白鳥町の歴史

12.そして歴史は繰り返す
明治時代
那留ヶ野騒動
明治元年(1868)から翌年にかけては農作物の収穫高は悪く農民は困っていました。 そこで越佐村(白鳥町)の玉井文桂、歩岐島村(同)多田源左衛門が中心になって 話し合いを重ねました。そして明治三年に
  • 年貢米の軽減
  • 救助米代わりに二千両の借款
を郡上の役所に嘆願することを決め、8月5日に八幡町の安養寺で決議集会を開催 することになりました。この決議は全員の賛同を得ました。しかし誰一人、代表者 として役所に出向く役目をするものがいませんでした。 江戸時代の宝暦義民の代表者が獄門や死罪にされたこと が100年たったこの時代にまで語りつがれていたのでした。

結局、白鳥村の野々村弥右衛門という青年がその代表者の役目を引き受けることに なりました。多田源左衛門、玉井文桂の二人とともに役所に嘆願しました。 その結果、役所から年貢米については後日返答するが、救助米代わりの二千両 の件については不可能であると回答をもらいました。つまり「できない」という 回答でした。

再び子持ち杉へ集まる ところが、このすぐあとで野々村弥右衛門と渡辺喜次郎が 白鳥村の堤防工事の費用として二百両を嘆願したところ、この願いについては 聞き届けられました。これに対して白鳥村以外の村々が猛反発しました。白鳥村だけ 特別の扱いであると役所の不公平行政に対して不信感を強めました。
そして那留ヶ野の「子持ち杉」に白鳥村を除く周辺の村から人々が集まってきました。 すべて宝暦年間と同様に「言いつぎ」による連絡で通達されました。約3000人が集まり 白鳥村の弁明を要求しました。最初のうちは白鳥村からだれも那留ヶ野へいくものは いませんでしたが、そのうち3人の代表者が集会場所へ出向き、

「二百両の金は白鳥村の洪水被害による堤防修復に使うもので、決して郡内の百姓の 名前を利用して引き出した金ではない」

と説明し、再三の呼び出しに答えなかった謝罪として二百両のうち五十両をさしだしました。 そして前回決議した2項目を再度嘆願することを決めて解散しました。

この事件は白鳥村周辺の農民の代表者が逮捕され監禁されることなります。 約百年前の宝暦騒動と酷似した那留ヶ野騒動は白鳥農民の心の中に宝暦義民の 理不尽な政治と対決する勇気と家族を守る心が引き継がれていたことを物語っています。

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