サルトルと禅


   長野県高ボッチ高原から
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                                               井上 魯堂(健太郎)

 私は、ジャンポール・サルトルのイデオロギーには必ずしも同調できない面があるが、彼の生き方の真摯さ、真理探究の熾列さに対しては深い敬意を表せざるをえないのである。彼の造詣のレパートリーは単に哲学の面だけでないことは世間周知のことだが本稿では必要上主として彼の哲学について触れてみたいと思うのである。

 凡そ哲学者というものは象牙の塔の人である場合が多いが彼は同時に街頭の人であった。これが彼に単なる観念の人である以上の重みを加えたゆえんでもあるが、そのことがまた同時に”矛盾の人”であるというレッテルを批評家に貼らせた結果ともなっている。彼は知られるように無神論的実在主義者であった。その哲学的信念が人間の本源的生き方として左翼思想を原理的に肯定する結果をも生んだのである。

 左翼理論の基本は言うまでもなく科学的世界観であり、これを哲学の世界にまで押し上げたのは史的弁証法であるが、マルキシストの考えた弁証法は”同一時限における絶対矛盾の自己同一(正、反、合の合)”という正しい意味のそれではなく、史的流動の中において異なった時限での自己同一性を問題にしたのだから、厳密な意味で弁証法といえる性質のものではなかろうが、サルトルは純粋に哲学的な「存在と無」という実存的人間論において同一時限での対他存在としての”われ”と”他者”との関係を取り上げ、それは敵対的なもので他者のまなざしはわれの自由を阻害するという理念に立った。ここから抵抗という敵対性が引き出され、マルクスに云わせれば経済体制の内包する矛盾という”静”の科学的世界観に抵抗という”動”の哲学的世界観を導入することによって彼のある時期までの実存は思惟と行動とのより合わさった極めて特異なものであったのである。

 時、たまたま革命的左翼運動が学生の一方の主柱として世界的に蔓延しつつあったタイミングに符合して、彼の哲学もまた当時の寵児となった。この時期における彼の「無」について禅の立場から照明を当てて見ると、彼の意味する無は畢竟哲学的無であるから、飽くまで思惟の世界での観念に過ぎない。判り易く云えば ”無” という観念(吾々の方ではこれを妄想という)が”有”なのである。従ってそれは真の意味の無ではなくて、無という標識を持った有の世界であった。

 実存としての無は、実は科学の世界にもなければ哲学の世界にもない。知られるように科学の世界において二者が同時に同一場所を占有することはできない。その同時占有は無の媒介によってのみ可能であるが、今見た事実には同時占有がないから、科学の世界には無が存在しないのである。

 哲学の世界においてはどうであろうか。そこでは無は確かに存在する。しかしその無は唯単に思惟の世界のみにしか存在しないのである。言葉をかえれば観念の世界である。従って哲学では観念(妄想)された無以上の無はありえない。そのことは別の見方をすれば「無という観念が有」というだけの話で、実存としての無は存在しないのでる。従って哲学的無は実存としての無、云いかえれば無の実相、無の証拠には指一本触れることができないと云えよう。

 このように科学のみならず哲学の世界でも真の無はありえない。だから実存としての無、云いかえればほんとうの無は科学の世界、哲学の世界より、より高次元の世界においてのみ存在しうるものである。このことを真理として証明しうるものは科学でもなく、また哲学でもなく、唯”悟り”の世界のみである。そしてこれを現成せしめるのが”正法の禅”であるが、今日世界中でこの正法の禅を除いては他のどのような手段でもこの無の実存を証明しうる方法はない。

 古来の禅が往々にして迷信的要素や、神秘的要素や形骸的要素を払拭しきれない面があるやに世間で受け取られているのは、その純粋さが足りないために覚者の境地に不純が残り、それが前にあげた諸要素にひっつくためである。これを依草附木(えそうふぼく)と云う。釈尊も云っておられるように「正法に不思議なし」である。

 サルトルはこの哲学的無(従って真実の無ではない)の世界観の中から抵抗の論理を導き出した。抵抗は憎しみを内包する。これが当時の学生を中心とした暴力革命的左翼運動に哲学上の根拠を与えた。

 彼は考える−−−
「私は私自身について他者であることを否定し、他者は彼自身について私であることを否定する。この二つの否定が対他存在の成立に欠くべからざるものである。この無は、対他存在の事実性であり、何ものを以てしてもこの無を根拠づけることはできない。」−−−

 こうした対立意識の必然性から、彼は階級意識を引き出して階級闘争の是認へと走り、マルクス主義の実存哲学者として実践行動をも指導した。

 ここで私の関心をひくことは、彼の云う無は私の云う相対無であり、別な表現をすればその実存の否定であって、相対的有無を越えた絶対無ではないということである。

 彼はまた云う−−−
 「実存よりも無の方が理論的に「よりあと」である。というのも無はまず初めに立てられた存在が、ついで否定されたものであるからである。」「存在と非存在(無)同じ内容の概念であることはできない。」−−−

 以上は彼の有名な大著「存在と無」の中に出てくる言葉の断片であるが、これを見ても彼の考えている無は相対無であることがわかるであろう。この無は彼自身も述べているように否定の中に内包されるもので、この否定の哲学が総てのマルキシストと同様に階級闘争の哲学的根拠を導き出したのである。

 ところがひと頃の世界的極左運動は死線に乗り上げて急速にその活力を失って行った。そのためサルトルの哲学も一時挫折せざるをえなかったが彼は舳先を立て直して大著「弁証法的理性批判」を世に送り、今までの他者との関係を敵対として把握していた考え方を修正して相互性としてとらえ、平等と同胞愛との倫理性の強い内容に変化させてきている。

 彼の哲学は自由という太い一本の糸で繋がれており、それは規制的原理を越えた超越の原理の導入によって根拠づけられているが、更にその根拠をなすものが彼の無(私の云う相対無)の原理である。彼の舳先の立て直しもまたこの無の媒介による自由の根拠に基づくものであろう。

 これに対して日本の西田哲学においては、この無を無限大まで拡充し、絶対無の場所的ノエマ、或いはノエシスを措定することによって絶対矛盾の自己同一性を解明した。この意味では西田哲学はサルトルより一日の長があるだろうが、この原理が構築された根底には西田博士の禅によるある程度の実参実究の成果があることを吾々は無視しえないのである。

 唯ここで私は明確に提示しておかねばならぬ重大なことがある。それは哲学の限界ということで、サルトル哲学の無も西田哲学の無も哲学である限り思索されたものであり、畢竟観念の域を超えることができないという宿命である。凡そ世の真理というものが、対自にせよ対他にせよ即自にせよ人間実存を規定する見えざる糸であるとするならば、その真理性が観念という包丁で料理される限り、真理の全部を解明し尽くすことは不可能であるということである。

 「人の世は平和でなければならぬ」という哲学的命題が真理であることに疑いをさし挟む人はなかろうが、人の世の現実の前にはそれは全く無力である事実もまた承認せざるをえないであろう。この哲学的命題がこの世に現成するためには、科学的世界観、哲学的世界観を超えた更に高次元の世界観が必要となる。これが真の意味での禅的世界観である。

 禅の生命は云うまでもなく悟りであるがこの悟りとは一体何か? ということになるとびしゃりと大信念を以て示しうる人が甚だ少ない。無論それは言詮不及底、不立文字底であることは疑いもなく明確であるが(これを自己の未徹の隠れ蓑にするような不心得な禅者がいたらそういう人は釈迦に懺悔して初関からもう一度修行をやり直して貰わねばならない)、しかしそれを直下に示しうるのでなければ仏祖不伝の妙道を領得した人とは云えないであろう。

 釈迦禅とか達磨禅とか、南禅とか北禅とか五家七宗とか形の上では一応分かれているが、その要関である悟りの中味そのものは釈迦以来寸分の違いもないはずである。それが違ったら悟りに真理性はなくなるからその生命はない。だから師家たるものはその言葉や文字で示しえないものが何であるかを誤りなく把握していることはもちろん、それを一人でも多くの真剣な修行者に領得させる工夫と努力が必要と思う。

 大胆な発言をすれば、今まで大悟徹底、従って嗣法伝燈はいわばまぐれ当たりである。その者の辛参苦修は言語につくせないものがあったにしても何千人、何万人中に一人という歩留まりであって見ればそういうより外に仕方がない。しかし苟も道心堅固な修行者ならば千人が千人みんな大悟徹底させる処まで禅が進化せねば教主釈尊に対して申し訳ないと思う。(念のためであるが、これは許された本人が何で許されたのかわからないというような、とろい許し方をいうのではないことを特に申し上げて置かねばならない)

 また人類を真に救いうるものはこの正法の禅を措いて他にない(あったらご教示を乞う)のであるから、禅者たるもの「豈、一日の偸安を許されんや」である。

 こうして正法の禅による悟りが哲学を超えて人類(少なくとも世の指導層)の指導原理となるとき、サルトルによって観念として、従って対自として捉えられた無が即自となり、無私(無我)とも思わぬ無私そのものの人々が世を導いてくれるようになったとき、初めて人類に幸福の曙が訪れるのである。

 極めて大切なことは、観念された無ではなしに真の無こそが重要である。それはサルトルの言葉を借りて云えば人間実存の即自に革命が起こることである。今まで自分は有ると思い込んでいた人間が真理を悟れば本来何も無かったんだと気がついたとき、大感動と、大歓喜と、大力量とが勃然として沸き起こって来て、これが人々を一人も殺すことなく、そして総てを生かさずにはおかぬ行動となるのである。

 迎合の道は平坦であり容易である。しかしそれで人々は幸福になるであろうか。
 迎合の道は試行錯誤を繰り返す。それは人々を不幸に落とさないであろうか。
 天の道は嶮しい。しかしそこには試行錯誤がない。けれども人々は容易には気付かないであろう。

 この嶮しい道を身を挺して歩む人々(ことに若い人々)が、その群が次第に輪を拡げて行くとき、この日本に、この世界に真の天国が訪れるであろう。