宝暦義民入門

11.その後の郡上藩
その後の郡上 金森藩取り潰しの後は、 岩村藩松平家が城を管理しました。その後、丹後国・宮津から転任した 青山氏 が郡上藩主になり、その支配は その後明治維新までつづきました。

一揆以前に農民が心配していた隠し田が露見することについては、くいとめることができませんでした。 詮議の途中で明るみにでたからです。また検見法について翌年から実施されることになりました。 しかし、農民たちの願い出により一定期間定免法のままの村もいくつかありました。この点は一部成功したと いえましたが、多大な代償の割には得るものはすくなかったといえます。

藩主、青山幸道(よしみち)は宝暦騒動の後の着任のため藩内の安定に十分注意をはらった といわれています。当然、農民騒動の防止については厳しく対処しました。これは当時の 幕府の方針でもありました。

また一方で代々の藩主は農民との接触の場をもち、その様子をよく把握していたと伝えられています。 天明五年(1785)の飢饉の際には庶民の飢えを救うために救米を分配したといわれています。 天保五年(1834)も大変な凶作でしたが同様に救米・金などを願いどおりに貸しあたえたと いわれています。

白鳥おどり 現在、一揆で活躍した義民を最も多くだした白鳥町では、 宝暦義民太鼓 が演奏され、毎年 夏の白鳥おどりでは、
これは過ぎにしその物語
聞くもあわれな義民のはなし
時は宝暦五年の春よ
所は濃州郡上の藩よ
領地三万八千石の・・
     
                  つづき・・
という文句ではじまる「宝暦義民伝」が踊られています。

宝暦義民は、今も郡上の土地と人々の心の中で生き続けています。

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