宝暦義民入門

4.裏切り者もでてきた。こうなれば幕府へ直訴。
裏切りは許せない 藩の取り締まり強化によって一揆運動から脱落するものが増えてくると、 その中から藩に内通するものが出てきました。 このことは一揆をさらに困難にすることになりました。 一揆推進派の「立者」たちは郡内での活動が困難になったので、 寄合所(アジト)を藩外の関の吉田(きった)のあたりに設けました。ここは 新長谷寺(吉田観音) があってにぎわい、農民や飛脚の往来も目立たなかったので好都合でした。 またここは郡上からも近く、江戸に行き来するにも便利な場所でした。
この吉田観音で前谷村(白鳥町)ほか36ヶ村の百姓代表は再度、検見法反対の誓約を交わしました。

ついに幕府へ篭訴!!! 藩への訴えでは要求がとおらないと考えた農民たちは、当時きびしく禁じられていた 幕府への直訴を敢行することにしました。享保六年(1721)には農民徒党禁止令がでている ため、死罪を覚悟のうえでの決断でした。
宝暦五年(1755)五人の代表が 江戸城大手門前で、駕籠で登城する老中酒井忠寄(ただより) の行列に嘆願書をもって飛び込むという駕籠訴を決行しました。

  • 善右衛門(ぜんえもん)/東気良村(明宝村)
  • 長助(ちょうすけ)/同村
  • 喜四郎(きしろう)/切立村(高鷲村)
  • 定次郎(さだじろう)/前谷村(白鳥町)
  • 藤吉(とうきち)/那比村(八幡町)

五人は取り調べを受けた後、宿預けになりました。

駕籠訴決行のニュースを聞いた郡上の農民は・・・・

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