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モリゾーとキッコロをご存知ですか?「森伊蔵と呑んゴロ」と間違わないで下さい。
愛知万博のキャラクターとして人気を博していたぬいぐるみのマスコットです。森と木を大事にして、地球の自然環境を守ろうと呼びかけているのです。
昔、といっても今から五十年ほど前までは、山を持っている人のことを山林王と呼んで、分限者の代表的存在でした。
今では山の所有者は金持ちではなく、貧乏人と言わないまでも、山を疫病神のように持て余している昨今です。
このような価値観の逆転は正常ではありません。山は川や海と連携して「水と空気と土」を供給してくれます。水と空気と土、それは地球自然そのものであり、生命の源です。そんな山を邪魔者扱いしたら罰があたります。
今から五十年ほど昔、二十世紀前半までは、山は人間の暮らしと切っても切れない関係でつながっていました。
炊事や風呂焚きに使うたき木、火鉢で使う木炭、山菜やきのこ、栗などの果実、いずれも山の恵みでした。
木を材料に家を作り、家具、下駄、箸、マッチの軸などいろいろな生活用具を山に頼っていたのです。
戦後の工業化と高度経済成長で人々の生活様式はさま変わりして、炊事や風呂はガスが代替するなど便利になり、たき木、まき割り、下駄など私語になってしまいました。
そして、生活が便利になった分だけ山とのおつきあいが疎遠になりました。秋にはどっさり採れた松茸も近頃採れなくなって韓国産や中国産が巾をきかせています。せめて家だけは山の木で作ろうと思っても、フィリッピンやカナダなどの木材が安いため、国産材は山に置いてけぼりを食らっているのです。
今では木材の国産自給率は二十%以下に落ち込んでしまい、林業は産業の名に値いしないまでに衰退しました。
一九五五年に五十二万人居た林業者が一九九七年には八万人ほどになり、二十一世紀の今は五十年前の十%(五〜六万人)程度に減ってしまいました。
木を伐れば赤字、運べば赤字で、もはや山林を所有すること自体が重荷になるという異常な事態です。
市場経済的に成り立たないなら放っておくしかない。本当にそれでよいのでしょうか?山や森の存在意義は、人間の都合で否定できるほど小さなものではありません。
ないがしろにされた山の神の怒りは、花粉症の報復ぐらいではすみません。山崩れ、土石流、洪水などもさることながら、二酸化炭素による温暖化で人類滅亡まで起こりうるのです。
山の神の怒りをしずめる手立てを施さねばならないタイムリミットが今なのです。私は縁あって今森林組合連合会に関わらせていただいておりますが、実際は一般の人々と同じ素人で、目下勉強中です。
私自身、一番誤解していたのは、自然はあるがままが最善であり、従って山や森も人がお節介しないで放置しておけばいいと思っていましたが、日本の山は長年にわたる植林でできているので、人手による管理をしないと荒廃するのです。
日本の国土の七割は森林で、その四割は人工林です。人工林には下刈り、除伐、つる切り、枝打ち、間伐といった人間の手入れが必要なのです。
ところが、林業の採算が合わないことから林業従事者が減って、山の手入れができなくなり、山が荒れたのです。
林業再生の成案はまだ持ち合わせませんが、私の考えを少しお話ししましょう。
一、民が持て余した山を国が引き受ける。
二、林業者の不足を補うため森林組合の充実、造園業組合、建設業組合などとタイアップ、失業対策
事業などを組み合わせて、必要な山の手入れを実施する。場合によって自衛隊活用も?
三、公立学校の新築、建て替え、修理は国産木材使用に限る。(机、椅子も木製に)一方で、外国木材
の輸入防止。
四、環境税を実施、森林管理に活用
五、いわゆる地材地建、家を建てるときは地元の山の木材を使用する運動を全国展開する。
利便と引き換えに地球資源を食いつぶし、地球環境を破壊する工業化路線から資源の再生産を可能にする循環型社会へ転換を図り、かけがえのない地球を守らねばなりませんが、林業の振興再生はその主旨に合致するものといえます。
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