宝暦義民入門

5.農民の勢い一気に盛り上がる
傘連判状 一旦は陰りをみせた一揆の勢いも、駕籠訴決行の知らせをうけるや再度盛り上がり はじめました。寝者の百姓大勢が詫び状をいれて一揆に参加するようになり立者の数が 急に増加しました。

宝暦六年(1756)3月24日、団結の証として誓いの言葉を囲んで楕円形に署名捺印した 二日町村(白鳥町) 傘連判状 (からかされんぱんじょう)が作られました。その誓いの 言葉は

「郡中の相談から決して抜けないことを誓います。もし抜けたらどんな目にあっても恨みません」 というものでした。また同年4月14日には村単位の傘連判状も作成され、郡上郡全体の150の村 代表による郡上郡村々傘連判状として有名です。

直訴五人の取り調べ 宝暦六年9月には、幕府の最高裁判機関である評定所へ郡上の 村方三役の代表 30人が呼び出され、10月24日に この30人と駕籠訴人5人を対決させる形で取り調べが 行われました。その結果、12月に駕籠訴人・代表30人は郡上への帰国を命じられ、宝暦七年 (1757)1月郡上に護送された駕籠訴人5人はとりあえずそれぞれ庄屋方へ村預けとなりました。 同年6月3日には駕籠訴人の喜四郎と定次郎の連名で村々へ 大変きびしい回状がまわりました。

殿様と総百姓の大敵は寝者たちであるから、寝者たち本人とその子供 や家来とは、たとえ路地で出会っても決して挨拶もしてはなりません。この 回状を村々で写しておき、仲間のひとりひとりに読み聞かせるように。
このように寝者やその家族は疎外されました。一方立者には役人の目がひかっていました。 同年の10月26日、立者をめぐって八幡城下である暴動がおきました。立者太平治の釈放をめぐって 甚助・気良村(明宝村)と由蔵・寒水村(明宝村) が活躍しましたが、甚助は12月2日になって 捕らえられ順当な裁判もなく同月18日夜、穀見の刑場で打ち首になりました。このことは金森藩の 落ち度として翌年の裁判でとりあげられることになります。
そうこうしている時、まだ江戸での駕籠訴の裁きもはっきりしないうち に歩岐島地区(郡上郡白鳥町)で大事件がおこったのです・・・

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