西洋古楽への道(準備開始)


Vojo al Eŭropa malnov-muziko

―― かっちょいい、ノリのいい、刺激的な音楽の探求――

注意 後藤文彦の頁へ戻る
al Retpag^o de GOTOU Humihiko

目次
はじめに
「運命」的な出会い
ジャジャジャジャーン、「新世界」の替え歌?「大阪夏の陣」
軽騎兵序曲
スターウォーズのテーマ
覚え書き(続く)
かっちょいいバーンスタイン
グールドのゴルトベルクとの出会い
ついに見つけたビートの利いたビバルディ
古楽奏法
ルネサンス聖歌

はじめに

 然るべき状況?で「趣味は何ですか?」みたいな話になったとして、 例えば エスペラントをやっていると言うとどうも変わり者だと思われる ようだが(これはまだ理解できなくもないが)、 「クラシックを聴く」というのも、どうもあまりいい印象を 与えないらしい。 曰く、「高尚ですねえ」とか「眠くなりませんか」とか 「私にはそういうのは分からないので」とか更には 「凄いんですね」???などとなる訳である*。

* 前にNHKのテレビの「中学生日記」で、世界文学と クラシックを愛好している中学生が、級友にそのことを隠しているのだが、 ある級友が家に遊びに来た時に、「隠していた」世界文学全集と クラシックのCDを発見されてしまい、翌日から学校では 「ネクラ」と呼ばれることになってしまうというのを見て、 私は絶句した。世界文学全集を読んでクラシックを聴くことが何故に 「ネクラ」になるのか!?!?!?  こんな偏見を再生産するような番組はけしからん。 まず「ネクラ」かどうかということと本や音楽の好みは関係ないし、 そもそも「ネクラ」は悪いことではない。 私からすると、趣味やノリの違う者に「ネクラ」というレッテルを貼って排除したがる 「ネアカ」の連中の陰湿さの方がよほど問題である (良心的に解釈すれば、件の番組もそれを問題視しようとしたのかも 知れないが、「世界文学=ネクラ」「クラシック=ネクラ」 という偏見を否定していない)。

 私のピアノ仲間のある友人が、「大量のビデオを所有している ようなオタクが猟奇事件とかを起こすと、世間やマスコミは 『ああ、やっぱりね』と反応する癖に、どうして かっちょいい スポーツ選手とかが幼児にイタズラしたりしても 『ああ、やっぱりね」 と反応しないのだろうか。 俺からしたら かっちょいいスポーツ選手の猥褻行為とかの方が よっぽど『ああ、やっぱりね』なんだが......」 と言っていたが、 世間やマスコミは自分たちの気に入らない趣味や嗜好を有す者が 問題を起こした時に限り、ここぞとばかりにそれを犯罪誘発性と 結び付けて、そうした趣味や嗜好への非難を正当化しようとする傾向 はあると思う。 多数派とは違う趣味や嗜好を有す者にとって、これはなかなか 怖いことである。実は私は、 最近の猟期殺人犯の部屋からクラシックのCDが大量に 発見されたりしなかったことに内心、ほっとしている。

 とにかく、 世間ではクラシックというのがあまりにも誤解されているようだ。 一般にクラシックと呼ばれている音楽は、 ある時代のヨーロッパの民族音楽の一形式に則った音楽のことであり、 その意味では、ジャズとか演歌とかロックという音楽分野と特に別格ではない (その分野で頻繁に演奏される「古典」作品の作曲年代がやや古いという 程度の違いしかないだろう)。 音楽の定量表記や楽曲分析の「道具」としては、確かに西洋音楽の「楽典」が最も 組織化され 汎用性に優れているかも知れないが、そのことで西洋音楽という「材料」 が「規範」や「標準」になる 訳ではない。 例えば、ヨーロッパ言語の分析のために発達した文法用語が世界の言語の分析にも 有用だったとしても、そのことでヨーロッパ語が「規範」や「標準」になる訳ではない というのと同じことである。

 ところが、学校の音楽の授業では、「道具」としての「楽典」の教育に抱き合わせて、 西洋音楽に固有の民族的「癖」をも「規範」であるかのような教え方をする (たぶん今もそう変わらないであろう)。 例えば、私は、「なぜ音階はドレミファソラシの七つなのか?」 「なぜ長調と短調があるのか/しかないのか?」 「なぜ強起の曲と弱起の曲があるのか/しかないのか?」 「なぜ原則として二拍子と三拍子と四拍子しかないのか?」 などなど、 ずうっと不思議だった。 実は、これは「ある時期の西洋音楽」がたまたまそうなっているに過ぎないのである。 用いる音階なんて民族によっても時代によっても違うし (サイレンのように連続的に変化する音程で構成される音楽には、 音階という段階的な音程を与えること自体が不可能だ)、 だからましてや調性は、長調とか短調という特殊な枠組みに当てはまらない ものはいっぱいあるし(当の西洋音楽ですらルネサンス以前には長調とか短調とかはない)、 リズムにしても定量記譜の困難な変動を伴うものだってある (拍子のはっきりした「弱起の曲」ですら、欧米人が裏拍に手拍子を入れたがる曲に 日本人の年寄りとかが表拍に手拍子を入れたりする以上、「弱起/強起」 の区別すら危うい気がする)。

 つまり、クラシックと呼ばれる西洋のある時代の民族音楽は、 極めて「癖の強い」「独特の」「ヘンな」形式を有する様々な音楽の中の 一形式に過ぎないのである。 そして、西洋音楽の中でも特に、バロック期の対位的な音楽が、古楽器で、 ビブラート(伊 音を振るわせること)をかけずに、 ノンレガート(伊 音の間を切って演奏すること)でパラパラと、軽快に、高速に演奏される中に私が心地よいノリを感じる感覚は、 ジャズ愛好家がスイング(英 揺れるような律動)に感じる、 あるいはヘビメタ(英 ヘビーメタル。金属的で重厚な音のロック) 愛好家がビート(英 拍子を刻む打音)に 感じる「ノリ」と「似たり寄ったり」のものだと思う (尤も「ヘビメタはスイング感のないリズムに特徴がある」という ような文脈での狭義の「ノリ」は、細かい種類に分類されている のかも知れないが)。

 しかしながら、仮にそこまでを理解してもらえたところで、 冒頭に述べたような方々?にとっては、そもそも 「テレビの歌番組でやっていてカラオケで歌われるような音楽」以外の 音楽は、よしんばジャズであれヘビメタであれ、 興味の対象になることはないだろうから、 別にここではそういう方々を「啓蒙」しようなどという大それた 意図は微塵もない。 ただ、テレビの歌番組を愛好しているような人たちと比べて 著しく分布密度の低い「私と近い嗜好を有する人」 のことは読者に想定している*。

* それにしても、テレビドラマや歌番組やスポーツ観戦を愛好している 言わば「大衆とかなりの部分で嗜好を共有する人」が、 実に容易にそういう「趣味の話題が合う」相手が見つけられているのだとすると、 更にはそういう「趣味の話題が合う」ことを選択条件に入れるなどという「贅沢な 選択」ができているのだとすると、本当に羨ましい限りである????  こちとら、「趣味の話題が合う」などという至福の思いが得られることなんて、 端から諦めているというのに。 こういうふうに希少な価値観の一致を実現できている人 が羨ましい限りである。 特定の趣味にのめり込めばのめり込むほど、 私の市場価値はますます下がる一方である??? (興信所とか?がこの私の一連の頁を見つけたりしたら、 「この人はヤバイですよ」ってなことになるのだろうか???)

目次へ戻る

「運命」的な出会い

 私がヨーロッパ民族の古典音楽いわゆるクラシックを 意識的に聞いてみたいと思った最初のきっかけは、 小学低学年の頃にテレビか何かでベートーベンの交響曲第五番「運命」 を聞いたことに遡るのではないかと思う。 あの「ジャジャジャジャーン」の単純な動機が、幾何学的に、対位的に、 重厚に重なり合う独特の響きは、非常に私の印象に残ったらしく、 どうも私はことあるごとに「ジャジャジャジャーン、ジャジャジャジャーン」 と歌っていたのではないかと思う。

 そのころ、我が家では管球式のモノラルの蓄音機しかなかったのだが、 新たに最新式のトランジスター式ステレオ式レコード再生装置を購入したという 背景?があり、 その装置のこけら落とし?のために私の親は、 クルト マズア指揮ライプツィヒ ゲバントハウス響の ベートーベンの交響曲第五番と九番のレコードを買ってきて、

「ふみひこ、ほれ、あんだのジャジャジャジャーンっつうの、こいったぞ」

と言って、私に聞かせてくれたのであった。 それから、バーンスタイン指揮ニューヨークフィルのドボルザークの 交響曲第九番「新世界」も聞かされた。 確か父親が、

「二楽章は、遠き山に日は落ちてのちれえな曲なんだぞ」

と言っていたのと、

「ふみひこ、何楽章 聴ぐ? 四楽章は一楽章がら三楽章までの 音楽まだ出でくっから四楽章 聴ぐごどにすっか?」

とか言っていたのを微かに覚えている。 どうやら私がそれまで「ジャジャジャジャーン」という言葉?で抽象していた 音楽は、「ジャジャジャジャーン」の他にも色々とあり、どうやら 「交響楽」という音楽らしいということを私は薄々 認識しつつあった。 私がこれらの曲を聴いていたのは、小学低学年のごく僅かな期間のみで、 それ以後は特に継続して聴いてはいなかった。

 ただ、小学中学年の時に豊臣秀吉が好きになった私は、 「新世界」の四楽章の主題 (ミーーファ#ーソーファ#ーーミミーー、 ミーーレー_シレミーーーー、ミーーファ#ーソ−ファ#ーーミミーー、 ミーソミソシー_シミーーーー) に、

一番:
大阪冬の陣千六百十四年外堀埋めらいだ
(おーーさーがーふーうゆーー、のーーじーいいんーーーー、
せーんろっぴゃぐじゅーーよねーーん、そーどぼりっうめらいだーーーー)
二番:
大阪夏の陣千六百十五年豊臣氏滅びだ
(おーーさーがーなーあつーー、のーーじーいいんーーーー、
せーんろっぴゃぐじゅーーごねーーん、とーよとみしほろびーだーーーー)

という歌詞を付けて歌っていた。 ちょうど 「悪魔のワルツ」とかを作曲?していた時期である。

目次へ戻る

軽騎兵序曲

 小学中学年の頃、担任の UTM先生 (音楽が専門)が授業で、スッペの軽騎兵序曲を聞かせてくれた。 これは非常に「かっちょいい」曲に思えて気に入った。 音楽の時間だか図工の時間だか試験中だかに、軽騎兵序曲を聞かされながら、 曲の印象を絵に描かされたことがあり、 私は一生懸命ヨーロッパの「軽騎兵」を連想しながら描いたのだが、 UTM先生は、「GTUはよぐ、こいな短けえ時間で、 こいなにいっぺえ戦国武将 描ぐのいなあ」と感心された (これは 「落どした場所」ネタに取っておこう)。 家に帰って、父親に軽騎兵序曲が気に入ったという話をすると、 父親は、「んだ、軽騎兵序曲もウイリアムテルも同じなんだ」?? と意味不明のことを言って、ロッシーニの「ウイリアムテル序曲」 を聞かせてくれた。私は「どごが軽騎兵序曲どおんなじなんだい???」 と思って慎重に聞いたが、 どこが軽騎兵序曲と「おんなじ」なんだかさっぱり分からなかった (もしかして「序曲」という意味で「おんなじだ」という意味だったの だろうか?)。 その後、母親に軽騎兵序曲の入った教科書教材用のレコードを 買ってもらい、ちゃんと軽騎兵序曲が聞けるようになった。 しかし、それもそのうちに聞かなくなった。

目次へ戻る

スターウォーズのテーマ

 私が小学五年生だかの時に、「スターウォーズ」という映画が 日本で封切られて話題になったのだが、その一年前に「笑点」かなんかの テレビ番組にアメリカだかのポップス楽団が出演して、 「スターウォーズのテーマ」を演奏したのを聴いて、それが私の印象に 残った。ただ、その時の演奏は「ドーソッファミレド’ーソッ」の 原曲版ではなく、「ドーソーーファミーレド’ーソーー」みたいな 間の抜けたポップス編曲版だったような気がするが、それでも十分に 私の印象に残ったのだ。

 その後、私は親が知人の子供から譲り受けてきた? 懐かしのテレビ漫画/特撮(鉄腕アトム、鉄人28号、ウルトラマン各種、 他多数)の主題歌のソノシートを好んで聴くようになった。 (例えばマグマ大使の出だしなどはなかなかかっちょいいと思ったし、 ジャングル大帝やキャプテンウルトラの主題歌など、富田勲の曲は なかなかいい曲だと思った。あと、この時期に聴いていた歌という訳ではないが、 「海のトリトン」の主題歌とタイガーマスクの「みなしごのバラード」は 今でも名曲だと思う。因みにカラオケに連れてこられた時は、 こういうのしか私の歌える歌はない)。

 さて、私が小学高学年頃、 我が家ではFMチューナーというものとカセットデッキというものを 購入し、 FMラジオ番組サウンドオブポップスで、あの「スターウォーズのテーマ」 をやると知った私は、父親に頼んで、 ズビン メータ指揮ロサンゼルスフィルの「スターウォーズ組曲」を録音 してもらった。

 この「スターウォーズのテーマ」は当時の私には非常に「かっちょいぐ」 感じられた。 目次へ戻る

続く



以下、覚え書き…………先は長い、、、

ベートーベンの交響曲から出発
刺激系
ストラビンスキー春の祭典との出会い
刺激を求めてバルトークショスタコービチを聞く
が、春の祭典に匹敵する刺激には出会えない
大学でバンドを始めハードロックをやる
その関係でキングクリムゾンというプログレを知る

かっちょいい系
チャイコフスキーは初期の交響曲の方がいい。 なんで後期ばかりが受けるのか??

かっちょいいバーンスタイン
60年代以前のバーンスタイン/ニューヨークフィルの演奏は、凄く「かっちょいい」のが多い。 火の鳥とか、新世界とか。ベートーベンの交響曲(特に1番、2番とか)とか古典的な作品でも、 コントラバス(かチェロ)がバチバチ鳴っていて(激しいために弓と弦以外の部分どうしが ぶつかり合っているような音)、それがまた刺激的だ。 だから、バーンスタインなら「かっちょいい」んだと思っていたのに、 70年代後半以後のバーンスタインの演奏は、ことごとくすんげえかっちょわるい。 何でこんなにも「変容」してしまったのか。 バーンスタインがまだ生きている頃に、こうした認識を共有する私の友人は 「バーンスタインはもう死んだ」と言っていたものだが、確かに然りだと思う。 ウイーンフィルとのライブ録音は、まあ、古典派とかせいぜいロマン派以前には、 それなりにいい演奏もある(例えば、ベートーベン交響曲全集、特に7番とか)。 しかし、テンポはどんどんのろくなっていくし (チャイコフスキーの悲愴の3楽章なんて冗談かと思った)、かつては得意だった筈の近現代曲の 効果音的なとこの 解釈もどんどんへなちょこになってしまった。 年を取った演奏家を巨匠と呼んだり、「円熟した演奏」ともてはやしたりするが、 大部分の演奏家は若い頃の方がいいのではないか。 それにしてもバーンスタインの変容ぶりはひどすぎる*。

* 「Kyushima's Home Page」の 「ピアニストのピーク」 では、 「純粋な運動能力は10代後半から20代がピークであって、楽器を速く正確に弾く運動能力も例外ではない 」と書かれているが、指揮者にも多かれ少なかれそういう傾向はあるような気が私はする (勿論、例外はあるだろうが)。 まあ、指揮者は運動能力はあんまり関係ないような気もするけど、例えば 音の解析能力とかリズム制御能力とかが老化していくということも有り得るような気もする。
一方で、ムラビンスキーとかカラヤンというのは、若い時と年をとってからで 解釈や演奏速度があんまり変わらない。
T.トーマスやデュトワや60年代以前のバーンスタインの音楽の 「かっちょよさ」は、ロマン派以降や近現代ものやアメリカもの には格別だが、 この「かっちょよさ」は、 ベートーベン、ブラームス、ブルックナーといった ドイツ/オーストリア系の「かっちょよさ」には合わない。 ドイツ系の「かっちょよさ」には「ジャンッ」のように直ぐに立ち上がって 直ぐに減衰する軽い打撃音よりも「ズダーーーン」のようにゆっくりと立ち上がって 深く余韻を残す重い打撃音の方が格別である。 だから、ドイツものは フルトベングラーやヨッフムやクレンペラーの方が「かっちょいい」と思う。 トスカニーニはどちらかというと、バーンスタイン系の走りだったのではないか。

バロック系

グールドのゴルトベルクとの出会い
ベートーベンを好きな筈の私が、バッハしか聞かなくなっている
どうしてグールドのバッハにはまったのか??
対位的でノンレガートでパラパラの「ノリ」
実はこうした「ノリ」はバーンスタインとかの「かっちょよさ」とも ドイツものの「かっちょよさ」とも まるで対照的な領域に属する
果たして私はどんな音楽を求めているのか
アーノンクールの古楽器によるアクセントの強い軽快で高速な「四季」 は実にノリがよく刺激的だ。これに比べるとバーンスタインとかの ビブラートこってりの「四季」は気持ち悪いくらいだ。 ビオンディの四季も激しいところはアーノンクールの四季よりも過激で刺激的だが、 緩徐楽章は割とまともなので、全体を通してはアーノンクールの四季の 方が奇抜である。しかし、アーノンクールの四季以外の演奏 (バッハのブランデンブルクとか管弦楽組曲とか)は 四季ほどに奇抜な訳ではない。 ビオンディにしても、「調和の霊感」とかバッハのバイオンリンソナタはとかは、 四季のように過激には演奏していない。 どうやら、バロック演奏家には四季を過激に奇抜に演奏する風習があるのかも 知れないので、四季の演奏を演奏家の指標に使うのは不適切かも知れない (四季は効果音的要素がちりばめられた特殊な曲である)。

ついに見つけたビートの利いたビバルディ―イル ジャルディーノ アルモニコ (YouTube)

 

イル ジャルディーノ アルモニコのビバルディ (YouTube) は、恐らく今まで聴いた中では、最もビートの利いた 刺激的な演奏である。 しかし、ビバルディ以外の演奏(バッハのブランデンブルクとか)は必ずしも、それほどビートの利いたノリノリ の演奏というほどでもない (それでもアーノンクールやビオンディよりはよっぽどビートが利いているが。 というか、アーノンクールやビオンディも、 ビバルディ以外はそれほどノリノリな訳ではない)。 やはり、ビバルディの音楽こそがビートの利いたノリノリの演奏に適している のではないか。 この意味ではバッハの管弦楽曲や協奏曲も今一つである (イル ジャルディーノ  アルモニコのブランデンブルクもビバルディほどの刺激性はない)。 というか私はバッハの器楽曲は素晴らしいと思うが、 バッハの管弦楽曲や協奏曲や声楽曲はあまりいいとは思わない。 バッハの大好きな私でも、 バッロク協奏曲や合奏曲に関しては、やはりビバルディの方がずっといいと思う。 というか、バッハ自身もビバルディの協奏曲を素晴らしいと思っていて、 鍵盤曲用に編曲している。

0010/12/1追記: 各種の演奏家の演奏に触れるための音源がCDぐらいしか手に入らなかった時代には、 自分の好みに合う演奏家を見つけだすまで、 さんざん、いろんなCDを買っては裏切られて、 というのを繰り返しながら、自分の好みに合う演奏家を見つけ出していったものだし、 少ない小遣いで、たまにしか買えない3000円近いLPレコードを 買っていた高校時代なんて、 ハズレの演奏家のレコードを買わされた時は本当に恨めしい気持ちだった。 それが、 最近はAmazonやYouTubeのおかげで、 実に様々な演奏を気軽に試聴できるようになった (なかなか聞く機会のなかった過去の演奏も含めて)。 本当にいい時代になったものだ。 CDやらmp3ファイルやらを買うにしても、 買うに値する品物かどうかをちゃんと見(聞き)定めてから、 買うことができるようになった。 なによりである。 そんな中でみつけたレッド プリースト(YouTube) の奇抜で斬新な演出と奏法は、 とても楽しいし、ピアーズ アダムスのリコーダー (YouTube)も なかなか技巧的で刺激的だ。

 このようにヴィヴァルディは、非常な速さで数多くの作品を生み出していったから、 中にはかなり似かよった楽想が出てくることもある。それについて現代イタリアの 作曲家ルイジ・ダラピッコラ(一九〇四〜一九七五)は、 「彼は六〇〇曲の協奏曲を書いたのではなく、一つの協奏曲を六〇〇回 書き換えたのだ。」と皮肉っている。しかし逆にいえば、たとえ似かよった 楽想が出てきても、これだけたくさんの作品のうち一つとして同じものがないと いうことに、むしろ驚きを覚えるのである。

渡邊學而『大作曲家の知られざる横顔』(丸善ライブラリー)
 確かに、バッハの器楽曲やビバルディの協奏曲のように、 膨大な作品の一つ一つがどれをとっても同等の高い「品質」の ものばかりであることは、私には非常に有り難いことである。 勿論、これは個人の音楽感性や価値観に依存する問題であろうが、 私はヘンデルやテレマンの作品は、いいものは確かにとてもいいと思うけれども、 それはヘンデルやテレマンの作品の中のごく一部であって、 バッハの器楽曲やビバルディの協奏曲のように、どれをとっても「はずれ」 がないというふうには行かないのである。 こうした傾向(その作曲家のいい作品は確かにいいが、 それ以外は「はずれ」も多い)は、古典派以後の作曲家になるほど 更に強くなると思う。 特に好きな作曲家という訳ではないが、ハイドンやモーツァルトは、 割と「品質」に「ムラ」のない曲ばかりを大量に作曲してくれた最後の 作曲家ではないだろうか(そういう意味では、ハイドンやモーツァルトの 愛好家は、さぞ「いい思い?」をしているなあ? と想像する)。
  そういう意味で、私は品質にムラの少ない六〇〇曲の協奏曲を作った ビバルディには大いに感謝するとともに、 バッハに関しては、もっと器楽曲を大量に作曲してほしかったと 思うのである。 というのも、キリスト教会オルガン奏者であり宮廷音楽科であったバッハは、 毎週の礼拝のために、毎週一曲ずつのカンタータを作曲し、 それを楽団に演奏指導しなければならなかったのだ。 だから、バッハは何百曲という膨大な数のカンタータを作曲している。 バッハのカンタータをこそ好きな人にとってはこれは有り難い話だろうが、 バッハの器楽曲こそが好きな私にとっては、 バッハがカンタータの作曲に費やした時間や労力の半分でも、 器楽曲の作曲に費やしてくれていたならと思わずにはいられないのである (後は、原博のような現代作曲家が、 バッハの器楽曲を彷彿とさせる曲を作ってくれることを待つしかないのだ)。

古楽奏法

 それはともかく、古楽奏法(アクセントを強くしまたはノンレガートにし、 ビブラートを排し、 ロマン派のようには強弱やリズムを揺らさずに、 淡泊に、軽快に、パラパラと演奏する奏法?)に準じた方法で、 古典派以後のロマン派や近現代ものまでが演奏されるようになってきた (ガーディナー、ブリュッヘン、アーノンクール、ノリントン)。

 古楽奏法で演奏されるバロック音楽は確かにパラパラしていてノリがよく 心地よいが、古楽奏法で演奏される古典派以後、特にロマン派以後の楽曲には、 バロック音楽のような「パラパラした」ノリの良さはどうも感じにくいし、 ましてや、60年代以前のバーンスタインやドイツもののような「かっちょよさ」 も感じられない。

 バロック音楽というのは、曲の最初から最後まで、あまり曲の調子が 変わらない。例えば、八部音符が小刻みに動き回るような曲であれば、 最初から最後まで八部音符が動き回っている。だから、その八部音符を ノンレガートで演奏すれば、最初から最後まで「パラパラしたノリ」が 保たれる。

 しかし、古典派以後、特にロマン派以後の曲では、そうした曲の調子は 一定していない。静かになったりうるさくなったり、のんびりになったり 忙しくなったりする。 うるさくて忙しい部分だけに着目すると、確かにバロック奏法が効果的な 場合もあるかも知れないが、古典派以後/ロマン派以後の曲では静かで のんびりした部分が長すぎる。

 しかも、そうした「静かでのんびりした」部分が「この上なくきれいで 美しい」旋律ならいいのであるが、古典派/ロマン派以後の楽曲で 「このうえなくきれいで美しい」旋律は、そう頻繁には出てこない。 だから私は、古典派/ロマン派以後の曲は賑やかなところ以外は たいくつに思うことが多い。

 例えばブルックナーの交響曲とかは、賑やかで派手なところは確かに すんごく「かっちょいい」と思うが、それ以外の静かなところは正直に言うと私には なかなかたいくつである。 もし、ブルックナーのあの賑やかで派手なところだけを寄せ集めて、 最初から最後までずっと賑やかで派手なのが続く交響曲を作ったら、 私みたいな好みの人間には格別な曲になるだろうに。 それにしても、古典派/ロマン派以降の作曲家は何故に、そういう最初から 最後まで賑やかで派手なのが続く曲を作らなかったのだろうか?  そういう意味では「春の祭典」とかは例外なのかも知れない (二部の出だしが、やや静かなのが続くが)。

 それに比べて、バロックの音楽、特にバッハの音楽では、 一つの楽章の中では最初から最後まで、音符が一定の密度で動き回っている (尤も、フーガなどは、後ろに行くにつれて密度が濃くなっていくが、 それでも全声部が出揃ったところからは、ほぼ密度一定になる訳である)。 しかも、密度の低い緩徐楽章も、バッハやビバルディの場合は、 そこで退屈にならないには十分過ぎるほどに「きれいで美しい」 旋律で構成されていることが多い。 そして、旋律自体が「きれいで美しい」緩徐楽章の場合は、 下手にこってりしたビブラートをかけて強弱やリズムを揺らしたりすると、 せっかくの旋律自体の美しさが台無しになってしまうので、 古楽奏法の方が「素材の良さ」を活かすのである。

 などなど、様々な理由でバロック音楽には正に古楽奏法が本領を発揮する と言えるが、 古典派/ロマン派以後の音楽には古楽奏法は必ずしも適さないのではないか。

古楽奏法が、「アクセントを強くし/ノンレガートにし、 ビブラートを排して、強弱やリズムを揺らしすぎない」 といった方法で躍動的な「ノリ」が得られることを実演してみせた ことは、古典派/ロマン派以後の演奏方法にも大きな可能性を 示したと思う。が、私の個人的好みでは、 現状の古楽奏法寄りの古典派/ロマン派以後の 演奏(アーノンクール、ブリュッヘン、ガーディナー、ノリントン) よりは、 トーマス、デュトワ、六〇年代以前のバーンスタインによるロマン派以後/ 近現代もの、 ヨッフム、クレンペラーによるドイツものの方が好きである。 勿論、バロック音楽に関しては古楽奏法が一番いいと思っている。

続く

ルネサンス聖歌

こんなことを書くと、ただでさえ少ないクラシック愛好家の仲間を 更に減らしてしまいそうだが。

私は中学から本格的にクラシックを聞くようになったが、 声楽だけはほとんど興味がなかった。 興味がなかったというか、 特にオペラに代表されるあの(私の音楽感性にとっては)なかなか 耳障りな歌い方は、はっきりと嫌いであった。 当時のクラシック好きの友達の間でも、その感覚は共有されていた。 恐らく西洋クラシック特有のあの歌い方は、 ベル・カント唱法 と呼ばれる歌い方でほぼ網羅されるのではないかと思うのだが、 ドイツ唱法をベル・カント唱法とは区別したりする向きもあるようなので、 その辺の細かい区別は知らない。 私からすると、バロックオペラ以降のマイクを使わないで歌う西洋クラシックの 歌い方は、ドイツ歌曲であれ、オペラであれ、同じような意味で好きになれない。 言葉で表現するのは難しいが、 口や鼻の中の空洞に独特のやり方で (この部分が他の歌い方との大きな違いが出るところだろうが) 歌声を大音量で響かさせて、常時 強いビブラートをかけながら、 表情過多に歌う歌い方とでも言ったらいいのだろうか。 ワーグナーの歌劇なんて、せっかくあんなにかっちょいい旋律でいっぱいなのに、 歌が入ってるなんてもったいないなんて思ってたくらいである。 だから、ワーグナーは未だに序曲しか聞かない (ワーグナーは確かにかっちょいい)。

大学生の頃、合唱をやっていた友人に、 「おれは実は声楽にはまるで興味がない。というか実は嫌いだ...」 と前述したような話をしたら、その友人は 私の主張に完全に同意した上で、 ルネサンス聖歌やノートルダムミサ曲を紹介してくれた。 いわく、ルネサンス以前の西洋のキリスト教会音楽は、 オペラとは違ってビブラートを一切かけないで、 ストレートトーンで歌われるから美しい。 しかも、当時は女が教会に入れなかったから ソプラノも男だけで歌われていた。 まずは聞いてみて。ということで、友人の部屋で色々と聞かされたが、 確かにその場で素直にすごくきれいな音楽だと実感した。 タバナーコンソートのノートルダムミサ曲のチリンチリンと鈴が入るところは、 なんか、子供時代にどこかの原っぱをさまよっているような 妙に懐かしい思いがこみあげてきたし、 タリスの四十声モテト (YouTube)なんて、 人間の声の楽器としての美しさを究極まで追求した一つの到達点のように 思えた。 後でわかったが、ルネサンス聖歌以前の西洋音楽は、 音階が教会旋法で、長調や短調ではないことが独特の和声と調性感を 生み出しているのだ。 ここに、ドミソの長三和音で終止する和声進行が入ってきたら 一気に白けてしまうだろうなという独特の崇高さがある。 といっても、私は無神論者であり、 キリスト教会音楽の歌詞内容には全く共感していないが (というかラテン語は聞いてもわからないが)、 私は標題音楽だろうと作曲者の意図とは無関係に絶対音楽として 鑑賞する流儀なので (ここの下の方の「反戦曲?」参照)、 如何に歌詞の内容が私の共感できないものであろうとも、 美しい音楽は美しい音楽として鑑賞できる。

というようなわけで、それ以来、私はルネサンス聖歌以前のキリスト教会音楽 に限って、西洋クラシック音楽の 声楽も多少は聞くようになったのである。 バロック音楽を聞くようになってからは、 FMラジオの早朝のバロック番組でやっているバロック期の声楽曲 (バロックオペラやカンタータなど)も聞かされるようになったが、 ビブラートをかけない唱法によるものであれば、 バロック期の声楽曲は、オペラほど耳障りだとは思わないが、 それでも、声楽以外のバロック音楽を手放しで大好きだと感じるようには、 バロック期の声楽曲でも好きにはなれていない。 やはり、西洋の声楽曲は、私の音楽感性では、 ルネサンス期のキリスト教会音楽で一つの頂点に到達しており、 その後、よく言われるように、 マイクやスピーカーのなかった時代の大ホールで声を響かせるように 私の嫌いな唱法が発達していったということなのではないだろうか。 マイクが登場して以降のポップスとかロックの歌い方は、 私は特にいやではない。 ポップスもロックも特に強い興味はないが、きれいに歌われる歌は いっぱいあると思う。 オペラに代表されるバロック以降、マイクが発明されるまでの クラシック声楽は未だに興味がない、というか(後略)



目次へ戻る

検索用鍵語: khmhtg, ピリオド楽器、ピリオド奏法