高良神社を考える


■打上の高良神社は土着の産土神である。

■高良神社は、産土神と八幡神社からの勧請神とに分かれる。
■コウラはカワラの転訛で、佳字の高良を宛てる。
産土神うぶすながみ
自分の生れた土地の守り神。人は生れながらにして神の子、すなわち産子であるという出生地の神への日本人の神祇信仰から生れた。うぶすなは産土、本居と記すように、強い郷土意識に基づく。近世以後、氏神・鎮守の神と混同され同義と理解されているが厳密には区別されるべきである。  (日本歴史大事典より)

【打上の高良神社】

寝屋川市大字打上(旧河内国交野郡打上村)に高良神社が鎮座する。生駒山麓の標高100メートル、寝屋川市で一番の高地で、自然林に覆われた広大な神社領域は都会の喧噪からタイムスリップした静寂さである。なお、神域の山中には国の史跡石宝殿があり、この神社の祭祀は、古くからの宮座の人々で行われている。
 高良神社は、記録こそ江戸初期以前のものがないが、この地に、人々が定住した昔からの産土神と考えてよい。
明治初年に打上村の村社に指定され、社名を打上神社、祭神を武内宿祢とした。爾来、宗教法人等の公称は、社名を打上神社、祭神を武内宿祢とするが、今日でも地元打上の住人は高良神社として祭祀している。従って、大鳥居の社名額も、その前の社名塔も、全ての表記を高良神社としている。
このように、届け出の公称と氏子の自称との相違は、何百年あるいはそれ以上の長年にわたる産土神の根強い信仰を物語るものである。


【八幡宮に囲まれる高良宮】

 古く、江戸時代の打上村を囲む隣村の村々には八幡宮(神社)が祀られていた。

星田村 八幡宮(現星田神社に合祀)
寝屋村 八幡宮(現寝屋神社)
秦 村 八幡宮(現八幡神社)
燈油村 八幡宮(現国守神社)
岡山村 八幡宮(現況不明)

 河内に八幡宮の多いのは、近くに国家第二の宗廟石清水八幡宮があったと云うだけではない。周囲を見渡すと、南に八幡の主神の応仁天皇陵・誉田八幡宮があり、東の山を越えると、石清水八幡宮より約百年前、東大寺建立の時に宇佐から勧請された手向山八幡宮を始め、西大寺・薬師寺・大安寺には鎮守として八幡宮が祀られている。その他、高山八幡宮、往馬坐伊古麻都比古神社に合祀せられた八幡宮と、数えるに枚挙にいとまがない。
 それでは、八幡宮を祀る村々に囲まれた打上村に、ナゼ高良宮が祀られて いるのか、この点の検討が、打上村高良宮の祭祀究明の鍵となるのではないか。しかし、直接に裏付ける記録は見あたらない。ただ手がかりは幾つかある。それは、これから考える高良宮の特殊性である。
(注)主祭神とわざわざ断ったのは、多くの日本の神社では、一つの神社に複数の神を併祭している。打上の高良神社でも主祭神でないが陪神として八幡大神を祀っている。 


【土着神と勧請神】  

神社には、
@古くからの住民が信仰していた土着神、出生地の神への日本人の神祇信仰から生れた強い郷土意識に基づく産土神を祀る神社。と
A移住してきた有力者の信仰や、厄払いのための信心などから、他からの招来する外来神、勧請神を祀る神社。と
に分けることが出来る。
 高良神社の場合にも、土着神のカワラ社が変化して高良社となった場合と、高良大社や八幡系の高良明神を勧請した高良社がある。主神が入れ替った高良社もある。
 更に、土着神の社名を、有力社の名前や佳字に変更することがあが、打上の高良神社も土着神の川原社を高良社に変更したと考えたい。


【石清水八幡の高良社】

 石清水八幡宮の山麓の頓宮に接し、規模の大きい摂社高良社が祭祀されている。吉田兼好の“徒然草”で、八幡宮に参拝に来た仁和寺の法師が山上に本宮があることを知らず、“かばかりと心得て帰りにけり”と参拝して帰ったとの記述があるほど、鎌倉時代においても高良神社は参拝客で賑わっていたことがわかる。
 私が、数年前に山上の八幡宮に参拝しての帰途、下から聞こえる祭太鼓の盛んな音を、中腹の茶屋の古老尋ねると、「今日は7月17日で高良社の宵宮です、お山の八幡さんはお上の神さん、わたしらの氏神さんは高良さんです」との返事であった。この一事で高良社の土着神であることが分かる。
 この神社について妥当な解説と考えられる『京都府の地名』を引用すると、
「社名は、貞観三年(八六一)の行教夢記に「川原神」とみえ(宮寺縁事抄)、「男山考古録」は古記に「瓦社」とも記しまた「カハラ神社」と称したとする。同書は放生会の放魚式が行われた放生川のそばの山裾の小高い所に座したので、河原社と称したといい、のち当地に極楽寺・頓宮などが建てられ河原もなくなり、筑後国高良社(現福岡県久留米市)の神名と似ているので同社をここに移したと考えられて、高良の字が当てられたと述べる。
石清水八幡宮の摂社高良社は土着の産土神である。


【久留米の高良大社】
高良大社

 福岡県久留米市の高良山の中腹に鎮座する高良大社は、その歴史は古く、続日本後紀の承和七年(840)に高良玉垂神として記載される筑後国一の宮である。  延喜式神名帳には高良玉垂命神社としているが、高良玉垂命は古事記・日本書紀などの神話に登場しない神名で、土着神と考えられる。
現在こそ祭神は、高良玉垂命とするが、古くは、高良玉垂命神社は社名との考えからか、祭神を武内宿祢とする説が根強い。また他に、物部氏祖神、水沼氏祖神、藤大臣、大伴健将など諸説がある。
 このように、祭神がさまざま取り沙汰されるのは、この神社が古い土着神であると言ってよい。


【高良社と武内社】
高良大明神 武内宿祢
神功皇后縁起絵巻

石清水八幡宮には、貞観三年(八六一)の創建当初から上述の高良社の他に本宮瑞垣内に武内社が祀られている。祭神は武内宿祢である。武内宿祢は、孝元天皇の後裔とされ、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后(八幡宮主神)・応神天皇(八幡宮主神)・仁徳天皇の七代に仕え、武内大臣とも呼ばれる。
 これにより、高良社の祭神が武内宿祢でないことは自明であり、室町時代に成立したと考えられる誉田八幡宮所蔵の重要文化財「神功皇后縁起絵巻」にも、高良大明神と武内宿祢は別々に記述されている。
しかし、紀氏を始め有名氏族には武内宿祢の後裔とするのが多く、石清水に八幡神を勧請した、大安寺の僧行教も紀氏とするところから、何時か高良神が武内宿祢説になったと考えられる。
打上の高良神社も明治初期に祭神を武内宿祢と届けられたのも、この様な根拠と考えられる。
 日本の各地には八幡神が勧請され、八幡宮なり八幡神社が創建されている。これらの神社には必ずと言ってよいほどに高良社と武内社が勧請神として祀られている。それも石清水八幡宮を嚆矢とする。


【高良コウラは川原カハラより】  

古くは、高良の読みも川原の読みも同じであった。それを裏付けるものとして、高良大社の所蔵の国宝「平家物語」鹿谷の段で、石清水八幡にある高良社の記述に「甲良の大明神の御まへ」と甲良の字を使い、それに「かはら」と「河原」のルビが振られている。当時は、まだ高良社は河原社であったか、何れにしてもカハラと呼んでいたようである。
 また、『神社覈録』の高良大社の項では、「高良は加波良と訓べし」(高良はカハラとヨムべし)としている。

----生駒神社の高良社----

 奈良県生駒市の往馬坐伊古麻都比古いこまにいますいこまつひこ神社(通称生駒神社)は、延喜式神名帳に記載される神社であるが、創設は更に遡るとされている。
この神社の摂社に高良社がある。その所在は本社から1km以上離れ、竜田川の向こうの東菜畑の山中に所在する。しかも、祭神を祀る小祠が二つでそれぞれに伊奘諾尊と伊奘冉尊としている。しかし、古文書によると高良神殿二坐とか高良社二社とある。なお、この地の字名は現在は瓦谷と言うが古文書では加和良多爾カワラタニとしている。これらのことから、古くは川原社であったと考えられる。


  ----天理市の高良神社----
 天理市櫟本町に高良神社がある。ここの地名も瓦釜垣内であり、もと川原社であったとも考えられる。



【高良社は土着神の川原社である】

 八幡神を祀る神社は、全国に数万社あり、その殆どが宇佐八幡宮を太祖として分祠したものである。それに比べ高良杜は、八幡宮の侍神として各地に祀られるも、その根源とも云える石清水の高良社が、元は河原(川原)社であり、高良大社も川原杜の佳字化と見るべきである。そのように各地の川原の地主神の川原社が高良社となり、其の内の幾つかが八幡宮の侍神に組み入れられたと見られる。
 『式内社の研究』の著者、志賀剛の言葉を借りると「河原村の集落の神であった川原神が、(中略)自然神から人格神への進化によって、その信仰が深まり信仰圏が拡大し、国家神となる好例を高良神に見るペきである」としているように、八幡神と武内宿祢の信仰が高まるに従い、それぞれの地の地主神の川原神を巻き込み、相互作用により高良神へと昇華したと考えられる。
 以上、打上の高良神社を考究するのに、広く高良神社一般について見てみたが、八幡宮に囲まれた打上の地において、神社の後背地の奥より湧出する打上川の川原か、神社前方斜面下の讃良川支流の川原に、土着神即ち打上の産土神としての川原(高良)神を祀るお宮が古くから存在し、高良神が八幡宮との強い結びであると言うことから、打上には八幡宮を勧請しなかった根拠であると考える。今後も多くの方の批判と助言を得ながらこの研究を深めたい。
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