南豆馬車鉄道株式会社と日本鉱業河津鉱山
(下田市蓮台寺在住 寺川博氏の資料に基づく)
010616、011030作成
馬鉄風景

南豆馬車鉄道株式会社の設立は大正6年9月20日
下田、蓮台寺間に馬車鉄道を敷設し、両地間の貨物輸送をおこなうのが会社の目的であった。
日本鉱業河津鉱山の鉱石を下田港に運搬した。
日本鉱業河津鉱山は大正3年3月から昭和34年3月31日まで操業した。
明治40年〜大正9年までは馬力車で鉱石を米俵につめて大沢口から武ヶ浜まで運搬していた。
馬車鉄道の工事竣工は大正9年3月末であった。
起点河津鉱山(一区手選鉱場)→下田町武ヶ浜荷扱所(貯鉱舎) 4,300m。支線鉱山入口(鉱山事務所入口)→二区手選鉱場250m
馬車鉄道が大正9年に敷設されたので、河津鉱山一区、二区の選鉱した鉱石は馬車鉄道にて下田港の武ヶ浜貯鉱舎へ運搬した。港より艀(はしけ)にて沖の運搬船に運んだ。
河津鉱山の産出鉱石は金、銀、銅、二酸化マンガン鉱 大正6年〜昭和10年当時は金銀の生産量は日本一であった。
大正9年当時、武ヶ浜貯鉱舎敷地は下田町より1,800坪の土地を借り、二階建の貯鉱舎より直接機帆船に船積みしていた。(貯鉱量1万5千トン)月1回、3隻の社有の機帆船にて日立港へ船積みしていた。
下田港と武ヶ浜荷扱い所
馬車鉄道には一両だけ客車があり、停馬場は蓮台寺、中之瀬、本郷橋入口、中村の四ヶ所であった。運賃は大人は10銭、子供は5銭であった。(昭和初期)
昭和18年になって金鉱整備により、金銀鉱石の採掘ができなくなり馬車鉄道も運休になった。
馬車鉄道は運休となったが、会社は昭和25年1月28日商号変更、南豆馬車鉄道興業株式会社になり、昭和27年3月31日まで存続していた。
昭和21年1月より河津鉱山の珪酸鉱(金銀鉱を含む)、銅鉱、マンガン鉱の採鉱が始まり、トラックにて下田港の鵜島貯鉱舎まで運び、トロッコにて桟橋より運搬船(日之出丸)に積み日立港(茨城県)佐賀ノ関港(大分県)へ運搬していた。
下田港の鵜島貯鉱舎(海上保安庁の隣地)は大きな木造二階建ての建物で、二階は道路よりトラックが直接入りトラックより作業員が鉱石をスコップで一階の貯鉱所に入れた。鉱石運搬船が入港すると貯鉱所の下にトロッコを入れて、敷板を一枚一枚取りながら平スコップでトロッコに積み、計量器所を通って桟橋より運搬船(日之出丸)に積んだ。
日之出海運(株)は、二隻の運搬船を保有していて河津鉱山の鉱石の運搬を専門に仕事をしていた。
鵜島貯鉱舎が閉鎖されたのは昭和29年3月31日であった。
河津鉱山のトロッコ線路図

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