覧下さい。
竹生島流棒術、第十五代宗家である岩瀬一心斎重周(いわせいっしんさいしげちか)は、天保十(1839)年、杉原丈三郎の三男に生まれ、のちに山形の庄内藩同心の岩瀬万治の養子となった。岩瀬は、幕末、明治時代に武術師範や高等学校の講師として活躍した人である。 岩瀬は、若い頃より至心流柔術と竹生島流棒術を学び、慶応三(1867)年に師範免許を受け、さらには剣術や居合術にも達した。当時門下生は五百人近くいたと言う。 講道館柔道の創始者として著名な嘉納治五郎とも親交があった。このことについては、竹生島流第十六代松浦政次郎と第十七代宗家松浦良夫が語ったことが伝えられている。その概略として次の通りである。 「東京から講道館柔道の嘉納治五郎先生が、山形県鶴岡を訪れた時のことである。『柔術を見せてほしい』と言った。 岩瀬先生は嘉納先生のお弟子さんに対し、殺法を施して気を失わせ、活法で蘇生させる技を見せた。柔術は活殺自在、相手を殺すことも生かすことも自在にできる、古武道としての技を示した」と言うことである。 また、岩瀬は明治三十六(1903)年に『柔術講義』を出版するなど伝統武術の普及に、その生涯を捧げながら明治二十八(1895)年に亡くなった。
竹生島流棒術、第十六代宗家である松浦政次郎好易(まつうらまさじろうよしやす)は、明治五(1872)年の生れで、第十六代宗家岩瀬一心斎重周に師事し、弱冠十八歳で至心流柔術、竹生島流棒術を極め、居合術にも達し、二五歳の若さで宗家の証である起請文(きしょうもん)を与えられている。 <左写真:松浦政次郎(左側)が、至心流柔術を演じているところである。 右側写真:山形県鶴岡市の大宝館での展示で、左より使用していた道着、棒、太刀、松浦政次郎の写真など> 松浦政次郎が岩瀬一心斎重周の門下生の頃の話として、実子の第十七代宗家松浦良夫へ、次のことが語りつがれている。講道館柔道の嘉納治五郎先生が山形を訪れた時に「棒術を見せてほしい」と訪ねて来られ、そこで弟と一緒に竹生島流の棒術演じた。演武を見た嘉納先生は「東京に来て、棒術を教えてくれないか」と指導を求めた。 しかし、岩瀬先生に相談することなく、ましてや岩瀬先生の武術師範としでの地位を脅かすかもしれない、嘉納先生は敵対する立場ともいえる関係だったので、「今は忙しいから、教えに行くことはできない」と断ったとのことである。 松浦政次郎好易は、竹生島流棒術などの普及に努め、第十七代松浦良夫に宗家を継承した。その後、昭和二十五(1950)年に亡くなった。現在、山形県鶴岡市にある大宝館(たいほうかん)に、使用していた棒、太刀、道着などとともに写真展示されている。
竹生島流棒術、第十七代宗家である松浦良夫易信(まつうらよしおやすのぶ)は、大正五(1916)年四月十二日、山形県鶴岡市生れである。八歳から父の稽古道場に連れて行かれ、十歳で十六代松浦政次郎に棒術を習った。 宗家としての経歴は、昭和六(1931)棒術の起請文に血判、同八(1933)年一月に書物、同十(1935)年に免状、同十二(1937)年一月に印可を受けた。 同二十五(1950)年一月に起請文を受けた。十六代宗家の死去後(昭和二十五年十二月)、 同二十六(1951)年一月に竹生島流棒術第十七代宗家を継承した。 流祖が竹生島にて棒術を会得して約八百年になることを記念して平成九(1997)年八月二十四日、竹生島において流祖八百年祭を主宰して式典の挙行、記念碑の建立及び記念の演武を執りおこなった。平成十八(2006)年六月に宗家を十八代松浦寛澄に譲った。 演武及び諸活動の主な経歴は、昭和十二(1937)年、第四十一回京都武徳会に出場、梨本宮殿下の台覧を賜った。同年、初めて竹生島弁財天に参り棒術を奉納演武した。同十七 (1942)年、熱田神宮尚武祭に出場、竹生島弁財天に奉納演武をおこなった。同二十五(1950)年、 九州移住のため十六代宗家と手合わせをし、「摩利支天尊像」の掛け軸(狩野派市原円潭上人筆)を「よく此武神を祀るべし」として頂戴した。 竹生島流棒術を門下生に教えるかたわら昭和30年代を中心に長年、青少年健全育成の一貫として大村市立福重小学校校の生徒を対象に剣道を教えた。そして、その成果を運動会などでも披露し地域活動に貢献したとして現在でも、地元の方から慕われている。
流派の特徴
竹生島流棒術では、長さ六尺一寸の棒を使う。この棒は、通常の棒術の棒より一寸(3.3cm)長いのが、当流の特徴である。これは、宗家の口伝によると「この 一寸が生死を分けることになる」からである。そのため当流では、一瞬の攻防で敵の太刀を制し、急所に棒を突 き込む技法が多い。この通り、わずか一寸の違いが生死を分かつことになり急所に先に棒を 打ち込まれただけで、人は大きな 痛手を受けることになるからだ。 また、半棒の長さは四尺五寸または四尺、そして適当な長さの杖も良いと口伝されている。棒が六尺一寸と厳格に定められているのに対し、半棒は 手近な杖でも良いというのも、その場そのばの現状に臨機応変に対応する竹生島流棒術の実戦性の表れである。 打ち方(うちかた)が用いている太刀(たち)は三尺ニ寸で、皮に詰め物した袋状の鍔(つば)を使っている。これは、当流 が棒で鍔を打ち落とす技法を多用するためである。