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時の流れに身をまかせ [VOL20 2011.1]

「時の流れに身をまかせ」てしか生きられないのかもしれない。
政治に振り回された時代があり、戦争で全てが国の統制下に置かれ、自由を奪われた時代があった。そして今の時代、「ケータイを持ったサル」に象徴されるように、不透明で虚無の時代が生きる不安を増幅しているかのようである。

2009年8月、長かった自民党政権が倒され、替わって民主党が政権を獲った。多くの国民は頭上に重く厚く垂れ込めていた暗雲が吹き払われた爽快感を味わい、人間を大切にする政治が実現したと思ったはずである。

だが案に相違して、政治の舵取りは蛇行を繰り返し、あまつさえ後戻りを始めた感がある。

普通の庶民の声を届ける手立てを失った無力感に打ちのめされている。

こんな思いを強くしたのは、次のような詩のフレーズに心打たれたからだ。

  夜から朝に変る いつもの時間に
  世界はふと考え込んで 朝日が出遅れた
  なぜ哀しいニュースばかり TVは言い続ける
  なぜ悲しい嘘ばかり 俺に聞こえる
  Oh 荷物をまとめて 旅に出よう
  Oh もしかしたら君に会えるね
  JUNP 夜が落ちてくるその前に
  JUNP もう一度高くJUNPするよ

  世界のど真ん中で ティンパニーを鳴らして
  その前を殺人者が パレードしている
  狂気の顔で空は 歌って踊っている
  でも悲しい嘘ばかり 俺には聞こえる
  Oh くたばっちまう前に 旅に出よう
  Oh もしかしたら君に会えるね
  JUNP 夜が落ちてくるその前に
  JUNP もう一度高くJUNPするよ
  JUNP もう一度高くJUNPするよ

     (「JUNP」作詞・作曲忌野清志郎/三宅伸治)

ロックミュージシャンで作詞作曲家忌野清志郎は2009年5月2日、癌性リンパ管症のため
死去した。58歳だった。
 
国民はこの2年間、希望と絶望の間を行ったり来たりさせられ、もう疲れ果てた。
政治がなすべきことは国民に安心と希望を与えることではないのか。
その本義を忘れないでほしい。それこそがわれわれが民主党に託した所以だ。


公徳心[VOL19 2008.10.25]

徳目という言葉がある。

昔の修身はこれを教えた。

難しく言えば儒教における仁、義、礼、智、信、古代ギリシャでの知恵、勇気、正義、節制、キリスト教における信仰、希望、愛などが徳目である。
なかでも公徳心は社会生活の上で守るべき道徳で、この徳目を失った社会は乱れる。
昨今、しきりにそんなことを考えさせられる。
悪事を働いても恬として恥じないその傍若無人さ厚顔さに言葉を失う。奇異としか言いようがない。

公徳心の欠如はまた、身近にゴマンとある。ゴミの不法投棄は社会生活の不適格者として処罰に値する。日本は年間の自殺者の数は3万人を越え、世界一だという。親殺し、子殺しが新聞に載らない日はない。徳目を失った荒涼とした風景にはウソ寒さを覚える。

何年か前までは日本は世界の中でも安全な国と言われていたものだが、今や安全神話は崩れつつある。日本は高い代償を払って手に入れた世界に誇るすばらしい憲法を持っている。あれは理想だ、と一蹴しないで、例えそれが困難なことであっても、その精神を実現していたならば、今日のように希望も夢もない殺伐とした国にならなかったものと思う。

だからと言って戦前の道徳や終身の復活を望むものではない。

結局は政治のありように帰結するのだが、その政治も官僚も今や堕落の極みにある。

哀れむべきは国民ではないか。

 ひとりの子どもの涙は、人類全ての悲しみより重い。

           ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」より。


劇作家木下順二の死VOL18 2007.01.20]

劇作家の木下順二さんが亡くなった。平成18年10月30日死因は肺炎だった。92歳。

11月30日付の朝日新聞は1面と21面の文化特集そして社会面の3箇所で死亡記事、評伝を載せて死去を惜しんだ。満92歳だった。

さらに12月1日付では社会面で「お別れ会を来年4月」に行うと報じていた。

また翌2日の「文化芸能」欄では師弟関係を自認する劇作家の福田善之さんが、回想文を掲載している。これだけではない。12月19日付の追悼欄で故人を偲んでいる。
同一紙がこのように矢継ぎ早に記事を載せるのは異例のことではないだろうか。

私が木下順次の作品を知ったのは昭和35年頃だったと思う。

札幌在住の宮原太刀夫という演出家が木下順二の初期の作品「彦市ばなし」という芝居をもって地方回りをしていて、突然留萌に来た。
その一幕ものの芝居を労働会館(今の消費生活センター)で観たのが劇作家木下順次との出会いであった。そのアッケラカンとした笑いにすっかり魅せられて、以来木下のファンになった。惚れたのは作品ばかりではなかった。

戦争と平和に対する深い洞察、言葉を魔術師のように自在に操り、とりわけ方言をこれほどまでに魅力を感じさせる劇作家はいないのではないかと思う。

私の劇団では「夕鶴」「三年寝太郎」など初期の民話劇をとりあげ、留萌ではもとより近隣の小学校にまで持ち込んで上演しものだ。
木下順二の作品、評論はほとんど未来社から出版されている。作品集、評論集の全巻はもとより単行本に至るまで出版されるたびごとに買い求め読み漁ってきた。
私の30年代と40年代は演劇活動が中心だったので、その時期もっとも影響を受けた知識人は木下順二と久保栄の二人である。
作品としては木下の場合は「風浪」「オットーと呼ばれる日本人」「巨匠」「神と人とのあいだ」、久保栄の作品では「火山灰地」「林檎園日記」である。

朝日新聞は追悼欄で「花一輪といえども御辞退申し上げます」。と母を亡くしたときに出した挨拶文の一部を紹介して、木下順二という人が自分のことで他人を煩わせることをとかく嫌った潔癖な人であったと回顧している。



読書の情景 [VOL17 2005.10.15]

 この頃小学校2年生の孫が、ソファに腹ばいになって本を読んでいる姿をよく見かける。

それは茶の間であったり、私の仕事場であったり場面は異なるが、何とはなしに懐かしい情景であるのだ。

 私の小さい頃は畳の生活であったので、もっぱら畳の上に腹ばって時の経つのも忘れて読み耽ったことを思い出す。

 読書週間が近づいてきた。今では人々の日常生活の中に受け入れられているとは思えないイベントだが、せめてこの機会に何か一冊本を読んでみようか、と読書欲を掻き立てるようなのが欲しい。

 現今の若い人たちは本を読まない。今老境に入った人たちでさえ読書を敬遠してきた世代ではなかろうか。

 私は本好きだったから10代の頃から本を読み漁ってきた。本から得た英知は計り知れないものがある、とつくづく思う。だがゲーテもシェークスピアもジッドもチェーホフもサルトルもカミュも、今は読めない。このような古典的な作品は10代か20代の若い頃に読む本である。長編ものを夜を徹して読みふけったり、途中で投げ出したくなるような難解な本を読み終えたときの達成感、充実感は自分が一回り大きくなったかのような昂揚感があった。本を読む、とはそういうものである。

 そういう経験を持たないで大人になり親となった若い人たちは、子どもに本を読ませることにあまり熱心ではないように思う。
だがせめて本のある場所に連れて行って、自由に遊ばせることくらいはしてあげて欲しいと思う。そして何を読もうが干渉しないで好きなようにさせてあげて欲しい。

 やがて子どもたちはゲーテやシェークスピア、ジッドに、若しかしたらチェーホフ、サルトル、カミュにも手を伸ばすくらいに読書欲を高めていくかもしれない。


一本の鉛筆[VOL16 2005.8.4]

平成17年8月3日のHTBニュースステーションの番組の中で、亡くなった美空ひばりさんの最後のステージで唄われたという「一本の鉛筆」という歌を聴いた。
1988年8月の第15回広島平和音楽祭で美空ひばりが歌い、それが彼女の最後のステージであった、とキャスターの解説があった。
しみじみと聴くものに訴えかけるような、それでいてとても深みのある歌に思わず引き込まれ、しばらく茫然自失の体であった。これは演歌ではない。明らかに平和を希うメッセージソングである。
2フレーズの詩の中から、一本の鉛筆に託した愛と平和への切々たる思いが伝わってくる。―作詞は松山善三さんだった。
そして驚いたことにこの曲の作曲は佐藤勝さんだった。

私は、と言うより文化会議は今年留萌が生んだ映画音楽の巨匠佐藤勝さんを、市民皆で顕彰する運動を展開しようと、その構想を練っている。その矢先に「一本の鉛筆」に出合ったわけで、それは明らかに偶然に違いないのだが、それだけではない何かを示しているような気がしてならない。

詩の全文を紹介しよう。
  [作詞]松山 善三
  [作曲]佐藤  勝
1あなたに 聞いてもらいたい
 あなたに 読んでもらいたい
 あなたに 歌ってもらいたい
 あなたに 信じてもらいたい
 一本の鉛筆があれば
 私は あなたへの愛を書く
 一本の鉛筆があれば
 戦争はいやだと 書く

2あなたに 愛をおくりたい
 あなたに 夢をおくりたい
 あなたに 春をおくりたい
 あなたに 世界をおくりたい
 一枚のザラ紙があれば
 私は子供が欲しいと書く
 一枚のザラ紙があれば
 あなたを 返してと 私は書く

 一本の鉛筆があれば
 八月六日の朝と書く
 一本の鉛筆があれば
 人間のいのちと 私は書く


VOL15(2005.2.18)文庫は後世に残るもの
文庫は後世にも読み継がれたいものが収められ、いつでも求めることができるもの、と思っていた。文庫の老舗である「岩波」も「新潮」もそうであった。
ところが近年、事情が大きく変わったようだ。まず文庫に入る第1条件は売れる本のようだ。
さらにいきなり文庫本として売り出す傾向もある。それに値段もハードカバーに匹敵するくらいに高くなっている。そしてさらに悪いことには消えるのが速い。もっともそれは昨今文庫に限らないようだ。
だから本好きとしては、読みたい本、手元におきたい本が出たら、チュウチョなく買っておかなければ、いつ消え去られるか分からないのだ。
それにしても、ものごとが即物的に過ぎてイヤな世の中になったものだ。
少年の頃、僅かな小遣いを握って本屋に走り、薄い岩波文庫を求めて宝物のように扱った時代が懐かしい。
何かで目にしたが、こんな戯れ唄がある。

  ゆめみるひとみで緑帯
  むすめざかりは赤い帯
  朱にまじわって白い帯
  トウがたったら青い帯
  行きつく先は黄ン色帯

戯れ唄の意味するところがわかる人は、よほどの書物マニアと思いたい。この文庫は買い取り制を取っているので、今は書店で目にすることがなくなったので、何のことか分からない人が多いと思うが、この五色の帯は岩波文庫の分類を顕わしたものである。
緑色は現代日本文学、赤い色は海外の文学、白い色は社会科学書、青い色は歴史、哲学、宗教の本、黄色は日本の古典文学を指す。
そしてこの日本―海外―古典という道程は日本人の読書遍歴の基本コースとでもいえるのではないか。私自身は途中で「朱にまじわって白い帯」が挟まってきたが―。
ちょっと脱線してしまった。
いいたいことは文庫の原点に戻って欲しい、ということ。
いま書物は悪貨は良貨を駆逐する、と言う格言どおり、本の価値のレベルが酷くあいまいになっているように思われる。出版は商売だから、販売に全力を挙げるのはよい。しかしそうでありながらも本屋の良心としてこの本は文庫に残しておきたいと思ったら、良心で残しておいて欲しい。


VOL14(2005.1.17)久保栄全集のこと
劇団民芸が今年1月と3月に久保栄の「火山灰地」を上演するとあって、古書店の市場ではいまちょっとした久保栄ブームの感がある。
久保栄とか火山灰地とか言ったところで、何のことか分からない人の方が多いと思うが、久保栄は札幌出身の劇作家で、北海道に材を取ったたくさんの戯曲を発表し、日本のリアリズム演劇の金字塔を打ち立てた人だが、昭和33年自死した。
「久保栄全集」全12巻が刊行されたのは、それから数年後のことで、私が劇団かざぐるまを設立し演劇活動を開始し始めた頃である。
ちょうどその頃、帯広から平間広四郎という人が「豊平炭鉱」に入ってきた。現場監督的な立場であったようで、ある夜劇団かざぐるまの例会日にはじめて顔を出した。
何でも山から歩いて下りてきたという。相当な距離であり悪路のはずである。その日からかざぐるまの一員として、週に1,2回の稽古日にはほとんど欠かさずやってきた。そして決まったように終わった後私たち数人と飲み屋に行き、演劇談義に夢中になったものだった。
その彼から久保栄のことを聞き知った。何も知らない私たちにとって彼が熱く語る演劇の薀蓄は何もかも驚きで、新鮮であった。
私はそれに触発されるようにますます演劇にのめりこみ、夢中になって戯曲を読み、演劇書を手当たり次第買い集めたものだった。
そんな時期に「久保栄全集」の刊行を知って、すぐさま書店に予約し配本を待ち望むようにして読んだものだった。
1巻1.400円で当時としては安いものではなかった上他にも本を買い漁っていたので、結婚して間もない時期の私にとって次第に負担が大きくなり、残り5巻のところでついに予約を打ち切らざるをえなくなった。
それから十数年経って、残りの巻を入手しようといろいろ試みたが、欲しい巻が「端本」として出ることは滅多になく、何年もかけて古書店のホームページからみつけて1巻また1巻というように手に入れ、つい先日第10巻目が出回っていることを知って早速入手した。
今最後に残った第11巻目が 古書店の市場に出回るのを虎視眈々として待っている。この巻には日記が収められているので、なかなか端本では出てこないと思うが、皮肉なことに全集の中で私が一番待ち臨んでいたのはこの巻であった。
実は全巻揃いでは何組か出回っていていずれも60.000円から80.000円で容易に入手できる。だがそれをしたくない意地のようなものがある。
これまでの何十年、端本を拾うようにして集め揃えてきた、この執念のような辛抱強さ、最後の一冊まで貫きとおしたいのだ。


VOL12(2004.10.1) メンチについて
最近、日本綜合研究所理事長の寺島実郎氏が書いた文章(世界9月号掲載)を読んで、次のくだりに深く感銘した。
それは「メンチ」(ユダヤ人がよく使う言葉、と説明している)という言葉についてであって、その意味するものは「自己抑制と人間性によって行動し、常に他者の気持ちと考え方に感受生を抱く人物」を指す。という。
よく考えるとこのような理念に立って行動することは尋常なことではない。むしろ不可能に近い。しかし、戦争の惨禍が絶えず、飢えと貧困に命を脅かされている人々の悲惨な姿を目の当たりにするとき、現代人にはこのような崇高な理念を自らの信条として掲げ、その道を愚直にひたすら歩むことが求められているのかもしれない。

寺島氏はさらに続け次のように結ぶ。
「日本人として、21世紀の国際社会への関わりを考えるとき、武力をもって紛争解決の手段としない、という憲法理念の先進性を、メンチとともに噛み締めたい」と。いま憲法の改正が声高に叫ばれ、ともすれば改正の流れが加速されそうなとき、もう一度立ち止まって「戦争の放棄」を高々と掲げた日本の憲法が、非現実的なのか、考えてみることが大切なような気がする。


VOL.11[2004.23] TVドラマ「それからの日々」を観て
ひさしぶりに山田太一の新作ドラマ「それからの日々」を観た。
この人の作品には常に何かひとつ問題提起のようなものがあるのだが、このドラマではそれは日本人の家族感に根底から異議申し立てをしているかのようだ。つまりこれまで家族は良きにつけ悪しきにつけ許しあい、かばいあってきた。相互依存が原理的に存在し、それが家族の粘着剤的役割を果たしていた。山田太一はこのドラマでその関係を壊し、断ち切って見せてくれた、と言っていい。男は社内の勢力争いに敗れ、定年を前にリストラされた。
しかし、家族に言い出せず悶々とした日を送っていた。男の妻は家族を省みない会社人間の男に愛想を尽かし、花クラフトの制作に熱中している。そして密かに離婚を考えていた。
息子は転々と職を変えてひとところに落ち着かない。それを人生経験を積んで、35歳になったら自分の店を持ちたい、とそれなりの計画を持っている。娘は会社勤め。どうやら不倫をしているようなのだ。男の父親は老齢ながら健在で、一人暮らしをしている。
男が行っても「何しに来た」と言わんばかりで、飄々として生きている。見た通りだれも家族を頼りあわず、一人で自分の道を歩いている。困ったことや悩みがあってもそれを打ち明けようとしない。と言ってバラバラなのか、と言えばそういう関係でもない。要するに干渉がましいことはしないのだ。
男がリストラされたと言う日、チョット波風が立つ。しかし大きな嵐はその後に来た。家にいても何一つしない夫をヒステリックに詰る妻。「三度、三度の食事を私が作るのを待っていないで、何故自分で作ろうとしないのか」私は花クラフトで忙しい。
離婚の意志が明らかになった夜。4人がそろう。が、男はショックで呆然としている。
「私が何か悪いことをしたというのか。一所懸命に働き、家族を養って来た。そのどこが悪いと言うのか」家族が崩壊するような激変に、感情を顕にして訴える。そして「別れないで欲しいー」と、哀願交じりに言うのだった。
 花クラフトの展覧会の日、会場に娘が結婚を前提に付き合っているという22歳年上の男性とその子供達3人を伴ってくる。男と妻は顔を引きつらせて仰天するが、「今日は笑って逢おう」と頷き合う。3人の子供達ひとりひとりに顔一杯の笑顔で挨拶する妻。傍でその様子を見ていた娘の眼に涙が溢れてくる。家族の絆の重さを悟った瞬間であった。大事なことはお互いを認め合い、自立して生きることだ。であっても家族の絆は断ち切ることは不可能なのだ。と言うことを訴えていたように思える。
近頃にない感動の名作だった。


VOL.10[2004.128] 無声慟哭の想い出
出不精と言うより、夜は仕事が忙しくなかなか時間を作れないのだが、昨年の留萌混声合唱団のコンサートにはぜひ行かなくては―、と時間をヤリクリしてきた。私をコンサート会場に足を運ばせた最大の理由は「無声慟哭」の「永訣の朝」がレパートリーに入っていたからである。
~この曲には忘れられない理由がある。
29年前、当時私が主宰していた「劇団かざぐるま」が創立15周年を迎え、それを記念して「銀河鉄道の恋人たち」(大橋喜一作)を上演した。このお芝居は広島の被爆者二世と宮沢賢治の「銀河鉄道」のお話を組み合わせ、それにこの詩をメーンにしたものだった。
稽古をしながら「無声慟哭」の人の魂を揺さぶるまさに賢治の慟哭に圧倒されていた。終わった後、もう一度やりたい!それがみんなの念願だった。
その後「劇団かざぐるま」はメンバーの転勤や結婚などで少なくなり、やがて休団同様になっていった。
1988年(昭和63年)、何人かの若い人たちと話あっているうちに、市民参加の芝居を作ろうと言うことになり、つい乗ってしまった。私は「劇団かざぐるま」はもとより、文協の役員や知り合いを中心に片っ端から声をかけてスタッフに入れた。若い人たちも私には初顔の若者たちを集めてきた。そして総勢100人のスタッフとキャストがこの企画に結集した。そして2度目の「銀河鉄道の恋人たち」の上演となったわけである。
作者の大橋先生に上演の許可をとるべく手紙を差し上げたところ、早速長文のお返事をいただいた。その手紙の一部を含んだパンフレットの文章を若干紹介する。[それは(注・いただいた手紙を差す)通り一遍のものではなく、大橋先生の作品にこめられている誠実さそのもののように気配りされ、親しみのこもったもので、私たちは感激してご厚意を謝したものだった。その中で先生は、この作品がたいへん愛され、方々で上演されていることを伝えた後、続けて、「―その戯曲の五郎やとし江の願いは、あらゆるもの、あらゆる人々の願いである訳です。だから、留萌でこの作品を上演される場合、この(銀河)と呼ばれる喫茶店も、その上の星空も、そして恋をうちあける公園も、幻想銀河の光景もあらゆるものが留萌の街の、留萌市の空の下のものであっていいのです。
私はきっと舞台はそのようなものとして上演され、そのような感動をお客様との間につくりだしていくだろうと思っています―」そして「どうか、どうかよい舞台を、そして留萌の街の人々の胸にいつまでも消えることのない、演劇の花を咲かせてください。」と結んであった。]
私たちは作者のメッセージを大事にして稽古に励んだ。とりわけ「無声慟哭」の場面では台本の文字がしばしば涙でかすんで困ったものだった。
留萌混声合唱団の「永訣の朝」は、期待通りの素晴らしい出来で、改めてあの時の感動を読みがえさせてくれた。

有難う。合唱団の皆さん。


VOL.10[2003.11.3] 鼓響の公演
留萌地方道民芸術祭の企画「鼓響−天塩路の秋」の公演が大成功の内に終わった。期待を裏切らない内容で、観客を快いリズムに乗せていた。
太鼓は私たちの心の奥底に潜む原始に呼びかける不思議な力を持っている。大昔は単純に木を叩いてリズムを取っていたに過ぎないのだろうけど、それが何千年の時空を経て今に至った。太鼓はまた集落にとってかけがえのない楽器だったのだろうと思う。そんな思いを抱かせたのは、麓龍(ろくりゅう)の舞台がまさにそんなことを髣髴させたからた。
 彼らの舞台は、太鼓の演奏がお互いの掛け合いになつたり、また鐘がシンプルなリズムを刻んで太鼓を盛り立てる。観客は引き込まれ、心を浮き立たせる。実に見事な構成だった。
そして羽幌の「こきりこ」。何と自然で素朴だったことか。単調な唄、素朴な舞。だが時代考証を感じさせる衣装と背景画が、巧みな効果をもたらしていて、私たちを縄文、弥生の世界へとタイムスリップさせる。
不思議と言えば不思議な舞と音楽だった。
このたび私たちが企画したこの「鼓響」は、私たちに郷土芸能の素晴らしさを教えるものであった、と思う。そういう意味では小平町も羽幌町もかけがえのない文化的な遺産を持っている訳で、うらやましい限りだ。翻ってわが留萌は郷土芸能を育て、継承するどころか、形だけでお茶を濁しているように思えてしょうがない。


VOL.9[2003.8.12]レコードを処分した日
今わが家ではレコードの処分に困っている。
レコードが使用価値を失い、店から撤去されて10数年になる。
しっかりとは数えたことがないが、500枚から700枚はあるだろう。もともと喫茶店ビューネのBGMとして使っていたもので、マスター夫婦が好みの限りを尽くして集めたものだ。従ってクラシツクが中心に、モダンジャズ、フォークが大半を占めている。そもそもレコードの始末が問題になったのは、レコードの保管場所が問題になったのではなく、マスターが買い集めた本の置き場所に窮したために、レコードの処分が持ち上がったのだ。レコードこそいい迷惑である。
更に問題が広がっていった。本棚を増設するために、妻の寝室の一部を占拠しなければならなくなつた。これは何とか承認を取ったが、それと引き換えのようにレコードの処分に待ったがかかった。
「何とか処分しないで済む方法はないか」ということだ。考えてみればレコードは妻の思い出の宝庫のようなもので、処分は痛恨事だろうことはよく分かる。
レコードがゴミ処分場でこなごなに粉砕される有様を想像すると、やりきれないものがあるのだろう。とは言えこれだけの容積と重量の物品をどうしたらよいと言うのだ。
一番いいのは、店に持っていって欲しいお客様に進呈する。またはネットで引き受け手を捜す。でもいまどきレドを引き取ってくれるような奇特な人はいないと思う。
と、アレコレ悩んでいたところ、奇特なヒトを息子が見つけてきてくれた。スナックのマスターでご自分でも演奏する方だ。そのスナックでレコードをかけて、お客様に聞いてもらう、ということにはならないだろうと思うが、レコードの行き先が決まって何となくホッとしている


VOL.8 (2003.6.20) お伽噺を読んで
平凡社の「東洋文庫」は日本の古
典はおろか古今東西の名著、珍本、奇本の宝庫で、目録を見ていても愉しいほどだ。
先日、その中から「日本お伽噺」上・下2巻を買い求めた。新書版サイズながらハードカバーの堅牢な装丁で、金文字が重々しい。値段も結構なものだった。
そもそも何をいまさらお伽噺か、と言えば、幼い子供たちに読んで聞かせる手頃なお話が容易に見当たらず、不満に思っていたところ、「東洋文庫」にその種のものが入っていることを知り、しかも意外にも編者に森林太郎(森鴎外)、鈴木三重吉の名があることを知って、入手を図ったものである。
あとがきによれば、大正9年の秋、日本の神話、伝説、童話の代表的なものを整理しておくことを念願して「日本お伽噺集」が編まれたとある。
なるほどここに採録されているお伽噺は「桃太郎」「花サカジジイ」「カチカチ山」「牛若」「サルカニ」「田原藤太」「浦島太郎」「一寸法師」「金太郎」などなど、私たちが幼い頃母親から毎晩のように聞かされたものがたりである。
しかも初版のままのものを復刻しているので、漢字交じりのカタカナの文章であったり、ひらかなであったりで、その上、漢字にはすべてルビが付いている。
頁を開いただけでウワーと腰が引けそうなくらいの字の海である。
挿絵も昔の絵本に使われていたものだ。
さて、孫に読んで聞かせる日がきた。この子は5歳だが少しは字が読める。
「かちかち山」がいいという。
読みながら横目で様子を窺うと、話に集中していることが分かる。
困ったことは、生活様式が違うので、話に出てくるものの名前が分からないのではないか、ということだった。
たとえば「鍬」「臼」「ヒウチ石で火をきる」など現在使われていないから、それが何なのか理解できないはずだ。そこが少し興を削ぐが簡単な説明を加えながら読むことにした。
改めて感じたことは、お伽噺はメルヘンではない、と言うことだった。
縛られて吊るされたタヌキの縄を解いてあげたおばぁさんが、タヌキに殺され、タヌキ汁ならぬ「ババ汁」にされる。そしてタヌキはおばぁさんに化けて、山から戻ったおじいさんにその「ババ汁」を飲ませ、「ババァ喰った、じじいめ」と罵って逃げていく。と言う話の筋は陰惨である。後半ウサギがあだ討ちをして大団円。となるのだが、子供は、と言えば怖怖聞いている。そしてタヌキが「ババ汁」を作る場面になると声を立てて笑っているのだ。
そう言えば「赤ずきんちゃん」にしても、おおかみにおばぁさんが殺される殺伐とした話だ。 この類の怖い話、話者と聞き手の間に緊張感を強いる話はゴマンとある。世界中の子供たちはそういう話の世界をかいくぐって大人になってきたのだ。
それは措くとして、何回か読み聞かせているうちにたいへん流暢に音読していることに気が付いた。
声を出して読んでいると気持ちがいいのである。しかも自然に緩急、高低をつけているのだ。
そこで思い出したのは木下順二の「朗読」についてである。
木下順二は著名な劇作家で「夕鶴」を始めたくさんの戯曲を書いているが、その一方で日本語の乱れについて警鐘を鳴らしつづけている人である。
ことばの魅力、言葉の持つ力は朗読に現れる、として朗読を提唱したことでも知られている。
朗読について次のように書いている。
「朗読と言うものはたぶん二つの意味を持っている。一つは自分に読み聞かせる。今ひとつは他人に読み聞かせる。そして前者が後者の基礎であり、両者がそれぞれの必要条件を満たしつつ一体となったとき、それはよい朗読」と言うことになる。そして「何よりも朗読をすると言う行為が、自分にとって快感でなければならない。」と述べている。
これはまさしく私が体験したことそのものではないか、と大いに納得した。
ただし急いで付け加えたいことは、そのお話が朗読に適した文体で書かれていることである。
「お伽噺集」は音読向きに書かれたものといえるが、中に音読では何を言っているのか支離滅裂な文章がある、と思えば、黙読では何を書いているのかよく理解できないものでも、音読するとたちどころに理解できる文章もある。
日本語は奥深く、不思議な魅力のある言葉である。


VOL.7 (2002.11.9)
留萌俳句協会が「新春俳句大会」に「松橋英三賞」を設置することにした。
留萌の人たちは松橋英三という俳人を知っているだろうか。
少々心許ないが版画の「阿部貞夫」と共に留萌文化の大先達である。
奇しくもお二人は大の親友で、戦前、戦後長くお付き合いがあった。
昭和三十七年に松橋さんたちが編んだ句集「雪炎」の表紙絵と扉絵は阿部さんの版画を使っている。
戦後の留萌時代、不遇の境涯にあった阿部さんを松橋さんはずいぶんと心配されて、支えられた。
話を元に戻そう。その「松橋英三賞」だが、ご遺族が留萌俳句協会に某かの寄付をされて、それをもとに「賞」を設定した、と聞いている。
松橋さんは平成十三年一月に九十三歳で他界されたが、昭和四年、函館商業学校時代に俳句を学び、昭和二十四年、飯田蛇忽の「雲母同人」、終戦時には伊藤凍魚の「氷下魚」にも拠る。昭和三十九年に石原八束に師事「秋」同人となる。
昭和四十四年「留萌市文化賞」を受賞。平成四年「第七回道新俳句賞」受賞。
長年、留萌俳句協会会長を務められ、留萌俳句会の束ね的な存在であった。
それだけに「松橋英三賞」は親しみ深いものがある。
ただ、できることなら、この賞は仲間内のものではなく、廣く一般公募して集まった作品の中から受賞者を選んでほしい、と関係者に進言したが、心底そう思う。
先に触れた阿部貞夫には、NPO法人留萌市文化会議が氏の名を冠にした「阿部貞夫記念版画公募展」というものがある。
いま松橋さんの賞が公募展としたなら、留萌文化の二枚看板となり、留萌管内の文芸、文化振興の一助となることは間違いない。そう願っている。


VOL.6(2002.9.2)
「君は「知覧」を知っているか」
前途に無限の可能性を秘めた有為の若者たちが、祖国の大儀に殉じて死地に旅立つ―高木俊朗著「特攻基地知覧」を、このところ読み続けている。
文庫本で360頁あまり。少し厚手の本を開くたびに涙で活字が霞むことしばしば。
永い読書歴でこんなことは初めての経験だ。
かつて20歳の頃「きけ わだつみのこえ」を読んだときでも、こんなに感情が脆く無かったように思う。
この本を読みながら、絶えずパレスチナの若者たちが念頭にあった。
「自爆テロ」という酷烈な手段を選択して、死に殉ずる若者たち。そこには2千年の歴史の重圧から解き放たれない深い絶望をみる。
特攻の若者たちはもちろん一様ではない。著者は取り上げた若者たちを丹念に追跡調査し、愛情込めて書き綴っているが、従容として運命を受け入れる若者がいる一方で、死の恐怖に精神を破壊される若者がいることも記す。
死への立ち向かい方が、人によって様々であったことを知る。
若者たちは「靖国で逢おう」と誓い合って死地に赴く。それが虚構であっても、自分たちの死に先があることで心を慰撫するのであろう。
これを「美しい」と感じる世代が、今も靖国を神聖化しているのだと思う。
与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」を書いて、命の尊さを切々と訴えた。
特攻の若者たちとパレスチナの若者たちの心情を思うとき、命の尊さとは如何なるものなのか、深く自問自省させられる。


VOL.5(2002.7.27)
「職人さん」
市の広報は比較的キチンと読む方で、そこからいろいろな情報をいただいているが、最近特にいい企画だナ、と感心しているものがある。
それは広報の表紙だ。
5月号から街の職人さんの働く姿を紹介している。
タイトルは「働く留萠びと」。本人の短いコメントを付して、5コマの写真で様々な表情を捉えていて、それがまたとてもいい。
それに紹介されている職人さんが、市井にさりげなく生活している人たちであることがいい。
その道一筋に生きてきたプロの職人さんの、誇らかに仕事に打ち込む姿は感動的でさえある。
因みにこれまでに紹介してきたのは「パン職人」(5月号)、「時計職人」(6月号)、「たたみ職人」(7月号)、「生花職人」(8月号)といった具合。
これからも様々な分野の職人さんを紹介してくれるのだろうけど、表紙一枚に込められた人生のドラマ。さりげないスナップの一こま一こまが、その人の生き様を語りかけてくるようで、たいへん楽しい企画だ。
広報の紙面づくりに、苦労されている様子がうかがえるだけに、この表紙の企画は最近のヒットだ、と褒めておこう。


VOL.4(2001.12.21)
昔留萌に盛り場があった
道新夕刊に「盛り場物語」が始まった。
5回目の11月30日には「留萌・錦町」が取り上げられ、「清寿司」が紹介されている。(平成14年に閉業。今は「居酒屋」になっている)
それより2週間ほど前のこと。留萌支局長の上村さんからこの企画について相談を受けた。
就任間もない上村さんには当然その辺の事情に疎い。
私もその面には強い方ではないが、二人であの店、あの人、といった風に候補の店や人を出し合った。
が、情けないことに今の留萌の盛り場には、盛り場といえるほどの繁華さはないし、自慢できるような店や人はいない、という結論に達した。
思えばかつて留萌が鰊業盛んなりし頃、豪奢を極めた料亭や割烹があって、鰊大尽の伝説が作られた。つい最近までその名残の建物があったと思ったが、いつの間にか跡形もなく消え失せて、栄華を偲ぶよすがもない。今は夢の夢の昔話。
 止まれ。それでは留萌の沽券に関わるのだ。
「日勝亭」と佐藤勝(故人・映画音楽家)は絵になるぞ、と吹聴した。
「日勝亭」も佐藤勝も今はないが、僅かに勝の兄が開業し、今はその子息が継いでいる「清寿司」がある。場所も繁華街。取材してみたらは、と背中を押した。
狭い隙間を無理矢理こじ開けて、見通しをよくしたような感があるが、どうしてどうして植村さんの書いた記事は、哀調のあるものになった、と思う。


VOL.3(2001.8.4)
「光風会展」に出品していた阿部貞夫
画家須田剋太は司馬遼太郎の「街道をゆく」の装画を描いてつとに有名である。
明治39年[1906年]生まれ。上野の美術学校(現東京芸大)を4度受け、4度失敗した。その後は浦和に住んでひとり絵を描き始めた。と司馬さんは書いている。続けて、
「その頃、日展系の重鎮だった寺内万次郎氏が浦和市針谷に居を定められる須田さんの評判を聞き、アトリエまで来られてその絵に感心され、ぜひ光風会(官展系)に入るようすすめた、ときいています。」(20年を共にして−須田剋太のことども)
こんな風に須田さんの若い頃のことを紹介しているのを読んで、「光風会」の3文字が私の記憶をかき回した。そしてそれが阿部貞夫に結びつくのにそう時間はかからなかった。
急いで阿部さんの年譜を紐解いてみると、あった。
「1963年 光風会展に出品し初入選。」
入選作は「霧氷の街」だった。
光風会は1912年に設立した洋画、工芸の美術団体で、「一水会」と共に日展を形成する大団体である。
年譜の中のさりげない1行が突然光芒を放った。
因みにこの年、阿部さんは日版展会員に推挙されるという快挙を成し遂げた。
阿部さんの年譜は残された日記や新聞、パンフレット、その他の記録などの資料を頼りに年代順に書き込んでいるが、まだ不明なところが多い。
何しろ阿部さんが世間に認められたのが48歳(1958年)のことで、遅かった。
しかしその後は頂点を目指して一直線に駆け上っていった。
大作を次々と発表し、版画家として確固たる地歩を築きつつあった昭和44年、札幌市内の病院に入院中心筋梗塞に襲われ呆気なくこの世を去った。59歳であった。この間僅か11年。日本美術界において着実に声価を高めていったが、阿部さんの画業は留萌市民に知られること少なかった。
昭和61年、留萌市文化団体協議会は創立10周年記念に、阿部さんの17回忌に因んで「版に込める詩魂・阿部貞夫の人と作品展」を企画。その作品の素晴らしさは大きな反響を呼んだ
これを機に阿部さんの版画を郷土の文化的遺産として後世に長く遺していこうと、版画館の建設運動を展開したが、以来15年、今だ実現に至っていない。
このまま歴史の中に埋もれさせていいのか、と強い危惧を感じながらも手の打ちようのなさに、ただ無力感を募らせるばかりである。


VOL.2
「映画の友」に熱中した頃
「映画の友」という映画雑誌があった。昭和20年代のことで、もちろん映画の全盛期。
私はこの雑誌を定期購読していて、むさぼり読んだものだった。
あれから47年経つというのに、今もこの雑誌が7、8冊手許にある。
古ぼけて、小口が黄色になり独特のにおいがするが、これがまた懐かしく捨てがたい。
手許にある「映画の友」をひも解いてみる。
昭和28年10月号は表紙をマリリン・モンローが飾り、グラビアは秋のシーズンを飾る名作特集として「シェーン」「三文オペラ」「愛しのシバよ帰れ」「リリー」「絶壁の対決」などの映画が紹介されている。
淀川長治が「ハリウッド特報」「ニューヨーク特報」の二本のルポを書いている。
昭和28年11月号は「終着駅」の特集だ。グラビアは「終着駅」のラヴシーンがこってりと載っている。他に「地上より永遠に」、フランス映画界の名優ルイ・ジュウヴェの遺作となった「恋路」など。
昭和29年1月号は日本で開催された「フランス映画祭」と「グレン・ミラー物語」を特集している。
この時代は何といってもジェラール・フイリップが映画界の頂点に立つスターだった。
この号の表紙も彼だ。
この号で紹介されている映画は「グレン・ミラー物語」「ジュリアス・シーザー」「深夜の告白」「怒りの海」などである。
昭和30年2月号は「赤と黒」の特集である。主演はジェラール・フイリップ。
他にエリザベス・ティラー特集がある。
この号で紹介されている映画は「長い灰色の線」「戦略空軍司令部」「ホワイト・クリスマス」「プリガドーン」「折れた槍」などである。
紹介はこの辺で止めるが、驚くべきは執筆陣の豪華さだ。
淀川長治を始め双葉十三郎、南部圭之助、清水俊二、小森和子、南淑子、尾崎宏次、野口久光、荻昌弘、山本恭子加うるに演劇、文学、音楽などの各界から例えば芥川比呂志、河盛好蔵、古谷綱武、朝倉 摂、福原麟太郎、安藤鶴夫、植草甚一、木下恵介といった後の各界の重鎮たちが熱っぽく映画を語っている。それがどれだけ私にとって勉強になったか、計り知れない。
とにかく新潟時代の10代の終わりから20代にかけて、暇さえあれば映画館に潜り込むか、本を読んでいた。
読書は藤村、辰雄、独歩、露伴、漱石、鴎外などの作品を片っ端から読み、ジイド、スタンダールに熱中していた。少し後にはカミュの著書に深く傾倒した。
組合運動にもすこしずつ足をつっこみ、マルクスの著書に挑戦していった。
仲間を誘って「うきぐも」というガリ刷りの同人誌を発行し、私はそこに下手の詩を書いては発表したりした。私の自己形成はこの時代に形作られたと言ってよい。
そして、50年になんなんとする歳月が流れた。未だに私は映画に目がないし、読みたい本があれば手に入れる努力を惜しまない。
その上、同人誌ではないが「波灯」という文化誌を発行して14年になる。
こうしてみると何のことはない、47年前と少しも変わらない生活をしているわけだ。
何ゾ迅キヤ
            わか少キ年ノ過グルコト
? 司馬遼太郎が友人にあてた手紙の一節


VOL.1
「本だんぎ」
本が好きで若い頃から本を買い集めてきた。
今では何冊くらいになるか、14、5年くらい前に数えたことがあったが、そのときは1.500冊あまりだった。その後図書館に演劇関係の本を100冊ほど寄附したりし、古本として処分したりしたものもあるが、相変わらず買い集めているのでおそらく2.000冊は優に超えているものと思う。
本は好きだが、この頃は読むスピードが落ちた。情けないほど落ちた。
それでも必死になって読む。
奥本大三郎さんがどこかで書いていたが、
「本は友人みたいなもので、大人になってからの友達と幼なじみとでは違います。
よくリタイアしてから読んでみようという人がいる。でも若いときに読んでおいた方が絶対にいい。それをまた老後にもう一度繰り返して読む愉しさ。」
私は正にその心境で、新刊に気を取られながらも最近はしきりに昔読んだ本を書棚から引っ張り出している。
引っ張り出すのはアトランダムだが、そこがまたおもしろい。
旅愁(横光利一)、夜明け前(島崎藤村)、火山灰地(久保 栄)、カミュ、サルトルのもの。
伊藤 整の「日本文壇史」は何年も前からゆっくり読み続けている。
司馬遼太郎のものは歴史小説はもとより評論、紀行、エッセイに至るまで全部読んだ。今また「街道をゆく」に手を出そうかと思っている。
このあたり、奥本説の老後の心境か、と思ったりしている。