貝原益軒 「南遊紀行」の考察 −−北河内を中心に



南遊紀行 諸州めぐり 山城、河内、和泉、紀伊、大和

「南遊紀行」について

 「南遊紀行」は、近世前期の学者貝原益軒えきけんが、元禄二年(1689)に山城、河内、和泉、紀伊、大和の五州を旅した紀行文です。後ほど詳述しますが、二十四年後の正徳二年(1713)の「正・続諸州巡覧記」に他の幾つかの紀行文と合わせて刊行されました。
<旅 程>

山城国 旅宿(東洞院)→ 洞が峠
河内国 → 郡津 → 私市 → 田原 → 四条畷 → 松原
→ 八尾 →  藤井寺 → 狭山 → 天野山
和泉国 → 岸和田 → 貝塚 → 佐野 → 淡輪
紀伊国 → 和歌山 → 紀三井寺 → 高野山
大和国 → 五条 → 吉野山→ 葛城山・金剛山
河内国 → 千早 → 古市 → 誉田 → 国府→四条畷
→ 砂・岡山 →枚方 →葛葉
山城国 → 八幡宮 → 旅宿

 


「南遊紀事」から「南遊紀行」へ
 益軒は旅行が好きで、勤務のかたはら各地を旅している。そして多くの紀行文を著している。「南遊紀行」もその内の一つである。
 有名人の紀行文の少ない河内国では、益軒の盛名にあやかり南遊紀行が重視される。時には、地誌としてその記述が利用されることがある。
 前述のように、元禄二年、益軒六十才の旅の記述が、「南遊紀行」として刊行されたのは、二十四年後正徳三年の八十四才のときである。ずいぶん後の刊行と思っていたが、平成三年に岩波書店より新日本古典文学大系『東路記・己巳紀行/西遊記』が出版されてこの疑念がとけた。
 この己巳紀行は、その年の八月に書かれた写本(自筆本)で、元禄二年(干支の己巳)の旅行記が南遊記事ほか二本収録されている。この南遊記事が、後に加筆修正され南遊紀行となって刊行されたのである。
 この二つの本を、仔細に見ると次の三点が特筆出来る。
 1.地誌として見ると誤りが多い。
 2.儒者益軒の性格が反映されている。
 3.「山の根の道」は益軒独自の呼称である。
以下、三点について考証する。


「南遊紀事」「南遊紀行」には誤りが多い。
 益軒ほどの大学者も、1〜2回訪れた遠国の地は言葉や風習も異なり、後に記憶やメモ書きを頼りに書いた紀行文では、誤りがあるのが当然かもしれない。従って、益軒への過度の信頼で当時の実状を正しく伝える地誌として見る事は危険である。
 北河内地区内だけを見ても次表のような誤りを指摘出来る。

摘   要
@ 香津 郡津 古くは郡戸とも書いた、交野郡の郡衙の地とされる
A 梨作村 茄子作村 地元ではナシツクリと訛って発音するので聞き誤る
B 妙現山 妙見山 聞き誤りか
C 枚方(南遊紀行)
 (この表記は五ヶ所ある)
牧方 先行の『南遊紀事』では全て正しく「牧方」と書かれていた。枚方に変更した理由はMを参照。
D 飯盛山の西南半里許に、須奈村あり 西北半里許に、砂村あり 『徳川実記』以外に須奈村は未見。江戸時代の公文書は砂村である。
E 此邊茨田 此邊讃良 此邊(四条縄手や深野池)は讃良郡で、茨田郡はその向こう側である
F 順和名抄に、茨田は萬牟田とかけリ 萬牟多 今日の考証によれば田でなく多である
G ふかうの池、深野池とかくと云。本名は茨田池と云 深野池は茨田池でない 益軒の誤り。元禄国絵図も「フカウノ池」で、茨田池とした文献ない
H 御供村 御供田村
I 榎並八箇と云處はふかうの池の西北 ふかうの池の西に八箇荘、さらに西に榎並荘 榎並と八箇は別。
J 榎並八箇・・・牧(枚)方に近し 守口に近し 八箇は、大東市の西部と門真市・守口市南部辺(前者のみのとの説もある)。榎並は、大阪市旭区・都島区・城東区北部へん
K ふかうの池のまわり、凡四十二村 凡二十村 この頃、村の分合や深野池周辺の新田開発が進み始めていたが、二十村で大きな誤差がない。
L 須奈村・・・此邊古市郡なり 砂村・・・此邊讃良郡なり 古市郡は南河内である。
M 枚方を世俗あやまって牧方とかく 牧方は誤りでない 『南遊紀事』では、全て牧方であった。
 当時の村名の正字は牧方である。牧方の表記は明治初期の公文書にも使用されていた。牧は枚の異体字で、近世以前は多く使用されていた。
 枚(牧)はマイともヒラとも読む。(後述)
N 楠正成の弟、和田新發意 楠正成の甥 和田新發意は本名賢秀で、正成の弟正季の子で和田姓を名乗る。

▼未確認の問題点

 南遊紀事、南遊紀行ともに、洞が嶺とうげを越えると「是より四十八町を以一里と云。河内国中皆然り」と書かれ、更に、松原(東大阪市)の項に「八幡より松原まで四十八町道五里」と書いている。
 この「四十八町を以一里と云。河内国中皆然り」は、誤りでないか。江戸中期の元禄二年に於いて河内国内で一般的な通用とは考えられない。今後詳細に検討したい。(当時、一部例外を除き、公式には、三十六町が一里である)


儒者益軒の性格が反映されている。
 貝原益軒は、博学者であり進歩的朱子学者と言われたが、江戸時代という時代背景もあり、南遊紀行の各所に益軒の性格も加わったと思える頑なさが現れている。それがまた、学者過信の現在の浅学を誤らす一因にもなる。
(1)道へのこだわり
 江戸時代だけでなく、現在でも紀行文などで、道の字義にこだわった文学書は少ない。しかし、益軒は、路、道、大道、街道、海道と使い分けて、しかも多出する。
 こだわりはこれだけでなく、南遊紀事での表現を、南遊紀行でしばしば修正している。前者で「街道」と書いたのが、郊外は町の中でないので「街」では困ると考えたのか、後者では「かい道」と改めている。また、前者で「街道」と書いたのを海辺であると考えたのか、後者では「海道」と書き改めている。
(2)牧方を嗤う
 南遊紀事で「ひらかた」を、すべて「牧方」としていたのを、南遊紀行では「枚方」と書換え、しかも「枚方を世俗あやまって牧方とかく」と、牧方を誤りとしているが、枚方(現枚方市)は、古くは牧方の表記が多く、明治初期まで公文書は「牧方」であった。
 枚(マイ、ヒラ)と牧は異体字関係で、一時期公式には「牧」を使ったようである。それは、アイヌ地名の「トマコマイ」が、明治政府の太政官布告で「苫小牧」と表記とされたことでも裏付けられる。
 枚方の地名表記については、項を改める。  


●「山の根の道」は益軒独自の呼称である。
 道にこだわる益軒の南遊紀行(南遊紀事も同様)で、特筆することは、高野街道(現在で言う、東高野街道)の一部の区間を「山の根の道」あるいは「山の根の大道」と表記している。これは益軒独自の呼称である。

(1)益軒は、どの道を「山の根の道」としたのか
 南遊紀行をみると、往路は、田原村より飯盛山あいを下り四条畷へ出、「是より河内の山の根の大道也」とし、帰路は国府の北の辺に出て、「是より又河内の山根道を行く」としている。
 即ち、北は四条畷辺より、南は柏原辺までを益軒は「山の根の道」あるいは「山の根の大道」と称している。(ここで言う「大道」とは、官道あるいはそれに準ずる道を言う。)
 しかも、多くの紀行文を書いた益軒は、この間の道のみを「山の根の道」と称し、他ではこの表現を使っていない。


(2)益軒は、ナゼ「山の根の道」と称したのか
 結論から言うと、河内の言葉を聞き誤ったか、方言を嫌って言い換えたのである。
河内言葉で「山ねき」は「山ぎわ」をあらはす。これは、或いは大阪近辺の方言であったのかも知れない。
 南遊紀行では更に、「国府より北の山下の村々をすべて山の根と云」とし、生駒山麓の村々の産物を、「この辺もめんおほく織いだす山根木綿」と記述している。
 どうやら益軒は、山の根の村々を通る道を山の根道としたようである。
注記
 ここで言われている道(大道)は、今日で言う東高野街道である。


(3)地元ではどうか
 それでは、地元ではどのように称していたのか。
今日の東高野街道は、江戸時代は、地方文書も含め公式には高野海道あるいは高野街道と書かれていた。また、庶民の間では、高野道、京道、八幡道が通称であって、山の根道との記録は無く、伝承も聞かない。
 ただ、生駒山麓辺を「山ねき」と称していた。今日では少くなったとは言え、八尾の東部の山ぎわで住む人を、自他ともに「山ねきもん(者)」と称している。
 河内では、「山の根」でなく「山ねき」である。 


(4)江戸時代の諸記録が示す「山ねき」
@西鶴置土産の山ねきの大臣
 同時代の大坂の文豪井原西鶴の作品『西鶴置土産』に「・・・河州高安の山本ちかき里人」として、山出しの野暮な大尽を「山のねきの大臣」としている。
←河内高安「山ねきの大臣」の妾宅通いの図

A『和国百女』に河内国山ねき
 同時代の菱川師宣の風俗画集『和国百女』に「河内国山ねきといふところ」として河内木綿の盛況を紹介している。
B『譚海』に河内山ねきもめん
 寛政七年(1795)刊の津村淙庵の随筆『譚海』に「・・・河内山ねきもめん・・・」として、金巾の項で類似木綿の紹介をしている。


  C河内木綿の山之根キ組
 昭和56年発刊の武部善人著『河内木綿史』に、宝暦五年(1734)の史料として「高安山の山麓地帯を中心とする山之根キ組に木綿仲買仲間が四八人いた」との記述がある。


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