打上村出土の壺
−−先人の記録詳述−−


1,プロローグ
 「打上村で黄金のつぼ発見!」このニュースは安永三年(1774)の江戸時代であっても、大変珍しい興味ある事件であった。河内国の片田舎打上村の出来事であるが、噂はたちまち近在に広まり、やがて江戸表でも取り上げられて、好事家の関心をいやがうえにもかき立て、記録され、つぎつぎと筆写された。
 よほど珍しい話であったのか、高名な蜀山人大田南畝の随筆集『一話一言』に収まり出版された。

2.事件のあらまし
 今から約230年前の安永三年某日、河内国交野郡打上村で一農夫が金色の壺を掘り出した。その中に骨が入っていたが、立派な壺であるので、領主に届けられた。やがて、大切に埋めもどすようにと返還された。しかし村では盗難を恐れ、発見地の地主の檀那寺に埋めることにした。やがて、この寺の山号は黄金山と名付けられた。この寺は現在の浄土真宗本願寺派黄金山極楽寺である。
 それから、約100年後の明治四年(1871)に発掘調査し、再び埋め戻されたが、明治七年に村人の希望で掘り出され、売り払って、その代金は小学校設立の資金にあてられた。
 以下、この事件に関し把握した記録類を、年次を追って詳述する。

3.近村での記録
 打上村にほど近い、河内国交野郡津田村の三宅郡貞氏の「見聞録」安永三年八月の記録に、
 「日比河内打上村ニ、金ノつほヲ山ニ而掘出シ申候所、御番所ヘ御訴候者、御取上被成候、つほノ目、四貫八百目有云」『枚方市史第九巻』
 (意訳:先日、河内国打上村の山で金の壺を掘り出し、御番所へ届け出た。壺の目方は、四貫八百目あると云う)
 これが、この壺の記録としての初見である。

4.大田南畝の記録
 大田南畝なんぽの随筆集『一話一言』(自筆)の巻之十二所収
(内閣文庫蔵本)

大田南畝(1749-1823)
 江戸後期の狂歌師・戯作者、江戸の人。名は覃。別号は蜀山人・四方赤良。有能な幕臣でもあり、広く交遊をもち、天明調狂歌の基礎を作った。編著「万載狂歌集」、咄本「鯛の味噌津」、随筆集「一話一言」など。(大辞泉)
注)大田南畝は、別項で紹介する「打上村孝子嘉七」とも関係する。

 翻刻文(岩波書店・大田南畝全集より)
「安永三年甲午七月、河州交野郡打上村より掘出したる壺書付
 大久保七郎右衛門殿領地河州打上村庄兵衛と申百姓所持之山中に、昔より石の蓋致壺有之。地上へ少々顕れ有来候を、折々見付候者も在之候得共、定て墓所にても可有之哉と推量いたし、堀候者も無之打捨置候処、当午七月十三日、同村小高持之百姓勘右衛門一名十助、幼名にて有之哉と申者、右山中へ参り石蓋を取り見候処、壺の内に又壺有之、其内に又壱つ黒色なる壺有之、此壺は土器とも相見不申候に付、密にもとのごとくいたし納置、ふたも以前のごとくいたし宿へ帰り、其夜半密に彼所へ参り、右之壺を堀出し候由。
 壺高サ五尺程、其内の壺高サ三尺、此壺二つは土器也。その内黒色の金の六角形の壺有之。右之壺やろうぶたにて上に瓔洛(珞) 有之、ふたの裏に明骨と書付有り。壺の内骨少々水も余程あり。たまり水にても有之候哉。朱も少々有之のみ。
 右掘出し持帰り、翌十四日大坂の道具屋え致持参、右壺売払度由申候に付、道具屋にて磨見候処、大金之壺也。掛目四貫六百匁、内瓔珞と蓋との掛目六百匁有之由。道具屋申候は、ケ様の品麁末には買請がたく申候間、村役人等之一札にても添えられ候はゞ買請申旨申候に付、勘右衛門持帰り、名主へ右之趣申聞候処、大切之事故領主へ相届候処、早速致持参候様にとの義に付、前条之趣委細訴へ候由。
 右近辺、星の村といふ所にむかしより小松寺と云寺あり。小松重盛公建立之由申伝へ、中古日蓮宗の僧住す。又同所に小松谷といふ所有之。平家乱妨之節、きんだち杯の骨にても有之哉と近辺にて評判いたし候。
 皆掛金四貫六百匁
    此あたへ当時弐拾両買之積りにても銀九十二貫目相当、金千五百両程也。
 安永三甲午年十月二十八日写畢。但永井築州知行所隣村之由に候と瀬名貞雄の記にみえたり。
注記
@文末の文言と巻末の識語により、この話は安永三年十月二十八日に瀬名貞雄が筆写したものを、更に天明八年(1788)頃、大田南畝が転写したものと分かる。(下線は筆者が付す)
A南畝は、巻頭の目次で「河州交野壺」としているが「黄金の壺」としていない。
B大久保七郎右衛門は、小田原城主で後の大久保加賀守忠顕である。この当時打上村は大久保領約310石と旗本長井領約47石の相給であった。
C星の村は星田村。また、小松寺は中世に実在したが、ここに云う「小松重盛建立」は誤伝承である。


5.河内名所図会
 享和元年(1801)刊行の『河内名所図会』では、この壺について次のように紹介している。
 「(石宝殿の記述の後に)又、近年此ほとりにて金銅こんどうの壺、大サ壱尺餘の物を掘り出す。其おもさ六貫目あり。中に白骨をおさむ。
 これを官家に訴ければ、もとの地へ其儘にて蔵むべしとある。しかれども、山野なれば、盗難を恐れて、其地の主の宿坊すくぼう、本願寺宗の極楽寺といふ道場、此村にあれば、其境内を深く堀て、埋蔵すとぞ」
注記
@この書は、多くの人の目に付き、出典として引用されているが、記述はやや粗略である。
A古墳の「石宝殿」の紹介記事の後に、「このほとり・・・」と文書がつづくため、石の宝殿古墳の埋蔵品と短絡して論じる人もいるが、これは疑問である。









6.山崎美成の記録
 山崎美成(1796-1856)が、天保十四年(1843)に『世事百談』に「黄金おうごんの壺」として収録している。
 「河内なる打上村といふところにて、むかしより山中に石の蓋をせし壺の土中よりいささか現れみゆるがあり、いつとはなくあたりの者もかれこれ見しりたれど、(以下省略)」
 これは、大田南畝の『一話一言』か、或いは類似の写本より取り入れたものと考えられ、誤写や面白くするための加筆があるが、新たな史実は得られない。ただ、約七十年後も珍しい話として伝えられた事がわかる。


7.天照山系図志
 慶應二年(1866)頃、打上村の大念仏宗(現浄土宗)天照山明光寺住職が書いた同寺の由来記「天照山系図志」に、次のような記述がある。
 「・・・内より小金壺、勝尾原にて田中勘右衛門と申す者掘出す後、地頭に聞え、大久保殿より御召上、江戸沙汰に相成、御尋合せ相済候上にて、御地頭より白木箱入に相成、御老中の焼印すわり有、御申付には、勝尾原持主、慥成所えうすみ置候様有之、此地主庄兵衛の地所に御座候故、田北は門徒宗に候故、菩提所極楽寺地内にうすみ申候、夫より極楽寺に山号して黄金山と申事」
注記
@この文書は、やや分かりにくい文書であるが、打上の地名・人名や村内の事が書かれ、伝承等がわかり注目に値する。これにより壺の再埋設の経緯を知る手がかりとなる。
A勝尾原に付いては、後述する。



8.明治の発掘
 恐らく、新政府か県(当時、打上は堺県所属、知事は税所篤)の指示と考えるが,明治四年(1871)に発掘したときの記録がある。写真よりの判読であるが、おおよそ次の文言になる。

明治四辛未年八月
壺一件入用取調書
打上村
極楽寺境内にて
    赤金壺絵図
(壺の図)
此壺の義、御役所に明治四年辛未年八月訴出候處、早速掘出調出候様、被仰儀奉畏堀出、 同月十七日持参致候處、御改之上、金にては無之、早々元に御埋置候様、被仰渡、又は同寺中大松 の下え同月廿一日に埋置候事、尤已後堀出候は堅不宜不候事」 


注記
@この書類により、掘り出した壺は金でなく赤金(あかがね)としている。
A当時の堺県知事の税所篤は、古墳盗掘者として知られている。




9.学校営繕資金として売却
 更に、明治七年(1874)に掘り出し、売却した経緯を示す文書。
奉 願 上 候
河内国第三大区三小区
十番組打上邨
右極楽寺境内に埋有之儀、金壺之義、相当之値段も有之哉に相心得
右土中に埋置候ては、沈寶不益之趣察仕、今度当組百拾八番小学営
繕之手当に御下渡被下度、此段此段願上候、以上
明治七年八月廿日
   右極楽寺住職  後 藤 心 水
右檀中惣代   井 上 半治郎
小学世話方    田 中 勘 平
打上邨副戸長  田 伏 徳次郎
右組戸長    土 井 九郎平
堺縣令 税 所 篤 殿

注記
@この年九月に、第六十番小学校より独立し、打上村の明光寺内に第百十八番小学校がされた。  この書は、その際に壺売却代金を小学校営繕費用に充てようとしたことがわかる。
Aこのことは、『大阪府教育百年史』『寝屋川市誌』にも所載。

10.売却金の分配約定
 壺の売却に当たって極楽寺住職宛てに受取代金の配分を約した文書である。
約 定 一 札
一、金三拾円也
右は金壺一条に付、六十円余り入用有之候趣に御座候へ共、
此金壺下方にて賣拂に相也候上は、金三拾円其元殿え相渡し
可申約定仕候間、為後證一札差入如件
明治七年戌十月十七日
   村惣代
井 上 清三郎
田 中 庄太郎
田 北 弥三郎
田 □ □太郎
田 中 重次郎
井 上 仙次郎
平 田 彦三郎
後 藤 心 水 殿



11.大阪府全志の記述

 大正十一年(1922)井上正雄の『大阪府全志』に次の記述がある。
 「石郭の露出せる山の下方には勝尾原の名あり、往年田中勘右衛門なるもの同所に於て小なる金壺を掘出したるに、領主大久保家より召上げられて江戸沙汰となり、後白木の箱入となして下附せられ、同所持主に慥なる地に埋むべき旨を達せられければ、地主田北庄右衛門は門徒なりしを以て、之を其の菩提所たる極楽寺の境内に埋め、同寺は之に因みて山号を黄金山と附けたりしが、後之を掘出して検したるに、銅の壺に古骨ありしといふ。」
注記
@石郭は、その前の記述の石宝殿古墳を指す。
A田北庄右衛門は、田北庄兵衛の誤り。
B勝尾原は、明治初年の邨の地図には「空戸原」と記入され、明治二十二年の土地台帳(法務局)には  「カラト原」と記されている。
 地元では、いまも訛って「カットバラ」と云っている。



12.日本考古学人類学史の記述

 昭和三十年(1955)に人類学者の清野謙次が『日本考古学人類学史』で、大田南畝の一話一言の記事を取上げている。
 打上村の壺については、学者として示唆にとんだ記述である。しかし誤記があるので注意を要する。
 「大田南畝は「一言一話」(注、一話一言の誤り)中に河州交野壺と題して左の如き骨壺の記事をかかげている。
 これは銘文は無いが、銅製骨壺と外被甕あるもので上記の銘文ある骨壺の類品だと思考すべき正品だと考えるので附記する。」
注記
@この記述の後に、大田南畝の「一話一言」が収録されている。
A「上記の銘文」とは、同様埋蔵形態の「下道圀勝圀依母骨蔵器」の銘文。
B残念であるが、「一話一言」の最終の二行(上記4.の下線の付した文)が記載されていない。
 しかも字句の誤記がある。誰かが誤転写したものからの孫引と考えられる。


13.終わりに

 これだけの記録がありながら、この壺についての謎が尽きない。「打上村出土の壺」が、安永三年に打上村で掘出された蔵骨器と言える壺であることは慥である。しかし、何時の時代の、誰の骨を収納したものか、また、その壺の材質、形状、大きさ等につき決定的な結論が浮かばない。
 これらについては今後の研究に待ちたい。ただ言えることは、それぞれの記録の一語一語について、その意味、使い方、時代背景等十分心得て研究する必要のあることが分かった。


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