男女に統計差があるなら役割分担すべきか

Ĉu oni devas dividi siajn rolojn laŭ sia sekso,
se ekzistas statistika malsameco inter seksoj ?

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目次
「父親が外で稼ぎ、母親が家事と育児」は理想の家庭だろうか
科学的に男女差が認められれば区別してよいのか
男性5000円、女性3500円
レッテル貼り01/5/2追記
モーツアルト対ベートーベン
女性の参加一人につき一点
女だから煙草を吸ってはいけないのか
露出した女性の太股は誰にとっても目の保養になるか
男のシンクロが見たい
セーラームーンの太股
女性の美には普遍的な基準があるか
女はスキーを担げないほどに「か弱い」のか
木訥な男?には迷惑なバレンタイン
「女らしい」身のこなし、「女らしい」言葉遣い (1998/10/13)
女が股を開かないのは、骨格のせい?、教育のせい?(02/10/16覚え書き)
女は本当に「女言葉」を使っているか?(1999/12/24)
小説やドラマで使われ続ける「……だわ」「……のよ」の怪
私は女の人から触られやすい?(1999/8/19)
セクハラされる私?
話を聞かない男、地図が読めない女(00/6/23, 00/7/5加筆,10/6追記,10/31微更新, 01/6/28追記
アラン ピーズ、バーバラ ピーズ共著、藤井留美 訳 『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社)。 こんなトンデモ本が「世界21カ国で大ベストセラー!」!!!
「ああ、○○だから、△△なのかあ」(01/5/2, 01/10/19微更新)
ADHD、アスペルガー症候群、他。
フロンへの異論イロン (01/6/21,6/25,6/26,6/27更新)
岡田斗司夫『フロン』(海拓舎)「家庭から夫をリストラせよ!」の感想など
続く
オリンピックを見ていて感じた覚書(00/10/6, 00/12/18


 性区別が性差別を再生産するということを、 「言語の性区別」に書いた。
 「セーラームーンの太股」について、 私の掲示板に書き込みがあった。

性差別、性別役割分業に関係する頁
C.Uneyama さん 「ジェンダー(社会的性差)とセックス(生物学的性差)について」
慶応大学理工学部 (日吉) 天文学教室の頁の 「加藤万里子の辛口批評
高杉親知さん の「日本語平等化計画」、 「『女』なんか見たくない
北原みのりさんのコラム
性別役割・性差別の必要性?を唱える『父性の復権』(中公新書)の著者 林道義氏をめぐる言説を考える ひょみさんの 「 MICHIYOSHI-LYNX(道義リンクス)
田中ミカさん他による 「ガールズ・ワークス」の頁にかつて書かれていた コラムちょっとまってよドラエモン学校に性教育させといていいの?
碓井堅一郎さん の「 常識の非常識を問う —— 男女差はごくわずか
神奈川県高等学校教職員組合 女性解放教育小委員会の 「もっと素敵にWORK&LIFE」の頁( 生徒アンケート/「男女で区別・比較されてあたまにきたこと」
性差別と闘うぞ!怒りのページ
わきげ友の会


 尚、以下のうち94年から96年の日付のあるものは、 主に東北大学の電子掲示板 TAINSbbms に掲示したものに 加筆したものです。

「父親が外で稼ぎ、母親が家事と育児」は理想の家庭だろうか
理想の夫婦(94/11/14)

 「父親が稼ぎ、母親が子育てと家事を担当する」という伝統的な夫婦の在り方が、個人の価値観では理想的に見えるから、それが温存されていくのが一番いいといった論法は説得性がないように思います。  現にそういった価値観を持たない女性が増えてきている訳だし、私自身にしてもそうです(尤も私の性別は男ですが)。  実際、私の価値観では、そのような家庭像が少しも理想的には思えないのです。  例えば私の育った家庭も、 伝統的な理想の家庭に近いものだったと思いますが、 母親がせっせと料理を作っては運んでくるのを、当然の如く肴にしてテレビを見ながら酒を飲み、また食事の後で母親が後片付けを始めても手伝おうともせずにテレビを見続けている父親の姿は(たとえそういう契約関係なのだとしても)ある種の不愉快を覚えました。  私は私で皿洗いなどを手伝ったりしたものですが、私が成長するにつれ、母親は私に家事を手伝わせなくなってきました (最近はまた変わってきましたが)。  つまり私の母にとっては、自分の夫や家族のために尽くすことにこそしあわせを感じるようになってしまっているので、せっかくの尽くす手段を減らされたくないということもあるのかも知れません。  となると、この一見利害関係が一致した状態を編み出すべく歴史の中で男たちが、自分たちに都合のいいような価値観を女たちに組み込んできたのであり、その事実に女たち自身気付いていないのだといった(TVタックルの 田嶋陽子氏 とかの仰る)意見が、非常に尤もに思えてきます。  そういう意味では、大衆の価値観の組み込まれ方の如何により、多種多様な「理想像」が成立し得るとは思います。但し、あまりにも男女に不平等な関係を理想視する価値観には、人権的な問題を感じるのです。 (例えば、奴隷が主人に尽くすことを奴隷自身がしあわせだと感じるような価値観が組み込まれさえすれば、奴隷制度を正当化できるかといったように。)  ところで、私自身の個人的な理想像は、現実性を問われなければ、夫婦がそれぞれ非常に暇な仕事に就き、家事を「分担する」のではなく「可能な限り一緒にする」というものであります。  どうやら私には「 家事を家族で一緒にすることは楽しい」と思う価値観が組み込まれてしまったようで、せっかくの「楽しみ」を「分担」などで無駄遣いしたくないと考えてしまうのです。  勿論、現実性を問われれば現状の社会基盤では極めて困難でしょう。  だから私には、伝統的な夫婦像、家庭像が温存されていくことは、少しも有り難くはないのです。  現状の社会基盤の中で、夫婦平等を達成しようとする際に生じる弊害 (家事や育児がおろそかになるとか)は、単に現在の労働時間が 「専業家計労働者」のために設定されているからでしかないような気がします。 (こうした弊害を強調することによって、伝統的家庭像を合理化するのは、論理の擦り変えではないかと私には思えてしまいます。)  例えば、専業家計労働者として働いている男性の労働時間が現在の半分になり、その浮いた時間を男性も家事に割くことができるようになり、その削減された分の労働時間は専業主婦だった女性人口によって補うといった案はどうかとか、こうした問題は、個人的にはもう少し建設的に考えていきたいと思っています。

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科学的に男女差が認められれば区別してよいのか
能力的適性(94/11/14)

 私は能力的適性により権利に差を設けるのも差別ではないかと考えており、例えばマーチン=ガードナーの『奇妙な論理』(教養文庫)に紹介されている次の例などは分かり易いかと思います。
 (私の言葉でまとめると)
 チャールズ=キャロルという人が1900年頃に黒人の劣等性を「科学的」に証明するために、脳の重さの表などを転載して「黒人の脳が平均して白人の脳よりもわずかながら小さい」ということを示したものが、今なお黒人の劣等性を証明しようとする宗教的な著作の中でいちばん広く利用されているのだそうで、
 マーチン=ガードナーはこの説の無意味性を示すべく白人の脳がエスキモー、ポリネシア人、アメリカ=インディアン、日本人、二つのアフリカ人種(カフィール人とアマクソサ人、更にはネアンダルタール人の脳よりも小さいことを挙げております。
 しかし私からすると、そのような差別的発想に対して、人種間の能力的差異を否定することで対抗しようということ自体が無意味のようにも思えます (念のため、ガードナーの擬似科学批判自体は極めて説得性が高く 、ぜひ読むに値する本だと思います。 擬似科学については、大豆生田利章さんの「擬似科学に関する文献リスト」の 頁へ)。

 というのは、「もし仮に人種間で本当に能力的な有意差があったとしても、人種間の差別が正当化される理由には少しもならない」と思うからです。  だから私には、仮に女性の方が男性よりも生物学的適性により子育てとか家事に有意な差において適しているという証拠がいくら「科学的」に提出されたところで、果たしてそれが女性に子育てと家事を担当させることを正当化する理由にはならないと思うのです (*)。

(統計差によって役割分担を正当化する ことのおかしさについては「言語の性区別」の頁の 「区別なら差別でないか」に書いた)
(また、似たような「科学的」調査の無意味性として、科学的には 全く認められない「血液型と性格の相関」があり、これについては、 柴内康文さんの「血液型を書くのはやめましょう」の頁へ

*) 長谷川眞理子『オスとメス・性はなぜあるのか』 (NHK人間大学1997年4月〜6月期 日本放送出版協会)の次の箇所などは参考になろう:

 ヒトという生物には性淘汰が働いてきたし、性淘汰を考えれば、男女の問題 に関する諸現象の多くは説明がつくだろう。
 しかしながら、「説明がつく」ということは、現象を理解することであって、 では、これからどうしようか、私たちは何をするべきなのか、という問題の答えは、 また別に探らねばならない。「説明がついた」ということは、けっして 「だからそのままでよい」という判断を自動的に導くわけではないからだ。
 ヒトという生物の進化の歴史の中で、男性は狩猟や戦争に従事し、女性は採集や 家事・育児に従事してきた。男と女のからだは、そのように作られてきた。 しかし、そのような説明がついても、だから、男は相変わらず狩猟と戦争に従事して いるべきで、女性は採集と家事・育児に従事しているべきである、ということには ならない。第一、ほとんどの男性は、もう狩猟などとまったく関係のない生活を している。コンピューターというものは、もともと、ドイツの潜水艦の暗号を 解くための機械として作られた。しかし、だからといって、コンピューターは いまだにドイツの潜水艦の暗号だけを解くべきであると考える人はいないだろう。 ものの起源を知ることは、現在のあり方を決めることにはならない。 しかし、ものの起源を知ることは重要だ。起源を知れば、なぜそれが存在する ようになったかを理解できるし、そのような起源であることからくる制約をも 理解できるからである。

 「性差の科学的説明付け」の問題については、 ここここにも少し書いた。

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生物学的適性(94/11/15)

 前にテレビで見た実験なのでよく覚えていないのですが、乳児期の子猿に、哺乳瓶を胸部に埋め込んだ母猿の縫いぐるみと、同じく哺乳瓶を胸部に埋め込んだ針金かなんか硬いものでできた母猿の人形とを宛てがうと、子猿は縫いぐるみの母猿からしか乳を飲もうとしないというようなものがありました。  つまり、子猿は柔らかい肌の感触を求めるとかそういう結論を得るための実験だったのだと思います。  一方、この手の「科学的」資料というのは、ややもすると「だから乳児は筋肉質の父親よりも脂肪質の母親に抱かれるのが良い」といった合理化に利用されがちなのも事実でしょう。  私自身は現状でも父親のみが乳時期から育児を担当することは生物学的側面からは十分に可能であると思っていますが、勿論これは「脳の人種間の大きさの違いによる能力差は認められない」と言っているのに相当する訳で大して重要なことではありません。

 では、もし「父親に乳時期の世話をされた子供の九割が後に情緒障害を起こす」というようなことが「仮に」事実だったとしたら(そんな調査結果は聞いたことがありませんが)、 どう対処すべきかということですが、  その原因が柔らかい肌への接触に対する飢餓であるとか音高の低い声に対する恐怖であったとすれば、育児用肉襦袢を開発するとか裏声で話し掛けるといった対処方法の方向性がまず考えられますが、  もし「仮に」その方向性が悉く無力であった場合には、「現状では、出産から乳時期の育児までは生物学的事情により、女性に担当してもらわざるを得ない」ということにはなるでしょう (念のため、「現実には」男性も十分に育児が可能だと思いますが)。

 さて問題は、この生物学的 不利条件に対する社会的配慮です。確かに私も出産に関しては生物学的事情により女性が担当せざるを得ないのが現状だとは思っています。  しかし実際に為されているのは社会的配慮というよりは寧ろ社会的合理化で、この出産という属性こそが、女性の社会進出の 不利条件 になっているのが実状ではないでしょうか。

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男性5000円、女性3500円
類別(94/12/8)

 人間の属性には個体差があるが、その属性のどれかに着目して個体をいくつかの集団に類別して捉える風習が我々にはあります。  それら各集団に「統計的」に認められるある能力的適性を、各集団の構成員すべてに「一般化」して、各集団の適性に応じた生活を強いる(適性の枠を出る権利を認めない)ことは差別であると私などが考えている一方で、更に、  ある集団にある弱点が「統計的」に認められた場合、その弱点をその集団の構成員すべてに「一般化」して配慮した待遇をすることは良いことだという考えが、かなり定着しているようですが、こちらは私にはどうも馴染めません。  同一集団内の個体差の方が、他集団との統計差よりも大きくなる場合を、便宜上設けた「一般化」の犠牲として例外視するには忍びないものがあります。  人間をその属性により類別化し、斯く類別化された集団の適性を一般化して扱うことは、言わば、所詮、程度問題に過ぎない筈(だと私などが思っているところ)の人間の属性に境界線を設けているように思われ、ある種の抵抗を感じます。  だから、男女の食事量の統計的傾向(あるいは給与の統計的傾向か)を一般化して、 飲み会などの会費額に差を設けるという発想にはしばしば不愉快な思いをさせられます(男性は専ら女性の存在を場の付加価値と捉えているが、女性はいやいやながらそれにつきあってやる分だけ食事は安くしてもらうという非対称な利害関係を連想させられるせいでもあるかも知れません。)  ではこれが男女の一般化ではなく、個々人の飲食量に応じた全員別会計なら納得できそうな気がするものの、飲食は個々人が共通の目的を果たす上での生理的道具に過ぎないと考えてみると全員割り勘の方が平等なのではないかという気もしてまいります(つまり、「一般化」を伴わない個人差の次元で論じたところで、まだ問題が残っているように思えます)。  例えば、衣服などがその寸法によらず値段が同じであることは、各個人が等しい権利を行使する際に生じる要求物必要量の個人差への配慮がなされた形になっており、好感が持てる一方、  食堂での食事においては大盛が追加料金を取るのが普通であるという現状は、食堂経営の経済構造のせいなのかも知れないし、個人の食事必要量が嗜好量にも一致すると思われているからなのかも知れないし、生体的必要性も嗜好性も区別できないからなのかも知れないし、単なる習慣なのかも知れません。  食事の嗜好性にのみ着目した場合、食べた量が楽しめた量にも等しいという仮定が成立するならば、少ししか食べられない人は食事を楽しめる量が少いという不利条件への配慮がなされるべきだという考えが生ずる一方、  生体的必要性のみに着目した場合、食事必要量が少なくて済むという能力的優位者に経済的負担の軽減といった優遇をすることは、弱者への配慮とは全く逆のことをしていることになってしまいます。  似たような例としては、健康な人ほど医療費が掛からなくて済んでしまう一方で、生命維持装置なしでは生きていけぬような人が医療費の工面に困っているとかいう状況はどうでしょう。  ところが世の中には、能力的優位者が優遇されるのは当然だという考えが定着しているようで、給与体系にしても概して(例えば経済発達に貢献するとか)ある特定の労働能力の高い人ほど高い賃金を得るような機構になっているようです。  こうした個人の属性差に起因する損得は権利の不平等ではないと考える人が大部分なのかも知れませんが、そうした損得が実際に行使できる権利に差を与えているのが現状のように私には思えます。  労働効率に着目して能力的優位者から優先的に労働資格を与えていき、斯く労働の効率化によって獲得された経済的利益の一部を福祉にまわすことよって、労働資格の獲得にもあぶれてしまうような労働能力欠如者の人権を保障してやろうというのが現代社会の思想なのでしょうか。  などとは言ってみても、私自身どうすればより平等な社会機構が実現されるのかといったことはなかなか見当がつきませんし、 社会主義に近付いた方がいいのかとか、 あれこれ考えたところで「各人に仮想現実体験機を宛てがい仮想現実の中で各人の好きなように生きられるようにする」とか、そんな 擬似理想郷的な方向性ばかりが思い浮かんでしまうものです。  だから現状がいいのだとも思えませんが....

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レッテル貼り
モーツァルト対ベートーヴェン(94/12/12)

 私はベートーヴェンが好きでモーツァルトが好きではないのですが、モーツァルトを好きな友人とこの両作曲家のピアノソナタについて論じていて、次のような説明をしたことがあります。  「ベートーヴェンのソナタは主題が鮮明で非常に分かり易く、一度聴いただけで印象に残り鼻歌で歌えそうになる種類のものが多いのに対し、 モーツァルトのソナタは主題が浮き上がってこない為に捉えにくく一度聴いただけではよく分からず、 何回も聴いているうちに段々いいと思えるようになる種類の曲が多いのではないか」と。  するとこの友人は、この言葉のベートーヴェンとモーツァルトを逆にしたものが正に自分が考えていたことそのものだと言うのです。  先程fj.rec.music.classicalを見ていたらこれに関係する話が出ていました。  モーツァルト愛好家には若い女性が多いが、 若い男性は少いんだそうで、この理由をモーツァルト愛好家の若い女性の一人に訊いたところ、 「若い男性には深く思い悩むような人がいないからでしょう」というような(原文とは違うかも知れませんが)答えが返ってきたとかいうことであります。  実は私は、「深く思い悩むような人が眉間に皺を寄せながらベートーヴェンの内向的な音楽に共感を求める一方、あまり物事を深く考えないような人がモーツァルトのきれいな音楽を環境音楽的に気軽に楽しんでいるのではないか」とも思っていたので、 曾て前述の友人が私の言葉から受けた感情を擬似体験したような思いです。

 つまり、どうやら人間というのは自分の属性の方を美化する傾向があり、且つその属性が生ずる理由を「法則化」しておくのが好きなようです。  「男性は胎児期に精巣から大量のアンドロゲンが分泌される時期があり、これが左脳の発達を阻害する為に男児は女児に比べて言語中枢の発達が遅いが、その間に空間把握や芸術感性を司る右脳が発達できる為、中学ぐらいまでは女児の方が成績が良いものの、男児の左脳の発達が追い付いてくると、結局右脳が幼児期に発達した分だけ男児の方がその後は成績が良くなる...」  といったことは、「仮に」部分的には科学的事実も含まれているのだとしても(右脳・左脳相違説への批判はハインズ博士『「超科学」をきる』(化学同人)、

 「モーツァルトはハ長調、ヘ長調、イ短調を好んで用い、一方ベートーヴェンはハ短調、ヘ短調などを好んで用いた。当時の調律方法の一つであるヴェルクマイスター律では、ヘ長調の主要三和音は五度が純正で三度も+4セントしかずれていない極めて純正律に近い調であり、ハ長調やイ短調など極めて純正に近い。一方、ハ短調の主要三和音は五度が6セント狭い上に三度はピタゴラス三度で22セントも狭いので非常に和音の汚い濁った調であり、ヘ短調もかなり濁っている。つまりモーツァルトは飽く迄きれいな和音を求めたのに対し、ベートーヴェンは寧ろ濁った和音をこそ求めていた訳で...」

 といったことを私が音楽関係の電子掲示板など に書いて、内心「だからベートーヴェンの音楽の方が高尚なのだ」と自己満足に耽っているのと共通するものを個人的には感じるのですが如何なものでしょう。

追記(01/5/2)

 「胎児期に男性ホルモンを浴びたかどうかで男性らしくなるか女性らしくなるかが決まる」という 説は私も昔から色々と見聞きしたことがあり、例えば、 1985年頃、NHKの「脳=ブレイン」とかいうテレビ番組でやっていた 「男の同性愛者の脳は女の脳に似ている」という話や、 オーストリアだかの統計によると、戦争中に生まれた男には 同性愛者が多いそうで、なんでも母親が妊娠中にストレスを受け ると、男の胎児が自分の睾丸から十分な男性ホルモンを分泌されない ためにそうなるという話とか、 「男らしさ」「女らしさ」の違いは脳が胎児期に男性ホルモンを浴びたか どうかの違いであるということをマウスの実験などで示そうとしている本 (新井康充「男と女の脳をさぐる」東京図書とか)、色々とある。 まあ、胎児期に男性ホルモンを浴びたかどうかで仮に何等かの性差が出るんだとして、 個人差の方が大きいとしか私は思っていない諸々の事柄にまで、その程度の「性差」 による説明付けを当てはめようとする論に出会う度に私は、 そこにある種の作意を感じてしまう(01/5/2)。 前掲書の新井康充氏は、マウスの実験を引き合いに出した上で、 「 男の子に絵を描かせると、動きのある三次元的な絵を描くのだが、女の子に描かせると、静的な二次元の絵を描く。 」 といったことまでが、胎児期に男性ホルモンを浴びたかどうかの影響であるかのように論じているが、 私はこういう論にもとてもひっかかる。 ここにも書いたけど、 男の子がボール遊びをしてはしゃいだ時に大人が「やっぱり男の子だねえ」と言えば、 ますます男の子は体を動かす遊びをするようになるだろうし、 女の子が花を摘んで花輪などを作った時に大人が「やっぱり女の子だねえ」と言えば、 ますます女の子は静かに遊ぶようになるだろう。 そのような男の子が絵を描かされて、サッカーや野球などの動きのある絵を描いたり、 そのような女の子が絵を描かされて、草花の絵を描いたりしても、 先天的な性差が反映されたものだとは私にはとても判断できない。

「性差の科学的説明付け」については、 ここにも少し書いた。

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女性の参加一人につき一点
1点(95/05/10 東北大学土木工学科内電子掲示板 cenet)

 恐らく私はこの建物内のどの女性よりも野球もテニスも下手くそな(というかルール自体知らない)人間であり、これまでも野球大会からは逃げていたので意見する立場にはありませんが、ちょっと一言久しぶりに通りすがりの意見を述べさせて戴きましょう。  さて、女性の参加者1打席につき1点を与える理由は何なのでしょうか。私は野球の常識を知らないのでピントがずれているかも知れませんが、せいぜい次の二つの理由ぐらいしか咄嗟には思い付きません。

1.女性は一般的に男性よりも運動能力が劣り、 また社会的風潮により幼少時から野球に勤しんでいる者が少ないため、 任意に抽出した男女では女性の方が野球が下手である確率が高いと考えられるので、その差を補う有利条件として女性側に1点を与える。

2.野球大会の出場者は殆どが男性で、その大部分は恋愛感情を刺激するような女性が身近にいることに細やかな喜びを感じるような種類の人間であると推測される。女性を出場させた講座は、対戦相手の講座にもそうした細やかな喜びを提供しているのだから、1点ぐらいはそのお礼としてもらって良い。

 さて、上記1.について。これは、人間をある属性に着目して分類した場合にその属性に統計的に認められる優劣を、その属性を有す者すべてに一般化する発想でしょう( 男性5000円、女性3500円 )

 この発想を人種間に持ち込むと流石に人種差別だと強く非難されますが、男女間に持ち込む分には何の疑問もなく広く受け入れられているようです。  例えば、短距離走は黒人が速いので人種別で競うなどということにはなっていないようですが、殆どの運動競技種目は男女別で競われています。  一つにはこれは程度問題で、人種間の差が男女間の差よりも個人差に包含される可能性が高いと見做されるからなのでしょう。  それでは男女間の差以上に属性間の差を生ずる分類方法は他にあるでしょうか。可能性はない訳ではなく、男女別の中ではありますが、重量別という分類を行う競技も存在します。  つまり、このような分類をするのは、能力の近い者同志を競わせるという意図のようではあります。しかし、その「近い者同志」であるか否かの判定が、所詮は性別とか体重とかの属性で決められていることに、どうも引っ掛かりを感じます。  更には個人の能力の優劣を比較判定するという競技形態自体にも疑問を感じますが、運動競技に限らず世の中の文化の多くは勝負ごとがその基本形態になっている場合が多いので、これはもはや人間に不可避な本能なのかも知れません。  ということで、これは今回の野球大会にのみに特有な問題ではありませんから、世の中の男女別競技を黙認している以上は野球大会の件も黙認せざるを得ません。

 次に2.について。これは女性の商品化を連想させます(しかもその商品価値は、女性に付帯する特定の付加価値(外見とか)のみで、その他の人格は無視された扱いの)。  というか、これはひょっとすると私の勘違いなのかも知れませんが、女性1打席につき1点という有利条件を与えておけば、 女性の参加者が増える誘因になるという思惑が隠れているように邪推してしまいます。  仮にそうだとすると、これは女性の参加者が殆どいないと見込まれる飲み会などにおいて、女性会費を安くしたりして女性参加者を増やすやり口に似ています。  こうした利害関係は私の目には「男性側は同じ場に恋愛感情を刺激する女性が居合わせることで細やかな喜びを享受させてもらう分、経済的な負担が加算されるが、 女性側はそれほど恋愛感情を刺激される訳でもない男性に囲まれる苦痛に堪える分、経済的な負担を軽減される」 という図式に見えるのですが、こういうことに平気で納得している人々は一体どういうふうに解釈しているのでしょうか。  尤も今回の件に関しては女性参加者に限り参加賞を与えたりしている訳ではなく、女性出場チームへの点数での有利条件という方式なので、 上の例に比べればまだ微笑ましい次元なのかも知れません (ひょっとして参加費の免除なんてこともやっちゃってたりして...)。  時に、テニスのできない私は橋梁研テニス大会が憂鬱です。基礎製図の担当日と重なって出なくて済むことを願っているくらいです。こんな私が野球の試合に出たりしたら1試合につき10点ぐらいはもらえるでしょうか...

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女だから煙草を吸ってはいけないのか
指標(95/06/20)

 我々は人を判断する際に、外見的なあるいは皮相的な属性(服装が派手か地味かとか、ロック音楽を好むか西洋古典音楽を好むかとか)を、指標としてその人の属する母集団を勝手に一般化(「危ない人」とか「真面目な人」とか)する傾向が多かれ少かれあると思います。  これは恐らく効率的に人付き合いをするための処世術のようなもので、知り合った一人一人の人間を平等に総合的に評価した上で、自分と交友関係を持つに相応しいかどうかを判断していたのでは、あまりに時間と労力を要した上に大した成果も期待できないので、そんな例外の発掘は放棄して自己の経験的一般化により自分と波調の合いそうな/合わなそうな指標を有す人を取捨選択しているのだと思います。  尤も経験的一般化などというものは絶対的なものではないし、常に例外の可能性は想定しておくべきことであり、ましてや個人的価値観による一般化を大義名分として相手の人権を無視するようなことをしてしまう危険性には十分に注意を払う必要があるでしょう。

 例えば、以前、私は町で外人から「すいません」と声を掛けられた時に、どうみても某宗教の勧誘にしか見えなかったので、片手を挙げて不要だという身振りをして足早に逃げてきたのですが、ひょっとしたら、あの人は単に道を尋ねたかっただけだったのかも知れないと後になって思ったのです。 これ以後は一応相手の用件を聞いてから逃げるようにはしたのですが、これが、明らかに喧嘩を売ってきた酔っぱらいとかだったら、用件を確認する前に逃げた方が無難かも知れないし、なかなか難しいところだと思います。  さて、こうした外面的属性を指標とした個人的あるいは社会的一般化自体の善し悪しは置いておくとしても、この一般化がどうも男女でかなり非対称になっているという点に私は問題を感じています。  煙草はそのいい例で、煙草を吸う女性が属していると我々が推測する母集団は、煙草を吸う男性が属していると我々が推測する母集団よりも、だいぶ不真面目な「擦れた」方の集団にずれ込んでいるような気がします (因みに私自身は嫌煙家ですが)。  だから、男性だったら躊躇わずに吸い始めている程度には煙草に純粋に嗜好品としての魅力を感じた女性でも、自分がそのような「擦れた」母集団に属する人間だとは思われたくないがために、煙草を吸えないという状況は(煙草に限らずとも)多々あるだろうし、そういう状況が結局は男女非対称な一般化を温存させてしまっているような気がします。

 このような構図を成立させている原因の一つとして、「擦れていること」が男の付加価値であり、「純真であること」が女の付加価値であるかのような通念が、世間一般にまだまだ根付いているということがあるのではないかと、私は考えてしまいます。  というのも、そのような社会通念が定着して得をするのは「擦れている」男だけであり、私のような世間知らずで木訥な男にとっては、男の付加価値も「純真であること」の方が都合がいいのですが、どうも私はしばしば肩身の狭い思いをするので、世の中の通念は前者なのでしょう。  「純真なひと」も所詮は動いてきた「擦れているひと」に靡いてしまったりするのだろうから、なんとも白けるというか世の中はなかなか難しいと思います (つい話がずれてしまいました).......

話を戻して?

 週刊金曜日の投書欄に投稿してボツになった関係記事を以下に挿入します (ちなみに、金曜日には時々、投書しているが、 金曜日の擬似科学的態度の批判とかはなかなか採用 してくれない)

男の喫煙なら構わないか

 159号の投書に関連して。 もし煙草が、胎児や家族を含めた他人に迷惑や健康上の危険を与えずに吸うことが可能ならば(例えば一人暮らしで子供を生む予定のない人が自分の部屋でしか吸わないとか)、自分の健康を害してでも喫煙を楽しみたいという権利もあるかも知れません。  但し少くとも、その権利に性の差はないでしょう。 ところで現状では、幼児もいるような家庭内や列車などの換気の不十分な公共の場で(しかも味覚や嗅覚を楽しむべき食堂ですら)、禁煙でさえなければ実に多くの人々が喫煙しています。  その中には妊娠中の女も少数含まれるのかも知れませんが、喫煙者の八割近くは男かと思います。 勿論、妊娠中に喫煙する少数の女への警告も重要ですが、幼児の前だろうが堂々と喫煙する多数の喫煙者(その大部分は男)に対する警告も、それに劣らず重要なことだと思います。  乳癌、子宮癌などは煙草によって罹り易くなる、女に特有の病気かも知れませんが、「しみ・そばかす」は男にも同様に起こることだと思います。 こうした警告を特に女に対して行うことで「美が女の価値」という通念を再生産するのも問題かと思います。  私の想像では、概して喫煙には「擦れている」といった印象があり、今日までの風潮では、男には「擦れている」ことが、女には「清純な」ことが、付加価値の一つとして捉えられていたが、その風潮が最近、徐々に崩れ始めたのが、女の喫煙者率の増加や男の喫煙者率の減少(それでも男の喫煙者数が女の喫煙者数の約四倍)に反映されているという程度のことではないかと思います。 喫煙者率の増減はともかく、私もその手の風潮はなくなってほしいと思います--—特に「擦れている」ことが男の付加価値となる風潮が--—そして「喫煙者数」がもっと減ってけねがいや。

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露出した女性の太股は誰にとっても目の保養になるか

 以下は、「男性は何故、夏でも長ズボンを穿くのか」といったことが、 東北大学の電子掲示板 bbms で話題になったときに書いたこと

半ズボン(95/7/31)

 暑いのであまり議論を誘発する方向にはもっていきたくないのですが……  私が半ズボンを穿かないのは、恥ずかしいからという以上の理由ではなく、自分にはごく当たり前の感覚でしかありません。  その感覚が形成された原因を無理に捜せば、小学高学年頃から半ズボンは恰好悪いと思って穿かなくなり、その後、長い間、人前に脚を晒すことをしない習慣に馴染んだので、今となっては脚を出すのはかなり抵抗があるということだと思います。  だから私にとってはむしろ、何故、女性には短いスカートや短いズボン(キュロット?)を穿く人が多いのかということの方が、よほど不思議です。  そういう方々は、少くとも私よりは人前に肌を露出する恥ずかしさに鈍感なのだと思います。  また一方で私は、肌の露出する割合を多くすることは、他人に対して(異性に対しても同性に対しても)、生理的な(性的な)ストレス(ハラスメントとも言えましょうか)を与えることだと思っているので、 水泳や入浴など特に機能的な必要性のないところで肌の露出する割合の多い恰好をすることはあまりいいことではないと思っています(尤も文化背景にも依存するでしょうが)。

 だから私が不思議なのは、男性の中には自分の露出した脚を見て生理的に不快に思う人がいるかも知れないと理由から、脚の露出を自粛する人がいる一方で、果たして女性の中には、自分の脚を見て生理的に不快に思う人が(異性にも同性にも)いるかも知れないと思って脚の露出を自粛する人は少ないのでしょうか。  一体、女性は同性の露出した脚を見ることは生理的に不快ではないのでしょうか。ひょっとして、女性にとっては/も、男性の脚を見ることよりも女性の脚を見ることの方が生理的に不快ではないとすると、既に女性自身が「女性の商品化」を合理化し助長してしまう要素を包含しているのではないか知らなどと勘繰ってしまいます(そうではないことを願いますが)。

 私がそのようなことを考え出したきっかけは、だいぶ前に、泉ダイエーの隣のスケート場へ行った時のことです。  私どもが隅っこの方で大人しく滑っていると、中年の女性(ひょっとすると五十を越えているかも知れない)が数人レオタード姿でスケートリンクに入ってきて、ど真ん中でスピンやらジャンプやらを始めたのです。  確かに、スケートの方の技術水準的にはどんな恰好をしても文句を言われないほどに巧い人たちなのですが、私にはその中年の女性のレオタード姿を見せられることは、極めて生理的に苦痛でした。  そこで私は自分の取りうる二つの立場を考えました。

1.若い女性ーにレオタード姿でフィギュアスケートをする権利が認められているのだとすれば、当然、他の誰にでも(中年の女性だろうが、男性だろうが)同じ権利が認められなければ、差別になる。だから中年女性や男性のレオタード姿を見せられても、それには我慢する。

2.中年の女性のレオタード姿が他人に生理的不快感を与えるには十分に公序良俗に反しているものとして自粛することが求められるべきものだとすれば、 たとえ若い女性に対してもそれを自粛することを求めなければ差別になる。だから若い女性の肉体的特徴を付加価値とするようなスポーツ競技(私の主観では新体操とかシンクロ何とかスイミングとか)の類には、問題意識を持つ。

 今現在の私の立場は、この2.の方に近く、機能的必要性からは男女で恰好を変える理由が見当たらないにも拘らず、男女が異なった装いで競技するスポーツ種目には現に大いに疑問を抱いております。  その典型的な例の一つはテニスで、飛び回ったり風が吹いたりして、スカートのようなものを穿いていたら、如何にも捲り上がりそうで少しも機能的ではないにも拘らず、女性に限って何故かわざわざそのスカート様のスコートとかいうやつを穿いています。  スコートの下にはアンダースコートとかというのを穿いているから、別にスコートが捲れあがってアンダースコートが見えても問題はないとかいう話も聞いたことがありますが、私にはそのアンダースコートというのと下着との区別が特につきませんし、 もしそれが本当にテニス競技者にとって最も機能的な恰好なら男性の競技者も同じ恰好をすべきではないかと思ってしまうのです。  そういう意味では、フィギュアスケートで、女性の選手がよく身に付けるレオタードで、非常に短いひだひだ(フリル?)のスカートのようなのが申し訳程度に腰に付いているのがありますが、 あれは現に競技の最中に頻繁に捲れあがって、臀部を露出しており、その機能性は臀部を隠すことからは程遠く、むしろスカートが捲れて臀部が露出する連想を演出効果として利用しているのではないかと勘繰りたくなります。                  

 勿論、世の中には(主に男性に見せることを念頭においた) ポルノ映画とかストリップといった肌を露出する文化も存在することを考えれば、そうした女性の肉体的付加価値を含めたものがフィギュアスケートという文化なのだと捉えれば、それはそれで構いませんが、そうした文化には無制約に公共性を与える訳にはいかないと思います。  現状でフィギュアスケートが公共の放送媒体に入ってくることが問題だと思うには、私自身感覚が麻痺してしまっていましたが、 上に述べた程度の問題意識は持っています。  というか私は運動競技の観戦には全く関心がないので、上の例は実は私にとってそれほど重要な問題ではないのですが、 西洋古典音楽の演奏会などの場合はちょっと事情が違います。  特にピアノ協奏曲などを聴きにいった場合、男性の独奏者であれば他の楽団員とさして変らない黒い衣装を着ているのが普通ですが、女性の独奏者の大部分は、スカート部分が膨らんで広がった派手な衣装で且つ腕と背中を露出しています。 しかもこれが、だいぶ年を取ってきてもこの恰好を続けられると、先の中年の女性のレオタード同様に私には十分に不快です。  というか私にとっては音楽は(特にそれが自分の好きな音楽であれば)極めて神聖なものなので、たとえ若い女性の演奏家であっても、その女性としての外見的付加価値を演出効果に利用していると連想させられることは、 どうも音楽が冒涜されたような気がして気分がよくありません (これは私の偏見かつ僻みでもありますが、そういう外見的付加価値を売り物にしている若手演奏家に限って、実は音楽が本当に好きな訳ではなく、子供時代の英才教育の惰性ではないかと考えてしまうからかも知れません)。

 更に如実なのはベートーヴェンの第九のように独唱者が男性と女性といる場合です。各独唱者の音楽的役割は同等だと(私には)思える場合でも、女性の独唱者ばかりが過剰に(それこそ機能的には何の必要性もない)飾りたてた恰好をすることが多いかと思います。  つまりこれは、以前の男女差別の問題にも関連することですが、やはり世の中には歴史的に、女性に対して外見的付加価値を演出することを義務として求める風潮が定着してしまっているのではないでしょうか。どんなに芸術的才能で価値を認められている演奏家と雖も、女性であれば外見を飾り立てることが社会風潮的に要求されてしまっているような気がします。  だとすれば私には悲しいことですが、現に女性は社会に出ると化粧することを社会風潮的に要求されるし(化粧していない女性を変な人だと思う男性や女性すらいたりする)、女性ものの服や装飾品というのが、男性ものと比べると、圧倒的に装飾性が高い(フリルが付いていたりとか、一目で女性ものと分かるようになっている)という現状を考えれば、もはやこれは社会通念になってしまっているのでしょう。  例えば一般の男性が余興等で女装すると明らかに男性が女装していると分かりますが、それに比べて女性が男装しても(わざわざ付け髭をつけたりしない限り)特に女性が男装しているとは分からないものだと思います。

 つまり、男性は別に男性の外見的肉体的特徴を強調する方向性で装飾性の高い衣装を身に付けることを歴史的に社会風潮的に要求されていないというのがその種明かしのような気がします。  以前、ここで何故、花嫁にだけウェディングドレスというものがあって、花婿にはないのかという話が出ていましたが、 以上述べてきたような意味合いにおいて、私はウェディングドレスほどこの社会の良からぬ通念 (女性はその外見的付加価値を演出するのが義務だという)を象徴するものはないと思っているのですが、 将来、自分が結婚できるかどうかは分かりませんが、仮に自分に結婚式を挙げるような機会が訪れたとして、やはり私は相手が ウェディングドレスを着たがることぐらいは許容しなければならないのでしょうね(背に腹は替えられませんから)。

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以下は、週刊金曜日にボツにされた関係記事です。
男のシンクロが見たい

108号の某氏に賛同します。 美を演出するのが女性の義務という通念自体を私は問題視していますが、ましてや、この演出に「男の劣情に訴える」手法が広く導入され定着していることには、生理的不愉快を覚えます。 寒い冬に短いスカートを穿いて太股を露出している女性は、その肌を見せられた他人に(同性にも異性にも)、生理的な不快感を与えている方の可能性は想定しないのでしょうか。 一方、暑い夏に長ズボンを穿いて脚を隠している男性は、自分の脚が他人に不快感を与える方の可能性を想定しているようです。 女性の生白い脚は誰にでも「きれい」で、男性の毛深い脚は誰にでも「きたない」などという価値観は何処で刷り込まれるのでしょう。 というか、女性側の「劣情に訴える美の演出」が日常化してしまっているので、男性側の「好きでもない人から性的刺激を受けることを生理的に不快と思う感覚」が麻痺してしまっているのでしょう。 元々はある種の男性が、女性の「劣情に訴える美の演出」が過激になるのを歓迎しているうちに、世の中がそういう男性ばかりになってしまったのでしょうか。 この見積もりを一般化した行為は、私にはしばしば不愉快です。 ある種の競技の勝利者が、若くて痩せていてきれいな女性から花輪を掛けてもらい、頬に接吻されるという光景をよく目にしますが、これが勝利者の賞賛の方法として成立するためには「男は誰でも、若くて痩せていてきれいな女性から接吻される分には、無条件に嬉しい筈だ」という大前提がある訳です。 啓発のため、以下の競技は男性にもぜひ同じようにやってほしいものです。 スコートを穿くテニス。 短いスカート?がついたレオタードを着るフィギュアスケート。 栄養失調寸前まで痩せて肉体美を演出する新体操。 露出した脚の美を見せるシンクロ等々。

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セーラームーンの太股
96/10/2:

 私には、最近の女の高校生の緩んだ靴下よりも、短いスカート(しかも制服の)の方がずっと不自然に思えるのですが.....  ズボンを下げて下着を出して歩いてる男を見て不快だと思う男(女もか)が少からずいる一方で、異常に短いスカートを穿いて太股を出して歩いている女を見て不快だと思う女(男も)はやはり少ないのでしょうか。                            ところで、あのズボンを下げて下着を出す恰好は、男の若者にだけ流行っているのですか。女の若者もやっているのですか。仮に女の若者もやっているのだとすると、若い男の下着を見せられて不快だと思う人は、同じ恰好をした若い女の下着を見せられた場合はどう思うのでしょう。  あのオカシナ恰好の発端が何処にあるのか知りませんが、見方によっては「異性の性的興奮を喚起する」という手法が、男のファッションにも取り入れられたと解釈することは強引でしょうか(私の羞恥感覚では、女の太股を出すファッションと五十歩百歩だとしか思えませんが)。  雨の日に裾を引き摺ってびしょびしょになるのはまるで非機能的であるというのは確かにその通りですが、寒い冬の日に太股を露出しているのも私には十分に非機能的に思われます。  ちょっと話がずれますが、短いスカートを穿いて太股を露出した女の高校生?みたいなのが変身して敵と戦うセーラームーンとかいう漫画をだいぶ前からテレビでやっています。  私はてっきりこれは、そういうのが好きな大学生くらいの大人(の主に男)が見ているのかと思っていたら、実は女の子供たちの間で大人気なそうですね。    今時の子供達は、まだ羞恥心も発達していないうちから、ああいう恰好が、ごく自然な、女のあるべき姿として刷り込まれていくのでしょうか。その世代が「若者」になったころには、どういう恰好が流行っているのでしょう。本当に「おむつルック」みたいなのが流行るやも知れません。

関連掲示: 「 キューティーハニー(昔のやつ)にしてもそうですが、どうして女の子が 戦う時に限って性的魅力の付加価値も抱き合わせなければアニメや映画として 成立しないんだろうと思ってしまう訳です

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女性の美には普遍的な基準があるか
美が女性の価値?  (96/2/1)

 私は、音楽の好きな友人と音楽の話をしていて、どうして音楽の好みというのは、人によってこんなにも違うのだろうかと思うことがあります。つまり私がいいと思う曲を先方はまるでいいと思わず、先方がいいと思う曲を私はまるでいいと思わず、しかもそれが西洋古典音楽の特定の作曲家が好きだというところまでは意見が一致した上での話だから、まだそれなりには音楽感性が一致している方なのであって、他方、ロックとか演歌とか全く別の分野を好んで聞いている人たちは、意見の喰い違う我々よりも更に異なった音楽感性を有しているのだろうなと思う訳です。  ところが、「女性の外見の美しさ」の好み(特に男性にとっての)というのは、どうもこのようにはばらついていないように思えます。十分にばらついていれば、女性が外見に特別の劣等意識を抱く必要はなくなるだろうし、「きれいにならなければならない」という強迫観念から体重の減量をしたり、過剰な装飾を施したりする必要がないと思われるからです。  私は最初、美的感性というのは本能に依存する部分が大きいから、これは何とも仕方がないのだと思っていました。しかし最近、自分自身の美的感性が部分的に大きく変化していることに気付き、これは実は後天的に刷り込まれた部分の方が大きいような気もしてきました。  「部分的に大きく変化」というのは、例えば昔なら単純に「きれいな人だ」と思えただろうようなある典型的「装飾手法」を施した女性を見ても、もはや「きれいな」とは思えなくなってきたというようなことです。  そういう女性は、「女性はその内面的付加価値以前に、まず最低条件として外見的美を演出することがその存在に固有の義務である」といった(私には不愉快な)社会通念に、その通りに従った、模範例だと考えているうちに、その「模範的装飾」自体が「美しく」は思えなくなってきたのです。 (こういう意味のことは夏に「半ズボン」の話の時にも書きましたが)  具体的には、

「腕や背中や胸元を露出してスカート部分が膨らんだ派手な舞台衣装を着て演奏する女性のピアニストやヴァイオリニスト」とか

「暑いのならいざ知らず、こんな寒いさなかに、わざわざ短いスカートや短いズボンを穿いて太股を露出している女性(この季節には自分の太股を他人に見せることに目的があるとしか解釈できない)」とか

のことですが、抽象するなら、「テレビの中で『きれいですねえ』と言われるような恰好」こそが、私は段々と嫌いになってまいりました。
(因みに、 似たような美的感性の変化として、世の中で「かっこいい」とか「きれい」 とされている英語や東京日本語の響きもきらいになってきました 「英語崇拝からの脱却」の頁

 別にテレビでなくとも世間でも、「きれいですねえ」の判定規準に大差はないと思いますが、テレビの方が露骨に外見に言及するし、万人の美的感性が共通であることを決めつけてかかっているようにとれます。  例えば、テレビの中では、「きれいな人と比較して醜い人をけなす」というギャグが頻繁に使われますが、誰にとっても「きれいな人」と「醜い人」が逆転しない程度には、美的感性のばらつきがない筈だということが、そのギャグの大前提になっている訳です(この種のギャグの差別性については触れないでおきます)。  しかし、私の美的感性は徐々に、そういうテレビが設定しているものからは、最近になってずれてきているような気がしています。  では私たちは、そういうテレビが設定しているような美的感性を、いったい何処で刷り込まれてきたのでしょう。勿論、テレビにおける、上述のようなギャグの頻出や、ある外見的特徴を有する出演者への「きれいですねえ」の頻出などもあるでしょうが、その他のメディアでも、徹底的に「ある外見的特徴を有する若い女性」像を刷り込まれているような気がします。  例えば、生協においてある電気製品のチラシなどでも、「ある外見的特徴を有する若い女性」ばかりが載っているような気がしますし、会社や百貨店の案内所(インフォメーションコーナー?)に待機しているのも「ある外見的特徴を有する若い女性」ばかりのような気がしますし、 コンパニオンガールと言われる「ある外見的特徴を有する若い女性」の「社会的」需要があったり、昔から「ある外見的特徴を有する若い女性」に酌をしてもらうことを楽しむ文化や商売があったりと、「ある外見的特徴を有する若い女性」に美的価値があることが既成事実化されてしまうような、大規模な社会的「刷り込み」があるような気がしています。

 それを最も如実に反映していると思う例は、テレビのクイズ番組などを含めたある種の競技(元々はカーレースか何かか?)で、優勝者の男性が「ある外見的特徴を有する若い女性」から花輪を掛けてもらって、頬に口づけされるというのがあります。 この光景に関しては、幼い頃から私には既に違和感がありました。これが優勝者への賞賛の方法として採用されるためには、「どんな男性でも、ある外見的特徴を有する若い女性に口づけされるのは、絶対的に嬉しい筈だ」という大前提がなければなりません。この程度の「大前提」が既成事実化している程度には、「ある外見的特徴を有する若い女性」像が、社会的に十分に刷り込まれているような気がします。

 さて最後に、繰り返し書いた「ある外見的特徴」というのを言葉に抽象するのはとても難しいことですが、例えば「化粧をしている」「痩せている」「短いスカートを穿いて細長い脚を露出している」(といった基本的なことの他に、私の知らないファッション用語を多用すれば、もっともっと適切な言葉で抽象できるのかも知れません)など多数の項目が挙げられると思います。  そうした項目の大部分は、最近の私にとっては「美しい」ことの条件ではなくなってきたばかりか、「過剰な装飾」や「肌の露出」は「不快」な方の項目に入ります(飽くまで私の美的好みの問題)。 勿論、世の女性にとっては、私のような偏向した嗜好を有する男性に気に入られないように、テレビで「きれいですねえ」と言われるような模範的「装飾手法」を施していた方がいいのでしょうが。  中東の方の何処かに、「女性は美しくなるために太らなければならない」というところがあったと思いますが、私にはなかなか啓発的です。美しさの「項目」の方は斯くも変わっても、「美しさが女性の価値」ということ自体は変わっていないという意味で。

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女はスキーを担げないほどに「か弱い」のか

 一九九八年二月一日。先日、友人と岩手の某スキー場にスキーに行ったの ですが、そこで、なかなか奇妙な光景を目にしました。 例えば、駐車場からゲレンデへ移動する際、 あるいは ひどい場合にはゴンドラに乗るまでの階段の登りですら、 そちこちにいる男女の二人連れのうち、 男が自分のと女のと二人分のスキーを担いでいて、その代わり、 女は自分のと男のと二人分のストックを持っているという光景です。

 言うまでもなく、スキーはストックよりも何倍も重く、 これを二人分も担ぐということは、二人分のストックを持つことに 比べたら、非常にしんどいことです (試しに、友人のスキーを借りて私も二人分のスキーを担いでみましたが、 とてもでないが、重い、すごく重い。因みに私は男だが)。

 どうして、この人たちは、こんな奇怪なことをしているのでしょう。 まあ安直に察するところ、 この頁でさんざん論じてきた 例の「男はたくましくなければならず、 か弱い女を守ってやらなければならない」といった類の (逆)差別的通念に従っているだけのことなのでしょう。

 まあ、ここでは、仮に百歩譲って「統計的には」男の方が体力があり女の方が体力が ないということにしておきましょう。 さて、それでは、女の人たちは、女の友達どうしでスキーに来たときは、 一人でスキーを担いで運ぶことができずに、近くにいる見ず知らずの男に スキーを運んでくれと頼まなければ運べないくらいに「か弱い」 、言い換えれば「体が不自由」なのでしょうか。 もしそうならば、体力のある男が女という 「体の不自由な」人のために二人分スキーを担いであげることは妥当なことかも知れません。 もし本当にそうなら、 それは、スキーを自力では担げないような体の不自由な人のために、 その人のスキーを余分に担げる人が担いでいるという状況と同じことでしょうから。

 ところがです。スキー場を見渡すと、自分のスキーを担いで移動している大勢の 女の人も現に存在する訳です。特に女どうしでスキーに来ているような人たちは、 当然、各人が自分のスキーを担いで運んでいます。 つまり、女の人は自分のスキーを担いで運ぶに足る十分な体力を有していると 私には観測されます。

 それでは、男はどうして、わざわざ女のスキーを担いであげようとするのでしょう。 体力的には多少、自分の方が勝っている筈だからと見積もった上で、 幾分、体力的に劣る女のスキーを担いであげているのでしょうか。 だとすると、そういう男は、男どうしでスキーに来たときは、 その中で最も「か弱そうな」男のスキーを担いであげようとするのでしょうか。 男である私自身、 今まで数え切れないほど男どうしでスキーに行っていますが、 そのようなことをする男を見たことはありません。

 つまり、この奇妙な行動は、特別な関係にある男女の二人連れについてのみ、 現れるようです。 確かにこれに似たような、というか更に奇怪な行動は私も以前から 目にしたことがあります。

 例えば、車に乗るときに、運転手の男が女の乗る助手席の戸を開けてやったりとか、 飯屋などの席に着くときなどに、男が女の座る椅子を引いてやったりとかいった 光景です。 まあ、これはヨーロッパ辺りのレデーファーストとかいう差別的悪習を 欧米崇拝の日本人が真似したものなのかも知れません。 実に嘆かわしいことです。 女は車の戸を自力で開けられないほどに「か弱く」「体が不自由な」訳でも なければ、自力で椅子を引くことができないほどに「か弱く」 「体が不自由な」訳でもありません。

 このような悪習に従う愚かな男女どものせいで「女はか弱く、男は女を守らなければならない」といった偏見が既成事実化されていくのでしょう。

 この辺の問題については 「言語の性区別」の頁などにも書いているので、 今回は、この辺にしておきましょう。

 時に、私は性別は男で身長は高いですが、痩せ形で、特に運動をしている訳でも ないので、どちらかというと華奢な方かも知れません。 私だって、スキーを担いで運ぶのは、自分の分だけでも十分に重いと感じながら 運んでいます。特に駐車場とゲレンデが遠い時などは、とてもつらいと感じます。 私は子供の頃から、親にスキーに連れていってもらいましたが、私の親は、 幼い私のスキーを持ってくれたりはしませんでした。 しかも昔は、今のように車でスキー場の真ん前まで乗り付けるというのではなくて、 革のスキー靴を入れた重いリュックを背負って、袋に入れた重いスキーとストックとを 担いで、汽車やバスを乗り継ぎながら、長い長い道のりをスキー場まで 重い荷物を黙々と担ぎながら移動したものです(幼い子供も)。

 それが今や、いい大人が、しかも幼かった私などよりも遙かに体力のあるだろう 大人の女が、男にスキーを担がせているのを見ると、また、 その女のスキーを担いであげて いい気になっている男を見ると、私にはふつふつと怒りがこみあげてさえくるのです。 私だって、スキーは重い。とても重い。 私だって誰かにスキーを運んでほしい (あわよくば、そんなことをしてくれる女性には出会えぬものか)。

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木訥な男?には迷惑なバレンタイン

 一九九八年二月四日。巷では二月十四日に女が男にチョコレートを贈る バレンタインという風習が広く浸透してしまったようですが、 私は今一つこの風習を歓迎する気分にはなれません (尚、ここで言うバレンタインとは日本に定着したバレンタインのことで、 欧米諸国のバレンタインがどうであるかに、私は特に興味はない)。 勿論、朴訥で受動的な男である 私にとっては、女の側の能動を煽動するこの風習は、歓迎すべきものであった筈 かも知れませんが(実はそうではないことは後述)、 そういう風習を持ってしても、 何故か女の側の能動の対象が私という男に対して発現したためしが 実質上なかったこと??への僻みが、 この風習への憎悪に変わったという解釈もできますが、それはともかく、 この風習が女から男へチョコレートを贈るという男女非対称な関係になっている ことが気に入らないのです。

 「いや、男から女へ白チョコレートだか西洋せんべいだか を贈るホワイトデー(和製英語 白い日?)というのが三月十四日に あるから男女対称なのだ」という意見もあるかも知れませんが、 これは、二月十四日に女からチョコレートをもらった男が、そのお返しに、 または求愛に応ずる意志表示?として贈るということらしいから、まるで 対称にはなっていません。

 ちゃんと対称にするには、二月十四日は女バレンタイン、半年後の 八月十四日を男バレンタインとして、 二月十四日は女から男へ、八月十四日は男から女へチョコレートによる 求愛の陽動作戦?を仕掛けることが大義名分として許される日ということにして、 その求愛に応ずる意志表示として白チョコレートを贈る日を、 それぞれチョコレートをもらった男女に対して、 三月十四日に補女バレンタイン、九月十四日に補男バレンタインとでもすれば、 一応、形式的には男女対称になるかも知れません。

 しかし、たとえ対称であっても、私はこのように不必要に 男女を区別すること自体にも 不満を覚えるので (「言語の性区別」の頁「区別なら差別でないか」 参照) 、理想的には、二月十四日に女が男にでも、女が女にでも、男が男にでも、男が女にでもチョコレートを贈れるようにするのが一番いいと考えています。

 そもそも、バレンタインに女から男へチョコレートを贈るという男女非対称な 風習が考え出されたのは、

1)「普通、愛の告白や結婚の申し込みは男から女にするもので、 その逆は はしたない」

というような、 例の「男女役割分担」の思想を根拠に正当化される性差別的通念を前提とした上で、 一見、1)の通念に逆らっているかのような特例

2)「バレンタインの日だけは特別に女から男に愛の告白をすることが許される」

を設けたということなのだろうと私は見積もっています。 さて、この2)の特例が、1)のような性差別的通念を打破していく途上における 橋渡し役を演じ得るのなら、それは大いに結構なことなのですが、 実状は逆で、1)の前提つきで2)を受け入れることが、ますます1)の 性差別的通念を再生産している面があるのではないかと私は考えています*。

* 1)のような通念があって、2)のような特例が設けてある今日の社会 に生まれた私にとっては、 「女の側の能動の対象が私という男に対して発現」 する可能性は前述したように実質上 皆無に等しかった訳ですが、仮に 1)のような通念がなく、よって2)のような特例も必要のない社会に私が 生まれていたならば、 「女の側の能動の対象が私という男に対して発現」 する可能性は、幾ら何でももう少し高かった筈だ?と いう空想(妄想)に過ぎないかも知れません。

 いずれにせよ、

1)「普通、愛の告白や結婚の申し込みは男から女にするもので、 その逆は はしたない」

のような通念が温存されることは、 軟派で能動的な男や、そういう男に求愛されること を望む受動的な女にとってはさぞ都合がいいでしょうけれども、 硬派で朴訥な男や、そういう男に積極的に求愛したい女にとっては少しも有り難くない 迷惑な話なのです。

 実は、この点でも、私自身が性差別的風潮の被害者であると思っており (それでも、女性が受けている差別の足許にも及ばないが)、 こうした恨み?も 私が何かと性差別的風潮にいちゃもんをつけていることの一つの原動に なっているのでしょう???? 恨めしや(*2)。

*2)こうした屈折した?感情が 『散文変奏』に昇華?されたらしい...

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「女らしい」身のこなし、「女らしい」言葉遣い (1998/10/13)

 私の高校は男子校(具体的には石巻高校)だったので、その間、 同年代の女の人とはほぼ完全に口をきかず、また同年代の女の人を 観測することもなく過ごしました (このことは多かれ少なかれ後の私には悪い影響を与えたと思うし、 性別による入試差別は立派な差別だと思うので、 男子高とか女子高とか女子大といった制度は撤廃されるべきだと私は思っている)。

 さて、大学に入って(具体的には東北大学の工学部)多少は同年代の 女の人とも口をきく機会が訪れたものの、 なんともこれが「いずい」のであります。 中学までの同級生の女の子とかは、男の子と同じように 「普通に」(しかも石巻語で)話していたし、「普通に」「体を動かしていた?」 ものですが、 大学生くらいに大人になった女の人の大部分は、 どういう訳か「普通に」は喋らないし、「身振り」とか「体の動かし方」までが、 なんか変なのです。

 一方で男の人たちは、(たとえ石巻語を喋らないとしても)「普通に」 中学生や高校生の時とそれほど変わらない「喋り方」や「体の動かし方」 をしているように感じるのですが、どうも女の人たちは、 中学生以前とはまるで違った「喋り方」や「身のこなし」をするようになって しまっているのです。 つまり、高校の三年間(十五歳から十八歳)くらいの間に、 女というのは極めて特殊な「喋り方」や「身のこなし」を習得してしまっている らしいのです。 男子高に通っていたために その段階的な変化を観察する機会を奪われ、 この特殊な「喋り方」や「身のこなし」に対する免疫を持っていなかった私にとって、 大学生の同年代の女の人と気軽に普通に口をきくというのは、 なかなか緊張を強いられるしんどいことでありました (だから当時の私には、多かれ少なかれ女の人と口をきくのを避ける傾向があったと 思う。一方で「普通に」話し掛けてくる女の人となら、だいぶ楽に口がきけたように 思うし、そういう人にはついつい惹かれそうになったような気も.......)。

 この特殊な「喋り方」や「身のこなし」というのを言葉に抽象するのは なかなか難しいですが、なんか こう「科をつくる」ようなというか 当時の言葉で言う「ブリッコ」などもその中の一つの「極限」 と言えるのだと思います (田中ミカさん他による 「ガールズ・ワークス」の頁の「学校に性教育させといていいの?」 の中の 「ぴよって立ち方」とかいう表現も、そういう「身のこなし」 の「極限」 を表すいい表現だと私は勝手に思っています)。 「喋り方」の方については、 次章にまわすとして、 ここでは「身のこなし」の方について少し考察してみましょうか。

 というか、こうした「喋り方」や「身のこなし」は何も大人の女だけが 採用している訳ではなくて、「女装」するような男の人たちも 積極的に採用しているようです (「言語の性区別」に関連事項)。 しかも、「女装」するような男の人たちの方が、 平均的な女よりも極端なほどに、この「喋り方」や「身のこなし」の「極限」を 身につけているようでもあります (ということは、どう動けば「女らしく」見えるかについての具体的な 手引き書が既に存在しているかも知れない。歌舞伎の女形なども その一例と言えるかも知れない)。

 その「身のこなし」をよく象徴する一例として、コップの水を飲む仕草 などが分かりやすいかも知れません。 人間の関節の自由度や筋肉の使い方として有利な角度を考えると、 コップの水を飲むときは、腕が体の外側に弧を描くような 形でコップを持つのが恐らく自然なのだろうし、現に子供や大人の男 (年寄りは女もか)の大部分はそうやってコップを持つと思います。 しかし、大人の女の人や「女装」するような男の人の多くは、 肘が体の外側に出ないように出来るだけ体に密着させ(そのために 肩がやや上がり)、 手首を甲の側に反らせて(つまり腕が恰も体の内側に弧を描くかのように) して危なっかしくコップを持つのです。

 恐らく、これは「基本形」で、個人差はあれ、物を持つときとか、 物を書くときとか、 手を振るときとか、拍手するときとか、 遠くを指さすときとか、 なるべく肘が体の外側に突き出さないように、腕のつくる曲線が 体の内側方向へ湾曲するように腕や肩や手首の動かし方を意識しているようなのです。 脚の動きについても似ていて、恐らくは膝が体の外側に突き出さないように、 脚のつくる曲線が体の内側方向へ湾曲するように意識しているようなのです。

 私からすると、こんなふうに関節の自由度や筋肉に無理を強いる ような体の動かし方を四六時中 意識しているのは あまりにもしんどいことだと思うし、そういう動き方を見せられるこっちの方が 窮屈に感じて 疲れてしまうし、なんだか媚びを売ってきているようにも見えてストレスを 感じてしまうし、 どうしてこの人たちは「普通に」動かないのか? と実に奇怪に思うのだが、 如何せん、 多くの大人の女や「女装」する大人の男が、そういう「身のこなし」をしている のが現状なのです。

 尤も、私もこうした行動を取りたがる人の心理がまるで想像できない訳でもなく、 例えば、私が大学入学当初に「標準語」を練習し、 「人前」では四六時中「標準語」で喋ろうと意識していた屈折した心理とも 近いものがあるかも知れません (当時の私の言葉に対する葛藤については「英語崇拝からの脱却」参照)。 今となっては、わざわざ発音の難しい東京訛りの音韻で共通語を喋る必要はない のだと頭では分かっていても、「人前」では四六時中「標準語」を喋るように 癖をつけてしまった名残で、未だに石巻訛りの音韻(私には最も発音しやすい) で共通語を喋ることが、むしろ躊躇われてしまうのです (実際、女の方が男よりも圧倒的に「人前」では方言を隠し、 完璧な東京訛りの共通語つまり「標準語」を駆使する傾向が強いように 私には観察される)。

 私のような木訥な?男からすると、もし私の周りの女が、 こんなふうに「科をつくる」ようにせずに、男や子供や年寄りと同じように「普通に」 体を動かして「普通に」喋ってくれていたら(あわよくば石巻語で)、 私はもっと女の人に話し掛けやすかったろうし、色んな意味で近づきやすかった のではないかと想像(妄想?)するのであります (いやあ、「女らしい」女の人と「それなりに」普通に会話が できるような免疫をつくるのには本当に 苦労しました??? まあ、これだけが原因ではないが)。

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覚え書き(02/10/16)
女が股を開かないのは、骨格のせい?、教育のせい?

 東北大学の電子掲示板 TAINSbbms に02/6/24 頃に掲示した文章に加筆。 斜体は、元の掲示で引用した他人の文章の要旨を示した。

スキーで転ぶ時に、女は両膝をつけたまま後ろ側に(仰向けに) 転ぶことが多い?

こういう転び方を、取り敢えず↓型(矢印の先端が両膝のくっついてるとこ と見て)とでも呼ぶことにしますが、 果たして、「一目瞭然」と言えるほどの性差があるかどうかは、 私は確信が持てません。 ボーゲンから転ぶ時は、男も↓型で転ぶのはそうめずらしくもないような 気がしますし、逆に、よく漫画の中で描かれるような両股を外側に開いた 転び方(凸型というか鼎型というか)の方がかなり珍しいような気がします。 仮に、スキーの転び方で、女の方が圧倒的に↓型が多いとしても、 それが純粋に骨格の性差が反映されたものとは言い切れない面も あろうかと思います。 例えば、小学生のラジオ体操を見れば(私が小学生の頃は)「一目瞭然」 でしたが、女の小学生は、低学年の頃は教えられた通りに割とちゃんと股を 開いて屈伸運動をしていますが、高学年になるにつれて、股を開かずに、 膝をくっつけたまま屈伸をするようになります(これは、ほんの一例で、 女の人が、小学高学年くらいから人前で股を開こうとしなくなる例は 捜せば、他にもいっぱい挙げれらると思います。自転車の乗り方とか しゃがみ方とか)。 つまり、多くの女の人の場合は、「人前で股を開いてはいけない」という 想念が、殆ど強迫観念のようにつきまとっているのではないかと想像する のです(最近の若い人はどうか知りませんが)*。 そうすると、スキーで転びそうになった時に、「股を開いてはいけない」 という想念に強迫されて、必死に膝を閉じようとするために、 (骨格の性差以上に)↓型の転び方をする女が増えてしまうという事情も あるかも知れません。

* 私よりほんのちょっと若い知人(女)から聴いたところによると、 小学校に入る頃から、 家庭で「女の子は股を開いて座ってはいけない」と言われていたとか。

女は畳で正座をくずすときも、膝をくっつけたまま両脚を両外側に曲げて 座ることができる

この座り方をM字座り*とでも呼ぶことにしますが、私が小学生の頃、 私の姉は、M字座りが如何に楽で合理的な座り方であるかを私に自慢 したものです。

* この座り方を「おちゃんこすわり」「ちゃんこすわり」などとも言うらしい。 さて、「おすわり」の幼児語(東北のみ?)「じゃんこ」 (普通は、お尻をつけたまま座ることを意味するだろうが) 辺りとも語源的に関係してるのだろうか?

02/11/24追記高杉親知さんから 電便で戴いた解説によると、 「M字座り」の正式な名称は「割座(わりざ)」、 「レレ座り」(横座り)は「鳶足(とびあし)」というそうです (大辞泉の「すわる」の項に絵入りで出ているとか)。 但し、「割座」は足の甲を床につけ、つま先を後方に向けるが、 足の内側を床につけ、つま先を左右に向けるのは「亀居(かめい)」というのだとか (ということは、 私の言う「M字座り」は「亀居」の方かな)。

私は、あぐらの方が楽だと反論したのですが、 姉曰く、 あぐらだと、左右非対称なので(実際には「非対称」なんて言葉は使って ないですが)、下になった方の足が痺れてくるので、時々、組み換えて やる必要がある。また、女の人がよくやる横座り(「レレ」座り)は、 あぐら以上に左右非対称で、あぐら以上に下になった方の足が痺れやすい ばかりか、腰がねじれたような恰好になるので、腰が痛くなってしまう。 その点、M字座りは、完全に左右対称で、体重を均等に分散させるので、 長時間、座っていてもどこも痺れたり痛くなったりしないというのです。 で、その頃から私はM字座りに幾らかの興味を持ってはいたのですが、 普段、部屋の中とかでは、あぐらで十分なので、あぐらで過ごして おりました。 M字座りに対するあぐらの劣勢を感じ始めたのは、 大学生になって、飲み会に参加するようになってからでしょうか。 飲み屋というのは狭いところに大人数が無理をして座ることが 多くて(掘り炬燵だといいのですが)、そういうとこでは、 あぐらをかくと、場所を取りすぎて膝がとなりの人と接触してしまいます。 お互いに接触しても気にならないような人が両隣ならあぐらでもいいのですが、 お互いに接触したくない(接触を避けた方が好ましい関係の?)人が隣の 時は、私は、仕方なく正座や横座りで飲んでました。 しかし、長時間 正座や横座りをしていると足が痛くなってくるので、 ほぼ自然習得的に私はM字座りもするようになりました。 最近の私は、家の中でも時々、M字座りをしていることがあります。

妊娠と出産のため、骨盤まわりの男女差は大きい

ところで、妊婦が歩く際の安定性は、内股と外股とでは どちらが安定なのでしょうか*。外股の方が安定なような気も するのですが、そうでもないでしょうか。 少なくとも出産の時というのは、股は(というか 少なくとも膝は)外側に開くんですよね( 「内股か外股か」と「股を開きやすい骨格かどうか」とは 独立かも知れませんが)。

* 科学的な調査ではないけど、 この を見ると、「女は内股」「男は外股」というのも、多分に教育効果を 反映しているのかも知れない。 今の日本の若い人はどうだろうか。 「女っぽい身のこなし」を取らない (つまり、「女っぽく」振舞おうという意識の低い)人ほど内股率が低かったり するのでは?

そうすると、もしかすると、女の方こそが、股を開くことに対して 男以上に生物学的な適性/必要性を有しているなんてことも ありそうな気がしてくるのだけれど、そうなってくると、 スキーで転ぶ時や、座る時や、ラジオ体操で、女の人が 股を開かない傾向が男よりも非常に高いのは、別に「股を開けないような 骨格になってる」からではなくて、単に「股を開くと女らしくない」 とか「必要な時?以外に股を開くのはいやらしい」といった 通念/偏見を叩き込まれて意識的に股を開かないように努力している からという理由の方が大きいような気もしてきます。 最近の若い人は、女でもあぐらをかくようになってきていたり するかも分かりませんが、欧米の映画とかドラマを見ていると、 女の人が地べたに座る時にあぐらをかくのは昔からそう珍しくないような 気がしていたのですが、どうでしょうか。 確か、「大草原の小さな家」のテレビドラマでは、 ローラやメアリー(共に女)が 時々あぐらを書いていたような気がします(記憶違いかも。 尤もヨーロッパでは、女がチェロを弾くのははしたないという時代も あったようではありますが)。 そう言えば、私は小学3年頃から中学まで剣道をやって( やらされて) ましたが、小学校の道場では、女も男と同じように股を開いてソンキョ(蹲踞) していたけど、中学の部活では、女は立ち膝でソンキョしていた。


その他、身のこなし関係の覚え書き

腕時計の本体(文字盤)を腕の内側(てのひら側)にすると、 腕をひっくり返して時計を見る仕草が「女らしい」 とかで、かつては、腕の内側に腕時計をする女の人が多かったが、 これでは、いちいち腕をひっくり返さないと時計の文字盤 が見れなくて不便なこともあり、 最近は腕の外側(手の甲側)に腕時計をする女の人が増えてきた (あるいは、単に流行が変わって 外側にした方がおしゃれということになっただけか?)。

藤本義一が、テレビ番組か何かで言っていたそうだが、 「近頃の若い女は、テーブルの上の右側にあるものを右手で取り、 左側にあるものを左手で取るから色っぽくない。 右側にあるものを左手で取り、左側にあるものを右手で取るからこそ 色っぽいのだ」みたいなことを言っていたらしい (だったら、いっそのことテーブルの上のものを足で取るとか、 床の上のものを口で取るとかしたら、この上なく「色っぽい」とか いうことになるんだろうか?  まあ、どうでもいいけど、因みに私は、家で 床に落ちているゴミをゴミ箱に入れる時は、足も多用する)。

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女は本当に「女言葉」を使っているか? (1999/12/24)
小説やドラマで使われ続ける「……だわ」「……のよ」の怪

 私の母語の石巻語を始めとして、東北の言葉には、女と男とで特に目立った 言葉づかいの差はない。尤も最近は、東京話し言葉の影響を受けて、 一人称を「あだし=女用」「ぼぐ=男用」などという区別も発生しつつあるが、 今でも一人称を男女で区別しない (「おれ」「おい」「わし」「わ」などなど)地域はある。 その他の語尾とかの部分には、特に目立った男女の差はないのではないかと思われる。 それに引き換え、東京話し言葉(いわゆる「標準語」)というやつには、 男女で言葉づかいに差があり、特に「女言葉」というのは、 なかなか特殊な言葉づかいだ——というように私はしばらく認識していた。 しかし、それは、私が 「標準語の手本」としていた小説やテレビドラマの対話から得られた間違った認識であって、 実は、実際に話されている東京話し言葉においては、 あんな極端な男女の言葉づかいの違い(特に「女言葉」)はないということに 気づいた (尤も、 女は目上に対してもタメ口をきく というような違いならあるかも知れないが)。

 語尾に注意して東京話し言葉の対話を観察していても、 小説やテレビドラマの対話に出てくる「そうかしら」 「そうなんだわ」「そうなのよ」「あなた、ご飯よ」 みたいな「女言葉」や 「そうだろうか」「そうかい?」「そうさ」 みたいな「男言葉?」を使っている人には、なかなか出会えない。 実際の東京話し言葉では、例えば 「そうかなあ」「そうでしょ」「そうなんだあ(横浜弁?)」 「ご飯だよ」 みたいな語尾を女も男も使っているように私には観察される。 つまり、小説やテレビドラマの対話では、 実際の話し言葉を反映するよりも、 女らしさ(男らしさ)を演出するために非日常的で 不自然な「女言葉(男言葉)」が執拗に使われ続けているのである。 なんとも奇妙な現象だと思っていたら、 山形浩生氏 がなかなか共感できることを書いているので、 一部引用する。

しかし、こういう現実との対応の薄い表現を安易に使うと、その書き手が現実からいかに離れたところで物を書いているかが露骨に証明されてしまうのではないか。現実の枠を借りて何かを語ろうというのに、その枠がガタガタで何が語れるもんか。文の世界だけで流通するコードに頼る文は、やはり文の世界の中でしか通用しない。だから、ぼくが翻訳で、人に「〜さ」としゃべらせることはないし、女も男も、一般の小説類よりは区別がつきにくい話しかたをさせる。人は現実にそういうしゃべりかたをしているんだし、書きことばの変なコードに義理立てして、それを歪曲する理由なんてまったくないんだから。

「言語表現の現実味」(『群像』1990年夏?)

正にその通りだと思う(尚、山形氏は ここ にも関連する記事を書いている)。 ところが、これとは正反対に、井上ひさし氏は、 「日本語は、言葉にすでに性別がある」とし、 それが気に入っているようである。ちょっと引用する。

 英語圏の作家が書いた台詞は、男性も言いますし、女性も言いますから、 区別するため、必ずその後に「彼が言った」「彼女が言った」 と付けなければなりません。 (中略)
 日本の作家のなかにも、これを真似て、「——と彼は言った」 「——と彼女は言った」 (中略) とばかり書いている人がいます。
 これは日本語をよく知らない人だと思います。少なくとも今のところは、 やはり男性と女性の言葉遣いというのは違うんですね。だから 「——と彼は言った」「——と彼女は言った」と書かなくていいし、 書かなくて済ますのが作家の仕事だろうと思います。


『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(本の森、1998)p.74

さて、「日本語をよく知らない」のはむしろ井上ひさし氏の方ではないだろうか。 日本語は、特に東北地方の日本語は、現に井上ひさし氏当人があの傑作 『吉里吉里人』の吉里吉里語で体現してみせた通り、 昔から(昔ほど)「男性と女性の言葉遣い」というのはほとんど違わないし、 東京話し言葉にしても、今となってはほとんど男女の差はなくなってきている。 それに、小説における二人の対話というのは、別に男と女の対話には 限らない。男と男、女と女、親と子、 黒人と白人、魚屋と八百屋、主人と奴隷などなど、様々である。 そうした人間の属性(性別や人種や職業や社会的地位などなど)が、 言葉づかいの違いで判別できれば便利だとは私は思わないし、 更には 「彼/彼女」などの人称代名詞尊敬/謙譲/丁寧からなる東京山手敬語 で区別できることが便利だとすら思わない。 仮に、そうした区別が、たかが小説の対話文において、 「——と誰々が言った」のような状況説明を書かなくて済むという程度の便利さを 与えてくれるとしても、 それ以上にこうした「便利な」区別が、さも日本語の「規範」の如くに 権威をふりかざして実は様々な差別(構造) を既成事実化し再生産する害悪の方が遙かに 大きな問題だと私は捉えている。

 例えば、 外国語から日本語に訳された文章において、 原文にはない男女の言葉づかいの違いや、身分の違いによる敬語の使い分け などが付与されていることが多々ある。 これは、「女は女言葉を使わなければならない」とか 「目下の者は目上の者に敬語を使わなければならない」という 訳者の個人的な思想を普及/再生産する媒体として、 翻訳文学が(場合によっては原作者の意図が歪曲されて) 利用されている例だと見ることもできる。 後藤斉氏 は、女の外国人に対するインタビュー記事に現れる「……かしら」は、 「言語資料として厳密に考えれば、捏造されたものとさえ言える」 と述べているが(以下に一部引用)、 翻訳文学に現れる女言葉や敬語も、 原文でも似たような女言葉や敬語が使われているのでない限りは、 一種の「捏造」であり、 訳者の個人的な思想(「女は女言葉を使うべきだ」 「目上の者には敬語を使うべきだ」)を普及/再生産するための 「改竄」でもあると私は考える。

しかし、ここで外国人女性の発言にも「かしら」が現れていることに注目しなくてはならない。その外国人女性が適切な女性語の使用も含めて日本語に堪能であり、文章が実際に話した通りであるという可能性はゼロではないが、考えにくい。むしろ、実際のインタビューは外国語で行われていたが、女性らしさを出そうとして記者ないし編集者の側で日本語で記事をまとめるときに付け加えたのではないかと想像される。そうだとすれば言語資料として厳密に考えれば、捏造されたものとさえ言える。

コーパスとしての新聞記事テキストデータ *—終助詞「かしら」をめぐって—」 (同要旨

そして、こうした「捏造」は日本人へのインタビューでも頻繁に行われている と私は感じている。 今時、東京話し言葉の話者の女といえども、「……かしら」を 使う人なんてほとんどいないのだから、新聞や雑誌のインタビュー記事に 現れる「……かしら」は、恐らく実際には、「……じゃないでしょうか」とか 「……だと思います」と答えているんではないだろうか。

 さて、翻訳文学におけるこのような「捏造」が疑われる例として、 英語原作からの 日本語訳が複数ある 『大草原の小さな家』 (ローラ インガルス ワイルダー著)の連作を考察してみたい。 この連作に対しては鈴木哲子訳、恩地三保子訳、こだまともこ・渡辺南都子共訳 などがあるが(他にもあるかも?)、 いずれの訳も十冊相当の連作の一部であり、同一の訳者の訳によって 連作の全作品が読めるようにはなっていない。 その関係で私は違う訳者の訳によってこの連作の全作品を読んだ訳だが、 訳者の違いによって、こんなにも雰囲気が変わってしまうのかと驚いた。 いずれの訳でも、主人公の母親であるキャロラインと父親であるチャールズ との言葉づかいには、多かれ少なかれ「女言葉」と「男言葉」の違いが 認められ、キャロラインはチャールズに対して丁寧語や敬語を使っている。 尤も私は英語の原文は参照していないので、 原文においてもそのような「女言葉」と「男言葉」の違いや、 妻から夫への敬語表現などが認められるのかどうかは分からない (原文を読んだ人がいたら、教えてほしい)。

 それではまず、鈴木哲子訳とこだまともこ・渡辺南都子共訳とを、 キャロラインとその知人(男)との対話で 比べてみよう。

「インガルスは町のどこかに出かけましてね。ボーストさん、奥さんはお元気ですか? きょうはごいっしょではなくて、ちょっとがっかりしましたよ」
「いや、わしもくるつもりじゃなくてね」と、ボーストさんがいった。 「わしらはこの若いご婦人に話をするためにちょっと寄ったんでさ」


ローラ インガルス ワイルダー作、鈴木哲子訳 『大草原の小さな町 25 まだ十二月なのに! (岩波少年文庫)p. 387, 1957年


「主人は町のどこかにでかけてますのよ。ボーストさん、おくさんは お元気ですか。ごいっしょでなくてざんねんですわ」
「きょうはくるつもりじゃなかったんですよ」と、ボーストさんはいい、 「この若いご婦人に話があってちょっとおよりしたんです」


ローラ インガルス ワイルダー作、こだまともこ・渡辺南都子共訳 『大草原の小さな町』第25章 思いがけず、12月に (講談社文庫)p. 394, 1988年

鈴木哲子訳のキャロラインの言葉は、 割と普通の丁寧語で、特に「女言葉」ではないのに対し、 こだまともこ・渡辺南都子共訳のキャロラインの言葉は、 かなり強烈な「女言葉」である。 こだま・渡辺共訳の方が三十年も新しいつい最近(1988年)の訳であるにもかかわらず、かえって時代錯誤とも言えるほどの濃厚な「女言葉」が使用されている 点は興味深い。 大人の男性であるボーストの言葉は、 こだま・渡辺共訳においては、割と普通の東京話し言葉の 丁寧語なのに対して、鈴木訳では「疑似田舎言葉」が使われている。 鈴木訳では、キャロラインの言葉も、家族(特に子供たち)に対して は、「疑似田舎言葉」に近い。 つまり、その意図が成功しているかどうかは別として、 鈴木訳では、素朴で田舎臭い雰囲気を、 こたま・渡辺共訳では、おしゃれで上品な雰囲気を 描き出そうと意図しているように私には感じられる。 作品の舞台である西部開拓時代のアメリカの農家には、 「素朴で田舎臭い」鈴木訳の解釈の方が合っているように 私は感じる。 尤も、インガルス一家の写真とかを見ると、 女たちが中世ヨーロッパの「貴婦人」のような コルセットをはめた細い胴に膨らんだスカートで実に 「綺麗に」「上品に」着飾った姿で写っており、 日々 農作業に携わるたくましさや汗くささを感じさせない。 確かに作中でもキャロラインは子供たちに 「女はきれいにならなければならない」 「女は上品でなければならない」 というような教育をし(具体的には、若いうちから コルセットをはめておけとか)、主人公のローラはそういう風潮に 反発している。 つまり、いくら田舎の農家とはいえ、 「女は上品に喋らなければならない」という風潮もそれなりに あったのかも知れず、その意味では、必ずしも こだま・渡辺共訳の 「上品な」解釈が不自然だとも言い切れないかも知れない。

 恩地三保子訳は、鈴木訳とこだま・渡辺共訳のちょうど中間ぐらいの 感じである。ちょっと引用する。

「また風が出てきた。夜が明ける前に、また吹雪がくるぞ」 とうさんはいいます。
「あなたがこうして家においでなら、チャールズ、どんなにひどい吹雪に なろうと平気ですよ」かあさんはいいました。


ローラ インガルス ワイルダー作、恩地三保子訳『プラム・クリークの土手で』 41 クリスマス・イヴ(福音館書店)p.392, 1973年


「また、風がふきはじめたぞ。朝になる前に、つぎの吹雪がくるな」
「あなたが家にいらっしゃるのなら、チャールズ、どんな吹雪がきたって、 ぜんぜん気になりませんわ」
 と、母さんがいった。


ローラ インガルス ワイルダー作、こだまともこ・渡辺南都子共訳 『プラム川の土手で』第41章クリスマスイブ(講談社文庫)p. 357, 1988年

まあ、恩地訳におけるキャロラインの「あなた」や「おいでなら」 も確かに「夫」に対する「妻」の敬語表現ではあるが、こだま・渡辺共訳の 「いらっしゃる」や「なりませんわ」に比べれば、 「妻が夫に隷属している」というほどではない。 興味深いのは、鈴木訳、恩地訳、こだま・渡辺共訳の出版年代は、それぞれ 1950年代、1970年代、1980年代であり、 世の中では女性解放が進んでいく中で(実際、作中のキャロラインやローラだって、 当時は女には困難であったにもかかわらず、 勉強して学校教師の職に就いたりした女性解放の先駆者なのだが……)、 『大草原』の翻訳は、時代を経る毎に、時代の流れに逆行して、 「女らしさ」や「妻の夫への隷属」が強調されるような訳になってきている という点である。

途中。続く。

14/1/15追記: このように、 話者の特定の人物像(年齢・性別・職業・階層・時代・容姿・風貌・性格など)を想起させる特定の言葉遣い のことを 「役割語」 というらしい。 金水敏さんの提唱とか。 確かに、「…だわ」「…のよ」のようなわざとらしい女言葉は、 そういう役割語として機能させるために使われている面もあるだろうが、 私はどうもそれだけではないような気がしている。 というのも、私自身が高校時代に小説を書き始めた時に、 嬉々として「標準語」のつもりで 「…だわ」「…のよ 」女言葉を使ったりしていた動機は、 少なくとも役割語としての機能を使うためではない。 小説という大義名分の中で、それも「標準語」の小説という大義名分の中で、 登場人物に堂々と (高校時代の)自分が女性に妄想的に求めていた (現実にはわざとらしいレベルの)可愛らしさとか、お嬢様っぽさとか、 清純さとかを言葉遣いレベルで演じさせても、 小説とはそういうものだから、ぜんぜん許されてしまうから、 たかが言葉遣いレベルでは、 理性のブレーキなんか効かずに、自分の妄想レベルの言葉遣いを平気で 女性の登場人物にしゃべらせてしまっていたのではないかと思う (まあ、こういう機能も含めて「役割語」というのかもしれないが、 特に 「性の商品化」のツールとしての機能が利用されている場合は、 「役割語」で一般化してしまうと、その問題性が矮小化されるかなと)。 私の中で、高校時代にそれと全く同じような心理を感じていたことが もう一つある。 私は、高校の体育祭では看板絵を描く係を3年間やったのだが、 1年生の時、先輩たちが 長岡秀星 の画集の裸の女の人の絵を、絵コンテを使ってぼかしながら写実的に描いているのに 感動し、とても羨ましく(実は私もそういう絵が描きたいなあと)思ったものだ。 私が3年生の時のテーマが「モダンアート」みたいなやつだったと思う。 私は、それをいいことに、長岡秀星の画集にのっている裸の女の人を参考に (真似)しながら、 これで堂々と裸の女の人の絵を描く大義名分ができたと こんな絵を描いたりした。 女性に妄想を抱く年頃の男子高校時代の私にとって、 アートだから裸の女の人を描いていいんだという大義名分も、 小説だから「…だわ」女言葉をしゃべらせていいんだという大義名分も、 ほとんど同じ次元の心理だったなあと思い起こされる。 そういう意味で、「…だわ」女言葉が使われ続ける理由は、 役割語としての機能だけではないんじゃないかなと私は疑っている。 この件については、またいずれ考察したい。 数学や科学のテキスト系書籍に、萌えキャラが使わたりするのだって、 さすがに水着やヌードの女性とかを挿絵に入れたりしたら露骨なので、 萌えキャラなら許されるっていう新手の 「性の商品化」手法なんじゃないかなと 私は疑っているところがあるけど、「…だわ」女言葉の問題もそういう 広い意味での「性の商品化」と関連性があるような気がしている。 その辺は、もう少し考えがまとまってから。

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私は女の人から触られやすい?
セクハラされる私?

 私は意味もなく他人の体に触るのを好まないし、また、 他人から意味もなく自分の体に触られるのも好きではない。 私の性別は男で、普段 接する知人や親しい友だちなども圧倒的に男の方が 多いが、そういう私の周囲の男の人たちは、めったに私の体に触ってきたりはしない (久しぶりに会った人が別れ際に握手を求めるぐらいである)。 一方で、少ない機会ながらもたまに会ったりする 女の人からは(特に親しくもない、更には初めて会ったような人からも)、 私は時々 触られているような気がする。

 例えば、数人で集まって真面目な話なり、談笑なりしていたとする。 あまり冗談を言わない私が、ちゃんと真顔でちゃんと真面目な発言をしたとする。 すると、私の隣に座っていた女の人が、 その私の真面目な発言を、良からぬ想像力で「私がおどけた」のだと 曲解して勝手にウケて、
「やだー」
とか
「もー」
とか
いっそお
とか言いながら、肘で私の腕や脇腹をつついたり、ひどい人だと私の太股を手で 叩いたり、更にひどい人だと私の首を絞めたりするのである。 たまたま私が心を寄せる人がそんなことをしてきたのであれば、それは私も 嬉しいだろうし、なかなかドキっとするかも知れない。 しかし、私が心も体も?許したくない人からそんなふうに馴れ馴れしく触られる ことは、私にはなかなか生理的に不快でありザワっとする。 その意味でこれは立派なセクハラだと思う。 というか、同じような状況で、男が女を同じように触ったら、現行のセクハラの 基準でも余裕でセクハラに分類されるのではないだろうか。 少なくとも私が接してきた集団では、この種の「セクハラ」は、 女から男に対する方が、男から女に対するよりも多いように見える (尤も、人前で私に馴れ馴れしく触ってくる女の人が、私と二人切りになった途端に 更なる「より挑発的な」身体的接触を敢行してくることは皆無である、念のため。 それよりはむしろ、 人前では「李下に冠を正す」ようなその手の子供じみた身体的接触を狡猾に 「我慢している」男の人が、 水面下では「下心に突き動かされた」「より確信犯的な」身体的接触を敢行している というのが実状なのかも知れない)。

 あと、私は後ろから女の人に肩を叩かれて振り向かされることがある。 この場合、確かに私を振り向かせるという機能的な必要性はあるし、現に 耳の聞こえない人の間では、この方法が、人を振り向かせるために重宝している だろう。しかし、耳の聞こえる私を声の出せる女の人が振り向かせるには、 声をかけるという方法もあるのに、どうして肩を叩く方を選ぶのだろう。 賑やかな立食宴会などであれば別だが、声をかけて気づかれる状況で 男の人から肩を叩かれて振り向かされることは非常に少ないような気がする (まあ、女の人も気軽に肩を叩いてくるのはごく一部の人だけだが)。

 機能的必要性という意味では、二人くらいずつの集団で 歩いているときに雨が降ってきて、傘が人数分なくて二人ずつの相合い傘 になることがある。 そういうときに一緒の相合い傘になった男の人が私と腕を組もうとすることは まずない(一度くらいはあったか)。 しかし少し前のことになるが、ある会合で ある年配の女の人と相合い傘になったら、 初めて会ったばかりのこの人は、どういう料簡か私と腕を組んできた。
「彼女に見つかったら怒られちゃう」
とか言っていたから、明らかにそういう自覚を持って腕を組んできたのだろう。 腹の立った私は
「彼女なんかいません」
というまるで「逆効果」のことを言ってしまったが、 私に「彼女」がいないからといって、「彼女」のいない男になら即「女は腕を 組むことが許される」などという論は断じて成り立たない。 現に私はなかなか不快だったし、それでも友好的な関係を保たなければならない相手 だったので、「やめて下さい」とはとても言えなかった(それに私は気が弱いし)。 これは余裕でセクハラである。 年配の男が若い女とたまたま相合い傘になったのをいいことに、 「彼氏に見つかったら怒られちゃう」とか言って腕を組もうとすることがセクハラだというのと同じである。

 腕を組まれると言えば、私は以前 飲み会で酔っぱらって足許が怪しくなった ときに、女の人に腕を組まれて家の近くまで送られた(と言っても二人っきり ではない、念のため)ことが一度くらいはあるような記憶が微かにある。 しかし、私が酔って足許が怪しくなったときは (そんなにしょっちゅう足許が怪しくなるほど飲んだくれている訳ではない、 念のため)、女でなくても男でも腕を組んで私を支えてくれるから、 これは別にどさくさに紛れて腕を組んできた訳ではなくて、 足がふらつく私を支えるための機能的必要性があったためと好意的に解釈しておく。

 さて、それはさておき、どうして女の人は、私を(男を?)気安く触って くるのだろうか。どうして、女が男を触ることは、男が女を触ることほどは セクハラとして問題視されずに許容されてしまうのだろうか。 やはりこれも、「女はカヨワイのでどんな男にも甘えていい」とか 「女はカヨワイので男はどんな女でも守ってやらなければならない」 のような根深い性別役割の思潮や、 「女の性衝動は男の性衝動のように強くはない ので、女が男に触っても『李下に冠を正す』行為とは受け取られない」という 勘違いした見積もりに起因しているのだろうと私は考察する。 その意味では、 男よりも女の方が目上の異性に対してタメ口をきく傾向が著しく強いという現象も、それと同じ原理なのかも知れない。

 勿論、全ての女が男を気安く触ったり、目上の男にタメ口をきく訳ではない。 「女らしい」身のこなしや「女らしい」言葉遣い をする人ほど、その傾向が顕著だと私は感じる。

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話を聞かない男、地図が読めない女 (0000/6/22)

 アラン ピーズ、バーバラ ピーズ共著、藤井留美 訳 『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社) という本が本屋に山積みになっている。 まあ、題目を見ただけで、この本の「意図」は予想できるが、 手にとってみたら、「予想」以上にひどい。 冒頭からしてひどい。 試しに、「はじめに」から、少々 引用する。

(前略) ボブとスーは一〇代の娘たち三人を連れて、家族そろって海辺にドライブに 出かけた。ハンドルを握っているのはボブ。妻のスーは(中略) 娘たちのおしゃべりに加わっている。しかしボブには、四人が好き勝手に しゃべりちらしているようにしか聞こえない。がやがやとうるさい声が切れ目なく 聞こえるだけで、まったく内容がつかめないのだ。ついにボブはキレた。
「うるさいぞ、静かにしないか!」
(中略)なぜボブがどなったのか、彼女たちにはわからない。 (中略)
 この根本的な原因は、男と女はちがうという単純な事実に尽きる。 どちらが良い悪いではなく、ただちがうのである。これは科学者、人類学者、 社会生物学者には常識でありながら、あえて世間には知らされてこなかった 事実だ。というのも、人種や性別、年齢などで人間を差別しない、つまり 「政治的に正しい (ポリティカリー・コレクト)」 ことをめざす社会では、そんなことを口にするとつまはじきにされるからだ。 いまの世の中では、技能や適性、能力において、男女差はないことになっている ——だが、その前提が完全な誤りであることは、科学の世界では以前から 知られていた。(後略)

これは、今までさんざん論難され尽くされてきた、実に陳腐な 性差別の「科学的」正当化の議論の典型例である。 こんな、もはや時代錯誤的とも言える非常識な主張を書いている本が、なんと 「世界21カ国で大ベストセラーになった超話題作!」 と本の帯には紹介されている。 はっきり言って、この陳腐な議論への反論としては、 この頁の「科学的に男女差が認められれば区別してよいのか」 や「レッテル貼り」や「言語の性区別」の頁の 「区別なら差別でないか」辺りで 十二分だろう。 ちょっとだけ書くと、まず、 「車を運転中の父親が妻と娘たちの会話の内容をまったくつかめない」 という例が、「男と女の違い」を表す典型例(の「紋切り型」)として、 「ああ、そうそう、そういうことはよくある、確かにその通りだ」 と読者に通用するのは、 欧米の、しかもごく一部の文化圏だけではないだろうか。 日本では、「女はお喋りだ」とか「女はくだらないことしか喋らない」のような 「紋切り型」はあっても、 「男は女たちの会話の内容をまったくつかめない」という「紋切り型」は 特にないのでは ないだろうか。むしろ「女は男たちの会話の内容を理解できない」という 逆の「紋切り型」すらあるくらいではないだろうか。 まあ、その辺はどうでもいいが、要は、 この本は、著者らの、その程度の極めて恣意的で 個人的な「紋切り型」(つまり偏見)を 如何に「科学的に」一般化し、正当化するかということに終始しているに過ぎない。

 この本を貫く決定的な「誤り」は、 「いまの世の中では、技能や適性、能力において、男女差はないことになっている ——だが、その前提が完全な誤りであることは、科学の世界では以前から 知られていた」というトンデモない勘違いに尽きる。 「区別なら差別でないか」でも書いたが、 人間を「人種や性別、年齢など」に着目して適当な二つの集団 (例えば、「白人と白人以外」とか 「男と女」とか「40才未満と40才以上」とか)に分類すれば、その 二集団の間で、何らかの能力(体力とか)の平均値に ある程度の有意差が現れることはある。 しかし、その程度の有意差は、その一方の集団内部でのその能力のばらつきよりも 遙かに小さいものでしかない。 例えば、女の体力の平均値が男の体力の平均値よりも劣り、 40才以上の人の体力の平均値が40才未満の人の体力の平均値よりも 劣っていたとしても、 平均的な男よりも体力の優る女もいるし、 40才未満の人の平均よりも体力の優る40才以上の人もいる。 つまり、人の様々な能力や適性というものは、 「人種や性別、年齢など」の違いよりも、 個人差の方が圧倒的に大きいのである。 それを無視して、「人種や性別、年齢などで人間を差別」して、 職業適性や家庭における役割分担が一方的に決めつけられるからこそ 差別であり問題なのである。

 さて、こんな本を真面目に批判する気もないのだが、 もし、この本が国内で今後もしばらく売れ続けたりするようだったら、 改めて詳細に批判するかも知れない。 しかし、こんな本が本当に「世界21カ国で大ベストセラーになった超話題作!」 なんだろうか。それが 本当だったら、 スティーブン ジェイ グールド辺りが黙っていないかも知れない。

補足(0000/6/23,7/5)  この本の中で女の空間把握能力が男の空間把握能力よりも劣ることを 示す調査結果とかが紹介されているが、 百歩譲って仮に その調査結果が十分に科学的なものだとしても、それが本当に生物学的 性差を反映したものと言い切れるかどうかは甚だ疑問である。 例えば、幼児のおもちゃ売場を見ると、 あからさまに女児用玩具と男児用玩具は大人の偏見に基づいて選別されていて、 種類もかなり違うことからも分かるように、 まず、幼児期において、 積木やブロックなどの「空間創造」ものの玩具に触れる機会自体に有意な 女男差があるかも知れない (女児が女児用玩具を手にしたときに「やっぱり女の子だねえ」と 大人が感心すれば、ますます女児は選択的に女児用玩具で遊ぼうとするかも 知れないし、逆に男児用玩具を手にしたときに「あれ、女の子のくせに」と 大人が訝しがったら男児用玩具で遊ぶことをためらうようになるかも知れない)。 それに、長谷川眞理子氏が『男学女学』(讀賣新聞社)の中でも 似たようなことを書いていたが、夫婦で出かける際に常に妻が夫側の先導するのに 身を任せて行き先を 頼り切っているような状況においては、 妻は自力で方向を判断しようとしないし、その能力は磨かれない。 ところが、いざ妻一人で旅行しなければならないような状況が訪れると、 実は妻にも十二分な「方向感覚」が備わっていたことが判明したりする。 実際、私(性別は男)は車を運転するとき、 石巻の道路はまるで覚えられないが、遙かに複雑な仙台の道路はそれなりには 覚えられる。 というのは、石巻で車を運転するときは、しばしば親(しかも母親、 つまり性別は女)を乗せていることが多いので、道順案内を母親に頼ってしまい、 自分では判断しないので何回同じ目的地に連れて行かれても一向に 一人だけで行けるようにはならないのだ(私のこの「方向感覚の悪さ」には 私の親も呆れ果てている)。 ところが、仙台では私は一人で車を運転しなければならないので、 「迷子」になるたびに、「まるで暗号のような地図」と根気強く睨めっこし、 それを「解読」しながら道順を判断したりしているうちに、 それなりには道を覚えられるようになってきた (『話を聞かない男、地図を読めない女』では、女は地図をくるくる回転させると書いているが、進行方向に合わせて地図を回転させるのは、 混乱を防ぐとても合理的なやり方だし、男である私もいつもそうしている。 というか、現にカーナビだって進行方向が常に上向きになるように地図を 回転させる機能はついている)。というような訳で、 恐らく私は、車を運転する平均的な女よりも、かなり「方向感覚が悪い」 のではないかと自覚している。 ああ、そうだったのか! 私は空間把握能力が劣っていたから、 三-次-元における大-変-位・大-回-転を考慮した幾-何-学-的-非-線-形-解-析が 苦手だったんだ!  (専門用語に「-」が入っているのは、その鍵語でこの頁を検索されては 困るから。笑)

この項 続く?
覚え書き
『話を聞かない男〜』によると、男は同時に複数のことに集中できないそうだ。 この著者らは聖徳太子という日本では誰もが知っている反例のことを知らない のだろう。それは、まあいいとして、 私は性別は男だが、車を運転したり料理をしたり電便を書いたり電網頁の更新をしたりしながら、 CD再生機で音楽をかけ、更にラジカセでエスペラントのテープを聞いたり テレビを見たりしている。

「男は方向感覚はいいが視野は狭いので冷蔵庫の中のバターを見つける ことができない」というのも 馬鹿げたこじつけだ。 単に著者らの文化圏の男たちは料理をあまりしないので、 冷蔵庫の何処に何があるかを把握していないだけの話だろう。 くだらないにも程がある。

追記(00/10/6):

「話を聞かない男」の鍵語で時々 検索してみていたのだが、 しっかし、この本を読んで「なるほど、そういうことだったのかと納得した」みたいな 感想を書いた頁ばっかりでうんざりしていた。 のだが、先日、 北原みのりさんという人が ちゃんと批判しているの をようやく見つけたので、紹介しておく。

00/10/31 追記:
 のださんの本家近況 の 00/10/27 の日付のところで、 この件に関して上記の北原さんのコラムと、その「リンク元」の 私のこの頁への言及があるのを見つけたので、一応 紹介しておく。

01/06/28 追記:
 ドリーン・キムラ著、野島久雄・三宅真季子・鈴木眞理子訳『女の能力、男の能力 ——性差について科学者が答える』(新曜社)という本を買ってみた (ここにキムラ氏本人の頁がある。英語)。 本の帯に、 「女は地図が読めない?! 男は人の話を聞かない?! どこまで信じるべきか?  相違はどこからくるのか? 女性科学者が解き明かす女の能力、男の能力」——と 明らかに『話を聞かない男、地図を読めない女』を意識した宣伝文句が書かれているが、 『話を聞かない男〜』みたいなのを真に受ける人にこそ読んでもらうことを 期待する訳者の演出なのだろう。 本書では(まだ読んでないけど)、空間知覚能力などにおける統計的な性差とか、 性ホルモンが脳にどのような性差を及ぼすかなどについて、客観的なデータに基づき 科学的に論じられている。 また統計的な数値を解釈する上での留意点なども付録として付けている。 そして、こうした 客観的なデータが、現行の性差別や性別役割を正当化するのに利用される危険性 について、「訳者あとがき」で注意が喚起されており、 その態度には好感が持てるので少し引用する:

 男と女の違いは、昔から多くの人の興味を引く話題だった。近年も、このトピックをおもしろおかしく まとめた本が日本で大ベストセラーになっている。しかしながら、それらの中には恣意的なデータや ずさんな議論もあり、茶飲み話としてならともかく、学問的な検証にたえうるものとはいえなかった。 知能指数が人種間で異なるかどうかに関する議論と同様に、男性と女性に生まれながらの差があるという ことは、安易に語ると、単に現状の性差別を肯定することにつながる恐れがある。

知能指数の人種間の差を説明しようとする試みの一部が人種差別の理論的な根拠と考えられてきた ということについては、以下のグールドの著作に詳しい。
グールド、S.J/鈴木善次・守脇靖子訳(1988)『人間の測りまちがい——』 (増補改訂版)、河出書房新社

(中略) 図形の回転課題のような純粋な空間認知能力が男性に比べて女性のほうが低いからといって、 女性のほうが道に迷いやすいというよく聞かれる俗説の正しさが説明されたと考えてはならない。 迷わずに道を歩くというのは、街の知識、手がかりを見つける能力、人に道を尋ねる技術、過去経験 などさまざまな知識、能力、社会的なスキルが組み合わさって実現されてるのである。 (中略)
 また、集団としての女性の空間能力が低いからといって、目の前にいるある一人の女性の 空間能力が低いかどうかはわからない。 男性と女性の集団間の差よりも、集団内での個人差の取りうる幅はきわめて大きいからである。

ドリーン・キムラ著、野島久雄・三宅真季子・鈴木眞理子訳『女の能力、男の能力 ——性差について科学者が答える』(新曜社)——訳者あとがき

 ここで、訳者は『話を聞かない男〜』 (その書名を出してはいないが、本の帯の文句からしても、まずこの本を念頭に 置いていることは間違いないだろう) に対する実に適切で必要十分な論難を与えているが、 『話を聞かない男〜』とかを買って面白がるような読者層は、 こういった客観的データに基づいた科学的な本はまず買わないんだろうなあ。 「性差の科学的説明付け」の問題については、 ここにも少し書いた。

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「ああ、○○だから、△△なのかあ」 (01/5/2)

 この辺の話は、色々と微妙な問題に抵触するので、 前々から気になってはいたものの書いていなかったが、そろそろ書き始めてみたい(途中まで)。 まあ、私も色々と事実誤認をしていたりするだろうから、 その辺に気づいた人には遠慮なく指摘していただきたい。 最近、 性同一性障害関係の様々な用語(トランスジェンダー、トランスセクシャル等々)や 自閉(症)類似/周辺障害関係の様々な用語(LD、ADHD、アスペルガー症候群、等々)を 方々で見かけるようになった (トランスジェンダー関係の方はここに書いたから、 こっちでは特に触れない)。 こうした分類は、医学的(あるいは社会的)には、 ちゃんとした定義があって、ある人々には役に立っている必要な分類なのかも知れないけれど、 一方で、こうした分類は(当事者ではない世間の人々の間では)一人歩きし、 各種のレッテル貼りによる説明付け( 「**さんって、人の話を聞かないけど ADD なんじゃない?」とか 「私が部屋を片付けられないのは、きっと ADD だからなんだ」等々) に利用されやすいのではないかと私は懸念している*。

* 例えば、「アダルトチルドレン」 という言葉なども、そのように一人歩きした用語の典型ではない だろうか。参考までに以下に現代用語辞典(1999)の「自称アダルト・チルドレン」の項から引用する:

しかし、アダルト・チルドレンはとくに精神医学的に認められた病気でも なく、正式な診断基準もない。そのために、本来は、親に愛されず、いわ ゆる虐待を受けたりして心に傷を負った人々をいうのだが、子どものころ、 電車で騒いで親から叱られたとか、ご飯の前にお菓子を食べて怒られた程度 のしつけを理由にあげて「自分もアダルト・チルドレンだった」と思い込み、 現在の不満や不安のすべては親のせいだという現代の若者心理に拍車をかけて いる。どんな家庭にも少なからず問題はあり、子どもはある程度親にしつけ られ、叱られ、軽い心の傷を受けることで大人になっていく面もある。自称 アダルト・チルドレンを増加の動向は、「いまの不幸は親の責任」と自己 正当化をはかり、親からひとり立ちできない現代の若者心理を浮き彫りに している。

 部屋の片付けができないとか、物事に集中できないとか、なんでもかんでもアスペルガーや注意欠陥障害のせいにしたがる 世間やマスコミの風潮を疑問視する意見として(今のところ私が電網上で見つけたそれらしいの)は、 ここの宮崎恵彦さんの書き込みここの木村小太郎さんのコラム 等。実際、この程度の診断基準で判断 するなら、子供時代の私なんて余裕で ADHD になりそうだ。というか、ここの「不注意」「多動性」「衝動性」の 項目に六つ未満しか該当する項目がないような子供の方が逆に私は心配なくらいだ。

01/10/19追記

医学都市伝説」の “「くまのプーさん」の闇” では、 「カナダや米国で、子供達の問題行動を安易にマニュアルに当てはめて、 リタリンなどの覚せい剤が多量に投与されている現状を鋭く批判しているつもり 」のパロディ論文が 紹介されている。

 時に、私は数ヶ月前から二人暮らしをしているのだが、 そのおかげで、私はどうやら自分がかなりそそっかしいらしいということが分かってきた。 十数年間一人暮らしをしているときは殆ど気にならなかったのだが、 私はある頻度で、食器を落として壊したり、食べ物や飲み物をこぼして床を汚したりする。 で、その度に同居人から、怒られるのである。 ある時、私がコタツの向こう端の食べ物を取ろうと箸をのばした際、 自分の側の角に置いてあった葡萄酒の瓶を倒して、コタツがけの上に赤葡萄酒を 撒き散らしたことがあった。 その時、同居人は「信じられない」と呆れたものの、しばらくしてから、 「ああ、わがった。 **は、一つのごどに集中すっと他のものがなんにも見えねぐなんだな」 と言って納得したようだった。 んー、 私が単に「そそっかしい人」であれば、 同居人は私が物を落としたりこぼしたりする度に私の「そそっかしさ」に とても腹が立つところだけれども、同居人は 私の「そそっかしさ」には(「一つのことに集中すると他のものが見えなくなる」という) 理由があるのだと説明付けすることで、納得して腹立ちを抑えようとしたのかも知れない。 こういう心理は私も分からなくない。 「自分には怪訝に思えたり腹が立つような他人の不可解な特徴を直接けなす訳にはいかないから、その代わり、 その人の何等かの属性(場合によっては病気とか障害とか)がその不可解な特徴の原因なのだと分析してあげて納得する」 というような「説明付けによる納得」は、多くの人が多くの場面でやっていることと思う (因みに、 ここ によると、 「 誰かの行動の表面的なところを捉えて、DSM−IVなどのマニュアルにあてはめ、 一見学術的な言葉で揶揄するのは精神医学系の臨床初心者がよくやること」なんだそうだ)。 例えば、私自身がやってしまったものとしては、 白人のアメリカ人のうちに遊びに行った時に、部屋の照明が暗いので、 「ずいぶん、こっ暗えどごさ住んでんなあ」と思った私は、 素直に「暗いなあ」とは言わずに、「ああ、目が青いからか」 と言って納得してみせたことがある。 私が子供の頃、いとこの子供が遊びにきて歌を歌っていたのだが、 ちょっと音痴だった。そしたら、それを聴いた私の母親が、 「**ちゃんは耳が悪いって言われだごどない?」 と、さも心配そうに訊くのである。恐らく本心は、単に 「あら、**ちゃん、ずいぶん音痴だごだ」と言いたいだけなのに。 あと、教養部の英語の時間に、読みを頻繁に間違える学生に対して 「文字障害じゃないのか」と心配していた先生もいたっけ。 まあ、これらは「病院へ行った方がいいんじゃない?」の変種でもあるんだけど、 とにかく我々には、 自分には理解しがたい他人の性癖を「病気だから」とか 「男だから/女だから」とか その手のレッテルに分類することによって納得して安心したがる 強い性癖があるように私は思う。 で、そのようにレッテルに分類することによって納得することが、 どう問題となるのかについては、また今度(途中。この項、続く)。

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フロンへの異論イロン (01/6/21,25,27

 最近、あちら で岡田斗司夫『フロン』(海拓舎)が流行っているようなので、 まあ、私も興味のある問題を扱った本でもあるし、試しに買って読んでみた。 この本では、 「家庭とは育児をすることを共通の目的とする、共同体である」 と定義した上で、育児を効率的に行うにはどうすればいいかという ことを作者なりに分析・考察した上で、 妻が育児の責任者になり、夫をリストラすればよい (夫と別居して夫の経済的援助は受けるが、週末とかに夫が泊まりに 来てもよい)」という結論を提示している。 まあ、分かりやすく言い換えるなら、 「育児(と家事)を全くするつもりがない男と結婚して子供を生んでしまった女は、 そんな男とはさっさと離婚して、養育費をもらって自分一人で育児に専念した方が ずっと効率的だ」 ということだろうし、そういう話なら実に分かりやすい。 しかし、それがこれからの時代の理想的な家庭像になっていくかのような考察には まるで同意できない。 「女が育児に専念」/「別居の男が養育費を援助」という関係は、 そのような性別役割を前提としない限りは、別に「論理的に」導かれる結論でもなければ 効率的な最適解でもなければ21世紀の理想でもなんでもない。 せいぜい、 「(結婚する前には世間的な性別役割に従ってうまくやれると思って) 専業主婦にはなってみたものの、 いくらダンナがお金を稼いでくるからといって、 育児という重労働を自分一人で担当する他にダンナの身の回りの世話までやらされるのでは、 とてもとても割に合わない」 というように、現在(自分に課されている)性別役割で苦労している (ものの、だからといって子供も作ってしまったし、 「もう、いやだ、やめた」なんて許されない) 妻たちへの緊急避難的な解決案ではあるかも知れないけれど、 これから(結婚して)子供を生んで家庭を築きたい人たちに、 「こういう家庭が理想ですよ」と提案できるものだとは、私には到底 思えない。 というか、そういう(現在の妻たちが苦しまされている)性別役割を現状追認し温存していく提案でしかない。 それに、仮にそういう妻たちには、緊急避難的な解決案にはなっているとしても、 リストラされる側の夫たちには、なんの解決にもなっていない。 妻の側の例と対応させて書くなら、 「(結婚する前には世間的な性別役割に従ってうまくやれると思って) 一家の大黒柱にはなってみたものの、 いくら妻が家事育児をやってくれるからといって、(いつ首を切られるか分からない不安に戦きながら) こうも毎日毎日夜遅くまで残業してでも必死に業績を挙げつつ働き続けなければならないのでは とてもとても割に合わない」 というように、現在(自分に課されている)性別役割で苦労している (ものの、だからといって子供も作ってしまったし、 「もう、いやだ、やめた」なんて許されない) 夫たちは、一体どうすればいいのだろうか。

 まあ、岡田氏の主張を善意で読めば、 そういう企業戦士な夫たちを想定している訳ではなくて、 毎日 夕刻の夕食前には帰宅できる程度の適度の勤務時間で気楽にしか働いていない夫たちでも、 家庭にいる時に家事や育児を手伝うことは殆どなく、 家事の手間を増やすだけだから、いっそのこと別居した方がいいということなのだろう。 いずれにせよ、これは 「妻=育児労働」「夫=家計労働」という専業化/役割分担をますます徹底しようという 提案でしかない。 尤も岡田氏は育児を担当するのが夫の側であってもよいというようなことを 数ヶ所で触れてはいるが、 「どうして夫婦の一方のみが育児を専業としなければならないのか」 「どうして現状では女ばかりがその専業を選ぶ/選ばされることになるのか」 「これからの時代の家庭像を考える際に、どうしてその点はそのままなのか」 という(私が最も訊きたい)ことについての考察が特にない。 まあ、この本の前半部分では、現在の平均的な男たちが如何に 家庭や育児のことに無関心であるかが書かれているが、 では、これからの時代の男たちも家庭や育児のことに無関心なままの方がいいのだろうか。 家庭や育児に無関心で(家計/養育費の援助の他には)協力の意志が皆無であるような 夫と結婚して子供を生んでしまって現在 苦しんでいる妻にとっては 「家庭から夫をリストラせよ」は確かに緊急避難的な提案にはなるかも知れないが、 そのような関係はこれから家庭(育児共同体)を築こうとする未来の夫や妻 (縦しんば岡田氏の提案するような一妻多夫や一夫多妻にせよ)にとって、 そんなにも魅力的なぜひ採用したい提案となるであろうか*。

* 因みに、「 家事や育児を趣味・娯楽として可能な限り夫婦で共有する日常をこそ楽しみたい 」 という願望(妄想)を持つ私にとっては、 「女=専業主婦」「男=一家の大黒柱」という性別役割の思潮は、 その願望の実現を阻む邪魔物でしかなく、 私が抱いている理想の夫婦像は、岡田氏の「家庭から夫をリストラせよ」とは まるで対照的である。 私は、 「夫婦でできるだけ暇な職について、家事や育児をできるだけ夫婦で共有もしくは分担したい」 と考えている。 だから、オランダ型ワークシェアリング のように夫婦でパートで働いて十分な収入があって、夫婦で家事・育児に携わる十分な時間も確保できる ような家庭像の方が、(岡田氏の提案する家庭像よりも)遙かに魅力的である(まあ、日本ではなかなか 難しいだろうが)。 で、(たまにはのろけ話も書くとして)因みに私も数ヶ月前に結婚して夫婦で生活をしているが、 今のところ、二人とも夕刻には帰宅できているので、それから近所のスーパーに一緒に買い物に行き 「二人で一緒に料理する」という長年の夢(妄想)を実現できている (まあ、子供ができたり、どっちかの職が忙しくなったり、あるいは職を失ったりしたら、 この先どうなるかは分からないけれど)。 洗濯や掃除の類いも手の空いている方がやるという感じだが、 そうした仕事の出来に対する要求水準は つれあいの方が高いので、 私の方が何かと教育されている(洗濯物は、たとえ私がせっかく「アイロンをかけなくて済むように」と 選んで買ってきた「形態安定シャツ」であっても アイロンはかけなければならないとか、掃除は掃除機の先端を付け替えながら 部屋の隅々の埃も吸わなければならないとか。まあ、 そういうことを教育されること自体、それはそれで楽しいのだが)。

 さて、『フロン』に関してもう一つ少し気になる点に触れたい。 みのうらさんは、 「 フロンの夫リストラ&リスク分散型思想は、やっぱどうしても富論ですなあ、貧乏人には関係ない話ですなあ 」 と書いているけど、私は更に、 「夫リストラ」にせよ「一妻多夫」にせよ、 恋愛に不自由せずにいつでも恋愛対象を獲得できているような 恋愛富豪の論だなあという印象を受けた。 まあ、「結婚やそれ以前に恋愛自体ができるだろうか」という心配には無縁な、 それどころか「今まで色んな人と恋愛できて楽しめてきたのに、 結婚後は一人としか恋愛できなくなったら困るなあ」 という贅沢な心配のできるような恵まれた人たちを対象としたお話なんだろう (そういうこともあってか、私には全然ピンとこなかったんだけど)。 取り敢えず、それはそれでいいとして、 以下に本文から少し引用しながら私の感想を列挙したい。

 どんな相手と結婚するのであれ、ひとりで生きる自由、他の人と恋愛できる権利、 親元での悠々自適の生活など、いろいろなものを失うわけです。

 まあ、「他の人と恋愛できる権利」を「配偶者の他に」と解釈するなら、 当たり前のことではあるけど、 「恋愛できる権利」と言われたって(それが本当に「権利」として保障され得るのだったら 救われる?けど)、世の中には恋愛したくても恋愛できていない人なんて五万といる。 結婚することによってこそ、ようやく「人と恋愛できる権利」を手にする人もいるだろうと私は思う (まあ、揚げ足取りではあるが)。

 豊かな社会に生まれ育った私たちにとって、“自由”は当たり前の権利です。 人に合わせて生きなければいけないのは、何より苦痛です。
 どんな共同生活でも、すべて必ず苦痛を伴います。ですから、じつは結婚生活というのは、 基本的には苦痛の塊なのです。

 「自由」が何よりも優先する価値観の人は、確かにそうかも知れないけれど、 「いくら自由に生活できても孤独に堪えることの方が苦痛」だという人だっている (ついでながらアミエルのように「自分の時間はすつかり使へる」 のに「自由ではない」と考える人もいる)。 私は結婚によって、 一人暮らしの時に謳歌していた様々な自由 (掃除をしなくてもいい、万年床でもいい、 料理した鍋のまま食べてもいい、洗濯物にアイロンをかけなくてもいい、 等々)を悉く失ったが(笑)、 そうした家事に関係する自由を失ったぶん、孤独から自由になったことは何ものにも代え難いと 実感している。というか、ようやく 孤独に堪える苦痛に苛まれずに趣味や娯楽を手放しで謳歌できる自由 を獲得したのだと思っている。

「女はねぇ、その男のことをこの世の中でただひとり、世界一だと思うから恋愛することが できるんですよ。なのにオレを好きになってくれるなら誰でもいい!? じゃあ私は『誰でもいい』 なのかぁ!?」

 これは岡田氏の意見ではなくて、「独身女性編集者」の言葉だそうだが、 そんなふうに「世界一」だと思えるほどに打算や妥協を要さない完璧に自分の 理想の崇拝対象みたいな異性と恋愛できる(筈だと見積もれてしまうような 恋愛経験に恵まれてきた)人というのは、なんとも恵まれているなあと いうのが私の素朴な?感想。 そういう「世界一」の相手を見つけ出してしかも恋愛成就させようとすることは、非常に非常に 時間(と金)と労力と神経を消耗し、かつ注いだ努力量の割には成功率の極めて低い 実に実に報いられない重労働であると私は思っているが、 こういう「世界一」の男と恋愛したい女たちは、 ちゃんと、「世界一」の男を開拓すべく積極的に自分から動いて男を口説いて 一つ一つ着実に恋愛成就の可能性を確認し続ける気の遠くなる作業に 日々取り組んでいるのだろうか???  いくらなんでも、 まさか「世界一の男とじゃなきゃ恋愛するつもりはない」などと言いながら、 「白馬の天使」が自分に対して動いてくるのを待ってたりする訳じゃないんだろうな。 そんな「思いがけない出会い」を期待しちゃってたりしながら、 自分からは男たちに電話をかけまくるとかデートに誘いまくるとかしないんだったら、 そんな人の吐く「世界一だと思うから恋愛することができるんですよ」なんて言葉は、 空々しい偽善だとしか私には感じられない。 それに引き替え、 そういう「報いられない重労働」に何年も何十年も取り組み続けているのにまるで報いられていない 男が、憔悴し、絶望し、やけくそになって、 「オレを好きになってくれるなら誰でもいい!?」と吐き捨てたのであれば (勿論、これは岡田氏の想定外だろうが)、これほど真実味があり説得性のある言葉はない と私には思える。

 けれども、女性は、自分を好きになる男が何人いようと、このなかで私が 本当に好きになれる人はいるんだろうかと、たったひとりの本当の相手を 無意識のうちに探してしまうのです。

 「自分を好きになる男が何人いようと」という仮定自体が成立しない 女だっていっぱいいるだろうになあ。 というか、そんな「自分を好きになる男」で(題意からすると)且つ「 自分に動いてきた男」という極めて数の限られた(人によってはそれこそ「皆無」かも知れない) 母集団の中だけから、「たったひとりの本当の相手」なるものを捜し出すことができると 見積もれてしまうというのは、なんとも お目出度いほどに傲慢な考え方だと私は思う。 つまり、この本では、労働における性別役割を前提にしていて、 且つ、「妻が専業主婦」「夫が別居で養育費を援助」という関係が成立する程度に夫の給料が高い妻たちを 対象にしているばかりではなく、 恋愛における性別役割も前提にしていて、且つ、 「女は待ってるだけで何人もの男から口説かれる」「その中から『世界一』の恋愛の相手を見つけられる」 と見積もれる程度にモテる女たちを対象にしているということではないだろうか。
 そういう意味では、 労働における性別役割(「妻が育児担当」「夫が養育費担当) の是非については特に問い直すことをせずに、 「家庭から夫をリストラせよ」と言ってみてもあまり本質論ではないような気がするし、同様に、 恋愛における性別役割(「女は待ってればいい」「男が動くものだ」) の是非を特に問い直すことをせずに、 「オンリーユー・フォーエバー」幻想 (英:「この世にはたったひとり、自分にとって運命の人がいる。 その人と生涯遂いそげて暮らすことが、女の本当の幸せである」という考え) からの解放を是とするような論を展開してもあまり本質論ではないような気がする。 そもそも、「オンリーユー・フォーエバー」がいいか「一妻多夫」 (または「一夫多妻」「多夫多妻」その他色々)がいいかなんてことは、 個々人の嗜好や価値観(にとって、 どういう恋愛や結婚の「契約」をすることがその人の人生にとって得な戦略か という打算)の問題だと思うし、 大部分の女が先天的に「オンリーユー・フォーエバー」な訳でもなければ、 大部分の男が先天的に「オンリーユー・フォーエバー」でない訳でもないと私は思う。
 実は「労働における性別役割」と「恋愛における性別役割」の両者を不可侵の前提と しないならば、 私からすると、女の「オンリーユー・フォーエバー」幻想を叶えつつ 且つ、「育児専業」という性別役割からも解放される解は、 割と自明なような気がしている。 「オンリーユー・フォーエバー」な男なんて結構いるし (類は友を呼ぶのかどうか知らないが、私を始め、私の友人の男には結構いる )、 共稼ぎをして育児や家事にも参加したいと思っている男だって (割合として多くはないかも知れないけど)それなりにいる。 但し、 「自分を好きになって自分を口説いてくるような男たち」 (つまり、「恋愛における性別役割」に忠実に従っているような男たち)という母集団の 中だけから そういう「オンリーユー」で「家事育児参加」な男を見出だすことは極めて 困難なだけだろう。 つまり、 労働の性別役割から解放されたくて、 家事や育児(や必要によっては主夫)をやってくれそうな男と恋愛するため には、 恋愛の性別役割からも解放されて、女もそういう(希少な)男を 見つけだすべく自分から積極的に男に電話したりデートに誘ったりの 「重労働」に日々 取り組まなければならなくなるというだけのことでは ないかと私は思うのだ(勿論、男にとってそうであるのと全く同様に、そうした 果てしない努力がきっと報いられるという保障は全くないが)。
 一般的なフェミニズムの論者たちは、 「経済的に自立した女たちは、(もはや男に経済的に寄生することなく) 自由に恋愛や性を謳歌できるようになった」というような考察をするが、 私は、そうした考察が 必ずしも十分な種明かしではないと 考えている。 男の場合、いくら経済的に自立しているからといって、 自分一人が喰える程度の経済的自立では不十分で、 女と子供を養うに十分な余剰収入があって初めて女を「寄生」させる最低条件と なる訳だし、 仮にその最低条件を確保していたからといって、そのことだけで、 (特にモテる訳でもない平均的な)男の日常に恋愛が舞い込んでくるなんてことは 通常はないと私は思う。 恋愛を謳歌している男というのは、やはり、 「女を口説きまくる」という恋愛における男の性別役割を果たすことは 最低限やっているのものだと私は思う。 だから、 「労働における性別役割」は拒否して経済的に自立している女が(ただそれだけのことで)、 「恋愛において異性を口説きまくる役割」を男と同程度に担うこともせずに、 恋愛を謳歌する権利を天下り的に行使できていたりする状況が仮にあるんだとすると、 それを甘んじて受けるのは、 「労働における性別役割」は拒否してるくせに「恋愛における性別役割」は 天下り的に最大限利用しようという卑怯な態度のような気がしてならない。 だから、「労働における性別役割」は批判しつつも、 「恋愛における性別役割」については現状追認しているかのような論は、 どうも私には片手落ちのような気がしてならない。 その意味では、(フェミニズムすらまだちゃんと考察してくれていない) 「恋愛における性別役割」が考察外なのはまあ仕方ないとして、 (フェミニズムでは既に十二分に批判されつくしてしまっている) 「労働における性別役割」をも現状追認している岡田氏の論は、 全然 不十分・不完全なような気がする。

覚え書き(01/6/27)

 自分でちょっと杜撰な論理だと自覚しながら書いていた箇所 を読み返していて、 「仮に女が『恋愛における性別役割』から解放されていて自分から男を見つけようとしても、 現実に男の大部分が『労働における性別役割』に毒されていて、 そういう男しか恋愛対象に選べないんだから、女が悪い訳ではない」 というツッコミが来るのではないかなどと思いながら、ふと別の側面に思い当たった。 「今の夫と結婚する前は、とてもいい人だと思っていたのに、 結婚してみて、まさかこんなにも家事を一切 手伝おうとしない人だとは思わなかった」 とか更には「まさか暴力を振るうような人だとは思わなかった」という 妻の訴えをよく見受けるが、 そういう夫たちには、結婚前の妻がまるで見抜けない程度に、本当に、 結婚後にそういうふうになる兆しがまるで見当たらなかったのだろうか?  恋人時代に、女がお茶を入れたり料理を作ったりするのを 手伝いもせずにテレビを見ていたりはしていなかったのだろうか?  女が厭がっている時でも、自分の性欲を優先して「押し倒したり」 するようなことはなかったのだろうか?  そのように男が「性別役割」に完全に染まり切っていることや 自分の感情(や欲求)を優先して他人に不快感や傷害を与えることも平気な 暴力性を有していることなどなどを、女は 「だって男とはそういうものだから」 という勘違いに基づいて納得しようとしていたなんてことは本当になかったのだろうか? 

 先日、小学生八人を虐殺した容疑者の男は、 以前から暴力事件を度々 起こしていたようだが(強姦もやっているようだ)、 それでも、四回も結婚歴があるのである。 この容疑者と結婚した四人の女たちは、結婚前に この容疑者の暴力性にまるで気づいていなかったのだろうか?  所詮、暴力をふるわない男よりも多少のセクハラをしようと自分に「動いてきた」男の中から選ぶってことなのか?  で、「そういう男だと見抜けなかった女にも責任がある」なんて 書くと、男の責任(犯罪)を免罪しようとしていると猛反発を受けそうなので 慎重に書かなければならないが 実は私こそがそういう男たちを断罪したい、 最近の自立した働く女たちは、ちゃんと、そういう自分に相応しい男を 見つけるべく努力しているのだろうか?  まあ、主夫をやってくれる男はあまりいないかも知れないが、 家事育児に参加したいと思っている男はそれなりにいると思うし、 少なくとも「妻に暴力をふるわない男」なんて五万といると思う。 「家事育児に参加してくれて」「妻に暴力をふるわない」程度の男だったら、 女が自分から探し出す努力を(平均的な男と同程度には)払うなら、 それなりに見つけられそうなものでもないのだろうか?  まあ、この辺はたぶん、そう単純な問題ではないかも知れないので、いずれ こっちで考察するかも。 という訳で、この項、たぶん続く。

「誰と付き合うか、どれくらい育児をきちんとするかは、夫から指図されたり、要求されたり することではない。夫の目を気にする必要もない。100%自分自身で決めればいいことだ」 と言いたいのです。
 妻の義務はゼロなのですから、「夫の義務もゼロ」のはずです。 「浮気をする」「まったく家に帰らない」「家に一銭も入れない」というのも、 本来はOKなのです。

 さて、子供を作った以上、養育の義務は妻にも夫にもある筈では?  妻であれ夫であれ「自分は一切の育児をしない」と決める権利なんて あるだろうか?  というか、 「育児をすること」「育児に必要な養育費を稼ぐこと」は、 子供を生んだ男女の双方に発生する義務ではないのか?  その義務を男女でどのように共有もしくは分担するかは、 二人で子供を作る(可能性のある行為に及ぶ)前に話し合っておくべきことではないのか?  (私は、ここに非常に本質的な問題の根があると思う。 「できちゃった結婚」という言葉があるが、結婚したこと自体では、 「できた子供」に対する養育の義務を果たしたことにはならない)。 前述したように、 「養育の義務を果たさない不良債権の男と結婚してしまったために苦労している女は、 緊急避難的に夫をリストラしろ」という話なら分かる。 しかし、これから子供を作る可能性のある男女の関係に対して、 「妻の義務はゼロ」「夫の義務もゼロ」の実践例としての「一妻多夫」を提案するのは どうかと思う。 「妻の義務はゼロ」と言ったところで、 実質上、養育の義務を負うのは妻の側になってしまうだろうという見積があるからこそ、 「多妻多夫」ではなく第一に「一妻多夫」を連想するのだろう。 尤も岡田氏は(育児を担当する)「親は“マザー(母親)”である必要はありません。 “シングルファーザー(父親)”でもOKです」とも書いてはいる。 しかし、岡田氏の「夫をリストラ」や「一妻多夫」の提案から、 男たちが育児を担当するようになる社会変化が起きるとはまるで思えないし、 むしろ子供を生んだ二人のうちの一方のみが 育児を専業とする役割分担を是とすることで、 現行の性別役割(母親が育児を専業とするべき)をますます固定化・徹底することに 荷担しているような気がする。

続く

覚え書き

公園で若い女の人に「だけ」料理をさせてみて、料理ができないことを 面白がるテレビ番組(確か「噂の!東京マガジン」の「平成の常識」 →英語ネタへ
久しぶりに会った年頃の女の人に対する「おきれいになって」という挨拶

大学の(特に理工系の)研究室 秘書として、「若い女」ばかりを選択的に雇うのはヘン。教官(や理工系の場合は学生も)が男ばかりという不自然な状況の中で、 如何にも「職場の華」目的で「若い女」ばかりを選択的に秘書に選んでいるのが 見え見えではないか?  ( 他方、「賃金は安くても、重い責任を課せられない大学秘書のようなラクな仕事をしたい」と思っている男だっているだろうに)。
将来的にはどこまで区別しないべきか(便所や風呂は、服装は)
 地球人が食事をしているところを見ると吐き気を催す宇宙人や、 性的に異常に興奮してしまう宇宙人とかと交流するようになったら、 そうした宇宙人とは(たとえ食べる物は同じだとしても)食堂を 区別して使うべきだろうか(結局は程度問題なのだろうか)。 では、その宇宙人の中にも馴れれば地球人と一緒に食事しても 気にならなくなる人も含まれているとしたらどうか。
性の対象として見られ得る他人の前に裸や排泄場面を晒すことを 厭がる文化圏の場合、 便所を大小便にかかわらず便器ごとに個室単位にして、 公衆浴場では適度に肌の露出を避ける(水着や腰巻きを付けるとか) すれば、男女共用でいいのではないか (現に有意数存在する同性愛者とは現行でも共用しているのだし)。

小学校などで、「席を列ごとに男女男女の順にしたり」「席を背の順に並べる」ことと 「視力の悪い生徒などに前の方の 席を取る権利を与える」こととの違い。
写真を撮るときに、「背の順に並ばされること」(背が高くても、しゃがんだり座ったりすれば前でもいいのではないか。背が低くても椅子の上に乗るなら、後ろでもいいのではないか)。更に「男の方が背が高い」という前提のもとに「男の人は後ろに」 と決めつけられること。
 多人数で料理や洗い物をするときなどに、私は背が高いので、棚の上の方にある 食器の出し入れを頼まれたりする。 しかし、私はそのような仕事をするよりも、料理や洗い物をしている方が好きだし 、また得意でもある(私の周囲の若者の平均よりは)。 椅子や台に乗れば食器の出し入れを出来る程度に私よりは背の低い人に、 しかも私よりも料理の技術のない人に、 女でありやや背が低いという理由だけで優先的に料理を担当させようとする のはおかしな話だ。 椅子や台に乗って食器を出し入れするという技術や労力は、 芋の皮を向いたり野菜を細かく刻んだりする技術や労力に比べれば、 そんなに大変な(私がぜひ手伝ってやらなければならないような)こと だとは思えない。

 また、何かの会合で食事を出した後などに、 「男の人は椅子を片付けて」「女の人は皿を洗って」と決めつけられるのも 気に入らない。

百貨店の女性服売場で、エスカレーター前などの人目に付くところに、 下着などの人目を憚るものを、わざわざ「発光マネキン」に着せて 見せびらかしているのは、どういう了見なんだろう??? 仮に男性客が ああいうのを見せられて興奮したとしても、買うのは女性客だよな???  って言うか、仮に男性服売場に、私がふだん穿いているようなグンゼとかの パンツを「発光マネキン」に着せて見せびらかされていたら、 私は恥ずかしくなって逆にパンツを買えなくなってしまうと思うが……??? 
小学校のラジオ体操で女子が股を開かないのは何故
会員登録の類いで性別を記入する必要はあるか
SD調査で用いられる「男らしい——女らしい」の形容詞対
コンビニのレジで密かに行われている性別年齢別集計は実に不愉快
クレジットカードに「MR.」を付けられた(→英語ネタ)

男から女への痴漢行為防止のための女性専用車両の設置は、何の根本解決でないばかりか、 余りにもあからさまな性差別である。青森だかで、飲み屋で外国人がしょっちゅう問題を 起こすからといって「外国人お断り」という外国人差別をしているのとやってることは同じ。


オリンピックを見ていて感じたこと(00/10/6)
オリンピックなどの運動競技(や将棋や碁など)を男女別にする必要はあるだろうか。 例えば、オリンピックとかの短距離走では、決勝に残った9割ぐらいの選手が 黒人だったりする。 この原因が仮に「黒人と非黒人との間の統計的有意差」にあるとして、 「それなら、人種別に競技すればよい」と発想したら、さすがに 「それは人種差別だ」と言われるのではないだろうか。 同様に、「男女間に統計的有意差」があったとしても、 別に男女別で競技しなくてもいいような気が私はしている。 オリンピックの多くの種目では、 女の選手の最高記録の方が、男の選手の最低記録よりも高いのではないだろうか (例えば、射撃が男女混合で競技されたモントリオールオリンピックでは、 女の選手が男の選手と同点一位だったのではなかったろうか)。 人種を区別しないで競技して、 「短距離走では、上位選手の多くは黒人だが、たまに非黒人も混じっている」 というのと同じように、性別を区別しないで競技して 「体力差が影響する競技では、上位選手の多くは男だが、たまに女も混じっている」 というやり方では駄目なのだろうか。 一方で、 「体重差が影響する種目では、 体重別にして、より技術差で勝敗が決するようにした方が見ていて面白い」 という発想も分からなくはない (因みに、陸上や水泳でも体重別や身長別にすれば、 男女差はますます縮まるのかも知れない)。 テニスのランキングみたいに、 順位の近い者どうしが対戦するというやり方はどうだろうか。 テニスの女子のランキング1位の選手は、 男子のランキング何位ぐらいのところに入ってくるのだろうか。 それと関係することだが、 パラリンピックというのもどうも引っ掛かる。 障害者と非障害者を分けて競技する必要があるのだろうか。 例えば、車椅子レースや車椅子バスケットに、 非障害者も参加しては駄目なのだろうか。 もしかしたら、脚のない人とかの方が、 重量が軽くなるぶんだけ、種目によっては身体的有利条件を 持っているかも知れない。 だから、種目によっては上位者を占めるのは脚のない人とかになるかも知れない。

00/12/18追記: これは既にやられているかも知れないが、 混声合唱の各声部を必ずしもソプラノ=女、アルト=女、テノール=男、バス=男 みたいに分けなくてもいいのではないか。 「ソプラノ/アルト」と「テノール/バス」の音域の差を生むのは、 性差以前にまず発声法(裏声か地声か。 専門的にはヘッドボイスとチェストボイスだっけか?)の差がある。 男だって、裏声によって相当に高いアルトやソプラノ(一般にはこうは言わずに カウンターテナーとか言うが)の音域を歌える歌手はそれなりにいる。 特に素人の合唱団とかの場合は、性差以上に技術差の方が大きかったりするから、 発声技術のある男の方が他の女よりも高い声部を、 発声技術のある女の方が他の男よりも低い声部を歌える場合もあるだろう。 そういうときは、性差よりも技術差や個人的嗜好を優先したっていいだろう。 具体的には、ソプラノの大部分は女だが、中に数人の男が混じっているとか (実際、バッハのカンタータの演奏会に行ったとき、 ソプラノの中に一人ぐらい男が混じっていたことがあった)。 ある意味では、西洋古典音楽に比べるとロックとかポップスと呼ばれる歌謡曲の 方が男女の声域役割分担から解放されていると言えるかも知れない。 男が高音域を裏声のソプラノで歌い、女が裏声を使わずに ビートの効いたテノールでハードロックを歌ったりしているのではなかろうか。 そんなふうにポップスとかの歌謡曲はせっかく性別による声域役割からは 解放されつつあるのに、未だに「紅白歌合戦」なんかやっているところは、 時代遅れだなあと感じてしまう。

水泳で男子でも上半身まで隠す水着を着る人が出てきた。 女子でも、股の部分がパンツみたいになってなくて、 腿の部分まであるやつを穿く人も出てきた。 本人たちは単に記録のためにやっているのだろうが、私には 興味深い変化だ。 一方で、男子の方は短パンとかを穿く陸上やバレーとかの種目で、 女子が、パンツみたいな(ブルマー?)腿が付け根から露出して、 お尻の形とかが目立つやつを穿くのは、やっぱりヘンな感じがする (ほんとにそれが機能的なら男も穿けばいいのに)。
相変わらずヘンなのは、男子種目がないシンクロとか新体操。 確かに技術的にも芸術的にも凄いとは思うんだけど、 どうして、ああいう女の肉体的特徴を不必要に強調する 水着やレオタードを着る必要があるのだろうか。 シンクロなんて(新体操もか)、観客に脚を開いて股やお尻の辺りを 見せるような姿勢をしょっちゅう取るにもかかわらず、 わざわざ腿が付け根から露出して、股や腿の辺りの肉感が目立つような 身体に張り付くやつを着用している。 異性愛者の女の人たちは、ああいうのを見せられて気持ち悪くないのだろうか。 異性愛者の男である私は、ああいうのを見せられる度に、 あの同じ恰好を男がやっているのを想像しては気持ち悪い思いをしている。


最近のニュース(NHKだけか?)で、「男は」「女は」というおかしな 代名詞もどきが使われ始めたが、日常で そんな言葉遣いをしている日本人も 東京辺りにはいるのだろうか???  日常で最も普通に使われる「この人は」じゃ駄目なんだろうか???  どうしても対象の性を明示しなければ気がすまないんだったら、 せめて「この男は」と言ってほしい。 NHKこそが率先して日本語を乱しているのではないだろうか (→言葉ネタ)。




続く

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鍵語: 男女共同参画社会、 男女雇用機会均等法、 ジェンダー、 女性学、男性学、ロールモデル、ワークライフバランス