ふうの街・雑記`05
【おしせまって】
 来春からの連載の打ち合わせで京都新聞社へ昨日は出向いた。新聞社に「御用納め」もないだろうと思っていたが、大きなビルは閑散としていた。おなじみの大増頁の元旦号などの準備はすでに終わっているのだろう。よっぽど大ニュースでも飛び込まない限り、こんなものかなと思った。

 連載は茶木みやこさんとの鼎談風だから、絵になるようにと楽器持参とのこと。三時間ばかりのそれを終えて帰ってきたのだが、歳末の商店街で楽器ケースぶらさけで歩いていると、「このかき入れ時に気楽な奴や」と後指さされているようで、なんとなく気恥ずかしい。
 小商いの家に生まれると、どうしてもそういうコンプレックスが抜けないので、これが自分の芸を小さくしているのだとも思うし、このつまらぬ気のまわしようが、ぼくの芸を形作っているとも思う。ともあれ、近頃は商店街の人もぼくの立場を認知してくれているだろうと、少し開き直ってもいる。

 くだんの茶木さんとの鼎談は、乞うご期待というところだが、ぼちぼち来年あたり、商店街での見聞を書き綴ったものを何か形あるものにしたい。

 市内のN薬局が年内で営業を終えるという報が伝わってきた。創業者は戦後のレッドパージで当時の官庁をおわれ野に下り店をおこし、坪あたり日本一という売上のお店にまで成長させたと、ぼくは父から聞かされていたが、京の個人営業の名物薬局の灯がまた一つ消える。来年はいかがな年になるのやら。 (2005.12.30)


【冬の朝】
 年末に娘たちが帰省してくるまで、カミさんとクッキーとの暮らし。たいがいはカミさんのほうが早起きなのだが、たまに先に寝床をはいだし茶の間へ行くと閑散としている。五年前に亡くなったオヤジはこういう侘しい一人の朝を迎えていたのかと、ふと思う。

 顔を洗って、ストーブをつけ、コーヒーをいれて……さて、新聞を読むか、テレビのスイッチをいれるか……なんとなく、それが慣れっこになっているが、そうか、年寄りの一人住まいというのは、テレビからの話し声でしか世間とつながれないのか?とも思った。

 もっとも小商いをしていると、お客さんが来ようが、来まいが、時刻になったらシャッターを開ける。そうすると、そこに世間がある。商店街の隣近所や道行く人とあいさつを交わす。ありがたいもんである。
 今朝は、15センチばかりの積雪。我が店の前と、今年のはじめに亡くなった北隣のKちゃんの店の前、年配の方だけの南隣の前などスコップで雪かき。
 稼ぎ時の歳末の雪というのは商売人泣かせであるが、「シャッターをあけると家の前が世間」という暮らしを来年もつづけられますようにと、商店街の雪をかく。 (2005.12.22)

【校外学習】
 新大宮商店街は、鳳徳小学校と待鳳小学校の校区を南北につらぬいている商店街で、ここの生徒さんたちは校外学習で一日商店体験をしたりするのだが、昨日は、少しはなれた鷹峰小学校の三年生が商店街へやってきた。

 ぼくの子どものころは、鷹峰(タカガミネ)の街道沿いに古い民家が建ち並び、本阿弥光悦の名を冠した光悦寺などがあるくらいで、あとは畑だったが、今ではすっかり住宅が立ち並んでいる。街道沿いに商店も何軒かあるのだけれど、商店街の観察ということで新大宮が選ばれたのは、うれしいことだ。

 生徒さんたちは、10人くらい四つのグループにわかれて、商店街を歩いて、新大宮事務所・ホールの展示物を見たりして、ぼくの店にもインタビューにやってきた。あたたかい日なら店の前でも応対できるのたが、午後から小雪が舞うような日だつたので中にはいってもらったが、さすが10人も入ると満員だ。毎日これくらいのお客さんにあふれているとありがたいのだが。

 商店街の歴史、商店街のサービスなど、生徒さんからいろいろ質問をうけたのだけれど、ひとつ面白いのがあった。
 「商店街にはマスコットとかキャラクターはいますか?」というのだつた。
 (うちのホームページは「クッキー」だけど)
 「新大宮にはありません、そのかわり、それぞれのお店のおじさんがキャラクター、おばさんがマスコットです」というのが、ぼくの答え。
 「君たち、マクドナルドいって店員さんの顔と名前をおぼえてるか?ケンタッキーの社長さんはあの人形のおじさんか?このへんのお店はなんべんか行ったら、店のオジサンの顔はわかるよね。それが商店街」……我ながら、うまい答えや。

 一昔前ならコンサルタントが「コーポレート・アイデンテティ」とか「コミニティ・アイデンテティ」と称して、街のカタカナ・ネーミングやロゴなど売り込みにきたものだ。でも結局は、店の人の個性が受け入れられるかどうかでしかないと、新大宮の人とよく話す。
 ぼくの個性とは、いったいなんなのか?五十半ばにしてもわからないのだが。

 寒風の中、元気よく子どもたちが帰っていった。あの子たちが新大宮に少しでも愛着をもってくれたら幸いである。       (2005.12.14)

【商店街で遊ぶ】
 歳末を迎えて京都市内のあちこちでライトアップが盛んで、新大宮でもセンター街や四丁目は電飾のイルミネーションが輝いている。これはけっこう費用が馬鹿にならない。我が三丁目は街区の距離が長いわりに、商店が少ないこともあって、なかなか費用がかけられない。
 それではというので、今回は「中華・サカイ」さんのお上さんのアイデアで左の写真のように街路灯にご覧のようにの飾り付けをした。白いボールの正体は、紙コップ。誰が呼んだか「はてなの巣」。
 あいかわらず商店街で遊んでいる。 (2005.12.11)
【帰洛】
 「帰洛」という言葉があるのかどうかわからないが、昔は京都へ登るのが「上洛」で、「上京」などというのは東京が首都になってからの言い回しだろうか。今は観光客が京都を訪れるのを「入洛」と地元の新聞などで見かける。
 よその土地から京都へ帰ってきたら「帰京」になるのだろうが、後に「京」がつくのはやつぱり東京だろう。では「帰郷」かといえば、これでは盆と正月の里帰りのイメージなので、やっぱり「帰洛」だな。つまらぬ京都人のプライドかも知れないが、行くたびに変化の著しい東京から「帰洛」すると「気楽」でいい。

 めまぐるしく変化する東京では、古臭い戯作・郢曲の徒のぼくなど何のお役にもたたないと思いつつも、少しでもお呼びがかかるのはありがたいし、出かければライブに集まってくださる方がいるのもありがたいことである。

 夜のライブの仕事までの暇つぶしに一人であちこち行った。
 「雑司が谷霊園」は娘の下宿から都電・荒川線で一駅なので、夏目漱石・永井荷風・泉鏡花・竹久夢二の墓があるというので出かけてみた。駅前で出会った老人が、著名人の墓の地図は霊園事務所でもらえると親切に教えてくれた。
 その地図を見ると先の三人以外にも。ジョン万次郎、江戸家猫八、島村抱月、いずみたく、金田一京助、羽仁もと子、小泉八雲、伊沢修二、尾上菊五郎、大川橋蔵だのたくさんの墓がある。
 だれでも名前に親しんだ人の墓には花など供えてあったが、古川ロッパと岩野泡鳴の墓には人が訪れた気配がない。泡鳴の墓は一番端っこの陽当りの悪い場所にあるので合点もいった。けれど、ロッパの墓は見つけやすいところにあったが草ボウボウ。
 それで『エノケン・ロッパの時代』(矢野誠一/岩波新書)の、古川ロッパの死亡記事は当時の朝日新聞でわずか十数行だったという記述を思い出した。エノケンの死亡記事は数段、サトウハチローが追悼文を寄せたと。そういえばサトウの墓もここにあった。
 著名人地図には村山知義の墓は表記されていなかったから、ご遺族が観光・見世物扱いされるのを遠慮したのかも知れない。

 次の日には、葛飾北斎の特別展を上野の博物館へ見に行った。約500点の展示の中に『喜能会之故真通(きのえのこまつ)』など枕絵がないのは、中・高校生の見学へのつまらぬ配慮だろうか。たしかに高校生とおぼしき団体さんも来ていた。彼らもふくめた見学客でゴッタがえしていて疲れたのが正直なところで、常設展示の博物館本館で一息ついた。上野公園にはホームレスの人々があふれていて、政治のお膝元で、「勝ち組」「負け組」の論理を礼賛するこの国の政治の貧しさをあらためて思う。

 国立の館野公一さん宅に泊めて頂いた翌日は、館野さんから自転車を拝借して多摩川の河川を小一時間ばかり走ってみた。このあたりの土地のことはまるで知らないので、もう山向こうは甲州かと、へんに納得してみたが、考えればその向こうにまだ八王子だのがあるわけで、どうも、繁華街から里山まで自転車で行けてしまう京都の距離感でものごとを計ってしまう自分が可笑しくなったが、そのスケールこそ我が身のほどだろう。

 最終日の信州塩尻では、打ち上げの席で地元のバンドのベーシスト平出さんから、この地の風習として未だに残る「無尽講」の話をうかがった。これは現代の都会のスケールで考えれば、多少いかがわしく、出資法などの法律にふれるだろうが、限られた地域の人々の互助精神と紳士協定で残っている風習。いや、金がからめばロクなことのない現代では、すでに「奇習」というべきか。

 そんなこんな数日の見聞とライブのあと「帰洛」した。留守中にたまった仕事をかたずけたら、「気楽」どころか、もう師走だ。(2005.12.02)
 
【迷惑な話】
 京都市内の街路樹の剪定にはローテーションがあると、この雑記で以前ふれた。今年は12月中旬と商店街事務所から聞かされていたから、「ふう」の紅葉も見られると期待していたら、一ヶ月も早く剪定がはじまった。

 市から街路樹の剪定を委託されて作業中のK造園のお若いのに聞いたら、ブッシュ大統領が京都に来るので厳戒態勢がしかれて、本来の剪定予定の街路が警備対象になっていて予定が急遽変更されて新大宮へ来たそうである。

 この大統領の京都入りで、あっちこっちで規制だの検問していて、一般市民は迷惑な話だと思っていたら、こんなところにもトバッチリである。

 おまけに、我が店の前の「ふう」の一番大きな枝が剪定されたとたん、それが店の日よけテントに引っかかって穴をあけた。ホワイト・ハウスにテントの修理代でも請求してやろうか。

 選定作業の不手際と大統領の来日との因果関係は立証できないだろうけれど、さらにモノがテントというのは、実はちょいと厄介なのだ。
 行政は看板と同じように、商店の日よけ・雨よけテントが公道上にはみ出しているのを原則的に規制している。つまりテントが傷つけられて出来た穴が、敷地内にあるか、公道上にはみでた部分にあるか、これが問題なのだ。
 剪定作業は公務であるから、公道上にはみ出たテントはいうなれば公務執行妨害をしているわけだ。

 もっとも、こういうことで裁判になったという話はあまりきかないし、こちらの文句の通しようもあると思うのだが、テントを張り替えてすでに10年はたつのでテント地も劣化しているだろう。昨年は雹(ヒョウ)がふって穴があいたのを自分で補修した。今回は剪定作業の責任者が、すぐに似たようなテント地の切れ端を手に入れてきて謝罪と補修にやってきた。その対応をみたら、こっちもキツく言うわけにもいかない。

 ともあれ、ツギのあたった我が店のテントを見るたび、「ふう」の樹の選定作業より、ブッシュ大統領の空爆でテントに穴をあけられた気分になるだろう。 (2005.11.16)

【老いやすく、学なりがたし】
 大阪梅田の毎日文化センターでこの秋から予定されていた「シンガー&ソングライター講座」は受講希望者が少なかったので、結局とりやめになった。
 この講師の話があった時、ギター教室でもないし、詩だけをつくる文芸教室でもないし、カラオケとかゴスペルの歌唱教室でもないし、そのすべてでもある。ちょっと欲張りすぎで捉えどころのない講座だなと心配しつつも、どういう内容にするか簡単なレシピも作っていたのだけれど、残念。
 でも、わすが三名だったけれど応募してくださった方はもっと残念なはずなので、文化センターの事務局から、お名前とご住所を教えて頂いてハガキなどを差し上げた。

 先週の日曜日に、北区役所に隣接する北青少年活動センターでやらせて頂いた歌と話について、参加された皆さんの感想をまめたものを届けていただいた。おおむね好評だったので安心した。

 23日からの東京・信州ツアーをひかえて、新聞連載の三週間先の原稿を書き上げるなどバタバタしていたら、もう11月も半ばだ。
 本来なら、来年のことなど着々と計画すべきところだが、これから商店街の歳末の装飾だとか、店のカレンダー作りだのとアタフタしているうちに時間がすぎてしまうだろう。

 仏教説話の無住の『沙石集』や安楽庵策伝の『醒睡笑』など、ゆっくりとあれもこれも、ちゃんと読んでみたいと思う本は多いけれど、ちゃんと喰らうことも考えねばならぬ。 (2005.11.14)

【ヒゲの値打ち、本の値打ち
 今までヒゲなどたくわえたことがなかった。昔、商店街でヒゲなどあるのはウチのオヤジくらいで、そのオヤジへぼくは「えらそうにヒゲなど」という反感もあったし、ぼく自身そんなにヒゲの濃いほうではなかったので、いつも綺麗さっぱり剃っていた。

 ところが最近、ただただ面倒クサイというだけで剃らずにいたら、なんとなくさまになってきた。もっとも、商売にも音楽表現にもあまり自信がもてないので、「ヒゲなどエラそうに」と思いつめたら、すぐ剃ってしまうだろう。
 ヒゲひとつのばすのに、深い理由など必要ないのに、どうもツマラぬ性格だ。エラそうにしていたオヤジへのトラウマかもしれない。

 「そらたね祭」のフィナーレのステージを終えたら唯明寺の晃巌和尚が、「面白いものがあるので見ていかないか」と居間に案内されて見せてくれたものがある。先々代の亀田千巌師が作った小冊子で、檀家さんが保存していたものらしくボロボロになっているが、目をとおすと千巌師が真宗布教のためにつくった歌入り児童劇の台本なのだ。今でいえばオペレッタかミュージカルである。

 子どもたちへのわかりやすい布教なくして仏教の発展はないと、往時の千巌師の表書きがあった。かなり虫食いもある冊子だが、もし暇があれば50ページもないので、ワープロで復刻してみたいものだと思っている。

 先日、目にすることができた『大原問答談叢』といい、亀田千巌師の表現者としてのバイタリティを垣間見る。ちなみに、10月7日づけのこの雑記で書いた千巌師の自費出版『大原問答談叢』の450円という価格であるが、昭和30年の国家公務員の初任給を調べたら8700円なので、現在の物価に換算したら1万円くらいになる。千巌師の偉業をしれば妥当なあたいとは思うが、当時どれほどの人がこの本を手に入れたのだろうとも、ふと考えた。

 物の値打ちなどは人それぞれ、世の中が不景気になれば生活防衛のために一円でも安いものに人の目がいったりもする。そのくせ実に下らない物に大金を払ったりする。
 モノの値打ちなどというのは……

 ヒゲで男の値打ちが決まるものもないだろうから、ぼくのヒゲはしばらくこのままにしておこう。
(2005.10.29)

【シラミの旅】
 この雑記の二段下9月29日に書いた『そらたね囃子』のことが新聞記事になった。京都新聞・電子版でネット上でも見られます。

 話はかわって、ある小学校でシラミが繁殖しているらしい。
 我が子がシラミに要注意と学校でいわれた父母は、薬屋で「スミスリン」というのを求めることになる。これは、シラミがいそうな子どもの頭にブッかけて、しばらくおいて、そのあと洗い流すとシラミが駆除されるパウダーやシャンプー状の薬品である。
 こんなものは、そうそう数多く在庫しているモノではない。ふだん大型ドラッグで買物をする母親も、我が子にシラミがわいたなんて恥じだから地味な人目につかぬ当店みたいな薬屋にやつてくる。

 そんな方の対応をしながら、明治・大正の壮士演歌師・添田唖蝉坊が関東大震災のころ、「流浪の旅」の替歌として作った歌「シラミの旅」を想う。

 1960年代後期に高田渡がアメリカ民謡「ワーバシッュ・キャノンボール」のメロディにのせてリサイクルしたのが「シラミの旅」……シラミの人生の苦難を歌ったこの歌を聴くにつけ、

 公衆衛生上、シラミは害虫といえど可愛いもんじゃないかと思う。どうも、ぼくは薬屋失格だな。  (2005.10.11)

【大原問答談叢】
 10月23日の「そらたね祭」をひかえて、メイン会場の新大宮・唯明寺の和尚・亀田晃巌さんとはこのところ、よく顔をあわせている。

 その和尚が、寺の書庫を整理していたら出てきた本なので目をとおしてくれと一冊の本を貸してくれた。
 ハードカバーで300ページ以上はあるシロモノ。「大原問答談叢」

 晃巌和尚の祖父・亀田千巌さんが1955年に自費出版されたご本である。この年は京都市の上京区から北区があたらしく分区した年。奥付も「北区紫野門前町」となっている。
 値段は「四百五拾円」とある。当時の物価でいかほどであろうか。

 さて、「大原問答」とはその昔、他力浄土門の法然上人(ほうねん・しょうにん)が、叡山・高野山などの自力聖道門の高僧たちと、京は大原の地で丁々発止(チョウチュウハッシ)の宗教論争をくりひろげた話。

 この話が、講談・浪曲・落語のルーツで、語り話芸をもって教化の方とした「節談説法(ふしだん・せっぽう)」のネタとして流布していたのを、亀田千巌師が研究・整理して50席の話にまとめたのが、この本。
 仏教大学の関山和夫先生の「説教の歴史」にこの本の存在は書かれているが、お目にかかるのははじめて。

 「節談説法」は長い歴史をもちながら、明治期には芸能まがいと本山より排斥されたこともあって、ぼくの友人の真宗寺院の坊さんは、おばあちゃんの時代には説教者がくると、「節をつけて、やつてくれるな」と言ったものだった。と言う。

 この千巌師のご本、すべて、語って聞かせる言葉で書かれて、ずんずん物語の世界にひきこまれる。
 宗教問答の話なれど、話のところどころで、中国の「水滸伝」の花和尚や黒旋風のキャラクターのごとき、法然上人のお弟子・鬼の熊谷蓮生坊の大暴れもあり、読み手・聴き手をあきさせない。

 例えようはむずかしいが、今で言えばさしずめ「古典落語集成」といった趣きの本でもある。
 いやはや、貴重な本をお借りした。

 千巌師は1964年まで生きてござったが、ぼくが子どものころ唯明寺の日曜学校へ行くと、太平洋戦争の中で、生き延びたご縁・ありがたさを、千巌師が童話ふうに聴かせてくれた。
 その話の中の空襲・空爆の悲惨なありさまを表現するくだりは、今でもなんとなくおぼえている。

 さても今、新大宮界隈の草莽市井に連なって、七転八倒の日々のぼくに
 「これがわかってくれる豪さんに、読んでくれ」と亀田千巌師の孫・晃巌和尚と出会ったことは、何かのご縁とも思う。ありがたい。ありがたい。 (2005.10.07)

【ビックバンド】
 昨夜はギターを肩にしょって自転車で大宮通を下り、ライブハウス『拾得』へ。かねてより練習してきた『そらたね囃子』のレコーディング。
 二週間ばかり前の初練習の時は準備の悪さに、どうなることかと心配していたけれど、この日はディレクターをつとめた亀井さんもよくやってくれた。終わりよければすべて良しという感じ。もっとも『そらたね祭』本番はこれからであるけれど。

 『拾得』のマスター・テリー寺田氏は、前日は叔父上のお葬式で九州に帰っていたが、トンボ帰りして、約束どおり、休みのライブハウスをあけて、レコーディングのオペレーターをつとめてくれた。

 『そらたね囃子』のユニットは、『出前チンドン』からクラリネットの熊野さん、チンドンの大西さん、アコーディオンの岩瀬さん、北欧のニッケル・ハルパというバイオリンとハーディガーディの中間の民俗楽器を弾く中島さん。
 アカペラ・グループ『クレフ』の安藤さん、鵜飼さん、館さん、満重さん。このうち安藤さんと鵜飼さんが、ぼくとともにメイン・ボーカル。
 さらに和太鼓『ドン』の藤田さんがアンデスのボンボで参加。他にも『ドン』から佐々木さん、OBの岡田さん、それから、琉球音楽を得意とする『きじむなぁー』の青木さんがコーラスに参加してくれた。ギターのぼくを加えて、総勢13名での録音。

 オフノート・レーベルで仲の良い、ひがしのひとしと小暮はなコンビも、ようすを見にきた。

 予定どおり午後9時までに、いくつかのテークを収録。若さあふれるビッグバンドとの共演で元気をもらった。

 不景気なご時世に、この歳で音楽をやっていると、これがぼくの存在の証しだと思っても、童話「アリとキリギリス」の冬のキリギリスになったような、後ろめたい気分になったりもする。でも、音楽をやっていることがありがたいと思える日も、たまにはある。  (2005.9.29)


【飯沼二郎さん逝く】
 今朝の新聞に飯沼さんの訃報。享年87
 はじめてお会いしたのは1969年、京都ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)の集会、デモだったと思う。飯沼さんは京都ベ平連の代表をされていた。生意気だったぼくたち若造にもちゃんと応対してくれる信頼できる大人が、鶴見俊輔さんと飯沼さんだった。

 『七夕コンサート』は、ベトナム戦争の戦災孤児たちのチャリティではじまったのだが、何年目かの『七夕コンサート』の準備会合で、ぼくたちシンガーに、チャリティなど売名行為だと頭デッカチな連中から批判が出た時、とりなしたくれたのは飯沼さんだったと記憶している。

 その後も軍部独裁政権下の韓国で金大中氏が投獄・死刑の危機に「高島屋」の前で抗議のハンスト。小中学校においての『君が代』強制反対の住民監査請求と訴訟など、京都の市民運動に常に飯沼さんは積極的にかかわっておられた。週に一度のキリスト教会への礼拝をかかさず、日曜日の集会にも礼拝をすませてから参加されるというあつい信仰もつらぬかれた。ものごしはおだやかだけど凛とされた先生だった。

 飯沼さんが京大の教授だというのは知っていたが、ご専門が農業経済学だと知ったのはずいぶん後になってからだった。先生の喜寿の祝いの会に参加させて頂いたら、少品種大量生産の農法より江戸期のその土地々々にあった農法を推された著書を頂いた。

 数年前、銀閣寺の疎水ばたで散歩中の飯沼さんに偶然おあいして、近くの石づくりのベンチに腰をおろしてお話させて頂いた。
 江戸時代の本草学者・飯沼慾齋というのは先生のご先祖ですかとお聞きしたら、それはちがいますよと笑っておられた。思えば、市民運動の場をはなれて、小一時間もこんな話をうかがったのはこれがはじめてのことで、そして最後になった。

 飯沼さんから頂いたご本に、江戸期には、こういう季節にはこういう作物をそだてよ。というのが各地で唄になって伝承されたと書いてあったが、それが具他的にどういうものであったかを、こんど飯沼さんにお会いしたら尋ねようと思っていたが、かなわずじまいになった。

 飯沼先生のご冥福を (2005.9.25)

【チラシとフライヤー】
 前回の雑記で、70年代の音楽関係のイベントのチラシの話を少し書いたけれど、ぼくらが「チラシ」と呼んできたものは、最近の若い人は「フライヤー」と呼んでいるのに気がついたのは、2003年の新大宮での第一回「そらたね祭」の準備会で、学生さんと同席した時だった。

 そういえば、いま京都新聞で連載している『葉っぱ&豪の往復書簡/京・歌・フォーク』でも、相方の葉口英子さんが「フライヤー」と原稿に書いていて、少し違和感があるなと思っていたら、新聞に掲載された時は「ビラ」になっていた。
 葉口さんは「オーディエンス」という言葉もよく使う。ぼく自身の原稿を見直してみると、「聴き手」とか「聴衆」「お客さん」の三つくらいを使っている。

 ぼくが「オーディエンス」という言葉をつかわないのは、テレビのみのもんた『クイズ・ミリオネア』の真似事はしたくないとか、そんな理由ではない。たんに、原稿の限られた範囲で、長い字数の単語を使いたくないだけ。……と、言いつつ、なるべくカタカナは使いたくないのかも知れない。

 商店街では、年配の方はもとより、お若い人だって、「チラシ」「ビラ」というのが通例だ。ひょっとすると、若手のクリエイティブなお仕事(?)をなさるかたが、自分たちが出すものを、商店街の売出しの「チラシ」「ビラ」のたぐいと同じに扱われるのが不本意なので「フライヤー」と言い始めたのかも知れない。

 ことわっておくけれど、「そらたね祭」に集まる若い衆は、そんなことなど意識せずに、すでに「フライヤー」を常用語にしている。

 なにはともあれ、「そらたね祭」の実行委員の主体である学生さん側の今年の「フライヤー」ができる前に、後援する商店街側からの「チラシ」を、昨日と今日の暇をみつけて仕上げて、商店街事務所へ印刷にまわした。

 金も時間もかけないから、ぼくが作ると、やっぱり「チラシ」なんだな。(2005.9.22)

【ハリヨの夏】
 出町「ほんやら洞」の甲斐さんの紹介で、矢内さんという方が昨日は訪ねてきた。彼女は映画撮影の美術担当。

 中村真夕という新進の監督が『ハリヨの夏』という映画を柄本明、風吹じゅんの主演で撮る。撮影には出町「ほんやら洞」も使うが、ついては、往年の雰囲気をかもすのに、昔のポスター、チラシなどを壁に貼りたいので、借してほしい。というのが美術担当の矢内さんの来訪の目的。

 70年代の京都で催された音楽関係のイベントのチラシは、30冊くらいスクラップしてあるけれど、ポスターは、自分のかかわったものしか保存してない。ポスターの保存はかさばるだけでなく、収集も手間がかかる。それにポスターの制作に金のかけられるイベントというのは昔は限られていたから、チラシのほうが、網羅的な収集の意味があるとスクラップしていた。
 80年代になると手作りのチラシが少なくなって、こっちも三十過ぎて、熱意がうせてやめてしまった。

 東京から来る輩は時々すごく高慢チキなのがいるが、矢内さんはベッピンさんではないが第一印象が好もしかったので、「こんなものでお役に立つなら、お貸ししますよ」と選んでもらった。使えそうなのを17点ほど持ち帰られた。
 使われたとしても映画のクレジットに提供者の名前はでることはないだろうから、昔の『七夕コンサート』のポスターなどもお貸しした。

 というわけで、あいかわらず稼ぎにならない千客万来の今日このごろ。 (2005.9.18)

【チンドン】
 今宵は、前回の雑記に書いたように「そらたね囃子」のレコーディングのための練習に立命館大学へ出向いた。

 予定された学生会館の練習場所へ行ってみたら、和太鼓「どん」の藤田さん、『出前チンドン』のクラリネットの熊野さんとチンドンの大西さんの三人の学生さんだけ、歌詞カードなども事前に配布されていると思ったら、それすらない。レコーディングにはライブハウス「拾得」とそのマスター・テリーがほとんどボランティアで協力してくれているのも聞かされていない。今日のコーディネートを担当しながら、今日は欠席という学生には、少しあきれた。

 でも、せっかく集められた三人のためには、精一杯セッションして、レコーディングへのモチベーションをたかめてもらうようにした。
 
 今宵、出向いた立命館大学に、20年前デキシーランドジャズをやっている学生さんたちがいて、彼らと京都は出町商店街「第一回・出町祭」のおり、チンドン屋のマネゴトをした。その時の林幸次郎・ジャージ川口・小林信之が、今や衆知の大阪『チンドン通信社』になって、今でも「豪さん」としたってくれて、ぼくの『なのりその森 ふうの街』にもクラリネットの小林さんが参加してくれた。……その立命大のチンドンの末裔・後輩が、、『出前チンドン』の熊野さん・大西さんというわけか。

 彼らと9月25日(日)、今度は我が店の前で、公開練習をやる。(2005年9月16日)

【こんなホームページが】
 台風で延期になっていた地元・紫野高校の学園祭の仮装行列が昨日はやってきた。一昨日は、10月23日に催される「そらたね祭」のテーマ曲「そらたね囃子」のレコーディングの打ち合わせに立命館のカメちゃんと藤田君が来店。その前の日は北区青少年活動センターに集まる学生さん六人が来店。商店街をテーマに何か活動したいというので相談を受ける。

 店の売上に直接つながるわけではないが、こういう人たちの来訪は店が華やいで、ありがたい。個人経営の薬屋というのは何か病気でもしたとか、そういう目的がないと入りづらいので、いろんな人が気軽に足を運んでくれるのは良い。

 学生さんの熱気が店にあふれていると、痔の薬だとか妊娠検査薬、コンドームなどを求めに来られる人には、少しはばかられるだろうが、ごかんべんを。

 そんなわけで、なかなか店を離れるわけにもいかず、若狭湾へ水中写真を撮りに行くことなどは、なかなかかなわない。
 若狭湾の水温変化などは第八管区海上保安庁のホームページなどでチェックしている。テレビドラマの『海猿』などは刑事ドラマばりにアクションも華やかだけれど、このサイトを見ているともっと地味な仕事のほうが多いのがわかる。このシーズンから「巨大クラゲ情報」という情報提供がはじまった

 巨大な「エチゼンクラゲ」の大量発生は、最近ではテレビでもよく話題になるのでご存知の人も増えたが、ぼくがはじめて遭遇したのは2002前の秋。その時の写真は、「なのりその森」にあるのでご覧を。 (2005.9.10)
 
【畚と求肥】
 高校の先輩でカメラマンをしている神谷潔さんが来店。ふだんは仕事で観光用の写真などを撮っているのだが、ライフワークで京都の「地蔵盆」のようすを全町内を網羅すべく何年もかけて撮影していて、今年はうちの界隈をめぐったらしく。その帰路に立ち寄ってくれた。
 市内の各町内をすべてといっても、地蔵盆は一年の決まった時期にしかないから、一日数ヶ町を自転車でめぐってもたいへんだ。上京区と北区は、なんとか納得できる写真が撮れたらしい。

 「北区でも『フゴおろし』をやってる町内がまだ何ヶ処かあったなぁ」と神谷さんがいう。
 ぼくの子どもの頃は我が町内でもこれやっていた。地蔵盆の会場と近所の町家の二階とに紐を渡して、こどもたちが自分の番号札を紐に吊るしたカゴにいれると、カゴはロープウェイのようにスルスルと二階家に上がっていき、しばらくすると番号札とひきかえに景品がカゴに入れられて降りてくる。どんな景品が降ろされてくるか楽しみでみんなワクワクした。地蔵盆のハイライトだった。
 あのカゴがフゴ(畚)で、この地蔵盆の慣わしを『フゴおろし』と呼ぶのを知ったのは、つい最近のことだった。こどものころは、たんに『福引き』としか呼んだ記憶がなかったし、ぼくが世話役をつとめられる大人になったころには、こういう手の込んだ「福引き」は我が町からなくなっていた。

 神谷さんとその話をしていて、そういえば先日もこの『フゴおろし』という言葉を何かで目にしたなと思い返した。たしか、辻ミチ子さんの『京の和菓子』(中公新書)に出ていたはずだ。この本でも、こどもの頃から見知っていながら固有名詞を知らなかったものに、一つでくわした。
 『ギュウヒ(求肥・牛皮)』。甘党の人から「お前、そんなモンも知らんかったのか?」とおこられそうだが、この歳になるまで、あの和菓子でつかわれる白くてプルン、プルンのものを『求肥』と呼ぶのだと知らずに味わっていた。
 いぜんから、その言葉は耳にしていたのかもしれない。けれど例えば、茶のみ友だちと
 「この中のギュウヒの歯ざわりといい、おさえた甘さといい、たまらんねぇ」
 とか、語らって一服する余裕が我が生活になかったのか、
 あるいは進物に和菓子を頂いた礼状に
 「過日、頂戴いたしました……、なかの餡とともに、ギュウヒなどもやさしい味わいにて……まこと、ありがたいものを……」
 なとどしたためる機会がなかったのか、ついぞ、このモノを表す固有名詞を知らずに暮らしていた。

 ガサツな人生だったから、ことほど、まだまだ知らないことがたくさんあって、毎日が知る楽しみにあふれていると思うと、金がなくとも……というところだろうか。  (2005.8.23)

【花背の松上げ】
 昨12月にコンサートをやった花背第二中学の山本校長先生から、『松上げ』を見に行きませんか?と突然のお誘いをうけた。昨晩は店を早仕舞して、山本先生の車に美千子と同乗させてもらって、その『松上げ』見物に行ってきた。

 車で1時間、途中で激しい雷雨にみまわれたが、松上げがはじまるころには雨もあがった。地域の男たちによって河川敷の千本の松明が灯され、そして鉦と太鼓に合わせて中央の高さ20メートルの大松明に、火のついた「上げ松」を次々に投げ上げる。運動会の玉入れとちがうのは、男衆は自分の「上げ松」二つを何度も投げ上げる。玉入れよりは砲丸投げに近い。
 ヒノキ柱の上の竹カサに「上げ松」が命中して火の粉が散るたびに、対岸のぼくたちは拍手を送った。最期に大松明が火の尾をひきながら倒されると、大地も人々もどよめく。

 火の神・愛宕さんに五穀豊穣などを祈願するこの行事は、昔は若狭街道ぞいの村々にあったらしいが、今はここ花背八枡と、広河原、久多に残る。長い間、京に住ながら、ぼくも美千子もはじめてみる火の祭。
(2005.8.16)
【ひさびさの嗄声】
 新大宮「夏祭」も終え、八月の最初の週末は伊勢への墓参り。帰路は松阪市「KACCYO-BUU」でライブ。その夜あたりから咽喉の痛みがあったのだが、次の日は声が嗄れていた。連日の暑さで、エアコンの中にいることも多く、どうも体調をこわしたようだ。
 それから一週間、まだ本調子とはいかぬが本来の声をとりもどしつつある。咽喉痛や声嗄れはつらいのだけれど、神さま・仏さまの「しばらく休め」というおぼしめしと、この状況を受け入れていた。

 とはいえ、店には咽喉の不調や声嗄れに良しとされる漢方薬が何種類かあるので、こういう機会には自分で何種類かためしてみる。
 「駆風解毒湯(クフウゲドクトウ)」とか「響声破笛丸(キョウセイハテキガン)」は一番マニュアル通りで、この次に使われるのは「麦門冬湯(バクモントウトウ)」と「半夏厚朴湯(ハンゲコウボクトウ)」がとおり相場だが、細野史郎さんの「方証吟味」という本にあった「八味地黄丸」加「麦門冬湯」のうち、ぼくの証にはあわない「附子」を抜いて「六味地黄丸」として、これに「麦門冬湯」を加える処方でいく。
 もうひとつ、「小柴胡湯加桔梗石膏(ショウサイコトウ・カ・キキョウセッコウ)」と「六味丸」の組み合わせや、「麦門冬湯」を「滋陰降火湯」に変えることも考えてみたが、ロクミとバックモンでいって効いている。

 ここまでなら薬屋の常なのだけれど、もう一つの歌い手根性が頭をもたげる。声が嗄れると、それをいいことに、ブルースだとかゴスペルをハスキーにシャウトしてみたり、浪曲の一節をダミ声で唸ってみたり、試してみる。ぼくは昔からそういう声がでないのでコンプレックスをもっていて、この機会に、うれしがってやってみるのだ。それで不調を長びかせる。

 とんでもない「声」の夏休みでありました。まぁボチボチ、今日あたりから元の声へのリハビリにつとめよう。(2005.8.15)
 
【カメラ考】
 今月末30日の新大宮商店街「夏祭」をひかえて、名物・手作りゲームの制作作業がはじまった。昨宵は新大宮青年会に、秋の「そらたね祭」の仕掛人の学生さんも加わって工作物のペンキ塗り作業。総勢20人あまり。

 こういう時は、みな作業に熱中しているのだけれど、多少さめた目でカメラで記録している人材が必要だと前々から思っている。
 いぜん、「夏祭」のスポンサーとして協力してもらったところから、記録写真をそえて収支報告を求められた実行委員会が、「だれか写真を撮ってないの?」と大あわてしたことある。「夏祭」にかかわる面々は担当していることで精一杯だから、悠長にカメラ片手にブラブラとは、なかなかいかない。

 この街の若者の活動は記録にするのに十分価値はあると思っているけれど、そういう記録の意味など考える余裕のないドタンバ・修羅場の気分で、みんなが生き生きしているのが、また良い。
 そんなわけで結局、ぼくが作業の合間をぬって適当に写真を撮っている。
 まぁ年々、力仕事などキツくなるから、いずれこういうのだけがぼくの役になるのかも知れない。

 カメラ片手に帰ってきて一杯の寝酒をやりながら、ふと知り合いのフォーク歌手たちのことを思った。
 東京のシバというブルース・シンガーは京都へ来ると、よく我が家へ立ち寄ってくれるのだが、彼はいつもギターといっしょに愛用の古びたライカをぶらさげている。
 ライブの翌日、シバと京の古寺を散策しながら、
 「おたがい歳だから足元がおぼつかなくなる。つまずいたら、そのカメラ……ライカ・わぁ・ローリングすとん」だぜとか、かつての名曲にのせて軽口をたたく。

 四月に逝った高田渡は昔、ハッセルブラッドというカメラマニア垂涎のシロモノを手に音楽雑誌の表紙を飾っていた。
 大阪のお笑い社会派歌手・岡本民はオリンパス・カメディアにコンバージョン・レンズなど周辺オプションを揃えてると思ったら、自分のホームページで写真日記など公開していて、オリンパスの他にも怪しいカメラをコレクションしている。
 その岡本民と最近、意気投合している田中研二はキャノンの一昔前の一眼レフに何種類かの交換レンズを持っていたように思う。

 みんなけっして裕福でないのに、こういう趣味をもっている。江戸時代の文人画家というか、茶人のオモムキである。

 ところが、「七夕コンサート」出演の友人四人……ひがしのひとし・三浦久・豊田勇造・中山ラビは、あんまりこういう趣味の話はきかない。なんとなく「歌ひとつ」に必死で生きてきたって感じなのだ。四人のそういう一途なところが、「七夕コンサート」の緊張感を生み出してきたともいえるが、そんな感覚からズレているのが、もしかしたらボクの芸風なのか?などと寝酒をやりつつ考えた。(2005.7.21)

【チヂミの試食会】
 「七夕コンサート」が終わると、今度は7月30日に新大宮の「夏祭」がひかえている。「夏祭」のほうも今年ですでに23年目だから、結局ぼくの7月はこの二つのイベントを中心に暮らしてきたことになる。

 昨日の閉店後は夏祭実行委員会に出席。今は商店街だけでなく界隈の各種団体や公共諸施設のスタッフも参加する北区の祭として認知されるまでになった。ぼくも三丁目代表として実行委員会に顔を出しているだけなので気楽なものだ。実行委員の顔ぶれには、1982年に「夏祭」を立ち上げたころの苦労を知る人は一人もいなくなっていたが、それが良いんだと思う。

 その実行委員会での調整をうけて、今日は閉店後、向かいの美容室「スリム」さんの二階にて、三丁目倶楽部の月例会。「夏祭」の当日に三丁目の盆踊り会場で販売することになった韓国風お好み焼き・チヂミの試食会もかねた、なごやかな会。

 「ゴマ油のニオイが、お客さんを誘い込むので良いね」「薄力粉にタマゴ入れすぎるとパリッとした食感が出ない」とか……「これ100円にする?」、「これに、ニラの他にどんな具をいれる?」「割り箸はつける?」「いや、それはゴミを増やすだけや」……とかマァ、商店街の五十歳半ばのオッサン・オバハンの学園祭のようなノリが、他愛もなくて、この不況の御時世にすこぶる愉快なのだ。

 「夏祭」を最初に立ち上げたころからは、このイベントの文化的意味合いなどというのは薄れたが、それで良い。
 昨晩の実行委員会にも参加していた「10月・新大宮・唯明寺・そらたね祭」を運営するエリチィン。その「そらたね祭」のテーマソング「そらたね囃子」のレコーディングに頭をひねっているカメ。そういう若い世代からコンタクトがある。次に新大宮という空間を有効に利用する人たちがいる。

 「夏祭」「そらたね祭」……それら準備のアタフタの末席に、ぼくは居られて、幸せである。
   (2005.7.12)

【七夕コンサート05終わる】
 33回目を迎えた『七夕コンサート』を無事終えました。
 初日のようすは、神戸のMIYAさんがさっそく下記のURLにアップロードしてくれたのでご覧ください。
  http://www.rengo.net/tanabata/2005/tanabata2005.html

 毎年、五人の仲間の出演順は開演前に公開抽選するのがならわしなのだけれど、初日はMIYAさんの写真にあるとおり、ぼくがトリ。二日目のクジ順は、逆にぼくがトップバッターをつとめることになり、つづいて、ひがしのひとし、中山ラビ、豊田勇造、三浦久。
 今年は、なんとなく全員が神妙なステージで、いつものお祭気分は少なかったが、こういう雰囲気の『七夕コンサート』もあっていい。33年もつづいていると、その年の五人の歌へのモチベーションのありようで、全体のステージに微妙に変化がつく、それが唯一の演出になってきた。

 ご参加くださった皆さま、会場「拾得」の皆さま。情宣に協力してくださったメディアの皆さま。ほんとうにありがとう。来年もつづけられますように。   (2005.7.11)


【七夕を前に】
 七月に入ってから、やっと梅雨らしくなった。新大宮三丁目では七夕飾りをして、お客さんに短冊など書いていただいている。

 先の日曜日には、詩人の有馬敲さんたちの「京都詩話会」の総会に招かれた。有馬さんの詩を歌っていた高田渡さんを偲ぶということだった。
 四月に亡くなった渡さんは京都にもゆかりの人はたくさんいる。ぼくなどが歌うより、こういう主旨にふさわしい人が他にもいるので、ぼくなどおこがましいと、お断りしたのだが、最近の有馬さんのつきあいの範囲のうちうちの会のようなものだというので、それならというので出席。
 渡さんのおつれあいだったフミさんが、ご母堂の法要で京都へ帰っておられて、たまたま新聞の告知をみてこの会に出席されていた。お会いするのは三年ぶりくらいだろうか。くだんの有馬さん作詞、渡さん作曲の「変化(値上げ)」など数曲をぼくは歌わせて頂いた。
 肩肘はって歌うのはよくないと、渡さんにぼくは力みすぎを指摘されてきたが、その遺言にそえたかな。

 さて今週は、週末の「七夕コンサート」をひかえ、閉店後は練習にいそしんでいる。予約状況はまずまず。天気のほうが少し気になるが、七夕の時候からいくと33年間、雨がふらなかった日のほうが珍しい。湿気が多いので楽器泣かせの上、歳のせいかこの気候がきつい。練習と節制は心がけるが、さて……。

 昨日は、北区の青少年活動センターのユースワーカーの田尾さんたちが、今月末の新大宮「夏祭」の件で来店。若者にひらかれた新大宮について、今後のことも含めて半時間あまり語り合う。
 
 田尾さんたちが帰ったころ、砂岸あろ女史から電話。彼女が上梓した『駱駝はまだ眠っている』(かもがわ出版)の出版記念パーティを友人が催してくれるので、そこで歌ってもらえないかということだったが、その日はどうしても都合がつかないので失礼するとお詫び。
 砂岸さんの新しい本はフィクションだそうだけれど、1970年代に彼女がアルバイトしていた同志社大学の近くの喫茶店「駱駝館」が舞台になっていて、ここでライブをさせてもらったこともあるし、「七夕コンサート」の準備会合にもよく利用させてもらった。こんど読んでみたいと思っている。 

 まだ本決まりではないが、大阪梅田の毎日文化センターの「シンガー&ソングライター講座」で10月から二週間に一度、講師へのさそいがある。「七夕コンサート」あけにでも正式に返事することにしている。

 なつかしいことと、あたらしいことが交差するなか、なんとか転がっている毎日。ぼくにとっての節目の「七夕コンサート」をまもなく迎える。 (2005.7.06)

【ひさびさの手話】
 うだるような夏日の日曜日、南区の京都コリアン生活センターで催された「大場雅夫さんを偲ぶ会」に出席した。
 
 大場さんというより、ぼくにとっては彼が文筆活動で名乗っていた藤林晋一郎というペンネームのほうがなじみなのだが、彼とは25年前、国連のよびかけた国際障害者年に、京都市の肝いりで開かれた「市民のための手話教室」に、ぼくが通っていた時に知り合った。音楽でコミニケーションできない人々もいるので手話を習ってみようなどと殊勝な気をおこしたのがキッカケだったが、耳の不自由な人々にもちゃんと豊かな音楽表現があると教えてくれたのが藤林くんだった。

 昭和30年代、彼は三歳にしてストレプトマイシンのために耳が聴こえなくなったのだけれど、ろう学校へ通わせるより普通学校で学ばせたいというお母さんの希望もあって、小・中学校、そして市立嵯峨野高校を出た。
 今でこそ障害者が普通学級で学ぶのは多くの人の理解をえているが、当時はたいへんだったろう。そして名古屋大学理学部に合格、二年後には甲南大学の教育学部に編入している。ぼくが彼と出あったのは、たぶんその数年後ということになる。

 くだんの「市民のための手話教室」での先生と生徒の関係の、藤林くんとぼくはなぜか意気投合してしまって、彼はぼくの家によく飲みにきた。こみいった話は筆談になったが、そのうちほとんど手話でコミニュケーションできるようになった。
 まだ幼かった我が家の娘たちは、手など身体表現の合い間に、「オッ」とか「ウォ、ワォ」とか奇声を発する、この不思議なやりとりをするオヤジの友だちに最初は怪訝な感じをもったみたいたが、そのうち当たり前になった。

 手話にも「スケベェ」だの「オカマ」だのボキャベラリーがあるのを彼から教わったが、彼といっしょに「階段」という歌を完成させたのは一番の思いでになっている。「階段」というのは、ポリオの障害で車イスの生活をしている大阪の斉当さんが書いた詩に、ぼくが作曲。藤林くんがこれに手話とパントマイムの振り付けを考えてくれた作品だ。

 昨年、48歳で肝臓を悪くして藤林くんは亡くなった。障害者の人権、とりわけ在日韓国・朝鮮人の障害者の市民権獲得のために東奔西走した短い一生だった。その追悼の会に昨日は出席したわけだ。
 ぼくは、腰をいためて以来、全身表現のパントマイムによる「階段」は再演したことがなかった。でも、どうしても彼への惜別をこめて、これを再演したかった。手話で話すのも、ここ10年くらいブランクがあって心配だったけれど、50人ちかい出席者の半数はろう者の方だったが、わかってもらえたように思う。藤林くんが20年以上前に考えてくれた振り付けの確かさを感じた。

 この会の案内は、ろう者のMくんからEメールでもらったが、思えば藤林くんやMくんと知り合った25前は、メールどころか、ファックスも普及してなかったな。などと、出番を終えてすすめられるままにマッコリなどを飲んで、ホロ酔いかげんで、ふっと思った。暑い昼下がり。
 (2005.6.20)

【友あり遠方より来る】
 梅雨入りしたとはいえ、京都はここ数日晴天つづき。

 昨日は、地元のラジオ局KBSでこの四月からはじまった新番組「ゆうYOU京都」の商店街紹介コーナーで10分ほどの電話インタビューに応答。このコーナーは四日連続で新大宮を取り上げるようで初日のぼくがこの界隈の歴史を紹介。二日目を商店街事務所の西尾さんがサービス情報、三日目を「銭喜金物店」の寺本君が夏祭などイヴェント情報、最終日を「かしわの玉吉」の金藤商店街理事長のやはり電話インタビューが生放送される予定。どれも午後3時40分から。

 電話インタビューを終えて一息ついていたら、外国なまりのある日本語で別の電話がかかってきた。神戸のパスカルさんからだった。
 パスカルは先週の土曜日に敬子さんと生田神社で結婚したばかり。ぼくも式への案内状を頂いていたのだが、どうしても都合で行けなかった。その結婚式のためにパスカルさんのご両親がスイスから来日していて、今、金閣寺へ観光に来ているので、ついでに新大宮の我が家へ寄りたいとの電話だった。

 パスカルの父上ガストンさんは、スイスのシンガー。もっともフランス系なのでシャンソニエというべきか。数年前オンエアされたぼくのドキュメンタリー番組をたまたま見たパスカルが、日本にも似たようなシンガーがいるというので、それをきっかけのつき合いだったが、父上ガストンさんが最初に来日された時には、ひがしのひとしと二人で共演もさせてもらった。

 そのガストンさん夫婦とパスカル・敬子の新婚夫婦がこぞって、新大宮にやってきた。ほんとうに突然なので、もてなしらしい事はあんまりできなくて申し訳なかったが、気温30℃にまでなった4時頃はまだ店も暇だったので、こちらは思わぬ再会で満ち足りた気分だった。ありがとうパスカル御一家。

 ぼくには、そういう人とのつらなりが、何にもかえがたい宝だと思える、夏日。 (2005.6.14)

【ズボラ、ラボヘ行く】
 「七夕コンサート05」の新聞社へのプロモーション用の写真は、会場「拾得」前で出演者五人が揃って前年に撮影しておいたものを使っている。
 この撮影には、ぼくの銀塩カメラを使ってきたが、実は、最近デシカメを使うことが多くなったので、昨年来のフィルム数本を現像せずにそのままにしていた。このさいだと思ってラボにだした。まるっきりのズボラである。

 商店街の近所のラボが閉まってしまったので、久しぶりに「堀口大学堂」に自転車で出向いた。高校の同期生で夭折した漫画家&シンガー・湊谷夢吉の実家「みなとや食堂」のすぐ近くのラボだ。

 「堀口大学堂」とは往年の詩人ゆかりの店かとも思う屋号だが、たぶん大谷大学の横にあるのでそういうネーミングじゃないかとも思う。そういう屋号の由来などおかまいなしに飛び込んだけれど、この屋の若主人は、現像の預かり証に「古川さんですね」と、こちらをちゃんと御存知であった。商売人というのはこうじゃなくちゃいけないが、いつもながら、ぼくはこうはいかないと小商いにむかない自分を痛感する。

 さて、あがってきたフィルムのうち、これも昨夏に美浜は早瀬でニコノスVで撮影したものを現像せずにそのままにしていたものもあって、こちらには小型のイカの群れを写したものがあった。多少ピントは甘いけれど、イカの写真はいままでなかったので、久しぶりにこのホームページの「なのりその森の一番下にアップロードした。よかったらご覧いただきたい。

 アップロードしながら、ここ最近バタバタしていて、なかなか若狭のほうへ出かけられないと、つくづく思った。暮らしに余裕がないから海へ行かないのか?海へ行かないから暮らしに余裕ができないのか?……あぁ、海がよんでる。 (2005.6.09)

【宛名書き】
 今日から六月、店のシャッターを開けて掃除をはじめたら、遊星プリントの福本さんが「七夕コンート」の案内ハガキとチケットの印刷を仕上げて納品にやってきた。
 これから連日、暇をみて案内ハガキの宛名書き作業をはじめる。

 ここ数年、市町村合併があいつぎ、そのたびに「七夕コンサート」の参加者の住所もこちらの名簿の上で手直ししてきたが、うまく届くかな。

 今年は、もう一つ気になることがあって、「七夕コンサート」の参加者で阪神地域の方も多い。もしや例のJR福知山線事故に巻き込まれた人がおられるのではと気がかりなのだけど、阪神大震災の時もそうだったが、こういうことの確認はなかなか行き届かない。案内ハガキを差し上げて失礼になるのではと思うこともある。

 何年か前、案内ハガキを送ったら、ある母上さまから「過日我が子は亡くなりましたが、生前、仲良くして頂いて」という旨の丁重なお手紙を頂いたことがある。そういうこともあると、やっぱり手書きで一枚、一枚宛名を書いてきてよかったと思う。

 今年も、もうじき「七夕コンサート」の案内ハガキが届くはずである。よろしく。(2005.6.01)

【七夕コンサートの準備】
 今夏の第33回「七夕コンサート」の案内ハガキなどは、今月末には印刷屋さんからあがってくる予定で、例年どおり本番一ヶ月前には発送できそうだ。
 それに先行して、チラシとポスターだけは商店街で印刷させてもらって、ぼくの行き先でボチボチ配布をはじめている。

 デザインはここ数年同じイラストを使ってかわりばえしないのだけれど、例年「これは、どういう人たちですか?」と聞かれる。自分たちは知ってて当たり前と思っているのだが、一番有名なはずのラビちゃんだって知らない人がいるのが広い世間。
 それで、出演者五人の名前の上に短いキャッチコピーを入れた。まぁ「ロック界の巫女」、「語り唄の旗手」、「無頼のシャンソニエ」「熱血ブルーズマン」だから、つきなみで、よけい分かりにくいかもしれない。

 こういう時に一番困るのが自分のこと。まぁ、どうでもエエわと「戯作・郢曲の徒/古川豪」と書いた。実は、「七夕コンサート」のお題に使おうと思っていたのだが、ここ数年、「杜撰(ずさん)」とか「諫鼓鶏(かんこどり)」とか中国故事がつづいているので、没にしたのが「郢曲(えいきょく)、中国の春秋時代、楚の都・郢(えい)は卑俗な音曲がさかんだったので、俗曲一般をさして「えいきょく」というのは、たいがいの国語辞典には出てくるので、ご覧あれ。

 ともかくこれで、さらにわかりにくいチラシになってしまった。(2005.5.22)

【長浜・犬山・名古屋】
 久々に京都の外へ歌いに出かけた。
 本来なら、ライブをする愛知県犬山へ直行だが、少し早めに出発して米原駅で途中下車、この夜の主催者、犬山の小川彰さんと待ち合わせをして滋賀県長浜に立ち寄った。

 まず、長浜の職人町に『若松屋』という店を構えて和ローソクの製造販売をされている北村さんをたずねた。以前、北海道今金の歌う僧・阿知波一道のライブで知り合った方で、おりしも和ロウソクをつくっておられる真っ最中だったが親切に応対してくださつた。この職人町界隈はなんとなく京都西陣の雰囲気と似ていて親しみがもてた。あまりお邪魔をしてもいけないので、すぐ失礼した。
 長浜で寄り道したもう一つの目的は、大手門通と浜京極の辻にある喫茶『こめか』さんをたずねることだった。ママさんとは大学のころの友人で、この浜京極の辻をはさんだ向かいにある『京極寿司』さんの娘さんだったけれど、数ヶ月前たまたま京都で再開して、「いちどお越しください」という言葉に甘えさせて頂いた。学生時代に彼女と仲の良かった神庭さんが亡くなられたことや、町田宗鳳が有名になっちゃった話とか、軽い食事をとりながらだったが、同行していた小川さんには少々退屈だったかもしれない。
 翌日の名古屋では、これまた30年以上音信不通だった島津通さんがライブに駆けつけてくれたりと、今回は旧交をあたためる小旅行ともなった。

 土曜日、三時ころ犬山到着。この町で小川さんが経営する町家喫茶『ふう』では三年ぶり三回目のライブ。夜のライブまで少し時間があるので小川さんの自転車をかりて犬山を走ると、あちこちに犬山祭の山車の収蔵庫がある。
 長浜も山車の上で子ども歌舞伎が演じらる長浜祭が有名だが、こちらの山車はカラクリ人形が飛騨の高山祭とともに有名だ。
 そのカラクリ、唐子人形が乱杭渡り(らんぐいわたり)を演じる山車「真先車」をかかえる小川さんの御町内の「永代帳」を拝見させてもらったが、山車の修復などに愛知県と犬山市の補助金が出るものの、予算の六分の一は町内だそうだから各家の物要りは大変だろう。そんな中でぼくのライブなど主催してくれる小川さん夫婦には頭がさがる。

 各地でライブを催して下さる方の家は、言葉は適当でないかもしれないが現代の『善根宿(ぜんこんやど)』のようなところがあって、とりわけその家のお女将さんは切り盛りに負担が大きい。太っ腹で肝っ玉カアさんでないとつとまらない。そのせいか、はじめて小川さん夫婦に出会ったころより、お女将さんがスケールが大きくなられ、逆に旦那のほうはスリムになられたように思えた。

 犬山も長浜も城下町。おなじようなコンセプトで町興しをしているようみえて、犬山の風情は我が父祖の地・伊勢河崎の今にも似るが、それぞれの気配(けはい)がちがうのが良いし、これからもそうあってほしい。

 この夜のライブは、顔なじみの各務原市の佐伯さんや岐阜白川町の亀山さんなど以外にも小牧、桑名からもお客さんが駆けつけて下さった。
 翌日の名古屋のライブには、豊橋、岐阜市、三重の多気からも聴きに来てくださった。ありがたいこと。名古屋は東別院の近くに春に開店したばかりの有機野菜の料理などを食べさせてくれる『バオバブ』が会場。主催者でここのママさんは薬剤師とのこと、これもご縁である。余談なれど『バオバブ』の近くの街路樹は北米原産の五裂葉の「ふう」の樹。両日「ふう」とも縁があったことになる。

 いろんな人とのご縁を感謝する気持ちで、ここ一年ばかり歌うことが多い。するとキバった感じが抜けて、なかなか気持ちよく歌えるようになった。30数年かけて、ほぼどんなお客さんにも満足いただける歌のメニューがそろった感じもする。この両日のライブも二時間タップリやらせてもらった。

 そういうふうに、まぁ歌のほうは調子が良いが、フットワークがどうも悪い。ギターとバンジョーとリュックをあわせれば小さな大人一人背負っている勘定。それに先に書いた『現代の善根宿』の役割をはたしている各地のライブハウスの経営的苦戦も伝え聞いている。だから、無理にこちらから売り込むことには、おっくうになる。
 次に京都の外へ出かけるのはいつのことになるのか分からない。
 でも時々は、歌をとおして人々とのご縁にふれるのは良いことで、また自分の町のありようを振り返るのにも良い機会だったと思える、そんな気分を胆嚢させてもらった愉快な二日間でした。出あった皆さん、ありがとう。  (2005.5.17)

【バタバタ】
 週末に犬山、名古屋へライブに行くので早々と新聞連載の次回原稿と挿絵を入稿。
 左の如く挿絵はエノケンと植木等。フォークをめぐるエッセイなのだが、ぼくの原稿のほうは、こういう二人が登場したり、清少納言「枕草子」、後白河法皇「梁塵秘抄」が出てきたりと、多少フォーク論議をはぐらかしているような気もするが、まぁ、いいか。
 ぼちぼち「七夕コンサート」の準備もせねば。
(2005.5.11)
【仮店舗】
 新大宮商店街の北部街区に「三浦利休園」さんというお茶さんがあって、ここのご主人・雅ハンは商店街に最初に青年会をこしらえた御仁。その雅ハンが店の建物を建て替えるというので、今月からしばらく、我が三丁目の開き店舗になっていた処で仮店舗を構えることになった。

 こちらにすれば、雅ハン親娘もよく知った仲だし、開き店舗が埋まったほうが良いのだけれど、ぼくの店の南隣は、これまた「いなだ」さんというお茶とお豆を商うお店なのである。

 二軒、同業の店が並んでいると、「消費者」という立場で考えると手近なところに選択肢が増えて良いとか、互いに店が競い合うので「消費者」にとっては漁夫の利をえられて良いと思われるかもしれない。けれど、別のところで買った商品をさげて、もう一軒の店の前は通りづらいという、人の情というのがあるのは、京都特有だろうか。
 長ネギや大根は買物袋からはみ出るが、帰り道で土生姜を買い忘れて他の八百屋に入るのを皆さんは少しためらいませんか。

 実は、商店街が衰退し始めると、この心理が衰退に拍車をかけるといわれている。どういうことかというと、商店街がゴッタ返していると人ごみにまぎれて、どこの店の買物を持ち歩いていても、他の店の目に気をつかわなくてすむ。ところが、商店街が閑散としてくると、買い物客は各店の目にさらされることになるので、買物をすませたお客は商店街をさけて横丁を通って帰るので、ますます人の回遊が少なくなるというのである。

 ほんとうは、人通りがあろうがなかろうが、誰がどこのお店のお馴染みさんかくらいは、お店の人はちゃんとお見通しである。
 よくお客さんに「あんたの店でしか買物せえへんのやから、勉強しといてや」と値切られる場合があるけれど、こういう手合いに限って、よそでも同じことを言っているのはバレバレなのである。
 それでも嫌な顔をしないのが商人というもの。ぼくは「このウソつき」ってすぐ顔に出してしまうので商人失格である。まぁ、ドラッグストアでテッシュを買っても、帰りに当店で薬を求められる人もいるので、そうそう仏頂面ばかりはしておれないが。

 さて、そういうことなど考えさせられ、心配をしたのをよそに、「いなだ」さんも「三浦利休園」さんも老舗の余裕というか、お得意さまを手堅くもっておられるので、今宮祭がはじまったこともあって、なんとなく三丁目を通る人も増えたようにも思う。     (2005.5.08
j
【休み明け】
 世間がゴールデン・ウィークとて、なかなか休みがとれないのが小商い。でも昨日だけはお休みをさせて頂いた。
 今朝は、臨時休業を知らなかった方が、「きんの(昨日)、せっかく寄せてもうたけれどお休みどしたんやね」と朝から数人来店くださる。うれしいもんである。

 世の中、せちがらくなって、また辛いニュースがとびかうと、ぼくの性格や年齢もあろうけれど、どうも人生なげやりになる。商店街に暮らしていると、人間の良いところも悪いところもストレートに伝わってきて、こちらがネガティブだと、滅入ってくることもしばしばだ。でも、こちらの気分をポジティブに切り替えてくれるスゥイッチの役割をしてくれるのは、実は、商店街の人々であり、お客さんである。

 今の日本、そういう気分をポジティブに切り替えてくれる人間関係……家族、地域、仕事場がどんどん失われているような気がしてならない。

 昔風の商店街に店を構えて、今年も五日よりの今宮祭を迎えられそうである。ゴールデン・ウィーク中の休みが一日しかなくとも、ありがたい。ありがたい。  (2005.5.04)

【続・苦肉の策】
 昨晩つらつら考えたのだけれど、今回はあんまり気乗りがしないので、下記の挿絵は没にして、葉っぱ女史の原稿には、新聞社のほうで別途に写真かなにかで差し替えてもらうことにしてもらった。わがままを通して申し訳なし。(2005.4.22)
【苦肉の策】
 新聞連載「京・うた・フォーク」は、ぼく自身なるべく人物列伝とか編年体では書かないつもりでいるのだけれど、なにせ往復書簡形式で、相手の変化球にも応えねばならない。

 来週分の相手・葉っぱ女史からの便りは、「高田渡さんを偲んで」と題して、お若い女史の知ってる限りの故人の業績を綴ってあって、この原稿用の挿絵を描かねばならなくなった。
 下記の雑記にもあるとおり渡氏の挿絵は書いたばかりだし、故人ゆかりのイノダや六曜舎のファサードを描いてお茶を濁す手もあるが、右のように、渡氏が歌った詩人・山之口貘さんにさせてもらった。まったくの苦肉の策。
 さて、再来週分の返事の原稿はいかに。(2005.4.21)

【遺影】
 この雑記で4月8日に取り上げた「PPM」の挿絵を載せた新聞連載の、その前の週の挿絵が、左のものだった。添田唖蝉坊は左手で耳たぶ、右手でネタ本をもって終生アカペラで歌ったとの添田知道(さつき)さんの伝による。

 この絵が掲載されたちょうど翌日に、連載担当のN記者から、「高田渡さんが北海道で倒れた」と京都での彼のかかりつけ医師のメールがあったよし連絡をもらった。その主治医が言っていた渡氏の旺盛な生命力に期待していたが、今朝の大塚まさじ氏からの一報より、いろんな人から渡氏の訃報をいただいた。

 高田渡氏のご冥福を……  (2005.4.16)
【新大宮のホームページ】
 商店街のホームページは、月間サービス情報などはその月の前にアップして、他の即時性のない地域紹介などは、ぼくの気の向いた時に更新しているという状態だ。そんなズポラなことではあかんのだろうし、ネット上で商店街のお薦め産品が買物できるようなシステムにするべきなのかもしれないが、ボランティアでできる範囲でお許しを頂いている。

 このホームページで、新規開店の個店情報のアップと閉店した店情報の削除するのも、数ヶ月に一度の仕事。商店街マップはイラストレーターで作っているから、手直しした街区地図にあらためて街区全店のイメージマップを一軒、一軒貼りなおすという作業になる。
 こういう面倒な作業も最近は手馴れたものだけど、それだけ商店街の店の入れ替わりがはげしいということだろう。この御時世、当然ながら新規開店より閉店していく店のほうが多い。

 そういう閉店していく店の情報の削除も、技術的にチャッ、チャッとやってのければいいのだが、「この店の誰それとは一緒に飲んだな」とか、「ここのオッサンとは寄り合いの席でよく意見がぶつかった」などと思い出していると、なかなか仕事がはかどらない。昨日は隣家のKちゃんのM屋を地図から削除した。つらいことだけど……

 知らぬ間に季節はうつり、「ふう」の樹から若葉。初ツバメを見る。 (2005.4.13)

【挿絵描き】
 ここ数日は閉店後、唯明寺の「花祭」の準備に出かけ、昼間の店の仕事のあいまをみて、新聞連載の挿絵を描いている。
 往復書簡形式の連載なので、挿絵はぼくの執筆文だけと思っていたら、相方の葉っぱさんの原稿の挿絵も描くことになった。
 往復書簡の連載ということは、先の原稿に目を通してから、こちらの返事を書くわけで、それに挿絵が加わるから締め切りが大変だが、今のところ間に合っている。
 前回の挿絵は「高田渡と添田唖蝉坊」だったが、今回は「ピーター・ポール&マリー」。葉っぱさんの原稿に、このPPMとは別の文脈で「公害」の二文字があったので、大気汚染表示板のデシタル文字を描いたが、こんなベタなシャレを誰がわかるか? (2005.4.08)

【あたらしい出会いか?】
 今週のはじめ四丁目の料理屋『孝月』さんで、「大学コンソーシアム京都」の面々と商店街の交流会があった。
 「大学コンソーシアム京都」というのは、そのホームページもあるが、早い話が産官学で京都の活性化をめざそうという財団法人のようなのだけれど、この日は、立命館大学、仏教大学、橘大学の学生さんが商店街を歩いて、インタビューなどをした結果を、福祉や景観の観点から、また消費者の立場として、あるいはアートやイベントの可能性について報告して、商店街から参加した婦人部、青年会の十数名が簡単な意見をのべるという会だった。

 緒についたばかり……というより、まだそれ以前の学生さんのフィールドワーク。いっぽう、商店街の者にとっては、こういう学生さんを何度も受け入れてきたこともあるので、ようす見という感じである。

 例えば、秋の「そらたね祭」を二年間主催してきた学生さんたちは、商店街の夏祭でバイトしたり、商店街のお店から広告をとって、自分たちで財源を確保して、開催数日前から唯明寺に泊り込みで準備作業などをしてきた。たびかさなる事前の会合では商店街の人にもわかるような周到なレジュメをいつも用意してきていた。商店街をはずれたご町内にも、祭でお騒がせするのでと挨拶まわりなどもした
B  最初は半信半疑だった商店街の人々も、これらがどれだけ大変なことか、容易に理解できるので、だんだん協力の輪がひろがってきたし、学生さんの顔と名前はすっかりなじみにもなっている。

 今回「大学コンソーシアム京都」からやってきた学生さんが、財源の心配も無く、指導教官がついて、これに参加したら大学の単位がもらえるという安易な気持ちなら、商店街としても辛口の反応もあるわけだ。

 ともあれ、商店街に学生さんが目をむけてくれるのは、悪いことではないので、一からおつきあいして、こちらも勉強させてもらおうと思っている。いかがなるやら。 (2005.3.31)

【感謝感激、雨霰】
 この歳になって自分の誕生日もないだろうとは思うが、それは長い間いろんな人々から自分が、生かされて活かされてきたことへの感謝を表したいと思って企てた3月26日のライブだった。

 ゲストをまじえてトークと唄を交わすというライブを時々やるのだけれど、こういうスタイルは、一曲やるごとに段々盛り上って自分の世界に聴き手を招き入れるというタイプの歌い手には、ぶった切れになるのでシンドイかもしれない。また、トークがかみ合わなければ散漫なライブになるのは目に見えているのだけれど、今回相手をつとめてくれた大塚まさじさんのおかげもあって、三時間近いトーク&ライブになった。大塚ちゃんに感謝するとともに、時間延長を認めてくれた会場「拾得」の皆さんにも感謝。

 三重、愛知、大阪、兵庫、東京から足を運んでくれた皆さん、ありがとう。また新大宮で「そらたね祭」を仕掛けてきた学生さんたちや、野口さん夫婦から焼酎を頂いた。おかげて数日ぶりに酒にありつけた。
 新聞連載でお世話になっている葉っぱさんやN記者、うずら音楽舎の富田さん、かもがわ出版の吉田さん、姉夫婦はじめ、お名前をあげきれないけれど、参加くださった皆さん、急な用事ができて出席できませんとわざわざ連絡くださった皆さん。ほんまに、おおきに。

 実は、ここ数年、どうかすると、音楽なんてつづけていて良いのだろうかと迷う日が多かったのだけれど、この日の皆さんのおかげで、気分一新やりなおしてみようかという気になっています。

 生かされて、活かされて、ありがたい。ありがたい。    (2005.3.28)

【田川律さんと中山容さん】
 ぼくの55歳の誕生日3月26日に「拾得」でライブをするのだが、それにつきあってくれる大塚まさじさんが、彼自身のライブに招待してくれたので、昨晩は久々に木屋町まで自転車ででかけた。

 連休のウィークエンドということもあってか京の中心街は人であふれていた。新大宮界隈のノンビリした雰囲気との落差を大いに感じる。

 さて、このライブでの大塚ちゃんの歌のことなどは、26日のぼくとのコラボレーションでお話するとして、ここで古希の田川律さんが数曲歌うのを聴けたのは儲けものだった。田川さんの歌声など聴くのは、吉岡しげ美とともに大昔に関西をツアーされた時以来か。聴き入りながらふと中山容さんのことを思い出していた。

 容さんも生きていれば田川さんと同じ70歳は越えている。ともに、ぼくが知り合ったのは35年も前だが、「大人なんか信用できない」と息まいていた当時のぼくにとって、数少ない信頼できる「大人」たちだった
 主に音楽関係の舞台の演出や評論を手がける田川さんと、翻訳や作詞を手がけた容さん。二人は関西フォークの名オルガナイザーだったともいえる。

 ぼくが二十歳の頃、中山容さんは東京から京都の我が家の近くに引越したばかりだったが、よく押しかけては晩御飯などご馳走になった。田川さんとちがって容さんは、けっして人をほめることはしなかったけれど、人柄をしたって他にも大勢の若者が彼の家に集まって音楽談義で盛り上った。
 あれはさしずめ「中山容学校」だった。その学校で、ぼくは一番の劣等生で迷惑ばかりかけていた。容さんが亡くなって7年ばかりになるが、容さんが生きていたら、今のぼくをどうけなして、そして励ましてくれるだろうか?などと、実は昨晩の田川さんの朗唱を聴きながら思った。

 恩師というのは、いつか先に逝ってしまうもので、その先の道は一人で切り開いて歩いていくしかないのだろうが、カクシャクとした田川さんを友として一緒に歌える大塚ちゃんが、うらやましくもあった。   (2005.3.21)

【買物カゴの素材】
 前回の下の雑記に書いた昔風の「買物カゴ」だけれど、灯台もと暗しというか、ご近所の「中華のサカイ」さんが出前後のドンブリやお皿の回収に、その「買物カゴ」を今も使っていた。奥さんにたずねたら、材質はイグサであった。

 新大宮界隈の鳳徳学区というのは京都でも老齢化の一番進んだ地域で、福祉のモデル学区にもなっている。今のうちなら近い時代の考古学資料というか、一時代前の生活用品がたくさん埋もれていると思うけれど、どうもぼくは興味があれこれ気が多いばかりで、じっくりフィールドワークとはいかない。

 何かにのめってキッチリやらないと気がすまないというのは、自分の性格を考えると、体にも脳ミソにも好もしくないと最近つくづく思うので、まぁ日々ふと気がついたら、メモしておく程度がちょうどいいのかもしれない。

 地域の老齢化ウンヌンと書いてしまったけれど、くだんの買物カゴを使っていた「サカイ」さんの奥さんは、ぼくよりお若いので、誤解のないように。 (2005.3.18)

【井戸端の功罪】
 新聞連載が二週続けて休み。暇つぶしに左のような子どものころの風俗を描いた。
 各町内には、こういう手押しポンプの井戸が必ずあって、蛇口にはニゴリを漉すためか布袋がかけてあった。割烹着の奥さんの手にある編んだ買物カゴが定番だったが、材質が何だったか調べてみよう。
 木箱に戸車をつけて、今で言うカートを作るのが子どもの遊びだった。木箱は、ダンボールのかわりに商店街ではあふれていた。我が店も蚊取り線香などは木箱で届いたものだった。魚屋のトロ箱は生臭くて、さすがに使わなかった。
 井戸端を懐かしむ気持ちと、ここでやりとりされるツマラぬ風聞に子どもながら辟易としたのもおぼえている。いま、識者が「井戸端の再生」と言うと、このあたりのマイナス面の話が抜け落ちているように思う。(2005.3.14)

【お金とマネーなど】
 NHK教育テレビの「人間講座」が今シリーズで終了する。内容の当たり外れはあったけれど、「人間大学」以来ずっと楽しみにしていたので、少し残念。

 さて、その最終シリーズの内橋克人氏の講座に、ファンタジー作家のミヒャエル・エンデの言葉の引用がある。
 「パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つのまったく異なったお金である」 (内橋氏は、前者を「お金」、後者を「マネー」と補足する)

 ライブドアとフジテレビの攻防のテレビ・ニュースで、市民へのインタビューで「あなたはどちらを応援しますか?」というタイプの質問が多いようだが、そんなことより明日買うパンの金に困っていると応える人は、インタビュアーの裁量か、あまりお目にかからない。

 ライブドアとフジテレビ、NHKと朝日のことで、「すでに、メディアの公平性とか公共性とかは幻想にすぎない」という活字の論評は見かけるが、テレビのコメンテーターからは、こういうのをあまり聞かない。

 お目にもかかれない、お聞きもできない、あてにもしない。その程度のものの多い中、「人間講座」は楽しましてもらった。
 春まだき、本日の京の空、鉛色。(2005.3.12)

【年寄り用ハシゴ】
 新大宮の街路樹「ふう」の樹が、京都市のこの冬の剪定ローテーションからはずれたというのは、以前書いたようにも思う。我が店の前と、唯明寺前の「ふう」は日当たりの良いせいか、三月だというのに、まだ枯葉がしっかり枝についている。
 秋・冬の日照時間や温度変化が、どう影響するのか、ちゃんと勉強してみたいとも思うし、枯葉が残ることと新芽・若葉・花実の関係も、調べれば面白いと思いつつ、なかなか出来ないでいる。

 例年は、梅雨の前くらいに、少し風通しよく、剪定したりするのだが、今年は今のうちに枯枝をはらってやろうかと考えている。そこでふと思ったのだけれど、脚立やハシゴをかけて剪定するのが年々危なっかしくなるのを、どうすればよいかということだ。

 そんなもの京都市の街路樹だから、市の緑地公園課に文句の一つも言えばという人もいるが、そういうお役所まかせは面白くない。お若い人に頼めばいいが、自分でやりたいのである。ほとんど盆栽感覚。だから、高所に届く長い剪定バサミもあるけれど、やっぱり手元でやりたい。

 老いて体が思うようにならなくなった時に、入れ歯・老眼鏡・補聴器などの補助具があるように、軽量で、かさばらず、収納も小さく簡単で、ついでに廉価で、誰でも安全に昇り降りできるハシゴというものがないものか?きっと、あるにちがいない。
 そういうものを区役所あたりが無料で貸してくれるというのもいい。市の街路樹を剪定するのだから、少しは日当がでたりして、いやいや、日当のでるのはリタイアした高所作業の経験者に限ると規則があるのが普通だ……などと、あいかわらず、暇にまかせてアホなことを想像している。
(2005.3.09)

【お若い人とともに】
 最近、月曜日の朝の商店街のゴミ収集はやたらと早い。間に合わなかったので収集時間の遅い商店街からはずれた収集場所へ持っていく。帰ってきたら購読していない朝日新聞がシャッターの隙間に入れてあった。先日取材に来られた京都版の「週間まち・ぶら」欄の大宮通の特集記事は今日が掲載日だった。今日の京都新聞の夕刊には連載記事のほうが載るから、まぁ、ありがたいことである。

 嫌味な宣伝になるかもしれないが、本当はもうひとつ、ぼくが取り上げられているものがある。これは新聞とは逆に京都ではお目にかかれない。大阪、神戸、奈良、和歌山あたりのケーブル・テレビの15分くらいの番組で、昨年の新大宮「そらたね祭」を学生さんがビデオでドキュメントしたもの。今月一杯毎日一回放映されるらしい。

 先日その番組用に編集されたビデオ鑑賞をかねて、学生さんたちが呼びかけて「そらたね祭」の仲間が集まった。総勢20名。本来ここにいるべき我が隣家のKちゃんが一月に逝ったので、会の冒頭に先立って黙祷をささげた。ビデオの中ではKちゃんは笑っていた。享年51。

 この会では、去年の反省と今年の「そらたね祭」の実行委員会をどう立ち上げていくかの話が当然なされたのだけれど、学生さんたちが主体でやるということは、その年々でメンバーの思い入れなりテンションが変わってくる。熱心だったフッチーやマッちゃんはじめ数人が去年卒業、マミにコウジは今年卒業となる。次第送りをどうするかというのは、今年あたり充分考えておかねばならない。

 まぁ、今秋でまだ三年目のイベントだから、名門野球部みたいに、伝統的に「こうあらねば」ということはないのだから、その時の現役の学生さんたちの個性で好きにはばたいてくれたら良いと思うし、それをどう臨機応変にサポートできるかが商店街の課題のようにも思うし、ぼくはお祭に「イッチョガミ」して阿呆をやってられたら、それでOKだ。

 ビデオを見ながら、くったくのない学生さんのパワーにふれていると、ぼくなど新聞に取り上げられるのは実におこがましいことだという思いにかられる。連載をはじめた「京・うた・フォーク」では、自分たち世代が歩んできた歌の道を、けっしてオーセンティック(正調)などと書くまいと思う。 (2005.3.07)

【メモ書きから】
 新しい古本屋が開店したというので、女房が覗きにいって一冊100円くらいなのを数冊買ってきた。
 「好きなの先に読んでいいよ」というので、赤瀬川原平『老人力』(筑摩書房・元の価格1500円)にした。何年か前の流行語にもなった『老人力』を今さらとも思ったが、赤瀬川氏のものは読むのに肩がこらなくて、貧乏の暇つぶしにはちょうど良い。

 あんのじょう、すぐに読み終えた。それで最後の裏表紙を見たら「仙台にて求む ○○澄 83才」とボールペンでメモ書きしてある。
 前の所有者とおぼしき「澄」さんというのは、男とも女ともとれる名前。99年の初版第七刷。店頭ですぐ購入されたとしたら、この方の現在のお歳は89歳ということになる。
 古本屋の店頭に並んでいたということは、もしやお亡くなりになって遺族の方が処分された書籍の一冊だったかもしれない。あるいは、ご高齢で『老人力』などというタイトルに惹かれて買ってみたが、どうも自分の老いとはそぐわない内容だったので、本人が処分されたのかもしれない。
 思うに、「仙台にて求む」という機会があったということは、京都から東北まで旅行されるくらいのカクシャクとしてフットワークの良かった人だから、家に物を貯め込む所有欲というものがなくて、すぐに処分されたのかもしれない。そうすると、まだピンピンされているかも。

 などと、赤瀬川氏の文章より、この○○澄氏のほうに興味がいってしまう。実は、これこそ赤瀬川氏おすすめ路上観察学会の目線。氏の文章の術中にはまってしまった。(2005.2.28)
【ケンパー】
 新しい新聞連載に添えるのは写真になる予定だったけれど、どうも何回かに一度は前連載と同じようにイラストを描きおろすようになりそうである。子どもの遊び歌というテーマに関連して、いくつか描いてみて、右はその一枚。
 これはドッジボールではなく「ケンパー」という、ぼくの子どもの頃よくやった遊び。商店街の路上にハクボクかローセキでゲームのラインを引いて片足跳びで遊んだのは記憶にあるのだが、ルールが今ひとつ思い出せない。近所の同じ年頃の人にたずねても、詳しくは覚えてないという。
 体が覚えているかもしれないので、こんど何かの機会にじっさい中年オヤジが集まって再現してみようと思っている。 (2005.2.26)

【春の宴席から】
 新大宮三丁目倶楽部の春の懇親会が「中華のサカイ」さんの二階で開かれた。話題は当然ながら、商店街の「にぎわいづくり」。

 三丁目・唯明寺の「花祭り」を昨年以上に盛り上げようというという。以前にも書いたが、クリスマスだの、バレンタインデーだの西洋の旗日ばかりが商機になるより、愉快なこと。

 京都仏教会が花祭り「潅仏会」を盛り上げる寺院には信者さん向けに「アマチャ」のティーパックを50パックばかり提供するという情報を、住職からうかがい、おおいに活用させて頂こうということになる。
 ところで、その仏教会につどう有名観光寺院は花祭りになにをするかというと、各寺院でのお勤めの他は、京の某一流ホテルのロビーで潅仏会を催すらしい。これでは耶蘇(ヤソ)教にはかなわないか。

 商店街の「にぎわいづくり」となると、昨年の「新選組」ブームの壬生ではないが、必ずNHK大河ドラマに便乗しようという話がでてくる。京都は下駄をけっとばせば歴史上の名所旧跡にぶつかりそうだが、新大宮は明治以前はほとんど田畑で、名刹・大徳寺とも少し距離があるので、なかなか大河ドラマのおこぼれにあずかれない。

 で、今年の「義経」であるが、牛若丸が産湯をつかった井戸があるのは、新大宮のホームページでも紹介していることではあるが、母親の常盤御前のおわした常徳寺というのも実は地元の紫野・紫竹地区にある。そして大徳寺の南に「御所ノ橋」という小さな石橋もある。
 鞍馬寺にいた牛若丸(遮那王)は母恋しさに下山して常徳寺にまいったが、それでは表向きのしめしがつかないというので、北野の天神さんにお参りにいったことにしていた。その帰り道に「御所ノ橋」で弁慶に遭遇したというのが、地元民の説。「五条の橋」なんて方角ちがいで遠いところに牛若丸が行くものかというのであって、そういわれれば「御所ノ橋」に信憑性がある。

 ならば、鞍馬寺から「御所ノ橋」までの野道に茶屋の一軒もあつておかしくない。牛若丸が茶屋で食べたマンジュウとか銘打って名物にして売り出しませんかと、三丁目の和菓子屋「末廣」さんに宴会の皆が水を向けたが、「それじゃ、サギでっせ」と末廣のご主人。

 しかし、五条の橋じたいも現在地になかったというのが歴史的事実で、もともと橋弁慶の伝説も事実かどうか疑わしいといわれている。京というのはそういう伝説だらけなのである。それをだれもサギだなどと言わない。伝説や由緒の上にあぐらをかいてきたのが京都でもあり、歴史など時の権力者の都合の良いように改ざんされてきたことを庶民はお見通しである。「牛若丸のマンジュウ」なんて可愛いじゃありませんか。

 まぁ、そんな話で盛り上がりながら三丁目の春の宴はお開きとなった。(2005.2.21)
【確定申告】
 午前中、上京税務署で早々と確定申告をすませてきた。
 明治生まれだったオヤジは、「税金の申告なんてものは、3月15日の申告最終日の税務署がゴッたがえしている時に、なるべく貧乏くさい服装で行くもんだ」と言っていた。
 一昔前のいしいひさいちの四コママンガにも、頭にハエがたかるくらい小汚い格好で税務署の窓口に出かけた人物を描いたものがあったので、そういうのが庶民の常識だったのだろう。
 郵送でもネットでも申告できる時代に、それがまだ常識とは思わないが、服装より何より申告内容のほうが不景気を反映して貧相なので、自分でもウンザリして税務署へおもむと、入り口をはいった処の臨時窓口で決算書と申告書を提出して、判をもらって、ハイ終わりである。

 マスコミでは、申告期間の初日に税務署へ出向いた有名人のようすを報じるのが年中行事のひとつなのだろう。一昔前までは若いタレントの姿が「国民の義務ですから」というコメントとともに報じられたが、最近は「無駄に使わないでください」というコメントにかわってきている。

 今でも「税金を納める」というより「税金をとられる」という言い方をする人は多い。これは消費税が内税表示になつても未だに「消費税とられるんですか?」とたずねる人がいるのでもわかる。
 この「とられる」は「兵隊にとられる」と同じ意味の「とられる」だろう。
 この国のありようが、税金を「納め」たくなる国になるのは、いつのことだろう。 (2005.2.17)

【二月は逃げる】
 二月と八月は「ニッパチ」といって、小商いにとっては暇な月といわれているのは誰もが知っている。「二月、逃げる」と足の速い月だという警句もある。他の月より日数が少ないから当然といえるが、バタバタしているうちに数日がすぎていく。

 京都新聞の新連載を、他の新聞紙面とあわせて「縦書き」のレイアウトか、それとも「横書き」にしましょうかと担当者に尋ねられた。文中に外国のミュージシャンや曲名をアルファベットで表記したり、譜面を引用するには「横書き」のほうが都合よいのだが、「横書き」はネット社会に迎合するような気もしたし、漢字であろうがヒラ仮名であろうが、もともと上から下へ書くように作られているからと「縦書き」レイアウトでお願いした。

 京都のうたの話を書くのだから、なるべく外国のミュージシャンと外国曲の引用はさけよう。ボブ・ディランやビートルズ、そしてピート・シーガーになるべくふれずに、歌について書くという「制約」を自分にかす。まずは、京都のわらべ歌についての初稿を送った。

 新大宮・唯明寺の「そらたね祭」でご一緒させてもらっている立命館大学のグループ「和太鼓どん」の年に一度の定期公演を見に行く。会場は京都造形大「春秋座」。ここは市川猿之助が副学長だから歌舞伎舞台のこしらえ。グループ手作りの唐破風(カラハフ)のダンジリが登場したり、花道のセリまで使った演出はなかなかのもので、今年卒業のリーダー・岡田真実の歌う「津軽よされ節」なども堂にいっている。

 この「春秋座」で三月には、姪っ子が所属する雅楽「音輪会」の演奏会もあつて、その案内を頂いたが、あいにく同じ三月二六日は、ぼくと大塚まさじのコンサートを「拾得」でやる。雅楽に興味のある人は行ってみてください。

 和太鼓、民謡、雅楽と今の若い人たちは、邦楽が身近にあっていい。彼女・彼らと同じ歳のころからギター一本で、ぼくは今までどれだけのことをやってきたのかと思う。だからなおさら、これから書く連載に、ビートルズやボブ・ディランの安易な引用はさけなくてはと意固地になる。

 さて、その三月の大塚ちゃんとのコンサートの案内ハガキに、ぼちぼち宛名書きをして投函している。
(2005.2.11)

【ほんやら洞】
 新聞連載のため打ち合わせを、昔の音楽資料が身近に揃っているというので、昨秋から我が家で何度かしてきたが、共同執筆者のH女史や担当のN記者にたびたび足を運んでもらうのも悪いかろうと、最終打ち合わせは出町の『ほんやら洞』ですることになった。
 京都市内は雪こそ降っていなかったが、この冬一番の寒波というので、バスかタクシーで行くことも考えたが自転車で行くことにした。

 夜道を自転車を走らせながら、ふと、このコースは、『ほんやら洞』が開店した1972年からバイトで2年間通っていた道と同じだと思った。
 鳳徳小学校の南〜旧・立命館中学の北〜大谷大学の西〜関西文理学院の東〜上御霊神社の西〜成安女学校の東〜総国寺の東〜同志社女子大の北……それで往路は所用時間15分で『ほんやら洞』に着く。
 なぜこのコースになったんだろうと思い出してみた。信号のある交差点を二ヶ所しか通らなくてすむので早く着けるということもあったし、今だから話せるが、多少酔っ払って自転車を走らせていてもこのコースでお巡りさんの巡回に出会うことはめったになかったからだ
B  しかし一番大きな理由に昨晩気づいた。大路をさけて通ると昨晩のような寒風や夏の日差しをさけて走れるたからだ。そんなわけで、おりからの寒波をものともせずに打ち合わせに間に合った
B
 久しぶりに行った『ほんやら洞』は、トイレが和式から洋式に変わったくらいで昔のままだった。亭主の甲斐さんが「建て付けが悪くなって、すきま風が寒いだろう」と言う。三分の一世紀もたてば建物だって、そしてぼくたちだってガタがくると苦笑した。

 この夜の最終打ち合わせで、連載のタイトルは『往復書簡/京・うた・フォーク』と決まる。多少ベタな感じもするが新聞読者にわかりやすくということで、これにおちつく。話し合いも一区切りついた頃、隣の席の見知らぬ客たちが声をかけてきて、すぐにうちとける。こういうところも昔の『ほんやら洞』と変わっていない。
 すでに京都の名所になってしまって、あちこちの京都本でとりあげられている『ほんやら洞』だけど、いずれ新連載のなかで、ぼくなりに触れないわけにはいかない場所だ。

 帰り道も同じコースだが、ゆるやかな登り。自転車で25分。
 一夜あけて、新大宮は『ほんやら洞』(雪のカマクラ)状態。さっき雪かきを終えた。
     (2005.2.02)
【日曜メンテ】
 予定では二月末より、地元の京都新聞でまた連載をはじめることになっている。昨年の春まで連載していたのは新大宮商店街とその界隈をめぐるエッセイだったが、今回は音楽、主にフォークソングについて、お若い女性ライターとの共同で毎週月曜・夕刊で50回の連載となる。往復書簡形式なので、ぼくの担当は半分の25回。
 共同執筆のH女史が往復書簡の先攻なので、ぼくの最初の原稿は三月からの掲載になるが、とりあえず確定申告などは早めに済ませておこうと、デスクワークがここ数日つづいていて、気分も体もこりかたまってしまった。それで、日曜日は我が家のメインテナンス。

 台所流しの排水の悪いのと、店と通り庭との間にあるトビラの補修を美千子と二人でする。
 台所の排水のほうは、中継のマンホールに手をつっこんで、大量の油カスを取り除くことで解決した。
 食用油の廃油の処理は気をつけていても、何年もすればこうも蓄積する。人体にも環境にもこういうものが溜まってくるのだと、今さらながら思う。

 家庭内の下水の中継マンホールというのは、台所、風呂、水洗トイレなど水まわりの途中に必ず設けなければならないと、職人さんに聞いたことがあるが、住み手の都合にあわせて増改築していると、このマンホールのありかがわからなくなることがある。ウナギの寝床の町家では、通り庭の下にメインの下水管が走っていて、すべての排水がマンホールを中継してそこへ流れるようになっている。この通り庭に改築をほどこして床を張ってしまう家庭も多いのだが、我が家はそのままにしてあったので、今回のようにシロウトでも簡単に対応できた。ただし、このタタキの通り庭が家屋の中を貫いているというのは、夏にはいいが、この冬の寒さにはキツイ。

 さて、もうひとつのメインテナンスも、この町家構造にまつわっている。
 京の商家は、奥の暮らしぶりはお客の目にふれぬように、店と奥の間仕切りに、ことさら丈の長いノレンを掛けたりするといわれている。ところが我が家のような薬屋商売は衛生上の理由なのか、薬事関係法令で店舗の構造設備と住居を明確に区別せよと定めてある。そういうわけで、今でこそあたりまえだが、我が家には昔から、店と通り庭の間にはドアがあった。
 ところが、ただでも細い通路にこのドアというのが意外とやっかいなので、ぼくが店を手伝い始めた二十年くらい前に、引き戸に改装した。

 この時、開口部を70センチから90センチでとると戸袋にとれるスペースが40センチ以下になるので困っていたら、南隣りの豆屋「いなだ」さんで同居されている高校の数学の先生から、エレベーターのトビラのアイデアを頂戴した。
 エレベーターのトビラというのは左右に開くものもあるが、狭いマンションなどのものは幅の狭いトビラ二枚が連結して一方へ開くようになっている。エレベーターの仕掛けのほどは知らないが、我が家は35センチ幅のトビラ二枚の、片方にデッパリ、片方にミゾが作ってあって、これが引っ掛けあって40センチの戸袋に片手でおさまるようになっている。

 今でもよく、知り合いの大工さんなどから、うまい工夫だと言われるのだが、このトビラが木製なのでミゾが劣化してガタがきた。商店街の「銭喜」さんで買ってきた適当な金具をこちらで加工して補強をするというのが今回の日曜大工だった。

 夕方、三女がバイトから帰ってきてスムーズに開くこのトビラに 「おぉ、直ってる」 とかいう。「お前なぁ、大学で建築の勉強してんじゃないの……家の補修くらい」 って言いたくなっが、そういえば長女は音大を出てヴァイオリンの先生をしているので五線譜を初見でも演奏はこなすけれど、ぼくなど五線譜などつかわずにバンジョーで他人の伴奏をブッつけ本番でする。それだけ単純な楽曲をやっていると言ってしまえばそれまでだが、まぁ、建築も音楽も専門教育をうけたことがないこのオヤジが通用するというのは小気味いい。などと、ほくそえんだ。

 ともあれ、体を動かすことは良いことである。        (2005.1.24)

【落ち葉の掃除から】
 京都市の街路樹剪定のローテーションから今冬は商店街のふうの樹ははずれたので、店の前の落ち葉の掃除は連日だ。
 たいがい「たいへんどすな」と道行く人に声かけられるが、この仕事が終わったら春が来ると思えば、落ち葉掃除も一興である。北国の雪かき・雪下ろしなどもっと大変だろう。

 雪かきの話を少し書こう。今は店も居宅も一緒だが、数年前まで左京区から店まで自転車で20分ばかりかけて通勤していた。冬の夜の帰り道、道が凍てついて難儀する処が、高級住宅街を抜けるコースだった。商店街などでは来客のこともあるが、我が店のテント上の雪おろし、店頭の雪かきだけでなく、近くの道までせっせと雪かきをやるのだが、この高級住宅街は玄関先以外まるで雪かきをしたようすがない。まぁ、近年の京都は雪に埋もれて生活が困るほどの積雪があるわけではないから、ほうっておけるわけだが、これが夜になると道を凍らすのだ。自転車でなんどもスリップしかけて、「ここらの連中は公共心がないのか」とか、「ダンプカーがスリップして家につっこんだらどうするんだ」と恨み言もつぶやいたが、ダンプカーなどの往来はない閑静な住宅街。ここらの連中の車ときたらスタッドレス・タイヤを装備した高級外車や四駆なのだろうか。

 公共心、公共心と声高に言いたくはないが、阪神淡路大震災で多くのボランティアが駆けつけたおり、これとは別に芦屋の六麓荘という高級住宅街の住民だけは、震災直後に治安の悪化をおそれ、自分の会社の部下などを使って自警団を組織したと当時のニュースにあったのは、忘れることができない。
 あぁいうところの住民にはなりたくないと思ってしまうのは、あぁいうところに住めそうもない貧乏人のヒガミといってしまえば、それまでだが。本日、震災10年。  (2005.1.17)

【こんなもの見かけた】
 下記の雑記で「棚卸し」にふれたので、我が商店街で見かけた経理にまつわる逸品を紹介しよう。
 「金銭登録機」、早い話がレジスター。年代物らしく「円」以下の単位も表示できる。電動ではなく機械式で今でもちゃんと動く。ガシャンという押しボタン、アナログで表示される金額、チーンという音まで、いかにも、お客様の大事な「御足」を頂戴いたしましたという感じなのだ。もうレジとしての役目は終えているが、この店の創業者の方が使っておられたからと帳場に鎮座している。 (2005.1.16)
【棚卸し】
 正月早々に棚卸しを終え、決算、確定申告への一連の作業を店の仕事のあいまにボチボチしている。

 棚卸しは医薬品がおよそ1300品目、それ以外のものがおよそ700品目。小さな薬屋でそんなに扱い品目があるのかと思われるかもしれない。医薬品は想像つくだろうけれど、「爪切り」ひとつとっても、オーソドックスなものにも、サイズがL・M・Sの3種類があり、これにニッパー型爪切り、赤ちゃん用のハサミ型のものが加わる。こういうのは、我が店に限ったことではなく、どこの薬屋でも必ず置いてあると思う。
 漢方薬は扱いのある店とそうでない店がある。うちには常に80処方くらいは在庫があって、さらに、ひとつの処方について『葛根湯』だけでも5種類、これに単味の生薬が加わると棚卸し品目にするともっと増える。

 棚卸しの品目には「水枕」の締め金具というものまである。「熱さまシート」や「冷えピタ」、それ以前から「アイスノン」などにおされて、「水枕」「氷枕」それに「氷嚢」などは需要は減ったが、最近は「水枕」を体を温めるホットパックの代用にも使ったりもするようだ。口を締める金具よりゴムの劣化が早いのが常だが、時々この締め金具を先に紛失してしまう人がいて、これだけを在庫しているわけだ。
 一年に一個売れればいいようなものを在庫しているのは、コンビニなどではまず考えられないことだろう。でも、これが我が店流だと思っている。

 小商いで扱うものには、発売後一時話題になったが一年もたたぬ内に市場から姿を消した商品、発売時にメーカーの呼び声高かったが不発に終わってすぐ製造を打ち切る商品もこのところ多い。幸いにも、ぼくは流行に疎いので、そういう商品を元々仕入れないから年越しの在庫ロスを増やすことがない。
 流行に敏感な消費者のニーズに応えそこねてはいるが、それで先に書いた一年に一個売れればよいような品も在庫していられる。

 どうも、これはぼくの音楽にもあい通じるところがあって、流行の一発ヒットもないかわりに、地味な需要に応えて35年も歌いつづけてきたわけである。

 まぁ、商いも音楽もそういうオヤジにして、三番目の娘がようよう成人式を迎えた。これも皆さま方のおがげ、「ありがたいこと、ありがたいこと」 (2005.1.12)

【年を越えて】
 とにもかくにも、どうにか一年を過ごせたのが、「ありがたい、ありがたい」と思える年の変わり目。

 我が家の子供たちが小さかったころからの恒例で1000ピースのジグソーパズルのカレンダーを組み立てる年越し、秋に長女が結婚したので家族四人での作業となった。

 作業をしながら『紅白歌合戦』を聴いていた。いやBGMとして「聞いていた」というのが正確だろう。NHKが「韓流」ブームを仕掛けたといわれている。それも悪くはないと思うが、一昔前に『紅白歌合戦』の出場歌手たちが自らの父母・祖父母の国をカミングアウトしたら日本の「国民的」番組という看板は半ば成立しなくなるとある著名な在日文化人が言ったのを思い出した。本当の隣国との相互理解とは何なのか。

 元旦の静かな商店街を抜けて今宮神社に初詣に出かけた。大晦日にふったこの冬の初雪がまだあちこちに残っている。今宮さんへの坂道からは東山がのぞめるが、山の姿に空気の冷たさがわかる。

 「あれって、デリカシーがないんだよね」と娘たちが指差すので今宮さんの楼門わきを見ると、神前結婚一式19万8千円よりと大きな看板。そういう商魂のたくましさのせいか、地元民だけの氏神さんという印象とはちがい大いに賑わっている。お参りを早々にすませ大徳寺の境内を通って帰ることにする。

 『屋根の日本史』(原田多可司著/中公新書)を年末に買って読みかけていたので、大徳寺の屋根がずいぶん気になる。「金毛閣」や「法堂」など堂宇伽藍を見慣れているので瓦葺が多いと思っていたが、それぞれの塔頭の築地塀の向こうに見える屋根はほとんどが桧皮葺。まだまだこの歳になっても見過ごしているものがたくさんあると思いつつ、境内を散策していたらその塔頭の一つ「如意庵」の奥向きをつとめられる方と出会った。この作務衣のご婦人が年始の挨拶を交わした最初の人になる。和服を着ていても下品な着こなしの人もいるが、この方の紫の作務衣は上品である。

 仏門の徒がすべからく上品なわけでもない。大徳寺の中には拝観謝絶で少しの野菜など自耕自給している塔頭もある。近くの観光化した塔頭の住職があの畑の肥料が匂って困るとボヤいたというのは、界隈の人々の間ではよく知る話になっている。

 さてさて、他人のことばかり言ってはいられぬ。ホームページの掲示板など閉鎖して、年を越えて心静かにと念じつつ、またまた思いつくままをこの処にしたためはじめる。どうも、正月三ヶ日を店など閉めておちついているというのは、根っからの貧乏性のぼくには無理なことなのかも知れぬ。
 当店は四日より平常営業。  (2005.1.05)