公道唯心史観

    岩本山の梅と富士山
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井上 魯堂(健太郎)

1. 総 論

 衆生の此の世に求むるもの、それは唯 "幸せ" の一事である。
 貧しい者は与えられんことを求め、疾める者は癒されんことをもとめ、望む者は充たされんことを求め、無事な者は犯 されざらんことを求める。けれども衆生一人の力は葦の葉のそれのように弱くそしてもろい。限られた物を分かち合う世 の仕組みに、力ある者は、力なき者の身の上を思いやる暇もないようである。

 健やかな者に病む者の心が判れとは無理な求めかもしれぬ。望む者の望みは、自分や自分達だけでは容易には達せられ ぬであろう。無事の犯されることは堪えがたい苦痛であるに相違ない。

 然かも衆生は "幸せ" を求め続ける。
 これら衆生の "幸せ" の充たされんがため "真理" は政治や行政をこの世に設定した。その故にこれを簡単に "公道" と呼ぶなら、その "公道" に課した "真理" の要請は "慈悲" である。 "奉仕" と云うも、まだ浅い。そして政治家、役 人を合せて "公人" と云うなら、その "公人" に "真理" が与えた使命は "慈悲の具現" である。

 衆生をして貧なからしめよ。疾いなからしめよ。よき望みはこれを達せしめよ。無事の犯されることなからしめよ。

 このように "公道" は "私道" の及ばぬことをなし "公人" は "私人" のなし得ないことをなすべき "真理" の要請があるが故に "公人" には "私人" の持つ "私情" の許される余地は全くないことを知る。 "我見" "我慢" "我利" "我欲" 、こうした "私情" は悉く放棄せよと "真理" は "公人" に命ずる。 "私情" は "私(小我)" につながるが故に "私情" の放棄は "私" の抹殺である。 "無私" なるところ、そこに初めて真の "公道" 現れ、"公道" 存するところ、そこに初 めて衆生の "幸せ" を看る。

 凡そ人間は本来 "無私" である。
 "公人" が自己を "観照" して、この "真理" を覚得したとき、"公道" は "真理" の道となり、未来史の歯車は "停止" せず、"逆進" せず、真理の軌道を "前進" し続けるであろう。

 過去の歴史を見よ。原始共同社会も、封建社会も、近くはファッショの独裁社会も、未熟な民主社会も、衆生はその政治(行政)を納得したか、謳歌したか。そして更に、その崩壊の真因に眼を向けて見よ。そこには例外なく指導層の、"私 " が醗酵した "腐敗" や "無慈悲" の姿を見るであろう。
 "公道" には、ときに "力" を要するが、"力" が即ち "公道"ではない。公人の "私" から出た "力" は必ず道を誤まる。 "無私" から出た "力" こそ道である。今一度、前を振り返って見よう。  歴史を定める "公道" 、それは "慈悲" であっつた。決して "力" ではなかったのである。

2. 各論 

  "無私" から発する公道のあり方、それは次のようなことになろう。

  (衆生と接するには)

○ 衆生と接するには、その声を自らの声として聞き、その姿を自らの姿として見るのである。更に進 んでは声なきに聞 き、姿なきに見ることを得れば、全きに近い。

○ 衆生の願いを聞くに、はからいがなければ、無心の鏡にその儘が写るように、理は理、非は非、当は当、不当は不当、 善は善、悪は悪。その儘をゆがみなく摂取して故なく捨てないのである。

○ 公人は衆生の主人ではなく、又従僕でもない。公人と衆生とは唯一つの者である。主人は威を用い、従僕はこびを売る 。ともに真に衆生を生かす所以とはならない。ほこらず、おもねらず、唯、衆生のためのみを思い至誠を尽くす。成敗は 問う所の他である。

○ 衆生の一部の我が儘な "おどし" には断じて屈しない。 "私" のないところ "恐怖" ないが故である。唯、要求の基く理非をきわめ理には従うまでのことである。

○ 衆生を愛するが故に、いわれなくこれを害する者を取締り、あるいは隔離する。意図せずして、よき衆生よりは親しま れ、あしき衆生よりは懼れられる。親しまるべき衆生より怨まれ、懼れらるべき衆生より軽んぜられるのは共に真の公道 ではない。

○ 自分が待つ身になれば、処理は遅らされず、回答は延ばされない。

○ 衆生に権利や利益を与え、制限や禁止を解くのは国の作用である。公人はその働きを誤りなく行う責務のみを負う。それを "私" が与え、"私" が解く錯覚に陥るとき、彼等の心中に涜職の魔性が忍び入る。本来国は与うべき者に与え、解くべき者に解く。これ総て民意より出で、以って国の立つ所以である。公人として "私" なるときは利に向かい "無私" な るときは理に従うのみである。

 更に今少しく踏み込んで看て見よう。

○ 人間は一人では生きれない。他の生産によって相互に生かされている。尤も生産は物ばかりではない。消費のみで生産性なき者は、老人、病人を除いては社会の寄生者であり、これが多い社会は必ず衰える。然も衆生だけの力でこれに生産性を与えることは不可能に近い。公道がその役割を担うの外はないのである。殊に、社会的原因に依る非生産者に生産の場を与えることは公道の大きな使命であろう。

○ 老人と病人は生産性なきが故に放置すれば朽ち果てる宿命を持つ。人、誰れか老いざらん。病いなからん。公道がその 救い主とならねば、何処に救い主があり得ようか。生産活動の希望と夢は無限である。衆生の "幸せ" の一半は物の生産に依って担われるが故に、自力で達成出来ぬ生産者の希望と夢には公道が援助の手を差し延べるのである。だが、公道が自分の手によって総ての生産活動を営むことは、"総論" で見た公道の本質から "真理" の道とは言い難い。物の "生産意 欲" は飽くまで "衆生" のものである。

○ 衆生の "無事" はその物質的 "幸せ" なるが故に、然かも衆生相互に於いてはその保障が得られぬが故に、この面への 公道の介入と保障とはきわめて大きな比重と使命とを持つ。人間の知能の進歩はこれを逆用するとき今迄にない複雑な悪 性の発揮として衆生の "幸せ" をむしばむのである。社会正義の確保が倫理の無力化に伴い衆生の自律性を越えつつある 今日、考うべきは公道介入の幅の拡大とその峻厳さの確保である。 "衆生" への公道の "慈悲" は "社会悪" への "慈悲" ではない。

○ 衆生の "無事" の確保の手段は律法に依る規制と処罰のみを以って足るものではない。衆生自らがこれを成就し得ない 世の乱れに対しては広く道徳、倫理の鼓吹も公道が負う不可欠の責務である。これは一部の衆生がこれを好むと好まざる とに拘わりはない。唯公人の勇気と自戒と鼓吹の内容とに問題があるのみである。
 
○ 衆生の自由を制するは、その "幸せ" を殺すものなるが故に、公道は凡そこれをなさない。公益に基く制限も全く已む を得ないからである。 "力" の公道は必ず行き過ぎを犯す。 "慈悲" の公道のみがよく "真理" の道を踏んで外さぬので ある。

 (人を用いるには)

○ 人を用いる者はその "眼" を養う。 "眼" の狂いは "私" から生ずる。 "眼" を養うは "私" を去るのである。

○ 己に執すれば迎合を喜ぶ。迎合は打算にして畢竟 "私" に繋がる。 "私" は必ず公器を誤り、国を誤る。

○ 己に執すれば怯懦となる。怯懦は故なき反撥を許す。反撥は我見にして畢竟 "私" に繋がる。他よりの使嗾を受け、打 算を以ってする反撥に至ってはも早や公人の外である。使嗾する者の公器や衆生に対する罪は死を以っても償い得ない。

○ "無私" の眼は、おもねらず、故なく逆らわざる人をよしと看る。

○ 公器、国家に役立つ人を登用の "めやす" とする。己の私利私情に役立つ人だけを用いれば必ず公器を誤り、国を誤る。

○ "私" あれば用いて恩を売り、"私" なければ用いて報いを求めない。用うべきを用いるは公器、国家に対して当然のこ とだからである。

○ 人をほめるも、くさすも、それをその儘には受け取らない。これを割り引くか、割増すかは、言う人による。人を見る は己れの "明" である。明は "無私" より来る。

 (執務するには)

○ "私" なければ使命を知る。使命は真理の声なる故に、その声の間に間に仕事に励むのである。

○ 公器は "組織" である。倶楽部ではない。組織が組織として一つに動くには、公人の一人一人はどう動くべきか。 "私" で動けば倶楽部となる。 "無私" なるとき、初めて公人各自の動くべき軌道が明らかに自得される。

○ 命令は明瞭にして責めを負い、実行は忠実にして責めを負う。
 
○ 命令は独善を慎み、衆智を汲む。

○ 上下は "信" により、運営は全きを得る。信は "無私" より発する。 "私" よりする紐帯は打算なるが為に、故なき伐異 を呼び、ために組織の運営は支離滅裂となり、遂に公器を誤る。その罪軽しとしないのである。

○ 衆生の為めになること、公器の為めになることは己れの不利を顧みずこれを行う。

○ 衆生の為めにならぬこと、公器の為めにならぬことは如何ほど己れに利あってもこれを為さない。

○ "私" を以って故なく逆らわず、 "私" を以って迎合しない。

 (同僚に対しては)

○ 同僚を推すに二様ある。一はその人の真価が国家、公器に役立つと見て推す。他は、その人の真価を見ず、唯、自分にど う役立つかと云うことで推す。公器を危うくするは後者である。前者は "無私" の働き、後者は "私" の働きである。

○ 真に人を愛するは、必ずその人の向上を冀(こいねが)う。真愛は "無私" より発する。同類意識は、"私" より発し伐異 を生む。公人を堕落させ、公器を誤る罪の大いさを思うべきである。

○ 同僚の足を引張るは "私" のなす業である。 よき同僚を推すは "無私" の働きである。自分に損でも、頼まれぬでも、よき同僚を推す境地に到って公人の資質は完成する 。公人が自らを顧みる尺度として誤りがない。人間の迷いはこれを嘲笑しても、真理は必ずこれを祝福するであろう。

3. 括 論 

○ 公道は "慈悲" であった。慈悲は "無私" より発する。

○ "無私" なるが故に、公人は衆生の為め、真に "自己を 投げだす" のである。

○ 自己をなげだすことの犠牲感は "私" より来る。犠牲感あっては、真に自己を投げだすことは出来ぬ。 犠牲感すらないに 至っては、全く "公道" を食いものにすることである。

○ 公人が自己を投げだすとき、真の "力" が生ずる。それは "私" の為の力ではなく、全く、衆生を生かさんが為の "無私" の力、"慈悲" の力である。

○ 人間は本来、"無私" であった。無私の "真理" を悟るは "自己観照" (座禅の神髄)の行(ぎょう)を措いて外にない。

○ 歴史を定める公道を担う公人は、この "自己観照" を行じて、その精神を革命するのである。元来、幻影に過ぎぬ "私" (小我)を脱却して、"無私" 即ち "大我" に帰するのである。真に "衆生即ち我" となってこそ、公道は生きるであろう。  諸多の "イデオロギー" は一本足の案山子であり、政策や技術の、"科学性" は総てこの "無私" の定礎の上に建てられる上 層建築に過ぎない。