【武術稽古法研究022】1995年10月20日

◎「内観」をどう捉えるか

●「内感=内部感覚」と「内観」
 10月13日のコミュニティカレッジの講座でもそうだったが、「回らない・ねじらない」ということに関して、甲野先生は科学的に見て(つまり客観的に見て)回っていないということではない、「内観的」に回らないということだということをはっきりと打ち出している。
 「内観的」というのは整体協会の野口裕之先生の整体法の概念で、普通の身体を「客観的身体」、整体の対象とする身体を「内観的身体」と言い、内観的身体を調整することで、客観的身体を調整するということのようである。
 内観的に観ると実際の身体との逆転現象(体の前後、上下が逆など)とか、実際の身体より横に大きくずれていたりとか、私の想像力を越えた概念なのである。
 今まで私は稽古法研究の中で「内観」を「内部感覚」や「武術感覚」などのことばと同じような意味合いで使ってきた。しかし甲野先生が最新刊の『武術で拓く身体の思想』の中で「その道の専門家ではない」と断りつつも、現在の松聲館の技を説明するのに「内観」という言葉がピッタリくる(p27)と語っていて、甲野先生にとって「内観」は単に内部感覚というのとは質的に違うものとして捉えられているのが分かる。
 この「内観」に関しては同じ本の「あとがきのまえに」(p205)でもう少し詳しく書かれている。それを読むと「内観」あるいは「内観的」と言う時、少なくともふたつの意味合いがあるようだ。
 ひとつは、「内部感覚」と言った場合はあくまでも自分の内部の感覚を対象にしているのに対し、「内観」と言った場合は相手の内部感覚をも合わせて感じ取る意識状態を指しているようである。
 もうひとつは、自分自身の「肉体的身体」の境界を越えて(あるいは境界を無視して)もうひとつの身体(内観的身体)を感じ取る意識状態である。特にこの感覚は「内観的な手を後方へ抜く」などのように実際の技として語られている。「内観的身体」がどういうものか、どういう感覚なのか私には分からないが、甲野先生にとって「手を後ろに抜くつもりで」といったイメ−ジ的なものではなく、はるかに現実的な存在であるようだ。客観的にはないはずの「内観的な手」が甲野先生にとっての現実(それが「内観的」ということだろうが)であるからこそ、精神分裂症の心配(同書p209)までしなくてはならなかったのである。

●内観的身体
 整体でいう「内観的身体」がどういうものか、私には語ることはできないが、それは、整体の操法のための便宜上の想定といったものでないようだ。つまり単なるイメ−ジといったものではなく、内観的身体へ働きかけて、客観的身体を整えていくことのできる現実的な存在なのである。甲野先生があえて「内観的」と言う以上、その身体感覚もまた武術の技に直結するものであり、再現性があり他の人にも伝えることのできる具体性のある技術と考えるべきだろう。
 これはもちろん受け手がそれだけのレベルになることが条件なのだが、稽古をする我々にとってそれが問題となる。なぜなら甲野先生のこれからの技の説明が「内観的身体」を前提としたものになる可能性が高いからだ。「剣を近く、身を遠く」や「身の釣り合い」の理合いも、この「内観的身体」の概念を付与することで一段と深まったのは事実だが、稽古する者が概念として理解すれば済むものではない。それこそ各自の「内観的現実」として感じることができなくてはならない。そして甲野先生が、道場内の話としてではなく書物で公に「技法としての内観」を語ったことから、稽古をする我々として考えておかなくてはならないことがある。

●「気」と「内観」
 言うまでもなく「『客観的身体』に対して『内観的身体』というものがある」などというのは一般的には受け入れがたい話である。技法の説明のための便宜上の「例え」であるならともかく、「目には見えないが、内観的には存在する第二の身体を使った武術」ではなんだかインチキ臭い。
 ここで思い出されるのが、甲野先生が武術稽古研究会発足当初から「気」という言葉を意識的に避けてきたことだ。なぜなら「気」というものが本当に実感できないうちに「気」で説明することは何も説明しないのと同じ(あるいは反って混乱させる)ことだから、ということであったと思う。だからこそ技の理合いを具体的に説明しようと努力されてきたのだと思う。もっとも理合いの探究がより「内部感覚的」なものになるにしたがって、例えば「体の割れ」など、説明そのものは浮世離れしてきた。そして今回の「内観的身体」への言及である。これをどのように受け止めるか、稽古会内部はともかく、外部からのいくつかの声が予想される。

●合気道と「気」――「氣の研究会」と「玄和会」の考え方
 「内観」に関しての声を考える時、合気道の「気」を巡るふたつの動きを観ることが参考になるだろう。
 合気道は「気の武道」と言われている。しかしその稽古で、特に「気を練るため」の稽古はないようだ。これに対して「気のクラス」を作ることを提案し、受け入れられず独自の会派を作ったのが「氣の研究会」だと聞いている。そのため「氣の研究会」では「気」を具体的に知るための稽古を合気道の稽古に取り入れている。
 同じように合気道に気の稽古がないことを批判しても、「氣の研究会」とは180度違うアプロ−チをしているのが南郷継正の「玄和会」の合気道である。ご存じの方も多いと思うが「玄和会」は空手の会派であるが、同時に合気道と居合いを追究している。このグル−プの考え方は合気道が個別に気の稽古をしないのは、実体としての「気」といったものがそもそも存在しないからだ、という。そして合気道を関節技の体系と捉えた稽古をしている。
 このふたつのグル−プは、主流の合気道が現実に使える武道ではないという見方では一致しているが、一方は気を実体の技として育てていないからだとし、他方は気という実体のないものに惑わされて、技の追求がおろそかになっているからだとしている。

●「内観的」な世界への批判
 ここに「気」に代表される神秘的な力(「内観的な世界」)を語る武道・武術への典型的な批判がある。ひとつは「その力を個別に育てる稽古をすべきだ」であり、ひとつは「個別の稽古をしないのは実体のない思い込みだからだ」である。
 当然これは甲野先生の「内観的身体」にも当てはまる。もしそれが松聲館の技法としてあるならば、どういう「内観」の稽古をしているのか。特別な瞑想法でもあるのか。普通の稽古を続けていけばその力が育つのか。そうだとしても、それは「才能」のある人にのみ適応できる話ではないのか。誰もが「内観力」を育てられる専門の稽古を設定すべきだ。いや、そもそも「内観的身体」は甲野先生の「例え話」のようなものだから、実体的な技の稽古を工夫するべきだ……などなど。
 実際に出た批判でもないのに、自分で批判して自分で答えるのでは、クイズの出題者と回答者を兼ねるようなもので自己満足に過ぎないのかもしれないが、自分の稽古のために書いているのでご容赦願うとして、私が感じている「内観的身体」へのアプロ−チを述べてみたい。
 まず、「気」や「内観」などの感覚に属することは純粋に精神だけでするのではなく、身体活動の特殊な形態のひとつにほかならない。座禅にしても、瞑想にしても、自己催眠にしてもそれぞれに特徴的な姿勢を保つだろう。
 それらは動きが少ないために精神だけを鍛えているように見えるが、動かない身体による精神を鍛えていると言える。故にそこで培った精神をそのまま武道に持ち込むことは難しい。武道にはそれぞれ固有の動きがあるが、動きに合わせてその精神も作りかえていかなければならない。そのため本来は、その人がめざす武道の動きでその精神を深めていくものなのだろう。
 しかし武道によっては、そこで育つ精神に無頓着なものも少なくない。逆に荒々しい精神を創ることをよしとする武道もある。それはそれぞれの武道のあり方の問題なので、いいも悪いもないが、私たちのめざす武術ではそうした荒々しい精神ではとても技を深めることはできないだろう。そのために私たちの稽古は静かな稽古から始まるのである。技の形を借りて技に必要になる[武術的内部感覚]を育てているといえる。もちろん個別に瞑想などをすることは悪いとは思わないが、別にしなくてもいいと思う。内観的世界がこれと同じかどうか分からないが、やはりそれは具体的な技の動きと共に育ってくる精神のあり方なのではないだろうか。
 今回の「内観的な手を後方へ抜く」などの表現も、具体的な技と共にあるからこそ説得力を持つのである。稽古をする者にとっても、具体的な技の進展と共にこういった感覚、概念も育つといえるのだろう。

●「気」と「認識力」
 このように書いてくると、私が「気」といった内観的世界を南郷継正がいうように「認識」の別称として斬って捨てているかのように思われるかもしれない。確かに世にあふれんばかりの「気」は「認識力」と言い換えられるものが多いような気もする。しかしすべての「気」が認識力だとすると、合気道や太極拳に限らず、極真空手にもスポーツチャンバラにもそれぞれの固有の認識があるのであり、すべて「気の武道」ということになる。
 かつて合気道や大東流や中国武術の一部に「気」を感じた人々は、触れただけで投げ飛ばす、触れただけで吹っ飛ばす、などの「不思議」に対して「気」の称号を送ったに違いない。武道的認識力を鍛える彼方にそれらの「不思議」があるとは思えないのである。そうは言っても、今自らが持つ「武術的内部感覚」をていねいに育てていくことからしか始まらないのもまた現実なのだ。
 以上


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