宝暦義民入門

1.いつの世でも反対される増税
財政赤字の郡上藩 作物の育ちにくい郡上 の百姓は普段からとても貧しい生活をしていました。 当時の郡上金森藩はそれまでに二度の国替えを命ぜられ ており、江戸芝の屋敷の普請にも5000両の出費をするなど 郡上藩の財政も逼迫していました。 (この屋敷は1745年焼失)。 そんな時に、郡上藩の藩主金森頼錦(よりかね)は幕府の 奏者番 となったため(1947)さらに出費がかさみ赤字財政は一層ひどくなりました。

増税案審議される そこで、郡上藩は税金の種類をふやしましたが、それだけでは追いつかなっかた。宝暦四年の春、金森藩の役人は金森家の親戚の紹介してもらった幕府勘定奉行と密談し、郡上藩税法改正の承諾を得ました。これにより年貢の計算法を定免法(定額制)から米の収穫高により年貢額を決める検見法(累進課税) に変えることを決定しました。 そして村々にあった 隠し田 にもことごとく年貢をつけて税収入を増やすために黒崎左一右衛門という検地の 専門家を召抱えました。

増税案庄屋に伝達される 宝暦四年(1754)2月、郡上藩は各村の庄屋 を藩役所に呼び出して検見法への税制変更を書面をもって伝えました。その後、同年6月黒崎左一右衛門は堀部伊平太と下役人5人を連れて藩内の領地を巡回し隠し田を新田畑として検出しはじめました。当然それらには追加の年貢がつけられることが予想されました。
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増税反対決議庄屋へ提出 郡上藩からの通達と領地内の巡視が行われるのを見て藩内の村々で百姓たちの会合があった。結果、検見法は納得できないとの結論に達し 7月11日そのむねを書付にし署名捺印して百姓から庄屋へ差し出すことにしました。。ここに至って庄屋たちは団結し百姓の代表として藩の税制改定に立ち上がることになりました。

藩役人農民の決議を却下

庄屋反対運動調整役断念

その後も庄屋たちはなんども百姓と藩との間に立って交渉をしました。郡内の農民の団結の印として誰がリーダーであるかがわからないようにした傘連判状も作成しました。(この形式の連判状は以後もよく作成されます)。しかし百姓達の検見法への反発は根強く、どうしても和解の糸口を見出せませんでした。庄屋たちはどうやっても問題解決ができないことに嫌気がさし、増税反対運動の仲介役から手を引くことになりました。この先、反対運動は百姓達だけで続けられることになりました。

農民の反対千人集会開催
増税差し止めを勝ち取る
宝暦4年8月10日、ついに郡内各地の農民が八幡城下に集合し強訴しました。その数約三千人。今年だけでのくこの先も検見法を実施しない事とその他16項目についての嘆願書を提出しました。
この農民達の勢いに驚いた家老たちはやむを得ずこの要求をのみ、念書として三人の家老 連名の免状2通を発行しました。農民たちは反対運動の成功に八幡の城下をねり歩きました。興奮しすぎた百姓の一部は藩の役人別府弥格の親戚にあたる八幡本町池戸仁右衛門宅に乱入しました。
 反対運動も一段落した9月9日、庄屋達は南宮神社にお礼詣りをし三家老の免状と連判状を同年から一年代わりに三人の庄屋に預けることになりました。12月になると江戸から戻り役替わりで郡奉行となった石黒十左衛門が村方三役に「過日の強訴は不届きだが藩主のお慈悲によりお許しがあった」とつたえた。

増税問題もこれで一段落と思ったのですが・・・・

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