山崎渡船遭難の墓碑


山崎渡船遭難の墓碑

寝屋川市長栄寺町の大利共同墓地に所在

正面碑文

山崎渡船遭難者之墓

裏面碑文(腐食で判読しにくいので、概要を記す)

・明治四十三年四月二十九日に詠歌講七十二人が 城州楊谷寺に詣る。その帰途、淀川の渡船で、先着の19人は一般渡船者と同船。中流において暴風が俄に起こり、 波浪高く救援及ばず転覆す。溺死者は十六人である。親子いだき死す者あり、一家全滅する者あり、加えて、旬日後 にようやく屍体で発見される者あり。まことに凄惨の極みというべし。 (銘文の後半と死者十六名の氏名は略)

(注)
1.この詠歌講は、当時の北河内郡九個荘村大字大利の住民を中心とした柳谷観音講である。
2.柳谷観音は、京都府乙訓郡山崎(長岡京市浄土谷)の楊谷寺(通称柳谷)の本尊観音菩薩であり、
・詠歌講は、楊谷寺の信徒の講社の名称で、当寺独特の御詠歌に因んだものである。


惨事を伝える毎日新聞記事(抜粋) (古い新聞記事で、不鮮明であるので書き改める。振り仮名は省略する)
明治43年4月30日付

山崎渡船の惨事三十名行方不明
・二十九日午後四時十分、京都府乙訓郡山崎より同綴喜郡橋本に渡る俗に狐渡しと称する淀川の 渡船場に於て乗客三十五名を載せたる渡船が猛烈なる北風のために転覆して六名を除くの外悉く行方不明 (内五名死体発見)となりたる椿事あり、其乗客の多くは府下北河内郡九箇庄村大字大利の 詠歌講の講中にして柳谷観音の参詣をなし山崎より渡船せしものにて船頭金山清太郎(二九)井上力松 (三○)の両人が多数の乗客は危険なりとて注意せしも我れ先きに乗込みたれば詮方なく船を出せしに中流に至る 頃俄に猛烈なる北風起りて波浪舷を叩くに乗客一同騒ぎ出して各衣類を濡らさじと総立となりたれば船は 忽ち傾斜してアレよアレよと云ふ間もあらず転覆せり
急流中の悲鳴
・折柄風勢烈しき上前日の雨にて水嵩増り急流箭の如くなれば見るく下方に流されて助
けを 呼ぶ間もなく水中に没せしにぞ偶々橋本を距る十町ほど下流大阪府北河内郡樟葉村大字楠葉の沿岸にて働き居たる 八幡城南紡績會者の船頭石原傳治郎、石原傳四郎、仲仕加藤政次郎、中田利一郎等はそれを見るより赤裸躰となり 船を漕ぎ付け水中に浮沈せる乗客を救い上げしがその人々は船頭金山清太郎北河内郡九箇荘村大字大利清水とよ (四五)同村中井松次郎妻とら(五五)京都富小路御池下る横井達次郎(四○)伏見西谷音吉親族府下三嶋郡茨木町 春日村阪上徳次郎母まつ(七一)等にていづれも昏睡状態に陥りゐたるを以て同會社員陸軍豫備少尉萩田佐太郎氏が 人工呼吸を試みその他醫員の注射等應急手當醫員の注射等應急手當に依りて漸くに蘇生せり尚ほ顛覆せる船を引起し見た るにその下より三箇の女の死躰現はれしがその一人は北河内都九箇庄村大字大利西口松太郎妻なつ(三六)にして他は同 村白井仙松の妻うの(四三)同吉本久次郎母りん(六五)の両女と判明せしが何れも詠歌講の連中なり死体は取敢ず楠葉 村の釋迦寺(久修園院)に収容せり
凄恰を極むる現場
此に又た大利村の村民は毎年四月二十八日に参詣する詠歌講が本年は雨のため一日延期となり昨日は快晴となりたれば 講員一同(六十餘名)喜び進んで出発し家族等は斯る變事のありとも知らず講員はよきお詣りしたりとその帰りを待ち居 りしに午後四時三十分頃前記清水とよの息子直次郎(一三)が濡鼠の如くになり京阪電鐵に乗りて驅け帰り斯くと急報に 及びたれば村民は上を下へと騒ぎ合ひて講員の家族親戚等は取敢へず京阪電鐵に乗りて現場に驅け付け我子や助かりしか 我輩や無事なりしかとその名を呼べども答ふるものは水音のみ何れも失神の姿にて携へ来りし衣類を手にせる儘茫然とし て佇立せるさま気の毒なんど云はん方なく責めて一眼死体なりともと収容所に赴くもの又は沿岸を探るものなどありしが 其中に日没となれば楠葉、八幡等より数隻の捜索船出で居たれどその捜索は頗る困難なるべし、山崎の渡船場にて斯る椿事 の起りたるは近頃稀有の事にして此原因は全く定員外(定員は二十名)の乗客を搭載せる
上猛烈なる風に逢ひ且つ水嵩の増 さり居りしためにして當日の風力は一時電車すら吹飛ばされんばかりなりしと云へばその猛烈なること推して知るべし、 船頭清太郎も餘程危険に思ひたりと月え紡積會社の船頭に救ひ上られ同會社に運ばれたる際昏睡状態に陥りながら囈言のごとく に「あぶない、あぶない」と叫び居りたりといふ、尚ほ同船には大阪郵便局の電信工夫四名乗込み居りしが内岡本廣吉 (二五)井上小四郎(二四)のこ二名は沿岸に泳ぎ付きて一命を全うし蔭山善吉(三一)長谷川熊吉(二九)の両名は 溺死を遂げ午後九時頃死躰を発見せり又た船頭の一人井上力松は泳ぎ付きて助かりたりと
半死の中に子を呼ぶ
生存者の中京都富小路御池下る横井達次郎は同市三条柳馬場東へ入る呉服商杉浦三郎兵衛の通番領にして東京芝神明 町石塚長左衛門(四五)といふお客を連れて関西九州の見物をなし九州よりの帰途八幡の男山八幡へ参詣せんとて午後三時 卅分の汽車にて山崎にて降り夫より淀川を渡る時この災難に逢
たるものにて同伴のお客は行方不明となりしより自分は助りたれども肝腎のお客を殺しては主人に申訳なしとて打悄れ居り又た前 記清水とよは彼の息子直次郎の外今一人市松(二○)といふ息子を伴ひ乗船せしものにて殆んど人事不省となりしも息子の事を忘 れずして「直よ市よ」と呼ぶに「息子は助ったぞ確りせよ」と云ひし声に眼を見開きて漸くこの世の人となりたりと親子の 情左もあるべし又た前記伏見西谷音吉親戚大阪府三嶋郡茨木町春日村阪上徳次郎母まつは七十一の高齢なるに不思議にも一命を 助り然も一番元気にて然も紡績會社よりの急電に依り西谷は伏見より駆け来りしに老婆は喜びその背に負はれて帰りたるには 何れも其元気に驚き居たりといふ尚この急報に接し匍水上署長は十数名の署員を随へ電車にて現場に急行すると同時に石油発動機 船を遡航せしめ死体の捜索に従事せり因に同川筋は平常に比して三尺の増水なりと
船頭傳四郎の談
真先に遭難現場に漕附たる
イヤモー酷いことでした、暫時でしたがアノ北風ぢやたまりません、自分等が仲仕と一所に濱で仕事をして居ると 烈風の中に悲鳴が聞こえましたのでソレ難船と直ぐ真裸躰となり褌一つで船を漕ぎ付けましたが波が高くてなかなか寄り付けませ ん、下手へ廻はつて頭の見えて居る丈を助けましたが何分常水より三尺ばかり水嵩が増して居りあすので、船が転覆したと思ふ間 もなく早や數町下の方へ流されて居りました、詠歌講は總員で六十名ばかりですが、先ず女子や子供を先へ乗せて遣れといふので 總員を二つに分けて重に老人や婦女子抔を先発の船に乗せたのでソレが顛覆したのですが残りの講員は山崎の濱にあつて後船を待 つて居りましましたので災難を免れたのです生存した人に聞いて見ますと船の轉覆した時は殆ど夢中であつたが流されつヽ下へ下 へと沈んで行くので、モー絶対絶命泳いで
居る人の足へ喰付いて漸く一命の拾うたといふことで幾許水練の達人でも我れも我れも と足へ喰付かれてはとても泳ぎ切れるものでありませんとうどう淀川の藻屑となつたのは何とも気の毒の次第で厶います、それか ら轉覆して居ります水船を引起して見ますとその下から三人の死躰が現はれましたのでこれを船に乗せて濱へ運び、半分死人のや うになつて居る生存者は會社へ連れて参つて手當をいたし機關室の暗い所へ寝かして置きましたので漸次元氣を快復して参ゐりま したが一時は恰も戰場のやうな騒ぎでした云々 4月30日付了

明治43年5月1日付

渡船惨事と捜索狂乱の一夜
二十九日の夜迄には六名の生存者と三人の死体を発見せるのみにて此他なほ二十餘名の行方知れず山崎、 橋本両渡し下流の淀川一帯は夜の幕は掩はれて濁流迸る川瀬の水音のみ物凄く、此惨事を聞きつけて駆けつけたる遠近 の村民を始め樟葉村の人々等何れも北岸の堤上に駆け集り橋本遊廓事務所の高張提灯を翳し、提上十数ヶ所に篝火を焚 き遭難者の救助に盡力したるが(中略)遭難者の最も 多き九箇荘村にては全村の家族を揚げて駆けつけ救護事務所を置き何れも北岸の提上に馳せ集り闇中を遭ぎ廻る捜索船 の後を追ひ老若男女の差別なく狂気の如く沿岸を馳廻りて其名を呼びつヽ捜索せしめしが何分闇夜の事とて一の死体も 発見せず斯る間に東天漸く白み初めて一夜の悲劇は深くも閉籠めたる川霧の薄らぐと共に夜は微々と明け渡りぬ
死骸続々発見
夜の明くると共に二十餘艘の捜索船は更に勇
気を勵まし下流三嶋郡嶋本村大字高濱の中の嶋突岬より上流に かけ隈なく捜したる所、午前八時十分といふに先づ九箇荘村大字大利田中金吉(五二)の長男浅吉(一八)の死体が高濱上 流の瀬にて發見したるを始め其後午前十一時までの間に同村田中音吉(四二)同村吉本丑松(二八)同長男幸太郎(二つ) 同村平田俊三郎妻いか(五九)同人孫まち(一二)同村木津寅吉長男市松(一六)同郡寝屋川村大字木田木村寛太郎(四五) 等の死体讀々發見したれば徹夜狂亂せる遺族の者は引揚げたる死体に駈け集りては惨憺たる死骸に抱きつき或は泣伏して幾 多の悲劇を演ずるを係官村民等が交るかわる慰めて死体は一時樟葉の釋迦寺に収容する事とし遽かに二寸丸の青竹を切り來りて 筵を縛りつけ應急の擔架數個を造り収容場に運搬したるが前八名の發見死体中七名は悉く例の詠歌講の者にて詠歌講人々六十七 人の内遭難船に乗込みたる者は合計十九名なる由にて其内僥倖にも救助されて一命を取止めたる中井直次郎(一三)中井とら、 清水とよこの他二名にして尚未發見の者は白井千松長女すが(一四)古本丑松實弟紋
次郎(二五)中井松次郎長男丑松(二二) 田中浅吉父金吉(五二)田中音次郎次男為吉(一七)同三女まき(一一)の以上六名なり詠歌講 以外住所姓名の判明したる者にて尚死体の發見せざる者は電信工夫影山藤吉(三四)同長谷川寅太郎(三四)にて之は 大阪逓信管理局より桑名技手現場に出張し來り共に捜索に盡力中なり
資産家の死躰 京都富小路御池下る呉服商杉浦番頭横井辰次郎が案内客なる東京都芝區神明前室本町大丸呉服店主石塚正左衛門 (四五)は常陸石岡町に本店を有し五十萬圓の資産のある人の由にて同人の遺留品(金縁眼鏡、金パイプ、唄本等入れある信玄袋) を發見したるが昨日午後二時にいたり三嶋郡大冠村大字大塚に於て同人の死躰を發見し同村阿彌陀寺に収容して検視をなせしに 懐中に二百圓を所有し居りその他には何物をも見出さヾりしが多分溺死の際流失せしものならんと尚ほ三嶋郡五領村大字神田大鹽 音吉の屍体をも發見したり
凄惨なる大利村
今回遭難者の惨状は何れも酸鼻を極めぬはあらざれど取分け凄惨なるは九箇庄村大字大利の状況なり同所は僅か百戸にも足らぬ小部落ながら日頃柳谷観音 に帰依する詠歌講の善男善女が年内の宿願を果したる歸るさ懸けて頼みし弘誓の船の覆へりて一家殆んど全滅の不幸に遭ひ しもの三戸内田中金吉(四七)音吉(四一)の兄弟は戸籍こそ同一なれ双方竈を別けて細 き烟を立つる間柄なるに金吉は養子浅次郎(一八)と共に音吉は長男為吉(一六)娘まき(十一)と共に盡きぬ恨を淀の川瀬に 流して兩家族の中僅かに生き残れるは隣村高宮の親族へ子守奉公せる音吉の二男伊太郎一人あるのみ然れば遭難後の兩家にては 寧ろ家族の泣き悲しむものさへ無く只親族の姻族の寄り集ひて式ばかりなる佛檀の御燈明赤々と照りはわたるさまなかなかに哀 れ深し母親この(六一)と夫丑松(二八)と其弟紋次郎(二五)と長男幸太郎(三つ)とを凡て幽鬼の手に奪はれ今は早や失神 せるが如き本籍
友呂岐村大利寄留の吉本よしは泣き腫らしたる瞼重げに豫て写し取れる夫と子供の写真を取出し抱きて泣き泣き ては抱き果ては掻き毟らんばかりに懐にひしと抱きえ逢う人毎に喞ち泣くさま見る眼に堪えず「切めて幸太郎だけなりと置いて往 けば善いに無理に連れて出て冥途の道連れとするとは……」と子の可愛さに逝ける夫へ恨の愚痴を並立つるを近隣の女房連が慰 むる言葉さへなく共に泣きくづをれ居れる執れか悲惨の極みならざるなし村内は到る處百姓家のいぶせき一間に香烟縲々と立昇り て屋外は今を盛りの梨の花片々として夜來の雨に落ち泥にまみれたるさえ涙の種なり同部落にては田中金吉、音吉、浅次郎、為 吉、まさ、木津市松、中井丑松、西口なつ、平田いか、同まち、白井うの、同すが、中井とら、清水とよ、同直次郎、古本紋次 郎、同丑松、同この、同幸太郎の十九名乗船し漸くにして救はれたるはとら、とよ、直次郎の三名に過ぎず随つて全村到る處此 噂にて持ち切りぬ
一齣の悲劇
二十九日の夜来引揚げられた屍体は三十日正午夫れぞれ家族親戚等へ引渡しをなしたるが樟葉村久修園院の寺庭、遺族さては 彌次馬等の麕集せる間を人夫等が骸をと取片付けにかヽる際に駈け付けたるは九箇荘村古本丑松の妻よしなり丑松の死骸は午 前八時二十分轉覆の現場より約六十一間下流北岸の水堤先にて發見したるものにて其死体を引揚げ見ると可憐や丑松の背に 長男幸太郎(二つ)が小倉の紺帯にて確と背負はれ居たるがクルクルと剃りたる頭の父の首筋につけ紅葉の如き右手にて父の 右の耳に確と掴み左手を開いて人形の如く息絶え居たるを警官等は切めては二世の縁もと其まヽ屍体に抱かせて寝かせありし をよしは一目見るなり忽ち堰い上げつヽひしと死體に抱きつき「坊やさぞ冷たかつたらう可愛やかあいや」と兩掌にて幸太郎 の顔を撫で又た夫の姿を見て忽ち上気し失神して其場へ卒倒せんとしたるより此有様を見たる多くの群衆は知るも知らぬも同 情の涙に咽び付添ひ來れる大利某寺の数珠爪繰りつヽ因果を諭し役場員等と共に次の間に退かしめ斯くて屍体は順次に運び出 されて寺門を出で沿道只だ念佛の聲のみ高く聞えぬ
愚なる管轄争ひ
(略)
捜索本部を設く
大阪府警察部にては昨日捜索本部を枚方警察署内に設け天野保安課長、岸本警務課長、家嶋保安課警部等を始め殆ど總出の姿 にて多数の警官を督して鋭意捜索に従事し居れり尚ほ昨夜十時ごろまでに発見せる死体は總計十三人にして尚ほ未發見のもの 八名生存者十二人なり
5月1日付了

明治43年5月2日付

捜索の續行
渡船惨事續報
大阪府警察部に於いては枚方町に捜索本部を置き今回の遭難者にして既に住所姓名等は判明し居るも尚其死体發見せざる九箇庄 大字大利村の村民六名と電信工夫二名との死骸捜索を續行し三十日夜は枚方町の侠客魚松等が遭難者に同情し同町の有志を集め 枚方町淀川沿岸堤防所々に篝火を焚き大いに盡力したるが一方捜索隊は安治川水上署の井上警部が署長と交代にて指揮し枚方署 の警官總出にて府下三嶋郡大冠村大字大冠の大塚渡しより下流枚方町の出口渡しにかけ十二丁餘の間を隈なく捜索したるも一日 午前一時頃までは尚一の死体も發見されず一先づ休憩し一日午前日曜日にも拘らず岸本、天野兩課長及び匍水上署長等も來り、 茨木、守口兩署も應援し大々的捜索に着手せるが當日は一の屍体をも發見する能はざりき
懸賞捜索
一方淀川南北沿岸の各村民は今回の遭難者に多大の同情を表し現場橋本の渡しより下流守口に至る約六里半の間、両岸の村長は 其筋の捜索隊に應援し如何にもして未發見の屍体を捜し出さんと□□き枚方渡しを中間に下流南岸の枚方町、蹉蛇村、友呂岐村、 九ヶ荘村は何れも船二艘に各八人宛を、同庭村は船四艘に十六人を乗込せ、北岸大冠村、三ヶ牧村、鳥飼村、味生村の四ヶ村は 船二艘に是亦八人宛を乗せ又枚方渡しより上流橋本渡しに至る間は南岸牧野村にて船四艘と船夫十人、同樟葉村は船三艘に船夫 六人を出し北岸五領村は船五艘に船夫十人を出して極力捜索に従事する事となりたれば大阪府警察部にても之に力を得枚方渡し 下流は井上警部、上流は大野警部補指揮し昨一日より向ふ五日間の内に屍体一個を發見したる者には金三圓宛を懸賞する事と為 したり尚三嶋郡五領村大字神田大鹽音吉の死体は未だ發見されずされば淀川の川底には尚ほ同人を合せて都合九人の屍骸が沈み 居る譯なり
知事の視察 昨一日午前十時二十分頃京阪電鐵橋本停留所へ黒の背廣を着しインパネスを被りて黒の山高帽を頂きたる一紳士 の降車したりこは高崎大阪府知事にて同知事は單身にて停留場前に出でヽ渡船遭難者の屍骸を収容したる久修園院は何れにある やと路傍の人に尋ね電車線路より田圃路を辿りて前記寺院に入り収容場を訪ねたるも遭難者の屍骸は既に遺族に引渡したる後と て住職を訪づれ収容當時の模様を聴き取り同寺を辭して淀川沿岸に至り橋本渡しより下流三四丁の間を往復して現場を視察し附 近の者に二三の質問を為し居る所へ出張中の安治川水上署の大野警部補が認め説明を為したるが同知事は歸途枚方署に立寄る旨 を告げ再び電車にて京都に赴きたり
僅に難を免る
一部落に於いて十六名の死者を出し全村弔祭に忙殺されつヽある九箇庄村大字大利の區長白井熊太郎氏の養母里 のは孫二人雇人三名を連れて遭難者の一行と共に柳谷詣をなしたるものなるが一行乗船の際俗にいふ虫の知らせか伴へる孫が未 だ歸なぬ歸なぬとせがみて聞かず折から風は吹き荒れ波は高し寧そ後
の船にしやうと乗合を見合せたりしところ不思議にも難を 免れ恰も渡船轉覆して救助船の行き交ひ居る際對岸に來りて此状況を見、眩暈するまでに駭きたれど幸ひ其身の恙なかりしを悦 びつヽ之れも大慈大悲の観音力と窃かに柳谷観音に祈誓して立歸り三十日朝來各遭難者の話をなして夢の如き感に打たれ居れり 尚ほ對馬江の奥村栄次郎等も柳谷参詣後八幡の八幡様へ参詣する為め一行と別れ幸ひ難を免がれたるより偏に八幡様の御利益な りとて喜び居れり
遭難者の葬儀
既に發見せる所の遭難者の屍体は三十日午後夫々遺族或ひは縁者に引渡したるが中にも九箇荘村大字大利にては役場員及び村民 等奔走して懇ろに佛事を行ひ葬儀は平田俊三郎妻いか(五六)長女まち(十二)の母子の死体を土葬に附する外は火葬となす事 とし三十日午後八時先づ今回の遭難に一家全滅せし田中音吉(四二)と田中金吉の長男浅吉(十八)は叔父甥の間柄なれば別々 に葬むるより寧そ二人を一緒にして葬りたらんには死亡者の意にも叶ふべしと一つの棺に抱き合せて納め涙ながら火葬を済し同 夜引續いて西内松次郎妻
なつ(三七)を葬り昨一日には二時間置きに木津寅吉の長男市松(十六)白井仙松妻うめ(四三)以下を葬りたるが 惨中の悲惨を極めたりし古本丑松(二七)長男幸太郎(二つ)父子及び丑松の母こん(六五)等の死体は近村友呂岐村に於て火葬 に附したるが遭難者中平田いか方を除くの外は何れも極貧困なれば葬儀等も親類縁者や村民等が費用を支出したる程なり又大利の 遭難者中六名の屍体は昨日夕方前までは發見せざりしより遺族村民等は葬式を済すと直様淀川沿岸に駈つけ死体發見せらるヽを呆 然として 待ち居る様餘所の見る眼も氣の毒なり











5月2日付了

明治43年5月8日付

渡船惨事死躰發見
淀川狐渡しに於ける渡船転覆惨事の死躰は未發見の分なほ九名ある事は既記の如くなるが其後捜査續中の處五日午 前に至り同地上
の牧渡船場附近に於て北河内郡九ヶ庄村大字大利中井丑松(二二)及び同村田中為吉(一七)両人の死躰を發見し 検視の上それそれの家族に引渡せしが尚ほ昨日午後零時十三分頃府下三嶋郡大冠村大字大塚地先に溺死者の一人北河内郡九ヶ荘村 大字大利三十九番屋敷臼井仙太郎の長女つか(一四)の死 躰を發見したるが六名の行方についき目下尚捜査中なりと又溺死者のた め十一日同郡佐太來迎寺にて追悼法要を施行する筈にて尚ほ柳谷観音の住職日下隆俊師は弔慰金九十六圓を贈りたりと

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