小路彦神霊・国松神霊の碑


 

 寝屋川市内の小路しょうじ国松くにまつの墓地に、元治元年(1864)の蛤御門はまぐりごもんの変(禁門の変とも言う)の戦死者の墓碑がある。
 事変当時、京都の治安維持に当たっていた京都守護職松平容保かたもり(会津藩主)の役知五万石が山城国・河内国・和泉国にあった。寝屋川市内では、寝屋村・国松村・秦村・太秦村・高宮村・小路村・堀溝村七ヵ村がその会津藩領である。 蛤御門の変には、これらの国々から会津藩兵として参加し、戦死者が出たのである。

寝屋川市内蛤御門の変・戦死者墓碑
正 面:小路彦神霊

裏 面:施主河・城州総代中

左側面:元治元年子年七月十九日戦死
     小路村惣右衛門伜俗名仙太郎
正 面:国松神霊

裏 面:昭和五十七年三月吉日
     入江喜太郎再建

左側面:元治元年子年七月十九日戦死
      俗名平兵衛

(注)国松神霊碑は、碑石が破損したので昭和五十七年に再建された。


京都黒谷の会津藩殉難者墓地

 幕末に京都守護職であった会津藩主松平容保の宿所は、京都府左京区黒谷の金戒光明寺にあった。そこには、会津藩の京都での死者352名の墓碑がある。その内には、元治元年の蛤御門の変戦死者32名と慶應四年の鳥羽伏見の戦死者115名の墓碑が含まれている。当然ここにも、会津藩士として蛤御門の変で戦死した小路彦神霊と国松神霊の墓碑がある。
蛤御門の変の戦死者の墓碑は3つのグループに分かれている。小路・国松の2基を含む7基は、会津藩殉難者墓地と書かれた碑のある入口より約10m進んだ右側一段高い長方形の基壇に7基が横一列に並び、左端が国松神霊の墓碑、右端が小路彦神霊の墓碑である。




神霊碑について
正 面:国松神霊

裏 面:元治元年子年七月十九日戦死
   會津御役知/河州国松村
      平兵衛/三十二

左側面:會津御役知上鳥羽村
   鳥羽浅右衛門勝巳/建之
正 面:小路彦神霊

裏 面:判読不可
  (国松神霊碑と同とかんがえられる)



左側面:會津御役知上鳥羽村
   鳥羽浅右衛門勝巳/建之

初代会津藩主保科正之(三代正容から松平姓に変わる)は、神道の信仰厚く最高の霊号「土津はにつ霊神」を贈られていた。そのことと、維新の神道興隆の気運から、会津藩では戦死者を神式で葬り「○○神霊」の霊号を付したものと考えられる。

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