公道(政治、行政)はなぜあるか?
 


       山伏峠から
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井上 魯堂(健太郎)

※ 本稿は政治雑誌「新政研究」からの依頼により同誌に書かれたものであります。

 政治や行政、これを合わせて公道と呼ぶなら、その公道がなぜこの世の中に存在するのか、と云うことを公人は謙虚に考えてみる必要がありはしないか。公道に限らず、長年に渉ってこの世に存在する道は、人がそうさせるのではなく、「真理」というものがそうさせているのである。けれども真理には声がない。だから公人はその声なき声に耳を傾ける謙虚さが欲しいと思うのは私一人のみであろうか。

 しかしその声なき声が聞こえるには一つの条件がいる。その条件とは何か?それは「無我」と云うことである。「有我」と云う騒音が内に充満しておっては真理の声は聞こえはしない。

 凡夫は元々「有我」の固まりである。こんどのリクルート問題がなぜ起きたか。原因は簡単である。それは公人が「有我」であったからである。だから「我利」、「我慾」が先に立ち、公道を見失ったのである。

 現在あちこちで「政治改革」とか、「選挙制度革新」との声が挙がっているが、これらは総て人間外部の「制度」に関することばかりで、人間内部の「精神」に関することは一つもないからどういじってみた処で恐らく国民は納得しないであろう。

 制度をいじって世の中をよくしようとした人物に近年ではマルクスやレーニンがいるが、そうした天才でも制度いじりが万全でなかった証拠には、そのイデオロギーは今日では既に色あせてしまった。このことは外部からの制度改革が、しょせん試行錯誤の域を出ないと云う明白な標本である。

 大切なことは人間内部の精神構造を「有我」から「無我」に革命することではなかろうか? 尤もこれには相当の注釈を要するが、有我から無我への革命ということは「有我」のものを「無我」と思うと云うことではない。「我(じぶん)」と云うものの「証拠調べ」をしっかりせよ。そうすると今まで自分は有るんだ、有るんだと思い続けていたことが何の証拠もない単なる妄想で実際はもともと何処にも無かったんだと云うことが骨の髄まで分かるのである。

 これを私は「本来無我」と云い、中国六祖は「本来無一物」と云い、臨済義玄は「無位(どこにもおらん)の真人」と云い、日本の白隠は「自性無性」と云っているが、その中味の「証拠」がはっきりすると、「有我」の妄想が消えてそれが元で欲に迷い、リクルートにひっかかるようなことは金輪際なくなること請合いである。

 この無我の確立は釈迦の正法である「禅」によって自己革命を行うより他に行う方法はないが、古来、禅は宗教とされており、憲法との関係があるから、公人がその道にはいることはまあいいとして、入れることには憚りがあった。けれども今日では宗教ならざる禅が初めて説きだしており、それを公人が受用すれば多少の努力で「有我」から「無我」への精神革命が達成できるのである。

 そうすると公人はどんな誘惑にもひっかからない精神構造を自内に確立することができる。利いたか利かぬか効果がわからぬお説教とは根本的に異なるのである。「本(もと)立って道生ず」という禅語があるが、この「無我」という本が立たないと、制度をいくらいじっても効果はないということになり、従って国民は決して納得はしないのではなかろうか。

 なお、今回のリクルート問題は単に自民党だけではなく、野党側にも相当に傷はあるわけだから、取り敢えず国会および政府として国民に詫びを入れる必要があろう。

 更に役人群としても事務次官の総意として同僚の不始末に対して国民に詫びを入れる誠意を示すべきではないか。なを、政治に金がかかり過ぎるから、ときには良心がうずくような金も欲しくなるというのは云い訳にならない。

 政治の有るべき様は「人間として一番大切なことをしているのが総理大臣であり、その仕事の大切さから見て一番貧乏をしているのがまた総理大臣である。だから我々国民は総理大臣を一番尊崇する!」と国民全体が思うまでに公道が向上をせねば、公道を含めて世の中は決してよくはならないであろう。

 ※ 平成元年4月号の観照会の機関紙にも掲載されました。