「心理療法の光と影」

☆ これは、グッゲンビュール・グレイグというユング派の精神科医の書いた本のタイトルです。
   この本には人を援助する専門職者の「力の問題」(≒力関係)のことが書かれています。
  この本は大学の講義で紹介されたのですが、「援助者も援助される必要がある」という講義に
 共感して納得しただけでその時は本を手に取ることはありませんでした。
 私がこの本を手に取ったのは医療の現場を経験してからです。
  このタイトルと文章をメニューの中のどこに入れたらいいのか少し迷いましたが、
 この「力の問題」について、援助する側を目指している人や、援助を求めている人に知っていただき、
 考えていただきたいなと思ったので、ここに載せることにしました。
 この本で問われている問題は、医師や精神療法家だけではなく、カウンセラーも含め、
 「人に助力することをその使命としているあらゆる職業に従事している人々」にほぼ共通のものと
 考えられているようです。
 人を助ける職業に就いている人や、先生と呼ばれるような職業に就いている人だと考えればよいと思います。

は じ め に

 この本の冒頭の部分を紹介します。

 およそ職業というものは大ていの場合、何らかの形で人々の健康と幸福に寄与しているものである。
しかし医師や牧師や教師やソーシャル・ワーカーや精神療法家といった人たちの活動には、何よりもまず、
不幸で病んでいる人とか、自らの進む道がもはや分からなくなっている人に対する、
非常に特殊な(専門化された)直接的な助力行為が、その活動の中に含まれている。
しかしながら、このような行為の故に、この助力者たちは大きな禍をも引き起こしているのである。
まさにこの助力しようという意志によって引き起こされる災害を、以下の章で述べていきたい。

 著者は援助することを職業とする者たちの、援助する行為や援助しようという意志によって災害が
引き起こされると言っています。それならば、援助を職業とする者は禍(わざわい)を起こさないようにしなければ
ならないと思いますし、援助を求める側はそれに巻き込まれないように
気をつけなければならないのではないでしょうか?
 (この本の表題は原文通りに訳すと『援助者の危険としての力』となるそうです。)
本の中では職業別に例を挙げて説明されていたりしますが、
これ以下はなるべく「援助者」「被援助者」という言葉を用いて説明していくことにします。

援助者の側に起こること

 援助者は例えば神経症的な苦しみを見て助けたいと思ったり、無意識を意識化できるように努力したりします。
しかし、援助者の光の部分である「良い援助者」であろうと努めれば努めるほど、
その反対側の偽りの援助者という影を呼び覚ましてしまうと言うのです。

・・・なぜ、偽りの援助者になってしまうのか?
 私たち(精神療法家)は自分たちの魂や人格を使って仕事をしていくのであり、手段とか技法といったものは
第二義的なものである。自分自身とか、私たちの正直さ、また真面目さや、
無意識や夢との個人的なかかわりというようなことがらはわれわれが使用する道具なのである。
この道具を実際以上のものとして見せようという内的な圧力は相当なものである。
…《中略》…私たちは全能者としての役割を押しつけられるのである。
…《中略》…私たちは普通の人よりは究極的な問題をよく知っているはずだと期待されるのである。
もし私たちが弱い人間であったら、生と死の問題に関しては他の人々より、ずっとよくわけが解っている
はずであると、次第に自分で信じ込んでしまうことになる。

 援助者は全能者であることを期待され、自分自身を実際以上のものとして見せようとしてしまい、
自分自身でも全能だと思い込んでしまうこともあると言っています。
 また著者はこの後で、無意識に自分を偽ってしまっているときは援助がうまくいっているという
印象をもってしまうため被援助者からの警告を受け取ることができないとも言っています。
その時は被援助者も全能であるかのような援助者を求めてしまっているからです。

 心の病気は治ったとどうやって計るのでしょうか?自己実現、人生の意味などは一人一人違います。
答えはひとつではない場合もあるでしょうし、時代や文化にによっても変わってきます。
援助者は被援助者より本当によく知っているのでしょうか?

偽りの援助者であることの害

 被援助者は病気になるなど援助が必要になった時は治療者を求めます。援助者は被援助者の中にある
内的治療者の部分を活性化させることによって状態が良くなることを助けます。
 しかし、偽りの援助者であるとそうする能力が非常に限られてしまうのです。
被援助者は永遠の被援助者、つまりずっと援助なしにはいられない者になってしまったり、
援助者の思い描く範囲に限られた援助しか得られないということになってしまう可能性があります。

・・・援助を求めている状態とは?
 ある人が病気になった場合、「治療者−患者」元型が布置されることになり、病者は自分の外にいる
治療者を求めることになるが、同時に、彼自身の中にいる治療者も活性化されることになる。
病気の人の中にある、心の中の治療者を、私たちはしばしば「治療的要因」とも呼んだりする。
それは患者自身の中にいる医者なのであり、患者の外の世界に現れる医者と同じくらいよく病気を治す
のである。治療的要因というのは、私たち自身の中に存在している医者で、
内的治療者が働きはじめなければ、傷も病気も直っていくことはできないのである。
日常会話の中で、ある種の患者については次のようなことが
よく言われる。「彼は健康になろうとはしない」などと。このように「健康になろうとはしない」ということは、
明らかに自我の意志とは関係がない。…《中略》…次のように言い換えられるべきである。
「その患者の内的治療者の力が弱まっているように見える」と。

 被援助者の状態が苦しいほど、その内的な治療者の力が弱くなっているため、
より治療力の強そうなもの、《全能者》を無意識に求めてしまうのではないかと思います。

・・・援助者はどのようにして偽りの援助者になるか?
 被援助者の逆を考えると、援助者の側にも「治療者−患者」元型が布置されることになり、援助者は
患者を求めることになり、そして、同時に彼自身の中にいる患者の部分が活性化されると考えられます。
しかし、援助者の患者の部分が活性化されるときの援助者の気持ちを想像してみてください。
自分の患者性を意識しながら援助者であり続けることは容易ではないように思います。
著者はこのように言っています。
 元型の持つ対極性を維持し続けていくということは、人間の精神にとっては容易なことではない。
自我は明解さを好むものだし、内的な矛盾をぬぐいさろうと努めるものである。
この明解さを求めるという欲求は、ある観点からは、対極性を有している元型の分裂をひきおこすことに
なる。元型の一方の極は抑圧されて、無意識の中で作用するが、その結果精神的な障害が起きてくる
ことがある。元型の中で抑圧された部分は外界に投影される。例えば病者は、内的治療者を実際に治療
してくれる医者に投影するし、医者は自分自身の傷を病者に投影するということもありうるのである。
…《中略》…このような状態は、例えば患者にとっては、病気の治癒がもうそれ以上は進まないということを
意味するのである。医者や看護婦や病院やその他のものが彼をなおしていくので、患者は自分自身に対する
責任を持とうとはしなくなる。意識的にも無意識的にも、病気がよくなっていくことに関しては、
患者はすっかり偉い先生にまかせっきりになってしまうのである。

 この場合、自分の中に治療者−患者という対極的なものを持ち続けるのではなく、
援助者は援助者の部分だけを選び、患者は患者だけの部分を選び、もう一方の部分は自分には
存在しないかのようになってしまいます。
 援助者にとって被援助者性(病気、弱さ、傷、無知さ、子どもっぽさなど)は、
自分とは全く関係がないものであるかのようになり、そういうものはただ相手だけのものになってしまいます。
そして、自分自身は安全なところから相手を見ることになります。
 患者と呼ばれるのは、あわれな生き物で、彼とは全く異なった世界に住んでいるのである。彼は、傷を
持たない医者になっていく。このような医者はもはや患者の中に治療的要因を布置することはなくなり、
医者はただ治療者であるというだけの存在になり、また患者はただ患者であるだけの存在になる。


**援助者(図:ワーカー)が自身の弱さなどを抑圧し、被援助者(図:クライエント)に投影する様子と、
  被援助者(図:クライエント)が自身の強さなどを抑圧し、援助者(図:ワーカー)に投影する様子を
  以下に示します。(大学のレジュメ、ほぼそのままだったりするので同級生にはすぐわかるかも??)

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