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| 樺沢城跡保存会は、南北朝時代から戦国時代まで上田の庄(新潟県南魚沼市)で 重要な役割を果たした樺沢城を後世まで保存、伝承していくために発足した組織です。
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![]() 龍澤寺方面(北側)より春桜満開の樺沢城跡を望む |
ここ樺野沢は、南北朝から戦国時代にかけて樺沢城とその城下町がありました。上杉景勝公は、ここで生まれたと伝えられています。 城下の龍澤寺には、謙信公のご朱印状「門前五軒」があります。 他には景勝公の母親、仙桃院が寄進したと伝えられる厨子入り「文殊菩薩」などもあります。 一段高台の「お屋敷跡」には、仙桃院のお花畑もありました。 周辺には、元屋敷、中屋敷、下屋敷、黒金屋敷が並び、少し下がって小泉屋敷、古町、上田橋、 さらに宮島屋敷、鷹匠屋敷、桜町などの地名が現在も残っています。 城跡の本丸は標高300Mの山頂にあり、腰を帯曲輪が二重に取り巻き、 中腹以下を三重四重の空掘土塁で防御する堅固な山城です。 また、二の丸の奥には景勝公の胞衣(えな)を納めたと伝えられる「胞衣塚」が安置されています。 複雑な起伏と幾重もの防禦線が変化に富み、快適なハイキングが楽しめます。 所要時間は休憩時間も含め約1時間30分です。 |
| 樺沢城略史 |
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樺沢城は南北朝時代は鞠子城と称し、新田義貞の家臣である田中右衛門尉の居城といわれている。 戦国時代後期の戦乱の時代に長尾景虎(後の上杉謙信)が越後を平定した。 天文20年(1551)年、景虎は姉の綾姫を坂戸城主である長尾政景に嫁がせ、樺沢城の改築を命じた。 政景はその家臣である栗林・深沢・登坂等の武将に命じ改築させた。城下は桜町と称され関東遠征の際の宿所とされた。 樺沢城は清水街道、三国街道を扼す重要な位置にあり、春日山城から関東までの最短距離上にあったので、政景はここを関東からの情報基地にしたと思われる。 政景夫人の綾御前も常に当城に居たらしく、結婚5年目の弘治元年(1555)11月27日に当城で男子が誕生した。 幼名は「卯ノ松」といい、後にこの男子が上杉景勝となるのである。 母の綾御前は夫の長尾政景亡き後、仙桃院と号し常にこの城に住んでいたと思われる。 景勝は永禄2年(1559)3歳で上杉謙信の養子となり、同年5月11日元服して喜平冶(顕景)と称した。 その後、天正3年(1575)1月11日、弾小弼景勝と改名し、天正6年(1578)3月謙信の死去に伴い、上杉家を相続した。 謙信は天正6年(1578)3月13日に49歳で脳卒中が原因でなくなったが、その直後、後世「御館の乱」と言われる家督争いが始まった。 謙信にはもう一人養子がいた、それは、関東小田原城の北条氏康と同盟を結んだ時に人質として越後に来た、氏康の七男の氏秀である。 謙信は氏秀を気に入り、養子とし自分の青年時代の名である「景虎」を与え、さらに元亀元年4月景虎17歳の時に景勝の妹の華姫を妻としたのである。 謙信の死後家臣団は二手に別れ、一方は景勝(24歳)を立て、もう一方は景虎(25歳)を立てて、家名相続を争う戦いとなった。 景虎の兄である北条氏政は九月初め氏照、氏邦に命じ大軍を率いて三国峠を越境、上田の庄(魚沼)に乱入し、樺沢城を攻略した。 北条軍は樺沢城を本拠として坂戸城などを攻撃していたが、冬の迫る九月末に樺沢城に北条(きたじょう)輔広・河田重親を置き帰国した。 当初、景勝軍は劣勢であったが、翌天正7年2月から攻勢に転じ、手薄となった景虎軍を攻め、遂に3月中旬から同24日に景虎を追い詰め 自刃せしめた。夫人の華御前も2人の男の子と共に自害し、樺沢城の奪回にも成功した。 この戦いにおいて当城の番将である栗林政頼は「肥前守」の位を与えられ、樺沢城主を命じられた。 御館の乱から20年後の慶長3年(1598)に景勝は豊臣秀吉から会津120万石に国替えを命じられた。 これに伴い、樺沢城は廃城となった。 昭和35年(1960)頃から地元有志による城跡保存会をつくり、上杉景勝公生誕の碑を建立し、同40年(1965)に新潟県文化財を申請した。 翌昭和41年(1966)3月に新潟県教育委員会審議の結果、新潟県文化財35号として指定された。 |
| 樺沢城跡散策順路 |
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青マークは散策順路です。休憩時間も含めて約1時間30分です。 ■ 龍澤寺より→三の丸跡→二の丸跡→胞衣塚→本丸跡→西の丸跡→龍澤寺 ■ |
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| アクセスマップ |
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| 問い合わせ先 |
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■山田 孝太郎 025-782-0449 ■高橋 米吉 025-782-0812 ■山田 則夫 025-782-2264 ■阿部 均 025-782-1418 |