文通を介して中国と日本の草の根交流を進める「日中文通クラブ」が、今月で創設20周年を迎えました。文通を橋渡ししたのは述べ1万8千組。大阪市淀川区の事務所を訪ね、会長の藤井基義さん(54)に活動の歩みをうかがいました。
「電子メールが便利な時代ですが、文通希望の手紙は途切れません」
近況の説明に耳を傾けながら、まず見せていただいたのは、手紙の束。習い始めたばかりの日本語を一語一語、心をこめて書いたのでしょう、しっかりとした文字が並んでいます。
<文通できることをうれしく思っています>、<日本のことを教えてください>
差出人は、中国の外国語学校に通う若者ら。活動の成果で、文通クラブの名前は、現地でも口コミで広がっているのです。
創設は1986年。中学生のころから海外のペンフレンドと文通していた藤井さんがその夏、中国吉林省の文通相手を初めて訪ねたのがきっかけでした。
立ち寄った中学校で教師から日本語の指導を依頼されました。断っても、教師は「子供たちを日本と交流させたい」と引き下がりません。熱意に押され、文通相手を紹介するからと約束し、帰国後、一人で活動を始めたのです。
次々に手紙が送られてきますが、日本側の相手がなかなか見つかりません。自分で20人以上と文通しながら、クラブの会員を募って相手役を頼むことにしました。印刷業の合間に、毎日1000枚以上の勧誘ちらしを配って回る日々が始まります。
努力のかいあって、半年後、クラブの会員が主婦や会社員ら300人に増えました。手紙の文章を添削して返送したり、訪中して友好を深めながら日本語を教えたり。その積み重ねで、海の向こうに親友もでき、95年ごろには、会員数も約2000人に膨らみました。
危機が訪れたのは2003年。新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)が中国で猛威をふるい、春の交流旅行が出発の前日に中止されました。不安感からか会員数は半減し、会報も休刊に至ります。加えて昨春の反日デモ。その余波で、計画していた上海への旅行が、またも中止に追い込まれたのです。
それでも、さりげない身の回りの出来事を話題に文通は続き、昨年11月、やっと会報再開にこぎつけました。<中国人は井戸の水を飲むとき、掘った人のことを忘れません>という、クラブへの感謝の手紙も励みになったそうです。
今年の正月、旅行も再開され、藤井さんは8月にも会社員や大学生ら7人と「日本語の授業お手伝い交流旅行」と銘打って船で中国に渡りました。
長春の吉林華僑外国語学院で学生らと集い、寝台列車で500キロ以上走った図們でも愛延日本語倍訓学校の約10人と対面して一緒に北朝鮮国境などを見て回ったのです。
初対面だった両国の参加者も、ともに過ごすうちに愛称で呼び合い、肩を組んで写真に納まるほど。別れの夜、駅の改札口で互いに手を握り離れない人たちもいたといいます。
「さよなら、さよなら、必ず連絡します」。図們の学生たちの声が耳に残るという藤井さん。帰国後、思いを新たにしています。
「20年前、中国で交わした約束を守りたいと思って続けてきました。今後も1組でも多く、親友づくりのお手伝いをしたい」
先日、旅行の思い出を掲載した会報が刷り上がりました。近く会員のもとに届くことでしょう。交流の輪がさらに広がるよう応援しています。
―読売新聞「泉」2006/9/24掲載―







中国の若者たちと文通を仲立ちする「日中文通クラブ」がある。
大阪市内で印刷業を営む藤井基義さんが主催して12年、会報「日中文通クラブニュース」もこの10月号が創刊100号となった。
◆かねて中国の人々と文通していた藤井さんは、日本語を学ぶ中国人が生の日本語に触れる機械の乏しいことを知る。それがクラブ設立のきっかけだった。
◆9月から新学期の中国から、なお文通希望の手紙が多数届く。
「日本語を習っています。だから、もっと日本について知りたいのです」
「日本の友達と一緒に勉強して、日中友好の輪を広げたいと思っています」
◆10代後半から20歳代の若者からの見事な日本語の手紙に、熱心な学習の成果がうかがえる。
中国では、大学や中・高校レベルなどで約25万人が日本語を学んでおり、とくに東北部(旧満州)で日本語熱が高いそうだ。
◆「無論、文通は日本語でOK。素顔の中国と触れ合おう」と日中文通クラブは幅広い参加を呼びかけている。
◆現会員は約2000人。
若者同士の交流だけではない。
戦争体験世代で中国の若者とペンフレンドの仲を結んだ人もいる。
日中平和友好条約締結から20年。
日本語学習の手助けから草の根の相互理解が広がる。
―読売新聞「編集手帳」1998/10/27掲載―
“アジア文通交流”仕掛け人
世界結ぶ手紙のぬくもり
文通。郵便による手紙のやり取り。ペンフレンド…。かってこれらの言葉が持つ、ほのかな交歓の響きに心を動かされた人も少なくないはず。時代は移り、今、手紙はおっくうがられている。が、日中文通クラブ会長、藤井基義さん(48歳)は少年のころの夢を追い続ける。1964年、日本中を湧かせた東京オリンピックに感激した少年は「世界の人と文通し、友達になりたい」と思い立った。それから36年、少年がたどった文通の旅は?手紙へのこだわりは?
(記事・粉川大義)
―最初の文通相手は?
「米国の女子中学生でした。中学2年生の時、簡単な手紙を書き、毎日返事を楽しみにして待っていると、2ヶ月ほどして英文の手紙が届いた。わぁと喜びましたが、なんと、それはあて先不明で返送されてきたものでした。海外からの最初の手紙は自分が書いたものだったのです」
―女子中学生とはその後うまく連絡できましたか
「正確な住所がわかりました。ただ、3回ほどやりとりしただけで、途切れてしまった。真夏に白い野球のユニフォームを着て、まっ黒に日焼けした顔の自分の写真を同封したのが、いけなかったのかなぁ。アジア人への偏見のようなものを感じました」
―うーん。
「その後もフランス人やポーランド人など主に欧米系の人と英文で続けました。ある日、タウン誌に『中国人が日本語で文通希望』とあるのが、目に留まりました。へえー、日本語のできる外国人がいるのか、日本語でも海外と文通できるのか、とこの時初めて気づきました」
―相手は?
「吉林省・長春大学の白竜という学生でした。毎月2回程度やりとりしました」
―そんなに頻繁に。どんなことを書くんですか
「自分のことを書くんです。どんな家に住んで、間取りはどうだとか。図まで添えます。相手も市場の米が値上がりして困っているとか書いてきます。互いに身近なことを報告し合うのです。そうすると、想像力をかき立てられ、まるで自分がそこへ行ったような気分になる。これが長続きするコツです。政治や経済を論じるような手紙ではすぐに飽きがきます」
―その青年との文通が今のクラブにつながった?
「そうです。いよいよ白竜君を訪ねていくことになりました。86年夏のことで、私にとって初めての海外旅行です。すでにわかっていましたが、白君は朝鮮族の中国人で、自宅は吉林省延辺朝鮮族自治州の龍井市にありました。天津駅から列車で33時間です。白君の自宅に泊めてもらい、翌日、近くの中学校の周りを歩いていると、中から日本語が聞こえてきた」
―ほう
「意外な思いに駆られ、教室に入ってみました。若い男の先生がいて、『日本語の教師をしているが、日本人に会うのはあなたが初めてだ』と大歓迎してくれたのです。そして、『市内には日本語教師が何人かいるが、日本人がいない。それで、わからない表現法などにぶつかると、皆が集まって相談して結論を出す。間違った結論であっても、直してくれる人がいない』というのです」
―なるほど
「文通があります、と私は叫んだのです。手紙なら日本人に直接尋ねることができる。私が文通相手を探しましょう、と約束しました」
―胸に響くものがあったのですね
「そうです。帰国後、一人で今のクラブをつくりました。新聞の2行広告を出したが、全然反応なし。そこで、大量のチラシをつくり、阪急や地下鉄の沿線、団地を回り、1日に千枚配りました。2日で一人問い合わせがあるという状態でした」
―予想以上の苦労…
「もうやめたろか、と思いましたが、日本人はうそつきと思われるのも嫌で、2年半ぐらい続け、約300人の会員が集まりました」
―今では?
「全国に1900人。大阪が最も多く、次いで兵庫、京都、東京が各200人といったところです」
―中国側は?
「吉林省が多い。中学生から第1外国語に日本語を採用しているから。それだけ日本に対する期待が大きいのです。近年は上海、北京、広州が増え、ミャンマーやタイ、韓国からも紹介依頼が舞い込み、申し込みに応じきれない状況が続いています」
―アジア諸国から日本人と友達になりたいという希望が出ている。大事に受け止めたいですね
「そうです。将来、このクラブを通じて世界中の人々と文通できるハブ・クラブに成長できれば、というのが私の夢ですが、アジアは過去の歴史や近隣である点からも、やはり一番大切です」
―Eメールやファックスばやりの時代、郵便による手紙の意味は?
「温かみがある。行間を読み取り、想像力を養うことができる。文通ファンは今でも結構多いのです」
ひとこと
クラブには会則、役員といった決まりがない。藤井さんと事務局員一人だけで、文通仲介から会報発行、会員交流会などのすべての事業を取り仕切る。会費制(月額500円)だが、「会員みんなで民主的に運営」でなく、会長が自分のやりたいようにやる“個人経営的”クラブである。事務局の壁に「右顧左眄(べん)するな」の文字。柔らかい物腰と話しぶりの中に、案外、一徹な面も…。
―神戸新聞「編集委員いんたびゅー」2000/8/28掲載―
![]()

日中文通クラブは、しばしば新聞、雑誌などで紹介されています。NHK、フジテレビでも紹介されたました。ここでご紹介しているのは、その一部です。












