宝暦義民入門

3.藤治郎・清兵衛の活躍
農民の嘆願受け入れられず。 江戸の金森屋敷で農民を待ち構えていたのは「監禁」でした。 郡上藩では農民代表が嘆願のため江戸に出発することを前もって江戸表に 報告していました。江戸の重役は農民への対策をたてて待ち受けていたのでした。
江戸にたどりついた農民は、一旦、馬喰町猶右衛門・鉄砲町太郎右衛門 などに宿をとりました。そのうち代表者3人が江口屋仁右衛門の案内で金森屋敷へ出かけて いき嘆願書を提出しました。しかしその
嘆願書はとりあげられられず 、かえって農民への取りしまりを厳しくすることになったのでした。

走れ、藤治郎・清兵衛 農民代表40人は監禁され、藩内での取り締まりも厳しくなったために郡上の農民は 江戸との連絡がとれなくなりました。50日が過ぎましたが音信不通。 そこで江戸の様子や直訴の結果を知るために 藤治郎・剣村(大和町) と清兵衛・栃洞村(白鳥町)の両名を江戸へ送ったのでした。

行け藤治郎 10月末江戸についた藤治郎・清兵衛の両名は代表団40名が監禁されたことを知り、江戸藩邸への 嘆願は危険であると考えました。そこで藩主金森頼錦の弟、井上遠江守のところへ代表団の訴状と 同じ訴状を添えた嘆願書を差し出すことにしました。これを知った金森家江戸藩邸では 二人の宿へ手のものをおくり二人を捕らえようとしました。 清兵衛は進んで捕らえられ藤治郎はかろうじて逃げることができました。

藤次郎は郡上に帰ると江戸のへいった代表40人の様子を告げ、また井上遠江守邸への 直訴も功を奏さなかったこと、栃洞村(白鳥町)清兵衛が縛に就いたことを話しました。 この情報により農民の不満は頂点に達しました。

農民弾圧激化 このころから郡上藩の取り締まりがさらに厳しくなり、牢屋にいれられるもの が続出し一揆から脱落する農民が増えてきました。
一揆から脱落する農民を「寝者(ねもの)」とよび、あくまでも一揆に参加した「検見法」を 拒否するものを「立者(たちもの)」とか立百姓とか 呼ぶようになりました。一時は5000人あまりいた 反対派もこのころには700人ほどに減少してしまいました。そして更にまずいことには・・・

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