歴史紹介
 このページは、竹生島流棒術の歴史紹介です。歴史の記述にあたって宗家に代々伝わる伝書及び幾度かの雑誌取材時に第十七代宗家松浦良夫易信が語った内容を元にしている。(なお、概要のみの歴史紹介ページは、ここからご覧下さい) 文章中、読み方や難しい意味と思われる字句などについては、できるだけ送り仮名や本文下段に補足の説明文を記しましたので、ご参照願います。

竹生島流棒術の歴史紹介

流祖・難波平治光閑
竹生島の全景(フリー百科事典ウィキペディアより)
   竹生島流棒術の起源は、宗家に代々伝わる伝書に流祖の難波平治光閑(なんばへじみつのり、生没年不詳)について書いてある。この伝書によれば光閑は、今から八百余年、摂津(現在の大阪)出身の武将であった。

 光閑は、安芸(広島県)の厳島、相模(神奈川県)の江ノ島とならび、日本三弁才天の一つに数えられる、近江(滋賀県)琵琶湖の竹生島弁才天に詣で(もうで)、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈り、ついに長刀(薙刀、なぎなた)一流を夢想・会得(むそう、えとく)したといわれている。難波平治光閑が、棒術を創始するにいたった経緯(いきさつ)については、次のように伝えられてきた。

 ときは源平合戦のごく初期というから、おそらくは治承年中(西暦1177〜1180年)であろうか、光閑はある合戦に出陣、おりしも戦闘の最中に、薙刀が込本(こみもと)から折れて柄だけが残るという、思わぬ苦境におちいった。だが、光閑は折れた棒ばかりになった柄をもって、薙刀の術を駆使し、大勢を討ち取ったという。

 光閑はこの武運を、「偏(ひと)えに弁才天の冥恩(みようおん)である」」とし、以来、一心不乱に創意工夫、養和元年(1181)頃にいたって、ついに棒術なる技を編み出したのであった。 流祖以降 難波平治光閑の棒術を「竹生島流」〉称する由来は、先述の弁才天参詣で開悟(かいご)したことによる。この光閑の竹生島流棒術は、やがて、摂津国の竹内文左衛門(たけのうちぶんざえもん)に継承されたが、その後の竹生島流棒術は、いつしか出羽の庄内に根づくこととなった。

上の写真は宗家の伝書(巻物)、竹生島流棒術の起源が記述されている
  摂津から遠隔の出羽へ、どのような事情と経過によって伝承されたのか、詳(つまび)らかではない。 竹生島流棒術の中興の祖というべき人物が、五代宗家を称した梶原久三郎(かじわらきゆうざぶろう)であった。久三郎は農家に生まれながら、ことのほか武道に関心を示したようで、十五歳のおりに伊勢参りと称して国を出奔、江戸に出ると早々に一刀流の高橋正左衛門(弾正)なる士と試合した、と記録にある。我流(がりゅう)の剣とはいえ、よほどの自信があったのだろう。もっとも試合のほうは、「打ち負けて、弟子となり」とあるから、多分、これで自己流の限界を知ったに違いない。

 その後、慶心流(けいしんりゆう)という兵法について七年の修行を積み、八年目にして免許を得た、とある。ほどなく久三郎は郷里の庄内に帰ると、二十八歳で佐藤七兵衛から棒術を学んだが、この七兵衛こそ、古くから伝わる竹生島流棒術の四代宗家であったという。 この時期、久三郎は棒術のほかにも、谷口夢想流の太刀や柔術を小野小右衛門について修め、坂巻流、沙門流(縄術・鎌・居合・手裏剣・薙刀・槍術など、およそ十余の武技)をもきわめたというから、見事というほかはあるまい。

 武芸の修得に人生を賭した久三郎は、間もなく鶴岡(庄内)で仕官し、老いて藩主に召されて、その面前で数十年におよぶ修行の成果を披露する栄誉を得た。「加増二石を賜う」とある。 久三郎は当流中興の祖といわれるだけに、代々、宗家に伝承されてきた挿話も多い。が、わけても久三郎らしいのは、鶴岡の柔術・剣術師範であった松木笹右衛門との試合であろう。久三郎の名声を聞いて、ある日、松木が訪ねてきた。

 このとき久三郎は門前を掃除していたが、松木は久三郎を見知らず、当の本人に在宅を訊ねた。松木の用向きを察した久三郎は、自分は弟であると名乗って居留守をつかったものの、相手も歴とした武士。奥へ招じ入れて茶菓をだしたが、いつまでも帰宅しないのを残念がるばかりか、粘って帰宅を待つ気配もうかがえる。そこで、とりあえず松木は弟と名乗る久三郎と手合せをしたいという。やむなく久三郎も了承。このとき彼は道場に、“薄縁”(うすべり)を一枚敷いて試合の準備をした。
宗家の伝書(巻物)


  二人は立ち合ったものの、ともに隙がない。弟ですらこれほどの腕だ、兄の久三郎はどれだけのものか、とあるいは内心怖れすら抱いたかも知れない。そうした心底を見透かしたのか、久三郎は身を縮め、太刀を正面に下げた。"隙ありー"とみた松木が、踏み込むや大きく打ち込もうとした刹那(せつな)、身体がよろめいてしまった。久三郎が薄縁の端を、力一杯に引いたのであった。勝負はこれで決したも同然であったろう。

 地味な挿話ではあるが、棒術の最終目的が人を殺(あや)めることなく争いを収めるのをよしとするものだけに、こうした話が連綿(れんめん)と語り伝えられているのであろう。久三郎から後も竹生島流棒術は、久しくながく鶴岡にあって、十四代・関弥次兵衛(長明)に受け継がれる。十五代・岩瀬一心斎重周(いわせ いっしんさいしげちか)は、竹生島流棒術の普及のかたわら、至心流の柔術をもきわめ、明治29年(1869)に『柔術講義』(じゅうじゅつこうぎ)を著した。

 十六代松浦政次郎好易は、十八歳で棒術と柔の極意を極めて岩瀬門下の名人と呼ばれ、二十五歳にして起証文を授けられた。十七代宗家の松浦良夫易信は、戦後、長崎県大村市に移り住んだ後、父・政次郎の跡を継いだ。その後、現在の第十八代の松浦寛澄は平成十八(2006)年六月に宗家を継いだ。長崎県大村市に本部道場を構え、支部道場を山形県鶴岡市に有している。

補足、言葉の意味など(国語辞典の大辞泉など参照)
・竹生島弁才天=この紹介ページを、ご覧下さい。
・伝書=家に代々伝わる書物、秘伝などを記した書物。
・武運長久=武士としての勝利の運が長く続くこと。
・長刀=薙刀(なぎなた)
・込本(こみもと)=(長刀などの)刃が差し込まれた部分。
・夢想・会得(むそう、えとく)=夢想とは夢の中に神仏が現れて教えを示すこと。会得とは、自分のものとすること。
・経緯(いきさつ)=物事の経過。
・冥恩(みようおん)=目に見えない神仏の恩恵。
・開悟(かいご)=真理を悟ること。(今回の場合、竹生島流棒術を開いたと言う意味である)
・薄縁(うすべり)=布の縁をつけたござ。薄縁畳。
・柔術講義(じゅうじゅつこうぎ)=岩瀬一心斎重周が述べたものを池田次郎が記して初版は明治29年9月刊行されている。和装の49丁=19cmの本である。現在、国立国会図書館のサイトから閲覧できる。
・理合(りごう)=わけあい。理由。道理。
・精華(せいか)=そのものの本質をなす、最もすぐれている点。
・竹生島流棒術の道場=この道場紹介ページから、ご覧下さい。

流祖八百年祭
記念式典
記念演武
記念碑
   竹生島流棒術の流祖難波平治光閑は、今から約八百年前、竹生島弁才天に詣でて武運長久を祈願し、夢想のうちに長刀一流を会得した。それを起源に竹生島流棒術は始まった。

 このことを記念して平成九(1997)年八月二十四日に流祖八百年祭を第十七代宗家松浦良夫易信が主宰し式典の挙行、記念碑の建立及び記念の演武などを執りおこなった。

 この八百年祭式典には、宝厳寺の管主、びわ町々長様、日本古武道協会様のご臨席や友好諸流派のご参加を賜り、十七代宗家松浦良夫易信、十八代宗家松浦寛澄を始め流派一門及び演武ご観衆の皆様含めて盛大に開催された。

  この時に建立された記念碑(左写真参照)は、御影石の表面に『竹生島流棒術発祥之地』(十七代宗家松浦良夫易信の書)と彫られいる。

 後日談として、流派として大変ありがたいことに竹生島を信仰や観光で訪れられた方々も、良くこの記念碑はご覧頂いておられるようで、いくつかのホームページに写真付きで、ご紹介して頂いている。

近代宗家紹介その1、第十五代岩瀬一心斎重周
岩瀬一心斎重周

 竹生島流棒術、第十五代宗家である岩瀬一心斎重周(いわせいっしんさいしげちか)は、天保十(1839)年、杉原丈三郎の三男に生まれ、のちに山形の庄内藩同心の岩瀬万治の養子となった。岩瀬は、幕末、明治時代に武術師範や高等学校の講師として活躍した人である。

 岩瀬は、若い頃より至心流柔術と竹生島流棒術を学び、慶応三(1867)年に師範免許を受け、さらには剣術や居合術にも達した。当時門下生は五百人近くいたと言う。

 講道館柔道の創始者として著名な嘉納治五郎とも親交があった。このことについては、竹生島流第十六代松浦政次郎と第十七代宗家松浦良夫が語ったことが伝えられている。その概略として次の通りである。

 「東京から講道館柔道の嘉納治五郎先生が、山形県鶴岡を訪れた時のことである。『柔術を見せてほしい』と言った。 岩瀬先生は嘉納先生のお弟子さんに対し、殺法を施して気を失わせ、活法で蘇生させる技を見せた。柔術は活殺自在、相手を殺すことも生かすことも自在にできる、古武道としての技を示した」と言うことである。

  また、岩瀬は明治三十六(1903)年に『柔術講義』を出版するなど伝統武術の普及に、その生涯を捧げながら明治二十八(1895)年に亡くなった。

近代宗家紹介その2、第十六代松浦政次郎好易
至心流柔術を演武中
大宝館での展示

 竹生島流棒術、第十六代宗家である松浦政次郎好易(まつうらまさじろうよしやす)は、明治五(1872)年の生れで、第十六代宗家岩瀬一心斎重周に師事し、弱冠十八歳で至心流柔術、竹生島流棒術を極め、居合術にも達し、二五歳の若さで宗家の証である起請文(きしょうもん)を与えられている。

<左写真:松浦政次郎(左側)が、至心流柔術を演じているところである。 右側写真:山形県鶴岡市の大宝館での展示で、左より使用していた道着、棒、太刀、松浦政次郎の写真など>

  松浦政次郎が岩瀬一心斎重周の門下生の頃の話として、実子の第十七代宗家松浦良夫へ、次のことが語りつがれている。講道館柔道の嘉納治五郎先生が山形を訪れた時に「棒術を見せてほしい」と訪ねて来られ、そこで弟と一緒に竹生島流の棒術演じた。演武を見た嘉納先生は「東京に来て、棒術を教えてくれないか」と指導を求めた。

 しかし、岩瀬先生に相談することなく、ましてや岩瀬先生の武術師範としでの地位を脅かすかもしれない、嘉納先生は敵対する立場ともいえる関係だったので、「今は忙しいから、教えに行くことはできない」と断ったとのことである。

 松浦政次郎好易は、竹生島流棒術などの普及に努め、第十七代松浦良夫に宗家を継承した。その後、昭和二十五(1950)年に亡くなった。現在、山形県鶴岡市にある大宝館(たいほうかん)に、使用していた棒、太刀、道着などとともに写真展示されている。

近代宗家その3、第十七代松浦良夫易信
松浦良夫易信

 竹生島流棒術、第十七代宗家である松浦良夫易信(まつうらよしおやすのぶ)は、大正五(1916)年四月十二日、山形県鶴岡市生れである。八歳から父の稽古道場に連れて行かれ、十歳で十六代松浦政次郎に棒術を習った。

  宗家としての経歴は、昭和六(1931)棒術の起請文に血判、同八(1933)年一月に書物、同十(1935)年に免状、同十二(1937)年一月に印可を受けた。 同二十五(1950)年一月に起請文を受けた。十六代宗家の死去後(昭和二十五年十二月)、 同二十六(1951)年一月に竹生島流棒術第十七代宗家を継承した。

 流祖が竹生島にて棒術を会得して約八百年になることを記念して平成九(1997)年八月二十四日、竹生島において流祖八百年祭を主宰して式典の挙行、記念碑の建立及び記念の演武を執りおこなった。平成十八(2006)年六月に宗家を十八代松浦寛澄に譲った。

 演武及び諸活動の主な経歴は、昭和十二(1937)年、第四十一回京都武徳会に出場、梨本宮殿下の台覧を賜った。同年、初めて竹生島弁財天に参り棒術を奉納演武した。同十七 (1942)年、熱田神宮尚武祭に出場、竹生島弁財天に奉納演武をおこなった。同二十五(1950)年、 九州移住のため十六代宗家と手合わせをし、「摩利支天尊像」の掛け軸(狩野派市原円潭上人筆)を「よく此武神を祀るべし」として頂戴した。

 竹生島流棒術を門下生に教えるかたわら昭和30年代を中心に長年、青少年健全育成の一貫として大村市立福重小学校校の生徒を対象に剣道を教えた。そして、その成果を運動会などでも披露し地域活動に貢献したとして現在でも、地元の方から慕われている。

竹生島宝厳寺の認証状
 滋賀県の琵琶湖にある竹生島宝厳寺より代々宗家に対し、竹生島流棒術の正統な宗家であるとして認証状が発行されている。

流派の特徴

 竹生島流棒術の流儀が棒、すなわち木をもって真剣を制し得るのは、敏速の技と手数の少ない極致の技で、急所をつく工夫に特徴と秘訣があるといっていい。そのためには“業・心・気合”が、枝に“冴え”を与え、真剣にも増して高いレベルに到達することが肝要なのである。

 そうしたこの流儀の技法の基本技に、「表の型」と、応用技とされる「裏の型」がある。これは一対のものとなっているが、比較的に技法・理合について理解しやすい。 形を挙げれば、裏四本目「小手上げ小手下げ」であろうか。 これは太刀を相手とする技法だが、実戦のおりの一撃必殺の突き技である。また、「提げ」(ひっさげ)三本という技法もある。

 これは相手の太刀を払い落として、同時に、喉(のど)に棒先を決める技-----いずれにしても、繰り返すようであるが、棒が真剣を相手にするのであるから、相手の真剣にも増して棒を上手に使えねばならぬことが、技法よりも何よりも大前提となる。 竹生島流棒術では、これまでも、その時代時代の戦法と武器によって勝つための術を工夫し、会得してきた歴史がある。

 したがって、現在の技法も“理・型・業・気”の合体してできた精華(せいか)といえ、即一本で決めることを真骨頂としてきた。それには、"機先の先"をなによりも大切にしている。ゆえに理合もまた、この“機先の先”にすべてがある、といってよいであろう。
 
伝書と系譜
 竹生島流棒術の宗家には代々、伝書(巻物)が受け継がれている。左写真の左側から起請文書物免状印可である。

  当流の宗家は、流祖以来、現在まで下記の通りである。

流祖(摂津)難波平治光閑   二代(摂津)竹内文左衛門   三代(庄内)佐藤左戸右衛門   四代(酒田)佐藤七兵衛   五代(酒田)梶原久三郎   六代(鶴岡)清水弥太夫   七代(鶴岡)岡田安兵衛   八代(鶴岡)大戸亦助一   九代井上祐平  十代村上文六   十一代上野和吉   十二代大屋喜八   十三代大屋作右衛門   十四代関弥次兵衛   十五代(鶴岡)岩瀬一心斎重周   十六代(鶴岡)松浦政次郎好易   十七代(大村)松浦良夫易信   十八代(大村)松浦寛澄<現宗家>
棒と剣
<左写真の棒と剣の説明>
・上2本が、太刀(たち)。
・次の2本が、(ぼう)=長さ六尺一寸。
・下側が、半棒(はんぼう)=長さ四尺五寸から四尺を通常使うが、特に長さの定めはない。

 竹生島流棒術では、長さ六尺一寸の棒を使う。この棒は、通常の棒術の棒より一寸(3.3cm)長いのが、当流の特徴である。これは、宗家の口伝によると「この 一寸が生死を分けることになる」からである。そのため当流では、一瞬の攻防で敵の太刀を制し、急所に棒を突 き込む技法が多い。この通り、わずか一寸の違いが生死を分かつことになり急所に先に棒を 打ち込まれただけで、人は大きな 痛手を受けることになるからだ。

  また、半棒の長さは四尺五寸または四尺、そして適当な長さの杖も良いと口伝されている。棒が六尺一寸と厳格に定められているのに対し、半棒は 手近な杖でも良いというのも、その場そのばの現状に臨機応変に対応する竹生島流棒術の実戦性の表れである。

 打ち方(うちかた)が用いている太刀(たち)は三尺ニ寸で、皮に詰め物した袋状の鍔(つば)を使っている。これは、当流 が棒で鍔を打ち落とす技法を多用するためである。

 上記の歴史紹介をA4サイズ印刷用もしくは保存用としてPDFファイル形式の文書も、ご用意しています。竹生島流棒術の歴史紹介』のPDFファイル形式は、ここからご覧下さい

出典、写真提供、参考資料一覧は、ここからご覧下さい。



竹生島流棒術