ドゥルーズにおける思考の概念



 ドゥルーズはあるインタビューでこういっている。

 現在のような貧しい時代には、超越性の復権と、「何かについて考察する」という意味の哲学への回帰が存在しています。それはまた、アカデミスムヘの回帰でもあります。ですから、今まさに取り戻さなければならないのは、創造としての哲学なのです。 つまり、「何かについて考察する」のではなく、概念を創造すること。超越性を探求するのではなく、内在野において概念を機能させることです。(1)

 ここには、終生変わることのなかった、ドゥルーズの哲学へのスタンスが集約されている。超越性への対抗と創造としての哲学。前者は「内在」という言葉で、後者は、「哲学とは概念を創造することだ」という有名なフレーズによって、ドゥルーズの哲学的スタンスとして、自明なものとされている。事実、ドゥルーズはそれを様々な場所で語っており言説をたんに言説として受け取るならば、それは間違っていない。
 しかし、このスローガンを繰り返してみても、それ自体は何ら創造ではない。むしろ、それが主張とは正反対のものであることがわかる。そこには、のちにデリダが、ドゥルーズヘの「反論」はまったくないとしたうえで、それでも「哲学とは概念を「創造する」ことだという考えに賛成できない」と「異論」を唱えるような姿勢が、自明とされているものを疑う姿勢が欠けている。のみならず、言説の主張とその言説を主張する自らとのずれ(「哲学とは概念を創造することだ」という言説に、実際に概念を創造することで応えるのではなく、その言葉を言葉通 りに反復すること)を意識する姿勢が、つまり自己言及の態度が決定的に欠けている。
 ならば、ドゥルーズの言葉を文字通りに受け取るなら、私は本稿で、概念の創造を試みるべきだろう。ところがである。私は「超越性」や「内在平面 」はおろか、「概念」や「創造」さえも、それが何を意味するのかがよくわからないのである。もちろんそれらを説明することはできる。「超越性」とは、経験野に属さない、メタフィジック(超─経験的)なもの。「内在」とは、そのような超越性とは異なる、むしろ「超越論的」なもの。「概念」とは、表象=再現前化の中で現れる、同一性を前提とした垂直なもの。それらをさらに細かく説明することも可能である。だが、仮にそのような試みが不可欠なものだとしても、それが「創造」であるとは思えない。そして、ドゥルーズ哲学の根本が「創造」であるならば、それを無視してドゥルーズを読むことは、結局ドゥルーズをまったく読んでいないことになるのではないだろうか。
 とはいえ、私は「創造」が何を意味するのかがわからない。しかし、ドゥルーズの言葉をただ反復するのが創造でないのはわかる。その反復からこぼれる差異こそが創造なのだという意見は踏まえた上で、それでも、それを主張する人自身はドゥルーズの言葉を反復しているのではない。私はこの意見は創造だと思うが、それを形式化することはできない。ドゥルーズの言葉をただ反復することが「創造」足り得ないとしたら、彼の著作を読み、その主張である「概念の創造」を真に体得するとは、いったいどういうことか。
 新奇性に満ちた言葉を使用することが「創造」であるなら、ドゥルーズは確かにいくつもの概念を「創造」した。提唱したのはガタリであって、ドゥルーズはそれを解釈したのだという意見もあるだろうが、ドゥルーズがそのプロセス自体を「創造」として捉えていたことは事実である。では、素直に『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』を選び、そこで「創造」がどんな働きをしているかを探ればよいと思うかもしれない。しかし、それは避けるべきである。なぜならドゥルーズのいう「創造」は、すでに「差異と反復』のなかに潜在しているからである。確かに、それが現実化するのは『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』や『哲学とは何か』においてである。しかし、私見によれば、ドゥルーズは『差異と反復』において、後年になって「創造」と呼ばれる行為をすでに行っている。それが意識的なものか無意識的なものかは知る術がないが、ともかく、それこそがガタリとの共著を可能にした要因と考えることができるのだ。しかもそこには、彼のその後の試みの中に、「新奇性に富んだ語の創出─解釈(接続)─逃走(切断)」というプロセスをもたらした、ある決定的な認識を窺うことができる。
 たんに新語を使用するのは創造ではない。私は、ドゥルーズの「創造」は、彼を新語を用いるほかない事態に追い込んだ認識にあると思う。そして、ここにこそ、ガヤトリ・C・スピヴァク『サバルタンは語ることはできるか』と樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」という二つのラディカルなドゥルーズ批判が激突するのだ。期せずして、名前の類似したこの二つの論文が、ドゥルーズに対してどのような批判を行っているかは、やがて具体的に見ることになるだろう。いまの時点では、この二つの論文で行われている批判が、いかにドゥルーズ哲学の根本に向けられているかだけを記憶しておこう。そして、現状の硬直化したドゥルーズ読解が、これらの批判に対して、いかにも非力な抵抗しかできないだろうということも。では、それらの批判を受け止めるためにも、ともかく、ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読み始めることにしよう。



 まず『差異と反復』の全体像を把握するためにドゥルーズ自身の言葉をみる。

 差異は、表象=再現前化の諸要請に服従させられているかぎり、それ自身において思考されていないし、それ自身において思考される可能性もない。<差異は「つねに」それらの諸要請に服従させられていたのか、そうだとすればどのような理由で>という疑問は、当然注意深く検討してみるべきものである。しかし、純然たる齟齬するものたちが、わたしたちの表象=再現前化的な思考には近づくことのできない或る神的な知性の天上の彼岸を、あるいは非類似の《大洋》の、わたしたちには測深できない手前にある冥府を形成しているということも明らかである。いずれにせよ、それ自身における差異は、その差異を思考されうるものに仕立てあげてしまうような、異なるものと異なるものとのあらゆる関係を拒絶するように思われる。まさしく思考されうるものへと、それ自身における差異が生成するのは、飼い馴らされる場合、すなわち、表象=再現前化の四重の首伽〔諸要請〕──概念における同一性、述語における対立、判断における類比、知覚における類似──に服従される場合でしかないと思われる。(2)

 こと内容に関するかぎり、これ以上に的確な要約もないだろう。ここに書かれている通 り、この本は表象=再現前化批判によって貫かれている。では、なぜ表象=再現前化が批判されなくてはならないのか。それは、表象=再現前化が差異を隠蔽するからである。表象=再現前化の根本的性質は、すべての事物を同一性の下におくことである。差異は、この同一性によって、否定的なものとされるのだ(同じでは「ない」ものとして)。同一性を基準にとらえられた差異のなかで、その最大のものが対立とよばれる。ヘーゲルはこの対立を矛盾とすることで、表象=再現前化の世界を無限に広げようとした。すべての雑多な事物は、対立まで行き着かねばならず、その運動こそが世界を最終目的へと進ませる。これが有名な弁証法である。
 しかし、ドゥルーズによれば、それは遠近法の倒錯でしかない。同一性に依存した思考可能な差異ではなく、思考不可能な差異が存在する。そして、その思考不可能な差異こそが、表象=再現前化の条件なのである。この「思考しえないもの」を思考しようとするドゥルーズの問題設定は、基本的にハイデガーの存在論の枠組みを共有している。事実、ドゥルーズは本書のあちこちでハイデガーに言及しているし、なにより、この差異とは、存在論的差異なのだとはっきり言っている。ならば、ドゥルーズの議論をみるためには、ハイデガーの存在論も踏まえておいたほうがよいと思われる。その要点を示している箇所を以下に引用しよう。

 「存在の問い」とは、普通一般の解釈では存在者そのものについて問うこと(形而上学)を意味している。しかし『存在と時間』の立場から考えると、「存在の問い」とは存在そのものについて問うことをいう。そしてまた存在の問いという標題には、後者の意味の方が、事柄から言っても言葉から言っても適当である。というのは、存在者そのものについての形而上学的な問いという、前者の意味での「存在の問い」は、明らかに存在について主題的には問わないからである。存在は忘れられたままである。(3)

 最初のうちは「存在」はふわふわした意味を持つ空虚な語のように見えた。それがそうであるということは、確定可能な多くの事実の中の一つの事実であるように,思われた。だが結局、一見問うほどのこともない、またもはや問いかけるほどのこともないもののように見えたこのものが、実は最も問うに価するものだということがわかった。存在と存在の理解とは、眼の前に既にある一つの事実ではない。存在とは根本の出来事であって、そもそもこれを根拠にして初めて、開示された全体としての存在者のただ中で歴史的現存在が保証されているのである。(3)

 ハイデガーのいう「存在者」を事物ととらえれば、ドゥルーズとハイデガーが同型の問題設定をもっていることがわかる。ハイデガーが形而上学は存在者についてしか問わないというのは、ドゥルーズがヘーゲルは事物を回収するために、表象=再現前化を無限なものとするのに夢中になっていると指摘するのと同じである。
 諸事物は存在している。これは、わたしたちの生においては、あまりにも自明なことに思えるために、しばしば忘れられていることだ。目の前にあるどんなものでも、それが経験できる以上は存在しているのである。ここで、ハイデガーは、多くの人が自明視しているものを改めて問う。では存在とは何なのかと。ハイデガーがこの問いを立てた時点で感じていた、存在という語の「ふわふわした意味」は後に驚くべき方向に向かう。
 まず、ハイデガーは、経験できるものは原理的にすべて存在しているという理由から、世界は存在の一義性に包まれていると結論する。これ自体も驚くべきことだが、さらにハイデガーは先に進む。ならば世界とはむしろ、存在によって開示されるものではないか、と。この時点ですでに、存在の一義性の中で存在者が振り介けられていく、というハイデガー存在論のモチーフが完成している。ここまでが『存在と時間』で達成される。と同時に、ハイデガーは、当初予定されていた「真の目的」である「存在一般 の意味の究明」の篇、およびその展開としての第二部を前に、『存在と時間』を放棄してしまった。
 ここに、現代西洋哲学が陥った、「思考されえないものを思考する」という問題が浮かび上がってくる。ハイデガー自身は、のちのヘルダーリン講義において、存在という語の語源学的考察をギリシアまで朔り、ついには、存在は運命共同体であり、それは詩人によって開かれるという、神秘主義的な認識へと至る。ここでは、その過程を詳しく見る余裕はないが、ドゥルーズの問題設定がハイデガーと同型であることはわかったと思う。ドゥルーズは思考されえないものを「潜在的なもの」とよぶ。つまり、差異とは潜在的なものなのである。ここに『差異と反復』のわかりにくさがある。ドゥルーズは、本来、思考されえないはずの潜在的なものを、次々に定義していってしまうからだ。それがどんな具合かを以下に語り直してみよう。
 <イデア>は潜在的なものである。それは差異的=微分的な諸要素と諸関係=比でつくられている。それは真正の客観性であり、問題的であり、定立的な多様体である。<イデア>は差異的=微分的な問題=多様体を定立する。問題=多様体は、それを実現する諸命題=諸差異を産出=肯定する。したがって、<イデア>をその[概念の同一性→否定性としての差異]というプロセスから断ち、<イデア>本来の差異的=微分的なものを復元し、そこから生じる差異を肯定せねばならない。
 なぜ、思考されえないはずの潜在的なものが、このように定義されてしまうのかという疑問は、素朴ではあるが当然もつべきものである。それに対するドゥルーズの答えはというと、これまた素朴ながら、それらは「感じられる」からだとい う。その具体例として、ドゥルーズは数学における無理数をあげる。
 有理数を表象=再現前化に、無理数を潜在的なものに属すると考えてみよう。ポイントになるのは分数の解釈である。有理数の世界は割り切れる世界である。たとえば、1は関係性の必要なく、それ自体がlとしての価値を持ち続ける。この自己同一性を基準に打ち立てられた世界が表象=再現前化の世界なのである(より正確に言えば、lが1であるのはそれが2や3では「ない」からだが、そのような否定性を介して自己同一性を保つことこそが表象=再現前化の原理なのである)。ところが、それに回収されない無理数の世界がある。1を3で割るとき、それは0.33333…と無限に続くことになってしまう。それを「無限に続くと捉えればよい」としたのが、ヘーゲルあるいはライプニッツである。表象=再現前化を無限なものにするとはそういう意味だ。一方ドゥルーズは、それがl/3と表せることに注目する。ここには、割り切ろうとすれば消えてしまうような、関係性が示されている。つまり、無理数には、有理数の世界では捉えられないような、別 の関係性が含まれている。有理数の世界から見れば、このような割り切れない数はむしろ例外とされるだろうが、ドゥルーズはむしろ、無理数こそが条件であり、有理数をその例外の現象として捉えるのである。これは、潜在的なものにおける相互規定の原理として、dy/dxという型で表現される。
 こう考えてくると、1の同一性自体も疑わしいものとなってくる。1は2や3でないから1なのだ、ゆえにそれは関係性に規定されている(1は「他者」としての1では「ない」ものとの関係に規定されている)、という通 俗的な構造主義をいっているのではない。それは自己同一性の恣意性を表象=再現前化の上で考えてしまっている。そうではなく、1それ自身のうちに、関係(分数)の反復が含まれているのである。確かに1に関しては、それはステレオタイプな「裸の反復」でしかない。しかし、わたしたちは、無理数の存在によって潜在的なものを感じることができるのである。つまり「潜在的なものは、差異的=微分的な諸要素と諸関係=比でつくられている」。ゆえに、潜在的なものとしての差異は、要素と関係との差異である。これは、ハイデガーのいう存在者と存在との差異つまり存在論的差異と同型だが、ドゥルーズの叙述はハイデガーのそれとは違い、数学的な意味での構造主義を踏まえている。
 ここまでのところをまとめておく。ドゥルーズは表象=再現前化を批判する。なぜなら、それが差異を否定的なものへと変えてしまうからだ。差異とは、諸事物間の差異ではなく、諸事物と諸関係との差異である。それは潜在的なものであって、思考することはできないのだが、ただ感じることによってその実在性が認められる。これを便宜的に意識と無意識の二元論と表現しよう。いうまでもなく、意識が表象=再現前化であって、無意識が潜在的なものである。ドゥルーズの困難は、この両者がどのように結び付けられるのかを探ろうとすることに起因する。ドゥルーズの言葉を借りれば、それは、潜在的なものが異化=分化することで現実化する、となる。これによって、先の二元論は一義的に統一される。構造としての無意識が、現象としての意識を現実化させる、ドゥルーズはここで生物学における遺伝子を例として挙げるが、その説明にはどこか説得力が欠けているように思える。これは、差異を遡行的なものではなく、実在的なものだとするドゥルーズの限界なのだろうか。私は、一先ずここでドゥルーズの問題設定の図式化を終了し、『差異と反復』における<思考すること>の問題に移ろうと思う。



 『差異と反復』英語版の序文で、ドゥルーズはこう述べている。

  新たな思考のイマージュが、あるいはむしろ、これらの投獄されたイマージュからの思考の解放が大切なのです。わたしはそれをすでにプルーストにおいて発見しました。しかしながら、ここでは、つまり『差異と反復』においては、この探求は独立しており、それはこれら二つの概念の発見のための条件となりました。したがって、いま思うと第三章が最も必要であり、最も具体的な章に思えます。それは、後の本たちに近づくための紹介にもなるでしょうし、ガタリとともに引き受けた探求も含んでいます。わたしたちは植物的な思考のモデルを嘆願しました。リゾームとはツリーに対立するもので、そのリゾーム的思考は、ツリー状の思考の代わりとなるものです。(4)

 では、ドゥルーズ自身が「最も必要であり、最も具体的」だという第三章では何が問われているのだろうか。第三章「思考のイマージュ」はこんな書き出しから始まる。

 哲学における開始の問題は、当然のことながら、きわめて微妙なものだとつねに考えられてきた。なぜなら、開始するということはすべての前提を排除するということを意味しているのだが、科学においては、ひとつの厳密な公理系によって排除されうる客観的な前提が問題になるのに対して、哲学においては、客観的な前提ばかりでなく、〔排除されない〕主観的な前提も存在するからである。(2)

 では、「哲学における開始の問題」を、「きわめて微妙なものだとつねに考え」させてきた「主観的前提」とは何か。それはデカルトの《コギト》である。デカルトは《コギト》によって、すべての客観的前提を払いのける。すべてのものは疑える。ただ、私がそれを疑っているということを除いて。ところがである。

 けれども明らかに、デカルトは、それとは別の種類のいくつかの前提から、つまり主観的あるいは暗黙の前提から免れていない。換言すれば、概念のなかにではなく、ひとつの気持ちのなかに包み込まれている前提から免れていない。というのも、自我、思考、存在が何を意味しているのかぐらいは、だれでも概念抜きで知っているではないか、ということが前提されているからである。したがって、<私は思考する>の純粋自我が開始のようなみかけを呈していても、それは、その純粋自我がおのれの諸前提をすべて経験的自我のなかへ送り返した結果 でしかないのである。(2)

 デカルトの《コギト》、つまり<私は思考する、ゆえに、私は存在する>は、「すべてのひとが知っている……」という形式をそなえている。「すべてのひとは、概念以前に、哲学以前的な様態で、知っている……、すべてのひとは、思考することそして存在することが何を意味するのか知っている……」。そしてその結果 、「だれも、疑うことは思考することであり、思考することは存在することであるということを否定できない……、すべてのひとは知っている、だれも否定できない」という、表象=再現前化の形式が成立するのである。デカルトは「前提なき人間」の立場から、哲学を「開始」する。

 ところが、たちまち、孤高の、そして情熱的な叫び声があがる。その叫びごえは、「すべてのひとが知っている……」ということを否定するがゆえに、どうして孤高でないことがあろうか。そして、その叫び声は、だれも否定できないと言われていることを否定するがゆえに、どうして情熱的でないことがあろうか。そうした抗議は、貴族的な先入見からなされるわけではない。すなわち、思考し、かつ思考することの何たるかを知っている者はほとんどいない、などと言わんとしているのではないのだ。そうではなく反対に、すべてのひとが知っていることがらをうまく知ることができず、すべてのひとが承認しているとみなされていることがらを遠慮がちに否定するものが、たとえ一人だけであっても、しかるべき慎ましさをもって存在しているのである。代表=再現前化されるがままにはならず、どのようなものであれそれを代表=再現前化することもない者が存在している。善き意志〔やる気〕と自然的な思考をそなえたひとりの個別 的な者ではなく、自然においても概念においてもうまく思考することができない、悪しき意志〔やる気のなさ〕に満ちた、ひとりの特異な者が存在している。ひとり彼のみが、前提なき者である。彼のみが、現実的に開始するのであり、現実的に反復するのである。(2)

 前提なき思考はありえない。だが、哲学を開始するとは、デカルトのように普遍的な前提から何かを構築することではなく、むしろ《反時代的》に、「すべてのひとが知っている」とされる前提を否定することである。第三章の章題である「思考のイマージュ」とは、哲学における前提を意味している。デカルトの思考のイマージュは《コギト》だったが、それに《反時代的》に抵抗する者もまた、意識するしないにかかわらず、何らかの思考のイマージュを持たざるをえない(『差異と反復』では「思考のイマージュ」を批判していたドゥルーズが、後にリゾームという思考のイマージュを提示する)。このことは確かに、哲学には真の開始などないこと、あるいはむしろ、哲学の真の開始とは、それ自身すでに《反復》である、という結論を引き出すことになる。だからといって、そこに思考のイマージュの《円環》をみるべきではないだろう。なぜなら、「円環のイマージュは、哲学にとってはむしろ、本当に開始することができないという無力を、またそればかりでなく、真正に反復することができないという無力を証示している」からである。この《反復》と開始の微妙な関係は、後にニーチェの《永遠回帰》を論じるさいに詳しくみるつもりだが、ここではまず、ドゥルーズが「思考」をどのようなものとして捉えているのかをみておこう。

 すでに見てきたように、ドゥルーズは「思考する」ということを自明な前提とは見なしていない。そうはいってもドゥルーズは現に思考しているではないか、思考を自明と見なさないこと自体も思考なのだから、という反論も当然起こるだろう。この反論は正当な権利がある。しかし、この批判は、ドゥルーズが実際に何をしているか、という点にのみ向けられており、何をしようとしているか、という視点を欠いている。当然のことだが、ドゥルーズは自らが何かを論じるとき、それが「思考」という形式以外では出来ないことはわかっていた。思考されえない潜在的なものは、思考された時点ですでに表象=再現前化の形式に鰯め捕られている。しかし、それだからこそドゥルーズは、「差異と反復』のなかで「最も重要」かつ「最も具体的」な章として、「思考のイマージュ」を論じた第三章を挙げたのではないだろうか。思考することへの抵抗すらも思考によってしか可能にならない、だからこそ、ドゥルーズは思考の形式としての<私は─思考する、ゆえに、私は存在する>、あるいは<私>─<自我>システムの分析を執拗に行ったのではないか。その位 相を無視して、ただドゥルーズが言ったことのみに注目することは、ドゥルーズのなかの根本的な何かを見落とすことになる。ドゥルーズは、すでに第二章「それ自身へ向かう反復」において、<私は思考する、ゆえに、私は存在する>を、規定作用としての思考する<私>と、規定されるものとしての<自我>の存在としたうえで、それを結び付けるものを問うカントの議論を導入していた。カントの議論とは、デカルトが<思考する私>と<思考される私>の同一性を自明視しているのを批判し、むしろ両者は「時間の空虚な形式」によって切断されているとしたものである。そして、この切断は「想像力」によって抱合されるのだという。つまり、ドゥルーズの<私>─<自我>システムの分析は、その当然の下地にカントをもってきている。思考は<私>と<自我>が、つまり、考えることと存在することが原理的に一致しないことから開始される。もし、思惟と存在に根本的な乖離がなければ、思ったことが即ち現実ということになる。そこに思考する余地はない。と同時に想像力も時間もない。あるいは、何を考えたところで「思っている自分」は存在するのだから、思惟と存在はつねに一致しているのだという意見もあるかもしれないが、このような無内容な思惟は思考とは区別 するべきである。繰り返すが、思考とは<私>と<自我>の偏差なのである。思考が<私>と<自我>の偏差であり、<私>─<自我>システムが表象=再現前化の原理ということが示されたところで、議論の当然の流れとして、そのような<私>一<自我>システムを可能にする条件を問うべきだろう。ならば思考を開始させるものとは何か。 ドゥルーズによれば、それは「強度」との「出会い」なのだという。

 世界のなかには、思考せよと強制する何ものかが存在する。この何ものかは、基本的な出会いの対象であって、再認の対象ではない。出会われるものは、ソクラテスでありうるし、神殿あるいはダイモーン〔鬼神〕でもありうる。出会わるものを、様々な感情的色調のもとで、たとえば感嘆、愛、憎悪、苦痛などのもとで捉えることができる。しかし、出会われるものは、その第一の特徴においては、またどのような〔感情的〕色 調のもとでも、〔独特な意味で〕感じられることしか可能でないものなのである。(2)

 つまりドゥルーズは、「出会われるもの」は「感じることしか」できないのだといっている。では「愛」や「憎悪」は感じるものではないのだろうか。ドゥルーズは、それらの「感情的色調」は感じられるものではなく、「感覚されるもの」なのだという。出会われるものは再認に対立する。そして、「再認において感覚されうるものは、けっして、感じられることしか可能でないものではなく、かえって、思い出され、想像され、理解されうる対象において諸感官にダイレクトに関係する」のである。
 出会いによって感じられたものが、感覚されたものに変わり、それが「記憶」を通 して、思考されうるものとなる。これら感覚、記憶、思考は能力であるが、それら能力が発動するためには、感じられるものとの出会いが必要なのだ。この一連のプロセスによって、潜在的な差異=強度が思考サレルベキモノとなる。感覚されたもの、記憶されたもの、思考されたもの、それらはつねにその条件として強度つまり、感覚サレルベキモノ、記憶サレルベキモノ、思考サレルベキモノをもっている。だが、ここには、思考サレルベキモノは思考されえないものであるという困難がある。それら強度をドゥルーズの定義にならって細かく解説していくことの重要性を認めた上で、敢えて切り捨てようと思う。その理由は、思考されえないものを思考するためには、直接それを語ってしまうことのほかに、それを現象させるという方法もあり、本稿の目的が、すでに数多く見られる前者のようなドゥルーズ解釈とは違い、ドゥルーズのなかに後者の立場を読み取ることにあるからだ。
 重要なことは、思考とは強度を表象=再現前化によって消し去るシステムなのだと主張し、その試みの困難を承知の上で、強度を手探りに定義あるいは解釈してしていくことではなく、本来思考しえないはずの強度をそれでも語ろうとする、その必然性をより具体的に明らかにすることである。そして、ドゥルーズは「差異と反復』において、その必然性およびその方法さえをも具体的に語っているのである。
 すでに見ているように、『差異と反復」におけるドゥルーズは、その中心的なテーマで ある潜在的なものを考察するのと同じくらいの努力を、<私>一<自我>システムの分析に割いている。のみならず、1994年に発行された英語版の序文では、潜在的なものを具体的に分析した四章や五章ではなく、<私>一<自我>システムという「思考のイマージュ」を分析した三章こそが「最も重要」かつ「最も具体的」なのだと言っている。ではその第三章は、どのような言葉で締めくくられているだろうか。

 この〔思考の〕イマージュは、<思考する>ということが意味するものを、このうえなく深く裏切り、差異と反復という、すなわち哲学的な開始と再開という、二つの力=累乗を疎外するのである。思考のなかで生まれる思考、思考の生殖性のなかで産出される<思考する>という行為、それは、生得性のなかに与えられているものでもなく、想起のなかで仮定されているものでもないのであって、それはまさに、イマージュなき思考なのである。しかし、そのような思考とは、そして世界内でのその思考のプロセスとは、いったいどのようなものであろうか。(2)

 この問いに対する答えは提出されない。この問いは、予め用意された答えを導き出すための反語表現ではなく、先の見えぬ ところに足を踏み入れてしまった者の咳きである。ドゥルーズはこの問いに答えるかわりに、四章と五章において、強度あるいは差異が如何にして非人称的な個体を構成し、それが<私>一<自我>システムヘと回収されていくかを具体的に論じる。しかし、そこで述べられていることが如何に具体的であっても、それ自体は「イマージュなき思考」ではない。叙述自体はより具体的な四章や五章ではなく、三章の方が具体的というドゥルーズ自身の発言に注目すべきである。
 ドゥルーズにとっては、潜在的なものがどのような性質を備えているかを考察するよりも、それが<私>一<自我>システムを通 してへ思考することしかできないことの方が、より重要かつ具体的な問題だった。それは「後の本たちに近づくための紹介にもなる」し、「ガタリと引き受けた探求も含んでいる」のである。
 しかし、私は、ドゥルーズ自身の発言に抗して、『差異と反復』の最も重要な章は第二章「それ自身へ向かう反復」であると考える。なぜか。その理由は、第二章こそが<私>一<自我>システムにおける思考の条件そのものを考察しているからである。たしかにその考察は具体的ではない。とりわけ、「時間の第三の総合」としての「永遠回帰」は、ほとんどアイデアの域を出ていないように思える。加えて、『差異と反復』以降のドゥルーズは永遠回帰という言葉を重視しなくなる。少なくとも、その言葉が彼の本からほとんど姿を消してしまうのは確かである。だからといって、永遠回帰を解釈するドゥルーズの恣意性を指摘するのは性急ではないだろうか。仮に、ドゥルーズの解釈が恣意的であったとしても、その恣意性が持つ意味を考察せずに、厳密さという価値を前提にした批判は、永遠回帰のみならず、その後のドゥルーズの活動全般 の意味も取り違えることになるだろう。
 第二章「それ自身へ向かう反復」では、<私>一<自我>システムをひび割れたものにする「時間」の考察が為される。デカルト的コギト(私は思考する、ゆえに、私は存在する)は、思考する<私>と存在する<自我>を「ゆえに」という言葉で短絡させた。つまり<私>と<自我>は瞬間的に同一なものとされる。しかし、カント的コギトはデカルトが<私>と<自我>が一致しえないこと、その原因としての時間を考察しなかったことを批判する。デカルトが思考する<私>と存在する<自我>に関係性を見出したまではよい。しかし、それらがどのような関係を持つのかを考え始めると、彼の主張は途端に意味を失ってしまう。カント的コギトにおいては、もはや「ゆえに」は正当性を持たない。思考する<私>と存在する<私>は一致しないのである。この不安を回避するために、<私>と<自我>を一致させようとする試みがアイデンティティーの確立である。だが、思考する<私>と存在する<自我>が自己同一性を保つためには、むしろ思考することは放棄されなくてはならない。あるいは思考する<私>は放棄されなくてはならない。つまり、アイデンティティーに執着することは思考の放棄につながる。そして、そのような自己同一性(への執着)が現代においては危機に直面 していることも確かである(本当は現代と限る必要はないが)。ゆえに、存在における思考の在り方を考察しなくてはならない。問題は<私>と<自我>を一致させることではなく、思考する<私>と存在する<自我>の関係の考察である。カントによれば<私>と<自我>は原理的に一致しえない。それは両者が時間という形式によってひび割れているからなのだが、その具体的な考察に入る前に、時間の根本的性質である「縮約」について解説しておくべきだろう。

 ヒュームは、互いに独立した同じ諸事例あるいは似ている諸事例は、想像力のなかで融合される、と説明している。この場合、想像力はひとつの縮約の能力として、言わば感光板として定義される。想像力は、新しいものが現れてきても、以前のものを保持している。想像力は、諸事例や、諸要素や、もろもろの振動や、いくつもの等質な瞬間を縮約し、それらを融合して、或る種の重みをもった内的な質的印象をつくるのである。(…)こうした縮約は、絶対に、記憶ではないし、また知性の働きでもない。つまりこの縮約は、反省ではないのだ。この縮約は、厳密に言えば、時間の総合を形成するものである。(…)時間は、瞬間の反復に関わる根源的総合のうちでしか、構成されない。根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間を累積的に縮約していくのである。このようにして、根源的総合は、生きられた〔体験された〕現在を、あるいは生ける現在を構成する。そして時間が展開されるのは、まさにその現在においてである。(2)

 縮約あるいは想像力は、諸瞬間や諸事例をまとめあげることで時間を構成する。本論の文脈では、諸瞬間や諸事例は<自我>ということになる。つまりこういうことである。論理的には、瞬間ごとの存在する<私>=<自我>は独立している(これは<自我>に限らない。わたしたちは、論理的には別 物であるはずの事物を、同一のものとして把握することができる)。昨日の私と、一時間前の私と、現在の私は、論理的にはそれぞれ別 物のはずである。にもかかわらず、私はそれらが一貫した私だと感じる。<私>─<自我>システムにおける縮約とは、本来なら独立しているはずの存在する<私>=<自我>を、思考する<私>が想像的にまとめあげることである。そして、その縮約が<自我>ではなくて諸事物に向けられた場合、論理的には無数にあるはずの太陽が、一つの太陽として同一性を獲得する。これが時間の第一の総合としての「習慣の受動的総合」である。
 問題はここからだ。縮約は確かに諸<自我>をまとめあげるのだが、それはつねに現在においてである。たとえば、私は、昨日の私や一時間前の私を、現在において一貫したものと捉える。これを権利問題からとらえると、「昨日」や「一時間前」という時間性がなければ、私は諸<自我>を縮約的に捉えることはできない。ところが、現在の私は、昨日の私や一時間前の私によって構成されているのである。ここには、現在が過去を構成(あるいは再構成)するにも関わらず、その現在は過去によって構成されているという「時間のパラドックス」がある。現在から過去を捉えるか、過去から現在を捉えるかという、このパラッドクスはきわめて複雑なものとなっており、性急に解決すべきでない。
 とりあえず、両者の立場がどのような働きをするのかを分析しよう。現在を諸事例の縮約として捉えるということは、必然的に、現在・過去・未来という時間を前提にしていることになる。先ほど私は、昨日の私や−時間前の私と述べたが、それは時間を前提にしていたからであり、さらにいえば、それらを「記憶」していたからである。つまり、諸事例や諸自我と言ったときすでに、時間や記憶を前提にしているのである。諸事例や諸自我が「記憶」という能力によって、現在・過去・未来という時間に配置されることを、ドゥルーズは時間の第二の総合としての「記憶の能動的総合」と呼び、それが諸事例の表象=再現前化の原理になるという。
 習慣の第一の受動的総合が諸事例を縮約することで時間を構成し、記憶の能動的総合がそれら諸事例を時間のなかに再配置する。両者のうちでどちらが優先されるということはない。しかし、前者の立場が受動的であり、後者の立場が能動的であるのはわかる。ともかく確実なことは、いずれにせよ縮約の反復が蝶番となって、両者が循環するということである。<私>は<自我>の単なる集積ではない。<私>は思考することで、<自我>を表象=再現前化する。そのさい<私>が利用するのが、表象=再現前化の原理としての記憶なのである。ここに至って、時間が<私>一<自我>システムにどのようにひびを入れているかがわかる。存在する諸<自我>が縮約されることで<私>が構成されるが、その途端に<私>が存在の中に<自我>を表象=再現前化する。<自我。が縮約されるためには時間が介在しなくてはならないが、同時に、その時間は<私>が<自我>を表象=再現前化するための条件にもなる。つまり<私>─<自我>システムが機能するためには、それ自体循環する時間という形式が不可欠なのである。
 ところがドゥルーズは、このような円環を破壊する第三の総合を提示する。それが「時間の空虚な形式」とされる永遠回帰である。ドゥルーズによれば、永遠回帰は、受動的な<自我>における縮約も、能動的な<私>における表象=再現前化も破壊する。これは筆舌し難い事態である。すでに述べたように、永遠回帰は具体的に説明されない。ドゥルーズによれば、それは「あらゆる場面 で選別を行う(差異をつくる)」「存在論的反復」であり、「<自我>の類似と<私>の同一性を失わ」せる反復である。さらに端的に「永遠回帰は存在の一義性である」とも言っている。ここには前二者の反復とは違う、暖昧な胴に落ちなさがある。それをわかり難さと言い換えてもよい。しかし、だからこそ永遠回帰を考察しなくてはならない。『ツァラトゥストラ』においても永遠回帰は明確に語られることはなかった。なぜだろうか。ドゥルーズのいうように永遠回帰が存在の一義性であるなら、ここにはハイデガー存在論(およびそれを継承した現代西洋哲学)が陥った、「思考しえないものを思考する」ことが要請されるからではないだろうか。そもそも「思考しえないものを思考する」という問題はハイデガーが創始したわけではない。それはプラトンのイデア論や、あるいはもっと以前からあった、形而上学(メタ・フィジック)の根本的な問いなのである。これを回避すれば哲学は哲学ではなくなる。この根本を確認したうえで、ドゥルーズ固有の問題を探っていこう。
 ドゥルーズにおける「思考しえないもの」は「同一性を解体するもの」である。これは『アンチ・オイディプス』では「分裂症」あるいは「器官なき身体」と呼ばれ、『千のプラトー』では「戦争機械」や「平滑空間」と呼ばれる。ドゥルーズはそれらの隠輸の差異を利用しながら、自己同一性を中心に築きあげられた体制を攻撃する。このような試み自体は目新しいものではない。ゆえに、この闘争のなかに新しさを見いだすためには、読む側のスタンスが自覚的に選ばれなくてはならない。このような場合、一般 的には、ドゥルーズの使用した隠愉系の働きを精微に分析し、その射程や効果を見極めるという方法がある。しかし、私はその試みを当然行うことを前提に、むしろそれを行うための前提として、ドゥルーズが同一性を批判する方法自体をも解読しようと思う。
 シンプルに考えるならば、永遠回帰による同一性の解体とは、昨日の私と現在の私が一致しない状態を意味する。より正確に言うなら、一分前の自分と一秒前の自分と現在の自分がつねに一致しない状態である。あるいは自分に限らず、目の前の諸事例が一瞬ごとに別 のものに思える状態。これは分裂症患者の典型的なパターンでもある。『アンチ・オイディプス』は、資本主義社会が分裂症を生み出すプロセスと、精神分析(フロイトのオイディプス・コンプレックスを理論的中心に置いた)が、それを家族の三角形に押し込める(抑圧する)プロセスを分析したものだが、注意すべきは、ドゥルーズーガタリが主張しているのは「分裂者分析」であり、べつに分裂病になれと言ってるわけではないということだ。この違いを見落とすと、のちに述べるように、「ドゥルーズは分裂症を肯定するわりには自分自身は少しも分裂病ではない」という反論が起こる。ドゥルーズ=ガタリは分裂者がいいと言っているのではない。ただ、現代の資本主義社会は原理的にスキゾフレニーとパラノイアを生み出すのであり、自分たちの立場は、スキゾフレニーのなかに資本主義自体から逃走する力を発見しようとしているのだとしか言っていない。分裂病自体は、あるいは同一性の解体自体は価値の条件でしかない。分裂症自体が資本主義の産物である以上、たとえ自らが分裂病になったとしても、資本主義のもう一つの産物であるパラノイアを倒すことはできない。両者は原理的にカップリングしているからだ。脱中心化する力と中心化する力がともに資本主義によって産出される。ドゥルーズ=ガタリは脱中心化するスキゾのなかに、さらに遠く、資本主義からも逃走しうるような力を認めている。自らがスキゾになるのではなく、スキゾのなかに資本主義自体に抵抗するような力を発見すること、つまりスキゾ分析がドゥルーズーガタリの立場である。
 永遠回帰は同一性を解体する。しかし、それを強調するドゥルーズ自身は、自らの自己同一性を失っていないように思える。これは矛盾だろうか。わかりきったことだが、この矛盾を理由にドゥルーズを批判しても、それは何ら生産的なものにはならない。そのような批判は終局的には、自分のやれることだけを主張しろという結論を導くだけだが、ところが、思考とはそもそもへ反時代的一な抵抗のことを言うからである。かといって、この矛盾を無視することは、思考することの本質的な困難を切り捨てることになる。前述の通 り、思考の本質が現状への抵抗である以上、それは自らの存在と派離せずにはいない。そうであるなら、この禿離を無視することもまた思考を放棄していることになる。
 ドゥルーズは思考の条件としての<私>一<自我>システムを精微に分析した。これを逆から見れば、ドゥルーズは自らの思考が表象=再現前化を免れ得ないのを自覚していたことがわかる。思考することとは<私>一<自我>システムを循環させることであり、その循環を断ち切るのが永遠回帰である。そのとき無数の差異が出現する。しかし、この無数の差異はたちまち縮約され、同一性に回収されてしまうだろう。だからこそ永遠回帰は反復する。循環を断ち切るはずの永遠回帰自身もまた別 の循環に与するのだとしたら、重要なことは、永遠回帰それ自体に至ろうとすることではなく、永遠回帰に含まれているだろう力をいかに解き放てるかを思考することである。この問題設定は『アンチ・オイデイプス』に明確に表れている。

 <それ>は作動している。ときには流れるように、ときには時々とまりながら、いたるところで<それ>は作動している。<それ>は呼吸し、<それ>は熱を出し、<それ>は食べる。<それ>は大便をし、<それ>は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらをひとまとめに総称して<それ>と呼んでしまったことは、何たる誤りであることか。いたるところで、これらは種々の諸機械なのである。しかも、決して隠愉的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して、〔他の機械に動かされる〕機械の機械なのである。(5)

 この文章を引用したのは『アンチ・オイディプス』を解読するためではない。強調すべきは、ドゥルーズは<それ>=潜在的なものが「いたるところで」「作動している」と考えていることである。それは「差異と反復』においてはこう示されている。

 ラカンの教えるところでは、現実的対象は、現実原則のゆえに、どこかに存在するかあるいは存在しないかのいずれかであるという法則に従っているのだが、潜在的対象は反対に、それがどこへいってしまおうと、それが存在するところに存在し、かつ存在しないということを特性としているのである。(2)

 いたるところに存在しかつ存在しないもの、つまり潜在的なものをドゥルーズはどのように肯定するのか。ここで永遠回帰の定義を思い出してほしい。ドゥルーズは「永遠回帰とは、存在の一義性のことであり、この一義性の現実的な実在化なのである」と言っている。『差異と反復』で使われる「存在の一義性」は、しばしば言われるようにドゥンス・スコトゥス─スピノザという系譜よりむしろ、ハイデガー存在論から捉えるべきであるとは既に強調しておいた。そこから見れば、上の二つの引用が共に<存在>を指しているのがわかる。<存在>それ自体を経験することはできない。しかし、むしろ経験の条件として、<存在>はいたるところに広がっている。これは前提の確認である。

 注目すべきは、『差異と反復』と『アンチ・オイディプス』の間で、潜在的なものを捉える態度が微妙に異なっていることだ。『差異と反復』では「存在の一義性」の下に、ハイデガーの存在論やニーチェの永遠回帰あるいはラカンの対象aが接続される。プラトンのイデア(かなりドゥルーズ的解釈を帯びているが)を加えてもよい。そこでは、これらの諸潜在的なもの(諸機械)の差異を分析する態度は見られない。ドゥルーズはそれらを一丸にして表象=再現前化を批判している。ところが『アンチ・オイディプス』でのドゥルーズはいう。「これらをひとまとめに総称して<それ>と呼んでしまったことは何たる誤りであることか。いたるところで、これらは種々の諸機械なのである」。

 ドゥルーズは諸機械の差異を自覚している。ところがドゥルーズの欲望はそれらの諸機械の区別 には向かわない。『アンチ・オイディプス』や「千のプラトー』においても「差異と反復』同様、それらは同一性を強いてくるものへの抵抗として、さながら連合的に語られる。なぜだろうか。<私>一<自我>システムが示す通 り、思考とは、諸事例や諸自我を受動的に縮約することで、能動的に表象=再現前化を進めるプロセスである。『差異と反復』のドゥルーズはニーチェとハイデガーを想像的に縮約する。ここには矛盾がある。真に差異を肯定するのなら、むしろ両者は分けるべきではないか。しかしこの批判は的外れである。なぜなら、たんにニーチェとハイデガーの差異を区別 することは、両者を表象=再現前化において分けることに外ならないからだ。真に差異を肯定するためには、両者の言説内容における差異を定めるのではなく(表象=再現前化は,思考の原理であるため、そこで定められた差異は必然的に同一性に従属するから)、あえて,思考の原理である縮約=想像力を働かすことで、潜在的なもの=欲望する諸機械=<それ>=差異を流し、それによって永遠回帰たる同一性の破壊を何度も到来=反復させ、その選別 =テストに耐え得る力としての差異を見出さねばならないのである。真に差異を肯定するためには縮約=想像力を働かせなくてはならない。もちろん、想像力によって異なるものを結び付けることは、言説の意味内容を論理的に区別 すること同様に、表象=再現前化における試みでしかない。しかし、ドゥルーズは自らの方法において想像力を多用するだけでなく、その言説においても想像力を肯定している。

 潜在的なものをその反復の基底にまで追求してゆくのが思考の仕事であるならば、現実化のもろもろのプロセスをそのような繰り返しあるいは反響という観点から把握するのは想像力の仕事である。諸領域、諸レヴェル、そして諸水準を横断するのは、まさに想像力であり、この想像力こそが、いくつもの隔壁を打ち倒し、世界と同じ広がりを持ち、わたしたちの身体を導いてわたしたちの心に霊感を与え、自然と精神の統一を了解するものなのである。想像力とは、絶えず学から夢へと、また逆に夢から学へと移りゆく幼生の意識である。(2)

 意味内容を想像的に縮約することも、分析的に区別することも、ともに表象=再現前化のプロセスである。前者が「諸領域、諸レヴェル、そして諸水準を横断する」のだとすれば、後者はその横断が不可能であることを示す。そして両者は互いに交じり合いながら果 てしない循環を続けている。表象=再現前化を駆動するもの、つまり「いたるところで」「それが存在するところに存在しかつ存在しない」ものが差異であるなら、それを発動させる方法として想像的縮約を選ぼうと分析的区別 を選ぼうと同じことだ。ではなぜドゥルーズは想像力を肯定しかつ使用する立場を選んだのだろうか。この点をドゥルーズに向けられた二つの批判を手掛かりに具体的に分析しよう。



 ガヤトリ.C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』は、フーコーとドゥル−ズの間に交わされた対談「知識人と権力」において、一見両者が西洋的「主体の主権性を掘り崩そうとするものであるかのような幻想をあたえるが、実際には」「この知の主体を隠蔽するための覆いを提供している」ことを示している。つまり「主権的主体について広く喧伝されている批判」は「現実にはひとつの主体を立ち上げているのだ」。二人の間で交わされた対談をスピヴァクはこう要約する。

  第一には、権力/欲望/利害のネットワークはきわめて異種混交的なものであって、それらを首尾一貫した語りへと還元することは反生産的であり、このような還元の試みにたいしてはたえざる批判が必要とされるということを明らかにしたこと。そして第二には、知識人は社会の他者の言説を明るみに出し、知るように努めるべきであると主張したこと。ところが、二人とも、イデオロギーの問題およびかれら自身が知的ならびに経済的な生産活動の歴史のなかに巻き込まれているということにまつわる問題については、これを一貫して無視している。(6)

 たとえばそれは、二人がフランス知識人界における「マオイスム」とそれのもたらした「ヌーヴォー・フィロゾフ」という現象を語るときに、「毛沢東主義」という言葉を無邪気に使用することで、中国におけるその言葉の持つ固有の意味を抹消していることが挙げられている。スピヴァクは、他者が語ることの必要性を主張するフーコーとドゥルーズが、実際に具体的な他者と向き合おうとはせず、いわば抽象的に他者を自らの言説に組み込んでしまうことを「ヨーロッパ的主体」と呼び、その点において二人を串刺しにする。このスピヴァクの批判は妥当に思える。しかし問題は、妥当か不当かを判断することではなく、なぜこのような主体が立ち上げられてしまうかである。

 その理由として、スピヴァクは「もろもろのシニフィアンが〔シニフィエとの関係を断たれて〕勝手にふるまうがままに放っておかれるとき」に生じる「言葉の横滑り」を挙げている。「毛沢東主義」が「マオイスム」と回収され、前者におけるシニフィエ(その語の中国におけるコンテクスト)が無視されると、そこに言葉の横滑りが生じる。ドゥルーズの場合、その根本的な問題は「ルプレザンタシオンreperesentastion」という語の解釈にある。ではルプレザンタシオンとは何か。『差異と反復」でドゥルーズが一貫して批判し続けた「表象=再現前化」である。この語はもともとは「表象」と訳される。ところが、それはその語形から「re再び−presentation表現される」というニュアンスを帯びることになる。さらにそこから「代表」という意味も出てくる。つまりルプレザンタシオンは一種の多義語なのである。「表象=再現前化」は主に芸術の領域で使われる。「代表」は当然ながら政治の領域で使われる。それら二つの一致しえないシニフィエの差異を、字面 が同じという理由で抹消してしまうとき、具体的かつ政治的な他者は、芸術的な他者として抽象化されてしまう。このことは「差異と反復」でのドゥルーズが他者を「可能的なもの」と考えていることに重なる。他者とは私では「ない」ものである。にもかかわらず、私は私では「ない」ものによって可能になる。つまりドゥルーズにとって他者とは私の条件である。しかし、彼の理論において他者とはあくまで表象=再現前化を可能的に保証するものであって、「出会うもの」ではけっしてない。

 ドゥルーズの理論構成は必然的に他者との出会いを排除する。これは事実である。ならばその理由は、スピヴァクの言うように、ドゥルーズがルプレザンタシオンの本来区別 されるべき意味を想像的に短絡させたからなのだろうか。私は、ここでのスピヴァクが意図的に本質的な問いを回避しているように思える。以下に取り上げる樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」は、スピヴァクが恐らく敢えてそこで止めておいた問題を、ドゥルーズの思考の根本を批判するまでに拡張している。

 樫村はドゥルーズが「差異の称揚と神経症の否定を語りつつも、精神分析その他の科学的材料を、単一のパースペクティブヘと強引に同化─縮減し、結局、伝統的な哲学と同じ、世界観(=幻想)贈与的な振る舞いをなしていると判断する」。その理由として、ドゥルーズが「ニーチェの〔永遠回帰の〕体験を一般 化し、強度を強度の隠職として扱うことで、結果的に、ハイデッガー的差異(=存在論的差異)とニーチェ的強度を短絡させたこと」、および「ラカンのファルス盗まれた手紙の理論がもつのと同様な詐術性が彼の論理内部に引き継がれていること」を挙げ、そしてそれが「彼のなかで小説読解的な素朴な態度として変換し増幅すること」を指摘している。さらに樫村は「本稿は、あらゆる幻想とそれをめぐる力動(政治的情熱であれ文学的熱情であれ)を神経症的とみる、科学主義的、エピクロス─スピノザ主義的態度から構成されている」と自身のスタンスを告げる。
 この主張はドゥルーズの問題点を正確に突いている。本論でも何度か主張してきたように──というよりドゥルーズの本に目を通 せば一見して明らかなように──ドゥルーズには細部の差異を捨象して概念を接続する傾向がある。たとえば永遠回帰が存在論的差異である理由は説明されない。両者は乱暴に接続される。この性質が「単一のパースペクティブヘ」の「強引」な「同化─縮減」である。樫村はこのようなドゥルーズ自身の性質は分裂症的ではなく、むしろ神経症的なのだという。私はラカンとハイデガーに関しては別 の意見があるが、ニーチェとハイデガーに関しては概ね彼の指摘は正しいと思う。
 この批判を真筆に受け止めるならば、ドゥルーズの世界観を共有しかつドゥルーズ語を操るのに躍起になっている者は、幻想に戯れる神経症者ということになる。それは間違っていない。しかし、重要なことはこの事実それ自体にあるのではなく、この事実を指摘する者もまた、何らかの幻想を完全に拒絶しうる場所には立ち得ないということだ。たとえば、スピヴァクはドゥルーズがシニフィエを無視したシニフィアンを横滑りさせることで(表象と代表という別 の意味をrepresentationという語によって短絡させることで)、他者を排除したと批判するのだが、彼女自身がフーコーとドゥルーズというシニフィエ(両者はまさに「政治的」に快を分かった)の差異を「ヨーロッパ的主体」というシニフィアンで抹消してしまう。一方で樫村はドゥルーズに「病の収集活動がある」というが、それはドゥルーズ固有の「持ち味」を「彼のいう流体的、尿道的なもの、高い所にあり、あるいは上へと立ち上がる感じ」に見て取る樫村自身にもある以上、彼はドゥルーズと自身の違いを示さなくてはならない。ドゥルーズが樫村の言うように小説的=幻想的であり、樫村自身が科学的=分析的立場というのはよくわかるが、すでに述べたように、この一見したところの対立がそもそも対立ではなく、互いに他方を含みながら循環し続けるというのがドゥルーズの認識だった。だとすれば、その循環のなかでどちらの立場につくかということは、それこそ「政治的」な決断なのである。フーコーが『アンチ・オイディプス』を倫理の書と呼んだのはその意味においてだ。もし本気でドゥルーズを批判するのなら、それは彼の幻想に向けられるだけではなく、彼が幻想を選んだという政治的事実をも批判しなくてはならないだろう。ドゥルーズは想像力による思考の果 てに永遠回帰を何度も到来させ、破砕された同一性のなから真に肯定すべきもの=差異が結晶化するというビジョンに賭けた。「概念を創造すること」とはそのプロセスに外ならない。
  それに対して「科学的」な分析は何が対置できるか。それは神経症だという批判は批判になっていない。ドゥルーズが幻想─分析の循環を条件とみなしている以上、たんに分析を肯定する態度は状況に応じた恋意的なものとしか映らないだろう。つまりその言葉は意味をなさないだろう。このとき、「最も冷静な道」を「一歩ずつ歩を進めていく」という樫村の言葉こそがむしろ幻想的に聞こえてしまう。樫村は「理論が最大限に分節されるなら、それは現実と同じになる」と言うが、そのような現実はむしろ幻想ではないだろうか。もし現実があるとすれば、その発言が政治的関係つまり現実の他者との関係においてこそ成立することに、と同時にその幻想を幻想として抹消しない限りにおいてしか成立しえないことにあるのではないか。

 私は本稿を「科学的」に書いた。と同時に「想像的」に書いた。両者を分けることが可能だと信じること自体が幻想である。そして、実を言えば、その両者のどちらの立場を選ぶかは意志によって決定されるのではない。とはいえ、何がそれを決定するのかと具体的に追求しだすと、途端に幻想に陥ることになる。なぜならそれは、つねにすでに他者との現実において決定されているからだ。現実を変えようとする熱情も、熱情を冷ややかに見つめる分析も、ともに現実(の他者)を排除する。思考とはその循環である。とすれば思考するとはどういうことか。それは現実の逃避以外にありえないのか。
 私は絶えずこの想像─分析という循環それ自体を破砕するような「分析」を探して来た。つまり、諸事例を統合するのでもなく、より細部に向かうのでもない「分析」である。私は説得力があり、かつ根本的な問題に触れていると感じた二つのドゥルーズ批判を取り上げた。そして、それがなぜすれ違うのかを見定めようとした。ドウルーズにとって「概念を創造すること」は、想像力と同一性を利用し、思考を徹底して脱中心化させるなかに、「いたるところ」にある存在論的差異を流し続け、それを表象=再現前化の破れ目から逃走させることだった。この決定的なドゥルーズの認識に向き合うとき、私には二つの道が残されている。ひとつは、ドゥルーズの言説のなかに差異あるいは潜在的なものが逃走している箇所を見出し、それをさらに逃走させるために新たな言葉で語ること。もうひとつは、「思考しえないもの」を出現させる「分析」を原理的に考察し、それをもってドゥルーズの言説を「分析」すること。私の欲望は明らかに後者にあるが、それが具体的にどう実現されるのかは未だわからない。だが恐らくそこでは「想像力」が不可避になるだろう、という予兆だけは確かに感じられる。