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2月10日
節の介さんからメールあり
日没が富士山頂の方角になり、太陽が富士山の後ろに沈む「ダイヤモンド富士」を
佐倉で見ることの出来る時期が近づいてきました。
山頂とぴったり一致する日は、市の北端地域では2月11日頃、
市の南端地域では2月22日頃、市役所のある馬の背地域では
2月16日頃と見込まれます。
当地では、観察位置を1日に約1km南に移動していくと、
富士山頂への日没を毎日見ることが出来るようなペースで日没位置が変化します。
〈返信〉
ありがとうございます。みなさん、時間がありましたらご覧ください。
2月7日
節の介さんからメールあり
鉄砲鍛冶に関する佐倉本情報です。
月刊『麗』平成二十一年十二月号 通巻五二八号(2009年12月 刀剣柴田)
P4〜P7
井原重之「佐倉藩工・細川家とその刀剣 〜佐倉藩士の所持(注文)銘をめぐって〜」
旧佐倉藩士の岩瀧準が明治元年に撮影した肖像写真の解説と、佐倉市が所蔵する
二振の刀剣が佐倉藩お抱え鍛冶である細川忠義の作で岩瀧準が帯刀したことや、
別の一振が細川忠義と義則の父子合作で、岩瀧準の兄(定之助、婿養子に入って木村
正右衛門正規、改めて山田大夢、通称・潔)が帯刀したことなどが解説されています。
2月3日
節の介さんからメールあり
渡辺輝之助についての追加情報です。
『日評選書 新編 史談裁判 第1巻』森長英三郎(日本評論社 1984年6月)
小説「都会」発禁事件についての記述の中で、
P145-146
・・・東京地裁における公判は、同年二月二七日にあった。・・・弁護人は渡辺輝之助(雨山)、
宮島次郎(五丈原)、平山修(露花)の三名である。渡辺は明治三八年大審院判事から弁護士に
転じた人であって、文章をよくし、法律家の文人といわれたが、明治四二年に死亡し、
弁護士として名をなすにはいたらなかった。死後「雨山遺稿」(明治四三年刊)がでている。
P147
渡辺弁護人は、・・・・・といった弁論で無罪を主張した。
(節の介の注:上記公判は明治四一年のこと)
『明治の文壇の雄 尾崎紅葉』岡 保生(新典社 昭和59年12月)
P92
・・・印刷非売本の『我楽多文庫』はここで終わったが、この間、
社員はかなり増加した。立花屋薫(渡辺輝之助)、喜多川麻渓、香夢楼緑らが
それである。
節の介の注:『我楽多文庫』第一六号は明治二十一年二月発刊で、いわゆる印刷非売本の
最終号である。(同書P91)
・紅葉はこの当時、高等中学の二年在学中だった(同書P92)
・社員とは硯友社のメンバーのこと
・輝之助は明治21年7月に、東京帝国大学を卒業(文庫掲載済み)
2月2日
節の介さんから佐倉本情報あり
『城郭みどころ事典 東国編』編者 西ヶ谷恭弘・多?正芳(2003年9月 東京堂出版)
P84-87に佐倉城についての説明が有ります。
『歴史群像シリーズ よみがえる日本の城 2 江戸城』発行 学習研究社 2004年6月
P32-37に佐倉城についての説明が有ります。
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