言語の性区別

Seksdistingo de lingvo
エスペラント版
(Esperantlingva versio)
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01/11/1:色々と杜撰な書き方をしていたところを、ところどころ加筆。

目次

非対称な性区別と対称な性区別(01/10/30微加筆)
区別なら差別でないか(01/10/30加筆,03/3/1追記
区別したくなる条件(1998/10/13)
トランスジェンダー(覚え書き)(00/11/15, 02/6/25)
エスペラントにおける性区別(01/11/26)
続く


掲示板に 「性差別のせいでエスペラントを放棄した」とか 「riismo を知ってエスペラントを勉強し直す気になった」 といった書き込み( 99/500/9) があった。
エスペラントから性区別を取り除こうという 「riismo 宣言」 を和訳した。
「手話の民族語と国際語」の頁に 「手話の性区別」について少し書いた。
「男女に統計差があるなら役割分担すべきか」の頁 に 「女は本当に「女言葉」を使っているか?」 を書いた。
日韓中エスペラント青年合宿で、エスペラントの性区別の話をした時のことを 「中国旅行記」に書いた。

言語の性区別に関連する頁(00/11/9追加):
高杉親知さん の「日本語平等化計画」、 「『女』なんか見たくない
後藤斉さんの 「コーパスとしての新聞記事テキストデータ *―終助詞「かしら」をめぐって―」 (同要旨
清野智昭の授業資料のページ」の「 『男と女の言語学』成果発表!!


非対称な性区別と対称な性区別

 言語における性区別には、大きく分けると二つの種類があると思います。 一つは、男女に非対称な区別の仕方で、もう一つは、 区別の仕方自体は男女対称でも、常にその区別が強いられる区別です。 男女非対称な区別というのは、例えば、 男に言及するときは中性の名詞を使うのに(「教師」「作家」「医者」「高校生」 「大学生」「バイオリニスト」など)、女に言及するときはいちいちその人が 女であることを明示する(「女教師」「女流作家」「女医」「女子高生」「女子大生」 「女流バイオリニスト」など)という区別です。 こうした区別の仕方は「男が常に標準で、女はあくまで特別な場合」といった通念や 「女の付加価値は、その人が、 『教師である』か『作家である』か『医者である』か『高校生である』か『大学生である』か 『バイオリニストである』かということ以前に、 『女である』ことにある」 といった通念を再生産するということについては、 既に一部の人々によって 指摘されていることだし、共感する人も多いのではないかと思います (例えば、中村桃子『ことばとフェミニズム』勁草書房)。

 一方で、ヨーロッパ諸語に見受けられるような三人称単数代名詞 (例えば英語の he「彼」とshe「彼女」など) や敬称(例えば英語の男に対する敬称「Mr.」と女に対する非婚か否かを区別しない敬称「Ms.」など) における 男女対称(対等)な区別にまで意義を唱える人は少ないかも知れません (因みに、日本の新聞の死亡記事などでも、女を「……さん」、男を「……氏」 といった、本来の日本語の用法にはない区別をしているものもある)。 しかし、私は、こういう区別もないに越したことはないという 気がしています。その理由を以下に簡単に説明してみます。

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区別なら差別でないか

 敬称や三人称代名詞を、いちいちその人が男であるか女であるかを区別して用いるというのは、 私にはとても不自然に感じられます。 などと言うと「男と女は違うのだから区別することは悪くない」とか「区別は差別ではない」とかいう 答えが返ってきます。 しかし、「違う」と言えば「黒人」と「白人」だって違うし*、 「目の見える人」と「目の見えない人」だって違うでしょう。 そして「区別は差別ではない」から、 白人に言及する時は常に「……氏」、 黒人に言及する時は常に「……黒史」、 あるいは目の見えない作家のことは常に「盲流作家」、 目の見えない人に対する三人称代名詞は常に「彼盲(かのもう?)」と言わなければならないとしたら、 何かおかしいとは思いませんか。

* 人種は 霊長目 真猿亜目 狭鼻下目 ヒト上科 ヒト科 ホモ族 サピエンス・サピエンス の亜種であり、 「黒人」「白人」「黄色人種」といった区別は、特に科学的なものではない**。

** 例えば、スティーヴン ジェイ グールド著、浦本昌紀・寺田鴻 共訳『ダーウィン以来』(早川書房) によると:

亜種というカテゴリーは必ずしも使われなくてよい。すべての生物個体は何かの種に、 おのおのの種は何かの族に、おのおのの族は何かの科にというふうに順次所属しなければならない。 けれども、種はいくつかの亜種に分けられる必要はない。亜種とは便宜的なカテゴリーである。 われわれがそれを使うのは、一つの種内に不連続な地理的な区切られたかたまりをもうける ことによって変異性についてのわれわれの理解が増すだろうと判断するときのみである。 現在、多くの生物学者の間では、自然界の中で観察される変異性の動的なパターンに正式の 命名法を無理に適用するのは、不便であるばかりでなくまったくの誤解に導くものである、 ということが議論になっている。

ここでは、外見上の肌の色の違いを根拠に人々が区別してきた、 そのいい加減な(世間的な)意味で「黒人」や「白人」という言葉を用いてみた。 その他、「障害者」と「健常者」とか「男」と「女」とかにしても、 その区別の境界が必ずしもはっきりしている訳ではないが、 ここでは、世間的な意味でのいい加減な区別をそのまま用いておく。

 人間には個人差があり、一人一人が違います。 ところが、この個人差というのが実はなかなか曲者なのです。 例えば、体重や身長といった「属性」であれば、ある集団の中で最小値から最大値まで、 おおよそ正規分布的にばらついているでしょう (まあ、負値はないから、対数正規分布とかχ^2分布みたいな 左右非対称な分布かも知れないが、 最頻値なり平均値から大小両側に裾野が広がっているという意味)。 だから、身長 160cm 以上の人は「……さん」と呼び、身長 160cm 未満の人は「……君」と呼ぶといった 区別は成立しないで済んだのだろうと思います。 ところが、「性別」という属性に関しては、大部分の人が 少くとも生物学的には「男か」「女か」というたった二種類に分類され得るのです*。

* 性染色体が XX であるか XY であるかで「女」と「男」とを定義する場合、 性染色体が XXX や XXY や X0 など、「女」にも「男」にも分類されない人たちも少数ながら存在する。

しかもこの属性は、外見を見ただけで、かなり正確に識別できてしまうのです。 そして正にそのことが、男女区別の不自然さを気付きにくくしているのではないかと私は考えています。

 例えば、身長 160cm 以上の人と身長 160cm 未満の人とを比べれば、恐らく「統計的には」、 身長 160cm 以上の人の方が体力的に勝っているかも知れません。 だからといって、「身長 160cm 以上の人は肉体労働に従事し、 身長 160cm 未満の人は肉体的負担の少ない労働に従事するのが自然である」とか 「身長 160cm 以上の人は身長 160cm 未満の人をいたわるべきである」 といった風潮が罷り通っていたら、色々な意味でおかしい訳です。 まず、統計上の差よりも個人差の方が大きいということが無視されています。 身長 160cm 以上の人で(身長 160cm 未満の人の平均よりも) 体力のない人もいるし、身長 160cm 未満の人で(身長 160cm 以上の人の平均よりも) 体力のある人もいる訳です。 また、個人の労働能力を体力だけで判断する必要がないし、更には、個人の労働能力を常に 個人の欲求よりも優先させなければならないという訳でもありません。 筋骨隆々の人が、肉体労働が嫌いで育児が好きだということだってある訳です。 それなのに、大人になったら自分が「身長 160cm 以上」に属しているか、 「身長 160cm 未満に属しているか」を自覚して、「身長 160cm 以上」だったら 「身長 160cm 以上らしく」(例えば「たくましく」)、 「身長 160cm 未満」だったら「身長 160cm 未満らしく」(例えば「かよわく」) 振る舞わなければならなくて、職業労働や家事の選択においても、 「身長 160cm 以上か」「身長 160cm 未満か」で選択できる職種が前述のように 限定されているとしたら、あまりにも個人の自由を無視したおかしい社会ではありませんか。

 ところが、今日までの社会は、正にそういうおかしい社会であると私は思っています。 「男か」「女か」で、実に偏向して役割が決められてしまっているのです。 人間を性別に着目して「男」と「女」に分類すれば、恐らく「統計的に」は男の方が 体力的に勝っているでしょうし、出産して子供に母乳を与えるという能力は女に特有のものでしょう (とは言っても、出産の能力を持たない女だっているし、 そのことを結婚後に非難されたりする差別も存在する)。 しかし、たったその程度の「差」は、 「男が大黒柱として朝から晩まで外で働いて金を稼ぎ、女は家を守って家事と育児を担当するのが自然だ」 とか「たくましいのが男らしくて、かよわいのが女らしい」とか 「男の価値は経済力で、女の価値は美貌だ」とかいった一連の性別「役割」を少しも正当化しないと私は思うのです。 世の中の仕事は別に肉体労働ばかりではないし、(女の平均より)体力のない男もいれば (男の平均より)体力のある女もいます。例えば 母乳を与えるという能力に着目すれば、確かに女の方が子育てに優れた適性を持っているかも知れませんが、 母乳を必要としなくなった後の幼児の養育には、男か女かで特に適性差は認められません (現に母乳の出ない女だって、ちゃんと育児をやっているし、母乳が出ても使わない人だっている)。 母乳が出ても育児の下手な女もいれば、母乳が出なくても育児のうまい男もいるでしょう*。

* 「乳児は母親にはなつくが父親にはなつかない」といった話には、様々な訳があるだろうと私は見積もっている。 何回か泣かれたりして、父親が赤ちゃんに頻繁に接することを諦めたり、 というか、それ以前に父親に赤ちゃんの世話をする意志が欠落していたりいして、 赤ちゃんが父親に馴れる機会がないということも あるだろう(生後数日内の「刷り込み」の効果は意外と絶大だったりする かも知れない)。 前にNHKのテレビで、 父親が、母親の腹越しに胎児に頻繁に話し掛けて声を聞かせて(覚えさせて)おくと、 生まれてからも父親にもそれなりになつくというようなのをやっていたけど、 この番組で紹介されていた実験?について知っている人がいたら教えてほしい (因みに、父親が母親の腹に当てて胎児に話し掛ける ためのホース電話みたいな器具のことを プリガフォンというらしい)。 まあ、こういうことはちゃんと実験して確かめないと、数あるオカルトじみた胎教と 同類になってしまうけど、 少なくとも「幼児は父親の低い声を聞くと恐怖を喚起される」なんて説は、 でっちあげじゃないかと今のところ感じている (声の低い母親だの声の高い父親だっている訳だし。 ついでながら、筋骨隆々の母親だのふくよかな父親だっているだろう)。 病院で取り違えられた二人の赤ちゃんがそれぞれ違う両親のもとで育てられたりということが 時々あるが、そういう場合でも、赤ちゃんが母親に馴染んでいたのだとすると 生後の「刷り込み」の方が大きいのだろうか。

03/3/1追記:私の子供での実験の(中間)報告。昨年、 妊娠中のつれあいと、百貨店の妊婦・育児用品売り場を見ていたら、 プリガフォンが売っていたので、つい衝動買いしてしまった。 しかし、胎児がピクピクと動くようになってからは、 その動きを手や頬で感知しながら話しかけた方が楽しいので、 プリガフォンは殆ど使わずに、つれあいの腹に口を押しつけて 「あら、トントンやってだのが。ずいぶん力持ぢだなあ」 みたいに毎日数分以上は話しかけていた。 で、いざ子供が生まれたのだが (その辺の詳しい話はまたいずれどこかで)、 私の印象では、子供が腹の中にいたときから親の声を聴き覚えていたか どうかの確認は極めて難しいと思う。 急遽 帝王切開で生まれたうちの子供は、 新生児入院室の保育器に入れられてしまったので、さぞ寂しい思いをしているの ではないかと不安になったが、看護師に世話されて大人しくしているのを見て、 もし、この子供が、今後もこの看護師に育てられ続けたとしても、 この人になついて育っていくんだろうなあと、しみじみと思った (そう思ったら、自分がこまめに世話して自分になつくように したいという気持ちがこみ上げてきた)。 結局 子供は新生児入院室の保育器の中に二週間ぐらい入っていて、 その間に複数の看護師、つれあい、私から世話 (授乳、オムツ交換、沐浴)を受けたが、 特定の誰か(の声)に対して特に違う反応を示すということはなかった。 恐らく、(目の見えない時期の) 乳児は、自分の世話をよくしてくれる人(の声)を本能的に覚え、 その人になつくように適応するのではないかと思う。 因みに、子供の世話をしている看護師たちはみんな女で、私のつれあいも女で、 つまり、子供の世話をしている複数の人たちの中では、私だけが男だったが (しかも私は朝と夜の授乳時間にしか世話に行けなかったが)、 私からの世話だけを特に拒絶するようなことは全くなかった (泣く時は誰が世話をしても泣くし)。 「乳児は男の低い声に怯える」なんて話は、まったくの嘘だということを 改めて実感できた (単に父親が乳児の世話をする頻度が極端に少ない、または 全く世話をしないというのがほぼ必要十分な種明かしだろう)。 子供とつれあいが退院してからは、 私は平日の夜と週末ぐらいしか子供の世話ができないのだが、 それでも、つれあいに対する子供の態度と私に対する子供の態度とに 今のところ特に違いは感じられない(生後約一ヶ月現在)。 というか、今後、私からの世話だけを頑なに拒否するようになる 変化が起きるなんてことは、 今の子供の様子からはとても想像できない (たぶんそんな変化は起きないと思うが、いずれまた中間報告します)。

受動的で消極的な男もいれば、能動的で積極的な女もいるでしょう。 外見を飾りたてることに興味のない女もいれば、おしゃれの好きな男もいるでしょう。 要するに、「個人差」をたかだか一つの属性だけに着目して分類した「統計差」の犠牲にする必要はないというのが 私の主張です。

 つまり整理すると、人間には一人一人様々な「違い」があります。 それを、ある「違い」(性別とか人種とか障害の有無とか)に着目していくつかの区分に区別して扱うと、 どうも人間は、それぞれの区分に「統計的に」認められる属性に「ふさわしい」社会的「役割」を、 勝手に決めつけてそれぞれの区分に押し付けてしまう傾向があります (というか、 「地図が読めない」とか 「掃除が嫌いだ」といった 単なる個性程度のことを「やっぱり女だなあ」とか「もしかして ADHD じゃない」みたいな レッテルに分類することで説明したつもりになる 傾向は大いにある)*。 その結果、自分の本来の欲求や適性と、押し付けられた「社会的役割」とが 一致しない人々が苦しまされることになる訳です。

* その手の無意味なレッテル貼りによる説明付けの典型は、 血液型占いだろう(「ああ、A型だから几帳面なのか」とか)。 因みに、血液型と性格との相関は、科学的には全く認められない。 これについては、 柴内康文さんの 「血液型を書くのはやめましょう」 参照。重要なのは、 よしんば科学的に何等かの相関が認められたとしても、それを根拠に人を分別していいことにはならないということだと思う。

 人間には様々な違いや個性があるのに、 敬称や三人称代名詞で常に性別に関する情報だけを明示することは、 人間のどんな違いや個性についての情報よりも性別についての情報の方が 常に重要だという文化の反映だろうし、そういう言葉遣いを踏襲することはそういう文化を 既成事実化し再生産することだと思います。 例えば、敬称や三人称代名詞が 白人と非白人とを常に区別して使われるような言語があったとすれば、 そのような言語構造は人種的な差別の反映だと考えるのが自然だろうし、 だとすれば、「自分は人種差別をしていない」と言いながら、 どんな場面で何を話題にしているときでも 白人か非白人かは常に区別するような言葉遣いを続けることは、(人の個性についての情報の中で) 人種に関する情報だけを特別扱いするという意味で、人種差別の再生産に加担していることになる と私は思います。

 そこで私は最近、日本語で文章を書く時に、 「彼」や「彼女」を使うのをやめてみています。 というか、私は会話中では、もともと「彼」とか「彼女」(特に後者)は、 めったに使っていないし、 呼び名を繰り返したり、「こいつは」とか「その人は」とかで済んでいるのだから、 書き言葉中でも、そのやり方で特に支障はないのです。 最近は、会話中でも「彼」や「彼女」を日常的に使う人が増えてきたように 感じますが、そういう人でも 少なくとも子供の頃は「彼」だの「彼女」といった代名詞を使わずに、 呼び名を繰り返したり「あの人」とか言っていた筈だと思います。 私の場合、 「彼」や「彼女」を初めて自ら使ったのは、 小学高学年の時に英語の塾で「he(彼は)」や「she(彼女は)」を訳させられた ときです ( 当時の私にとって、「彼」や「彼女」は「男の恋人」や「女の恋人」を意味する特別な語彙でしたから、 「彼は少年です」などの訳語は極めて奇異に響きました)。 その意味では、英語教育の強制が日本語をおかしくしてきた 面もあると思うし、これが、小学校からの強制になったら、 ますます日本語はおかしくなってしまうと危惧します (「テーブルの上には幾つかの花々があります」「これらの花々は……」とか。 未来の小学生は、「おかあさんはどこ?」と訊いたら 「彼女は留守です」と 答えるようになっているかも知れない。更に、 「きょうだいは?」「キョウダイはいないけどシマイがいます」とか))。 そもそも、日本語の「彼」も 「つま」も「弟」も、 確か雅語では男も女も指したのに、 今日のように「彼」が男で「彼女」が女、「夫」が男で「妻」が女、 「弟」が男で「妹」が女、という具合に区別するようになったのは、 一つには明治頃から入ってきたヨーロッパ文学の翻訳 と、それに伴う造語 (「 彼女かのおんな」 「……嬢」「……女史」など) のせいではないのでしょうか (因みに、明治の日本人の動物学者、丘 浅次郎がエスペラントに出会う前に考案した 人工語「Zilengo」では、第三人称に数や性の区別はない)。 同輩以下の人を呼ぶ時に、 女だったら「……さん」を、男だったら「……君」を、 という区別をしたり、新聞とかで女だったら「……さん」を 男だったら「……氏」を、といった区別をしたりするのは、 ひょっとするとヨーロッパ諸語からの影響でしょうか。 ともかく、日本語はもともとが性や数の区別には寛容な言語だから、新しい言葉を作らなくても、 (この辺の区別をしないことに)それなりに対処できるかも知れませんが、 ヨーロッパ諸語だとそうもいきません。 例えば英語を使うフェミニストたちは、「he」(彼は)と「she」(彼女は)を区別しないための 三人称単数代名詞として「one」「person」「E」「heesh」「ho」「na」「per」「po」「co」など 色々と思案しているようです。 エスペラントでも、 「li(彼)」「s^i(彼女)」を使わずに、無性の代名詞「ri」を使おうという 「 riismo」という運動がある ことを知り、私も支持しております。

(以上は、エスペラント婦人会機関紙 EVA 99 号に投稿した拙文の 一部を加筆修正しました。)

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区別したくなる条件 (1998/10/13)

 今の世の中で 身長が 160cm 以上か未満かによって人間を区別しようとする発想が 生まれず、また、そんな発想を滑稽だと思えるのは、 身長差よりも個人差の方が大きいことが余りにも自明だからなのでしょう。 それでは、世の中に身長が 160cm 以下の人と 170cm 以上の人「しか」いな かったらどうでしょう。身長 160cm 以下の人か身長 170cm 以上の人かの 違いなら、外見からの判断でもかなり正確に識別できるようになるでしょう。 また、 身長 160cm 以下の集団と身長 170cm 以上の集団をそれぞれたったの十人程度ずつ 抽出して体力測定しても、高い確率で、 身長 170cm 以上の集団の体力の平均値の方が有意な差で高く出ることでしょう。 そうなってくると、そういう世界では、 「身長別 役割分業」という考えも自然に受け入れられているかも知れません。

 確かに、身長差が更に極端な 例えば身長 10cm 以下の人と身長 1m 以上の人 「しか」いないような世界*では、何等かの「身長別役割分業」が必要になってくる 場合もあるかも知れません。しかし今日の社会において、身長 160cm 以下の人か 身長 170cm 以上の人かで、職業や家事育児の選択において特に役割分業が必要 だとは私には思えません。今日までの世界で社会的に強制されてきた性別による 役割分業も所詮はその程度のものでしかないと私は捉えています。

* C.Uneyama さんの 「ジェンダー(社会的性差)とセックス(生物学的性差)について」 参照。

 その意味では、 身長 160cm 以下の人か身長 170cm 以上の人「しか」いない ために簡単に区別ができてしまうという条件が崩れれば、 それを理由にしてきた役割分業も説得性が低くなってくれることでしょう。 今日までの性別役割分業の社会においては、身長 160cm から 170cm の間に属するような人でも、必ず 160cm 以下か 170cm 以上かの「どちらか」に 属することを殆ど義務づけられ、そうなるように教育されてきたのだと思います (例えば、たくましくておてんばな女もおしとやかで「女らしく」なるように育てられ、 おしとやかで華奢な男もたくましく「男らしく」なるように育てられ、 とか)。

 だから私は、「おしとやかな」男や「たくましい」女がもっともっと 増えればいいのではないかという気がしています(そもそも「おしとやか」 とか「たくましい」 といった属性は、性別にもましてや性的志向にも特に依存しないものなの ではないかと私は 見積もっている)。

 尤も、「女らしさ」と呼ばれてきたものが「おしとやかさ」だけで代表される 訳ではないだろうし、 「男らしさ」と呼ばれてきたものが「たくましさ」だけで代表される訳でもない だろうが、 私は「女らしさ」の要素と考えられているもののうち、 「女らしい身のこなし」や「女言葉」に対して特に強い不自然さ(社会的に教育されている という意味での)を覚えます。これがなくなっただけでも女と男の違いは かなり目立たなくなるだろうと私は感じます(現に子供や年寄りで女 男の差が目立たないのはそのせいもあるのではなかろうか)。

 また、こうした「女(男)らしさ」の社会的教育(強制)は、 同性愛者の一部が性転換を望むこととも密接な関係があるのではないかと 私は推測しています(素人が口を出すなと言われればそれまでですが、 性転換者あるいは異性の外見を装う男や女が、平均的な女よりも「女らしく」、 平均的な男よりも「男らしく」なろうとしたりするのは、 やはり、「らしさ」の犠牲になっているのではないかと邪推してしまうのです*。 関連する話題については 「男女に統計差があったら役割分担すべきか」 の頁でも触れた)。

* 覚え書き(00/11/15, 02/6/25微加筆)
 最近、 トランスジェンダー、トランスセクシャル、性同一性障害といった用語(分類)が作られて、 「自分のジェンダーや性的指向がどうこう言う以前に、 自分の肉体が女(または男)だということ自体に違和感があって 生理的に堪えられない」みたいな主張が受け入れられ、 性転換手術が医学的な「治療」の対象のように捉えられる流れが出てきたようだ (ちゃんと調べてないので事実誤認があるかも知れない)。 しかし、「性差よりも個人差の方が大きい」と納得してしまっている 私からするとそのような主張は、まるで 「自分のファッション感覚やスポーツ指向がどうこう言う以前に、 自分の目が一重だということや 自分の足が短いということ自体に違和感があって生理的に堪えられない」 という主張が受け入れられ、「容貌同一性障害」として医学的な 治療の対象として捉えられるのと五十歩百歩のような気がしてならない。 変な話だが、私の場合、 自分の「指向」に合った恋愛対象が獲得できるかどうかということは 確かに重要な問題ではあるが、 仮にその問題自体はどうにかなるということが保証されているのだったら、 自分の肉体の方はどうであっても別にどうでもいいことのような気がする。 例えば、異性愛者の男である私が、 今と同じ(性的指向を持った)脳味噌で肉体は女として生まれていれば、 女の同性愛者になるだけで、 自分の肉体を男にしたいとは発想しないのではないだろうか (自分の指向に叶った恋愛が保証されるのであれば、私は それ以外のことで、男の肉体でなければ興じることのできないことを 趣味や娯楽とはしていない)。 私にとって、胸が隆起しているかどうかとか、生殖器が突出しているか 窪んでいるかとかということは、 胴が長いとか、首が太いとかいう個性の一部でしかない。 ただ、「現行の世の中では、同性の恋愛対象を獲得するのは 異性の恋愛対象を獲得するのに比べてまだまだ不利だから、 自分の肉体を異性化したい」ということならまだ話は分かるが、 それは「現行の世の中では、顔が(多数派の価値観で)不細工だと 恋愛対象の獲得に不利だから美容整形をしたい」ということと 同次元の話になるのではなかろうか。 また、同性間では生殖器の構造的事情で性交渉が 困難だという理由が仮にあったとしても、 生殖器の様々な機能不全などによる 性交渉の困難さは男女間にだって色々とあって、 男女間でも色々な工夫をしたり医療的な「治療」を受けたりしている から、それと同次元ではないのだろうか。 私からすると、こうした問題は、 単に伝統的な性別役割に従いたい同性愛者が、 そうした性別役割を演出する上で異性の肉体の方が効果的だと思い込んでいる (例えば男の同性愛者が(伝統的な性別役割に従って)「女らしく」振舞おうとする際に、 伝統的な性別役割の着想によれば「女らしい」とされる華奢で 丸みを帯びた女の肉体の方が そうした性別役割を演出する上で効果的だとか、 女の同性愛者が(伝統的な性別役割に従って)「男らしく」振舞おうとする際に、 伝統的な性別役割の着想によれば「男らしい」とされる筋骨隆々の たくましい肉体の方が そうした性別役割を演出する上で効果的だと思い込んでいる) ということに過ぎないのではないかと思えてしまうのだけど、 そういう問題ではないと当事者たちは主張しているようなので (本当にそういう問題ではないんだとすると)、 なかなか理解できないでいる。

覚え書き(02/6/25) : 「『女っぽさ』を演じるには、女の肉体にならなければならない」 と思うような人の心理というのは、例えば、 英語をペラペラの域まで習得した日本人が、 「英語をペラペラと喋るには、金髪白人の外見にならなければならない」 と考える心理と似ていたりしないだろうか……
ほんとは、黒髪黄色人の外見で英語をペラペラと喋ったって ぜんぜん構わない筈なのに。

 あるいは、ここの「2002/08/07」の日記で紹介されているように「 サンディエゴのプログラマーが、二千万円ちかい金をかけて入れ墨やら形成外科手術を受けて、自分を虎に変身させようとしてきたが、さらに毛皮の移植をつよく望んでいるのだという 」というような方向性に近かったりもするのだろうか。

 あと、「ぶりっこ」したり、甘えたり、しなをつくったり、 というような意味での「女っぽさ」に関して言えば、 好き合う相手に対してなら、 別に男が男に対してでも、男が女に対してでも、 女が男に対してでも、女が女に対してでも、 そういう「女っぽさ」を演じてぜんぜん構わない筈だと 私は思うのだけど、もしかして、これを女の特権と 勘違いしているとかいうのもあったりするだろうか。 あるいは、女の外見になりさえすれば、 不特定の相手に対して無差別に 「ぶりっこ」したり、甘えたり、しなをつくったりする ことが許されるようになると、考えていたりというのも あったりするだろうか。 因みに私は、 「ぶりっこ」したり、甘えたり、しなをつくったり……が、(好きでもない) 不特定の他人に対する接し方の基本設定になっている人というのは、 女であれ男であれ、気持ち悪いと感じます。

参考:「ああ、○○だから、△△なのかあ」

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エスペラントにおける性区別

(01/11/25, 川崎エスペラント会のエスペラント・フェスティバーロという催しで、 お話させて戴いた時の覚え書き)

al Esperant-lingva versio
(エスペラント版へ)
まあ、世の中には様々な言葉がありますが、その中の多くの言葉には、
特にインドヨーロッパ語族の言葉はそうですが、人を表す単語に性の区別が
あります。エスペラントもその例外ではなく、むしろその典型とすら言えるかも
知れません。

例えばエスペラントの場合だと、
patro - patrino とか edzo - edzino とか、家族関係などを表す男女20組
ぐらいの単語があります。例えば、

patro(おとうさん)    patr-ino(おかあさん)
frato(男のきょうだい) frat-ino(女のきょうだい)
edzo(夫)        edz-ino(妻)

これらの単語は、語幹だけの基本の形では、常に男を意味し、
女を表す時は、それに女性化語尾 ino を付け加えて表すのです。
つまり、男が常に標準の形で、女はそれから派生される特別な場合
という言わば男女に非対称な区別になっています。

因みに、ヨーロッパの多くの言葉では、こうした家族を表す言葉は、
男女に一つずつ別々の単語が対等に与えられているのが普通です。
例えば、

(英語) father    mother
(仏語) le pe`re    la me`re

みたいに。こうした家族関係を表す単語に関して言えば、エスペラントの方が
ヨーロッパの主な言葉よりも男を基準にした区別の仕方をしている
と言えるかも知れません。
さて、エスペラントでは、男女の混ざった集団で性の区別をしない場合には、
無性化接頭辞の ge をつけて、

無性(複数)   男     女
ge-patro(j)    patro       patr-ino
ge-frato(j)    frato       frat-ino
ge-edzo(j)     edzo        edz-ino

のようにして、性の区別をなくすことができます。
これは、ある意味で非常に風変わりな区別の構造だと私には思えます。
というのは、基本の形に既に「男」という情報が入ってしまっていて
その情報を取り除くために、基本形に接頭辞を付け加えなければならない
というのは、何とも苦し紛れというか、だったら最初っから、
基本形を無性にしておけばよかったのにと思わずにはいられません。

とにかく、このように男女を非対称に区別する単語は、エスペラントには
約20組あります。例えば、

avo, edzo, fian\^{c}o, filo, frato, kuzo, nepo, nevo, onklo, patro, vidvo,
bubo, knabo, viro, fra\u{u}lo, grafo, princo, re\^{g}o, sinjoro, (amiko は微妙)--- 20-paraj vortoj 
などなど。

尤も、もし、人々が、家族を表すごく一部の単語だけを男女非対称に区別している
だけなら、まだそれほど問題ではないのですが、こうした非対称な区別の流儀を
他の全ての単語にまで適用すると、問題は極めて大きくなります。

例えばエスペラントでは、(この20組の単語を除けば)
人を表す単語は、性別を特定しません。例えば、

studento(学生)
japano(日本人)
pian-isto(ピアニスト)

といった一般の単語は、男にも女にも使えます。
しかし、こうしたあらゆる単語に対して、patro - patrino 
の関係を適応して、女に言及するときに限って

studento     - student-ino
japano       - japanino
pian-isto    - pian-ist-ino

のように女性語尾を付け加える風習が多かれ少なかれエスペラント界に
広まっています。更に困ったことには、男女の混ざった集団を
表す時に、わざわざ ge- を付けて

ge-studentoj 

とやったりするのです。こういう studento みたいな中性の単語にまで 
ge- を付けてしまうと、恰も studento が語幹だけでは男しか意味しない
ような誤解を生みかねないと思います(現にそう誤解してる人もいるのだが)。

エスペラントにこういう区別の風習を持ち込んだのは、多分に
ヨーロッパの言葉を母語とするエスペランチストだと思います。
というのは、ヨーロッパの主な言葉は、
studento とか japano とか pianisto に当たるような人を表す大部分の
単語を、いちいち男女で区別する構造を持っているからです。

例えば、「学生(studento)」という単語であれば、
     学生が男の場合 学生が女の場合
フランス語 l' e'tudiant l' e'tudiante
ドイツ語  der Student  die Studentin
イタリア語 lo studente  la studentessa

のようにです。こういうふうに、人を表すあらゆる単語をいちいち
男女で区別する言葉を母語としているヨーロッパのエスペランチストが
エスペラントでも女を表す時にいちいち女性語尾の -ino を付けるような
風習を持ち込んだのだろうと思います。
困ったことに、ヨーロッパのエスペランチストの中には、これが、
エスペラントの文法で既に決まっていることだと勘違いしている人もいます。

例えば、日本人の女の人がエスペラントの講習で自己紹介
をさせられて

Mi estas studento.(私は学生です)

と言ったりすると、
「あなたは女なんだから
Mi estas student-ino.
と言わなければなりません。
studento って言ったら、あなたは男になってしまいますよ。
あ、実はあなたは男でしたか? ハ、ハ、ハ。」

みたいに勘違いして修正してしまう講師もいます
(特にヨーロッパの人が多いでしょうが)
そのせいで、
日本人の中にも、Mi estas student-ino. と言わなければならないと
思い込んでいる人もいるようですが、そんなことはありません。

patro - patrino のような約20組の例外を除き、ザメンホフのエスペラントでも、
一般の単語は、男にも女にも使えます(私の理解によれば)。

その点では、エスペラントは英語に近いと言えるかも知れません。
英語では、Mi estas studento. は 

I am a student. ですが、

これは男女の区別なく使えます。しかも英語では、
fater と mother など、家族を表す言葉も男女で全く対等ですから、
エスペラント以上に男女対等な男女平等な言葉だと言うこともできるかも
知れません。
確かに英語は、ヨーロッパの他の言葉に比べても、
遙かに男女対等でしょう。ただ、その英語においても、
男性中心主義的ないくつかの単語については、最近
中性的な言い方へと言い換えがなされています。例えば、

policeman(警察男)  →   police officer (警察官)
(polic-viro)        (polica oficisto)

workman(労働男)   →   worker (労働者)
(labor-viro)         (laboranto)

のようにです。こういうふうに差別的な言葉遣いを言い換えていこう
というような運動をポリティカリーコレクトネス運動と言います。
その中でも代表的なものに、敬称の言い換えがあります。
例えば英語の場合、

男   結婚してる女  結婚してない女
Mr.    Mrs.      Miss

という区別をします。というか昔はそれが普通でした。
しかし、女性についてのみ結婚しているかどうかということを
常に区別するのは差別的だという考えから、

男   女
Mr.     Ms.

↑という敬称が提唱され、男か女かの二種類の区別だけを
するようになりつつあります。
因みにエスペラントの場合、男女の敬称は

男       女
sinjoro    sinjor-ino

のように非対称な区別ではありますが、実は sinjor-ino には結婚しているか
どうかの区別は元々はないんです(私の理解では)。
ところが、これもヨーロッパのエスペランチストが自分たちの母語の
習慣を持ち込んだものと思われますが、

男       結婚してる女  結婚してない女
sinjoro    sinjor-ino   frau~lino

みたいな区別を持ち込んでいる人が結構います。困ったことに、自分たちの
母語ではそういう区別をしていない筈の日本人やアジアのエスペランチストまでが、
↑こういうヨーロッパ式の区別が「決まり事」なのだと勘違いしていたり
します。

例えば、女の人に「s-ino 後藤」と呼び掛けると、
「Ne, mi ne estas s-ino. Mi estas frau~lino !
(私は結婚してる女じゃない、結婚してない女だ!)」と怒りながら訂正する人まで
いますが、それは明らかに s-ino の意味を勘違いしていると思います。
だって、男の人に「s-ro 後藤」と呼び掛けて
「Ne, mi ne estas s-ro. Mi estas frau~lo !
(私は結婚してる男じゃない、私は結婚してない男だ!)」
と怒る人がまずいないことからも分かるように、s-ro という単語自体は、
結婚しているかどうかを区別しません。
この単語に女性接尾辞の -ino を付けたのが s-ino なのだから、s-ro に
結婚してるかどうかの区別がないのなら、その派生語である s-ino にも
結婚してるかどうかの区別はないでしょう。

さて、ここまでは、主に patro - patrino のように男女に非対称な
区別について話してきました。男を表す単語が常に標準の形で与えられていて、
女を表す単語が常に男を表す単語から派生されるというような男女に
非対称な区別というのは、男性中心主義の文化を反映したものだ
ということは、割と簡単に思い当たるので、こういう男女非対称な
区別の問題性というのは割と分かりやすいと私は思います。

では、男女に全く対等な区別だったらどうでしょう。
例えば、男と女とにそれぞれ別の単語が一つずつ対等に与えられている

Mr.       Ms.
li(彼)     s^i(彼女)
などです。

#「彼」と「彼女」は日本語では非対称だけど、エスペラントでは
#li が男に対する代名詞、s^i が女に対する代名詞。

こういう区別は男女に全く対等な平等な区別だから、これは
男女平等だ、差別ではないと、そう言い切れるでしょうか。

しかし、常に話題にしている人の性別を区別しなければならない言葉遣い
というのは、やはり少なからず問題を含んでいると私は考えています。
例えば、人種どうしを対等に平等に区別する言葉を考えてみましょう。

    白人        黒人        黄色人
 blankulo      nigrulo      flavulo
    ki            bi           hi
  sinjor-iko   sinjor-ibo    sinjor-iho
 student-iko  student-ibo   student-iho
pianisto-iko  pianist-ibo   pianist-iho

↑このように、白人に対する代名詞は ki 黒人に対する代名詞は bi 
黄色人に対する代名詞は hi と対等に、しかし常に区別するのです。
あるいは、人を表す単語も、白人の場合は白人接尾辞 -iko
黒人の場合は黒人接尾辞 -ibo 黄色人の場合は黄色人接尾辞 -iho
を付けて常に区別する言語があったとしましょう。

これは、白人も黒人も黄色人もすべて対等に平等に扱っているから、
こういう区別は人種差別ではない、とそう言い切れるでしょうか。
私はそうは思いません。

例えば、ピアニストの話をしている時には、常に黒人ピアニストと
言わなければならなかったり、先生の話をしているときに黒人先生と
言わなければならなかったり、そういうふうに、どんなことを話題に
しているときでも、常に話題の人の人種を示さなければならない
言語があったとすれば、その言語は、人の個性についてのどんな情報
よりも人種は何かという情報が常に重要視していることになると思います。
例えば、その人がピアニストであるという情報よりも、その人が
数学の先生だという情報よりも、その人が料理を好きだという情報よりも、
常にその人が黒人であるか白人であるか黄色人であるかという情報の方が
常に重要視されていることになると思います。そんなふうに、人の個性に
ついてのどんな情報よりもまず第一に人種についての情報を知ることを
必要とする言語があったとすれば、その必要性が生じるのは、その言語の話者が、
人種差別の文化に染まっているからだと考えるのが自然だと私は思います。

性の区別も全く同じことだと思います。
男女に非対称な区別だろうが、完全に対等な区別だろうが、
何を話題にしているときでも、常に話題にしている人の
性別についての情報だけを特別視することは、
その人の個性に対する侮辱でもあるし、
現実の社会にある性差別的な文化を既成事実化することでもあると思います。

その意味で、私は、
性別を特別視する言葉遣いを続けることも、性差別の再生産に荷担する
ことだと私は考えます。

だから、私は、エスペラントを学習し始めた時、なんと、平等を謳っている筈の
エスペラントの中に、あまりにも典型的であまりにも初歩的な性区別の構造が
あるのを知って、非常に幻滅して、悩んだものです。で、私なりに、

-ino を使うのはやめようとか、
g^i(物に対する代名詞、子供に対して使われることもある)
を中性の代名詞として使おうとか個人的にインターネット上で提案していたら、
ある人から

riismo

という運動があるのを知らされた訳です。
riismo というのは、エスペラントから、性区別を取り除こうという
提案で、

ケンブリッジエスペラント会の Edmund GRIMLEY さんを始めとする
6人が1994年に発表したんです。riismo の提案は非常に簡単です。
二つの新語を導入しただけです。一つは、
`li',`s^i' の代わりに中性代名詞 

ri

を使うんです。ここから、ri-ismo という呼び方が来る訳です。で、
もう一つは、男性接尾辞の 

-ic^o 

で、女性接尾辞の -ino と対称に使われます。riismo では、
どんな単語であっても、語幹だけでは常に中性で、
-ino をつけると女性、-ic^o を付けると男性を意味します。

studento    studentino  studentic^o

みたいにです。これは、家族を表す例の20組の単語についても
適用されます。

patro     patrino     patric^o

つまり、patro も男ではなく、「親」の意味になる訳です。
しかし、今まで伝統的に「男」だけの意味で使ってきた語幹を
中性の意味で使うのには、当面はまだまだ抵抗や混乱があるでしょうから、
これらの単語については、

(ge)patro   patr-ic^o   patr-ino

無性化接頭辞の ge- を付けてもよいとしています。
で重要なのは、こうした男女の区別は、必要がない限りはしなくていい
ということです。

こうした riismo の提案には、私も基本的に共感できるので、
私も riismo を支持しています。

#私からすると、人間の個性の中で性別だけを接尾辞で簡単に区別できる
#ということ自体が十分に性別という情報を特別扱いしていると思うので、
#「japana studento(日本人の学生)」とかいうのと同じように
#「ina studento(女の学生)」みたいに性別も形容詞で表した方が
#いいと感じます(勿論、その表現は riismo の範疇でできますが)。

勿論、riismo には様々な
反論もあります。その代表的なものは、例えば、ri は li に似てるとか、
ri という音は発音しにくいとか、riismo はフンダメント(第1回世界
エスペラント大会で変更を許さないことに決めたエスペラントの基礎)に
反するとか。しかし私からすると、そうしたよく見受けられる反論は、
あまり本質的な議論ではないと感じています。

例えば、ri という音が代名詞に相応しくなければ、別に、gi だって
hi だって構わないし、あるいは、新語の導入がまずいのであれば
g^i とか tiu(それ)を転用したって、別に構いません。
要は、代名詞や語尾で性別を区別しないことにする提案に賛同するかどうかが
第一に重要なのであって、それに賛同するのであれば、その具体的な方法の
善し悪しは二の次、三の次の問題でしょう。

また、riismo の提案文自体は、riismo は別にフンダメント違反には
ならないという立場をとっていますが、私からすると、エスペラントの
中に性区別の構造が存在するという大問題よりも、それを改善する提案が
フンダメントに違反するかどうかという問題の方を殊更に重大視する
感覚にはついていけません。

エスペラントのフンダメントを、宗教の教義に譬えるなら、
こういうことだと思います。例えば、多くの宗教の信者たちは、
差別や、人殺しを宗教の教義に従ってやってきました。
というか、今もやっています。
これには、二つの場合が考えられます。
一つは、宗教の教義自体は、別に差別や人殺しを正当化していないのに、
信者たちが、勝手に教義を曲解している場合です。
もう一つは、本当にその宗教の教義が差別や人殺しを正当化している場合です。

いずれの場合にせよ、私にとって最も重要なのは、差別や人殺しを
しないことです。教義の解釈を間違っているために差別や人殺しを
するのなら正しい解釈を広めるべきだし、教義自体が差別や人殺しを
正当化しているのなら教義を修正すべきだと私は思います。

エスペラントに対しても私は同じ考え方をします。
私にとって最も重要なのは性差別を助長するような言葉遣いをしないことです。
フンダメントを変えなくても性区別をしないでエスペラントを使う方法が
あるのならそれに越したことはないし、フンダメントを変えないことには常に性区別が
強制されるのであれば、フンダメントを変更せざるを得ないと私は思います。
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