道徳の根源 『自分の心』


      東京農大から
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  人々は、それぞれ良い社会であり良い人生でありたいと願っております。

 猜疑と冷酷と闘争とは我々に不安をもたらし、信頼と愛情と融和とは我々に安楽を与えてくれます。我々は不安な社会を厭い安楽な社会を求めます。社会はまことに複雑であって、物心両面から絶えず我々を縛り付け、我々はその中で転却されているようであります。ある人は社会は人間を規定するとまで申しております。しかし社会はやはり生きた人間がこれを造っているものであり、社会関係はその故に人と人との「心」の関係に収約されざるを得ないものでありますから、社会が不安であるのも、社会が安楽であるのも窮極は人間の「心」の在り方いかによると申さねばなりません。つまり逆に人間が社会を規制していくのであります。

 さて、この心というものは一体どのようなものでしょうか。今日までこの問題を取り上げたものでは、まず科学の領域で心理学があり、また論理の筋を追いつつその究極を捕らえんとするものに哲学があります。これらの学問はいずれも心の問題を知る上に大切な手段ではあるけれども、心理学は心の現象の面だけを取り出してこれを抽象し、定型化したものであります。哲学は単なる科学的解明ではないにしても、主観とその対象である客観との相関関係を論理の糸を辿りつつ究明叙述していくのであって、この限りでは哲学もすでに客観化されたものであります。哲学も心理学と同様いわば死んだ「人」の標本を見せるようなもので、現に見ておる心そのものは依然として一指も触れられぬまま神秘に包まれてそこにあるわけであります。

 しかしこの現実の心が、実は死ぬのはいやだと感じ、憎いと感じ、妬ましいと感じ、そして自分を苦しめ、不安にし、また他人に対して罪を作り、それが跳ね返ってさらに自分の苦悩を深めるということになるわけであります。しかしこのようなことは本人にとっては決して幸福とはいえませんから、誰しもこれを厭うのですが、困ったことに科学や哲学はこれを解決してはくれませんので結局その解決の道は外に求めねばならぬことになります。

 そこでまず考えられるのは道徳ですが、これはどうでしょうか。元来この道徳は人間共同生活上のルール(規範)でありますから、合理的な道徳は守らねばなりませんけれども、その本質は救いの道ではありませんから、これによって我々が直接に救われることは不可能であります。例えば死の恐怖にしても、その他、己を縛るいろいろの苦悩にしても、他人に対して造る見えない造罪にしても、これらのことは決して理性を基調とする道徳だけでは取り除くことはでき得ません。ここに真の救いが要求されるわけで、それが即ち宗教であります。

 ですから宗教は必然的に理性(従ってその基調となる論理)を越えた世界であります。現人間の苦悩や世の不合理が理性だけで解決できないことは今日余りにも明白であって、このことは理性以上のものを否定する旧ソ連が、共産党の名において宗教保護の宣言をしたことによっても窺い知られるのであります。しかしながら宗教の持つ、この超理性は、その故にともすれば人間に神秘や奇跡を盲信させるようなことにもなりがちでありますが、その神秘や奇跡は決して宗教の本質ではありません。

 私どもの提唱する観照会は、これらの神秘や奇跡を払拭して、宗教の根源である「自分」とは何かという問題を端的に探求し、同時に他に対して造る造罪から免れ、さらにこの精神をもって物質界を支配することに依って、人間社会に進化をもたらそうというわけであります。

 生きるのも自分、死ぬのも自分、怒るのも自分、悩むのも自分、悲しむのもすべて自分であって見れば、何を措いてもまずこの「自分」の解決が、大切であることがお判りになりましょう。

 これを逆に見ますと「人間は今日までずいぶん進歩はしたが、それはすべて客観・・・(観られるもの)・・・に関する進歩であって、主観・・・(観るもの)・・・に関してはほとんど進歩はしておらぬ。」(バートランド・ラッセルの言)のようであります。主観の進歩は今日まで道徳として現れてきておりますが一般的にはそれ以上に出てはおりません。そこで我々はこの際さらに一歩を進めて、一切の道徳の根源である「自分」とは何か、という問題を解決することが必要であります。これによって人間の精神界は革命的進歩を遂げ得ることを信じて疑いません。

井上 魯堂(健太郎)