紙芝居ってなぁに? Vol.1


                    見よ! 天空高く現れ出でし 正義の味方 黄金バット! 
          果たして正義が勝つか悪が勝つか 黄金バットの活躍や いかに!  続きはまた明日・・・


   
1. 紙芝居の想い出

  昭和10年代(1940年代)、僕は毎日のように紙芝居のおじさんが自転車に乗ってやって来るのを ワクワクしながら
  待っていました。
  やがて、心地よい拍子木の音が鳴り響くと、狭い路地から下駄の音をカランコロンと響かせながら子どもたちが一斉に
  集まって来ます。
  それまで遊んでいた「かくれんぼ」も「チャンバラごっこ」も「メンコ」も「縄とび」も一時中断してしまうのです。
  急いで自宅に戻り「紙芝居が来たからお金をちようだい!」と母親に銀貨をもらい、汗にまみれた手で銀貨を握りしめ、
  走って行きます。
  紙芝居のおじさんは、ニコニコしながら水アメや味こんぶを子どもたちに買ってもらいます。
  記憶に間違いが無ければ、たしか50銭だったと思いますが・・・
  お金を持たない子どもは、遠くから堂々と盗み見をしていました。
  演じるものは 殆どが娯楽もの中心で「丹下左膳」や「鞍馬天狗」「継子いじめ」の悲しい物語もありました。
  中でも一番人気が冒頭に書いている「黄金バット」でありました。
  
  話は変わりますが、この頃のおじさんの声は「しおから声」のおじさんが多かったのです。
  なぜなら、当時の映画は全部 無声映画でしたが、トーキーになり始めたので弁士のおじさんの職が無くなり、
  止む無く紙芝居へ転職をし始めたからです。
  無声映画では、太鼓と三味線のBGM入りで語っていましたが、紙芝居に転向してからは「ドラ」と「太鼓」を
  自転車に載せてBGMとし、時には紙芝居を載せている箱を拍子木でポン!と叩いて語り口を引き立たせていました。 

昭和20年代・・・大分県豊後高田市にて
  

このころ、腕に覚えのある紙芝居屋さんは、ドラや太鼓を使わずに
アコーディオンを弾いたり、ハーモニカでBGMの生演奏をサービスしていました。


       


(昭和30年代に入っても紙芝居のおじさんは頑張っていました。笑顔で接するおじさんの兵隊帽が何となく寂しい。そして、何も買わずに肩車に乗って見ている子どもは特等席ですね)  
  
北九州思い出写真館より。
紙芝居のおじさんは、紙芝居を演じるだけではありません。子どもたちのお行儀もちゃんと見ています。
子どもたちが喧嘩をすると仲裁に入り、叱ることだってあったのです。

北九州には街頭紙芝居組合と云うのがあって、その規則の第1章には「われわれは、紙芝居を通じての街頭教育者である」とうたっていたそうです。
いや、これには納得と同時に驚かされました。 

やがて、昭和27年、テレビがこの世に生まれるようになってから紙芝居は衰退を始め、昭和7年には全国で5万人居たと云われる紙芝居のおじさんは町の広場から消えていきました。
ただし、紙芝居の貸し元やおじさんの数が減ったということではあっても、文化として全く消えてしまった訳ではなく、紙芝居の価値が下がったという訳でもありません。

                  
  ここで少し紙芝居の歴史についてもお話をしなければならないでしょう。
  紙芝居の歴史は古く、そのルーツは平安時代にお坊さんが巻紙に絵を描いて布教に回ったというのが始まりだと
  云われています。これを「絵解き」と云ったそうです。
                               
次に現れたのが「のぞきカラクリ」と云われるもので、大きな板に10個くらいののぞき穴があり、どの穴から覗いても同じ絵が見えるようになっていました。

その右側の台の上には竹棒を持ったおばちゃんが、板を叩きながら「からくり節」に乗せて物語をリズミカルに歌うのです。
その歌は思い返せば全て4小節単位のレピート節で最後まで歌っていました。(笑)
   
 
6才位の時に聞き覚えたカラクリ節です。
   
余談ではありますが、このカラクリ節が後の北九州市の門司港で有名な「バナナのたたき売り」の節の元歌に
なったと云われています。


  
上の写真は、もう日本では3枚しか保存されていないと云われる のぞきカラクリの貴重な絵です。(北九州市にて)

  続いて現れたのが「写し絵」と云われるもので、今で云うスライドのようなものだったと聞いています。
  そして、「立ち絵」なるものが登場しました。今で云うペープサートで小さな紙(大きなものては高さ15Cmくらい)
  に人形をくりぬいて芝居をさせたと聞きました。
  それから「平絵」とも云い 現在の紙芝居風にしたのが昭和5年だったと云うことです。
  しかし、やがて街頭紙芝居は「刺激性が強く、子どもに買い食いのクセを付けたり不衛生だ」との理由から非難を浴びる
  ようになりました。
  もう一つの理由は、「ビジネス」を追及するあまり、娯楽性にのみ走り過ぎたからだと云われています。
  そして誕生したのが「教育紙芝居」であります。

 
  
 2. そして近年の紙芝居

  このように紙芝居の歴史は古く、日本独自の文化であり「世界で最小の演劇」だとも云われていますが、もっと古いのは
  「語り」であります。

  20万年前には地球に誕生していたと云われる人間は、すでに会話としての「言語」を発達させて来ました。
  日本に於ても1万年前には縄文人が暮らしていましたから、日本の「言語」(語り)も1万年の歴史があると云えます。
  その「言語」も一方では先人たちの口承文化としての「語り」に発達し、古代人たちは「かがり火」を囲んで歌を歌い、
  物語を語り、江戸時代では旅籠などを中心にして昔話が広まって来ました。

   そして近年は囲炉裏端などから昔話が広まってきました。

長い歴史を持ち また近年研ぎ鍛えられた「語り」の技術と紙芝居が一体となれば、より優れた紙芝居となるに違いありません。 
  
一時期には衰退していた紙芝居も、昭和の終わりごろから保育園や小学校でも見直されるようになり、お年寄りたちも懐かしさが手伝ってか喜んで観て下さるようになりました。

しかし、テレビやファミコンが誕生してからは親子の対話が少なくなり「話す能力」が欠けてしまう子どもが多く見られるようになりました。
テレビは一方通行なので質問にも答えてくれず、ただ見て聞くだけの手段しかありません。

  その点では、紙芝居は語り手と聞き手の直接的なコミュニケートが生まれる大切な交流空間なのです。

  紙芝居の実演家の第1人者であり子どもの文化研究所所員でもある右手和子さんは、次のように書いておられます。

  「昔話の世界と、現代の子どもの生活には、大きな距離があるのは事実です。[爺さまが山へ柴刈りに行ったと]と聞か
  された子どもたちは、ゴルフ場の芝刈りをイメージするかも知れません。[婆さまは川へ洗濯に行ったと]と云われても、
  なぜ川へ洗濯に行かなくてはならないか、ピンと来ないのです。
  [川のそばに、コイン・ランドリーがあるの?]などと云われてお婆さんは混乱してしまうのです。
  このギャップを埋める手段は無いのでしょうか? あります! 
  私たちには絵を見せながら語り聞かせる【絵解き】の伝統があったではありませんか!! 
  だからこそ、いま、紙芝居なのです」



  理由は何であれ、紙芝居が始まると子どもたちはくぎ付けになって見てくれるのは確かであります。

  しかし、残念なことに まだまだ紙芝居のレベルは全国的に低いのです。
  「子どもたちが一生懸命に見てくれたから、私の紙芝居はこれで良い」と考えている方が如何に多いかを知っています。
  ある語りの季刊誌に以下のような投稿を見つけました。

  『わたしは紙芝居屋さんです。日本独自の文化と云われながらも、今まであまり日当たりの良い場所には置いてもらって
   きていないように感じています。
   「おはなし」や「絵本」に比べると軽く、低く見られがちなのではないでしょうか。
   そのことと単純に比べることは出来ませんが「お話会」のプログラムを見てもほとんど紙芝居は登場していません。
   紙芝居はたくさんの人で見るのに最適です。
   それと、畏まっていない、覚えなくて良い、手軽なところが何とも楽しくて良いものです』


  紙芝居団体の代表を勤める方の発言とは思えないような文章です。
  この方の紙芝居に対する考え方なら「あまり日当たりの良い場所」には置かせて貰えないのは当然だと言えます。
  何故なら「畏まっていない、覚えなくて良い、手軽な」ものだと勘違いをしていらっしゃるからです。
  それなら、「お話し会のプログラムに紙芝居は登場しない」のは当然でしょう。

  最近、人前で何かをしたいと考える方が多くなったような気がします。
  それはそれで歓迎すべきことではありますが、
  「なるべく研究や努力をせずに」人前に立とうとする方も多いのに困惑しています。
  「朗読劇」なるものや、「読み語り」などの新語が生まれてきました。
  そして、あたかも「新しい分野の芸術」であるかのようにご自分で思っていらっしゃるのも納得出来ません。
  「朗読」はあくまで「朗読」であり「劇」とは全く違うジャンルでありますし、「読む」ことと「語る」ことも
  全く違うのです。
  
  僕の尊敬していた語り手の第一人者である、故 桜井美紀さんは、次にように云っておられました。
  「語ると云うのは文字を覚えて語るのではありません。語ると云うことは、本にある話を一字一字覚えることとは
  違うことなのです。語り手がこれから聞き手に伝えようとする物語の世界は、語り手の心の中にある世界のはずです。
  語り手は心の中にある登場人物の気持ちや周りの情景をありありと、言葉を使って表現するのてす。
  その表現のもとになるのは語り手の心に描くイメージなのです。
  文字の通りに言えても、それは語ることにはならないのです。ましてや、台本を片手に語るなどあり得ません」

 

   故 桜井 美紀さん
ある語りの会が終わった後、桜井さんか僕につふやきました。
「あれほど私たちが、語りとは文字を覚えて吐き出すことではありませんと 云っているのに、どうして分かって貰えないんでしょうかねぇ? 
 とのさんはどう思います?」
「努力や研究をしていようがいまいが、拍手は貰えるし、
 友人・知人からは良かった良かったと云って貰えるから本人もこれで良いと思い込んでしまうからでしょう。
 批判てはなく、スキルアップのための言葉を直接聞いてもらうような場も 必要だと思います」
「あぁ そうかぁ、とのさんって面白い考え方をなさるのね」



  私たちは、日々研鑽を積み重ね、研究し、勉強をしなければならないのです。
  でなければ、紙芝居を通して観客の心を揺り動かすことが どうして出来るでしょうか?

  そして、語り手の中には「紙芝居よりも語りを」と云う声が聞かれるのも事実です。
  その理由は、絵を見せてイメージを固定させるより、子どもたちの想像力に任せるべきだと云うのです。
  例えば、登場人物(動物であっても)の嬉しそうな顔も悲しそうな顔も、それらが一体どんな表情の顔なのかは聞き手の
  子どもたちに想像させるべきだと主張します。

  紙芝居派は、むかし生活の中心にもなっていた「井戸」は、殆どの子どもは知りませんが絵を見せることによって
  「井戸」の形を教え、どんな風に利用されていたかと云う知識を絵を見せて高めることが出来ると主張します。
 
  僕は、どちらの意見にも賛成(紙芝居も語りもあって良い)なんです・・・優柔不断と思われるかもしれませんが。
  そして、「どちらが良いか?」と云う考え方はしない方が良いと思っています。

  それは、「子供たちにお話を聞かせる」と云う目的はどちらも同じだからです。
  子供たちにストーリーを理解して貰うのも大切てすが、その前にもつと大きな目的があることを忘れてはなりません。

  それは、想像の世界を旅しながら子供たちの精神状態を安定させ、情緒を安定させるという目的です。

  その昔、お婆ちゃんたちが囲炉裏を囲んで子供たちに昔話を聞かせていました。
  その目的とは、正に子供たちの精神状態を安定させ、情緒を安定させることが目的だつたのです。
  それは、現在の「読み聞かせ」であつても そして「子守唄」に至るまで同じ目的を持っています。
  ですから、語りでなくとも紙芝居でなくとも、子供たちと一緒に遊んだり一緒に歌ったりすることさえも
  同じ目的を持っているのです。
  
  手段が大切なのでは無く、目的が大切なのだと思っています。



   3. 語り(ストーリーテリング)について
   
  
それでは、紙芝居に欠かせない「語り」について少しお話をさせて頂きましょう。

  「語り」について説明しようとすると、かなりのページが必要になってきますが、ここでは掻い摘んで要所のみ簡単に
  ご説明させて頂きます。

  僕の場合、アイウエオ パピプペポと云う「語り十ケ条」を設定しています。
     1.
クセント
     2.
ントネーション
     3.
ィット・ウエット
     4.
クスプレッション
     5.
リジナリティ
     6.
ラグラフ
     7.
ーク
     8.
ロミネンス
     9.
ース
     10.
リシィ

  それぞれが大切な語りの要素だと思っていますが、紙芝居の場合に特に重要なのが アクセント・イントネーション
  そしてプロミネンスでありましょう。
  この内のどれを軽視しても紙芝居は観客の魂を捉えることは出来ません。
  アクセントやイントネーションを間違えると、どこの方言なのか?と勘違いさえされかねませんし、
  同時にプロミネンスもしっかり表現しなければ、ストーリーが奥深く観客に伝わりません。

  そして、もう一つ重要なのがパラグラフと句読点です。
  「語り」には種々のテクニックを必要としますが、特に「間」と云うものが大切であります。
  「間」は「お休みの時間」や「空白の時間」ではありません。素晴らしい語りには必ず「間」が生きていますし、
  「間」で語っていると云っても過言ではありません。

  間は言葉の余韻であったり、聞き手に次の語りに対してのインパクトを与えたり、考えさせたりする貴重な時間なのです。

  また、多くの方は紙芝居を「読み聞かせ」の延長線上にあるかのように捉え、紙芝居の裏に書かれている文章を読むのも
  賛成できません。
  これは語りではなく読み聞かせや朗読であり、紙芝居を演じる場合には、前もって文章を何度も読み返し、
  
ご自分の語る物語として、あなた自身の言葉で表情豊かに語ることが重要なのです。
                    
ラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)の妻セツさんは、良くハーンに昔話を語って聞かせたと云います。
ある時、セツさんが本に書かれていた昔話を読んで聞かせようとした時にハーンは
「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければいけません」と云ったそうです。
  (セツの想い出の記より)

まさにハーンは「語り」の本質を知り、妻セツの「読み聞かせ」ではなく「語り」を聞きたかったのだと云えるでしょう!!
これこそが語り(ストーリーテリング)としての不可欠な条件なのです。

上記のように、語りのテクニックについては長文になりますので、ここでは省略させて頂きますが、「語り」にしても「紙芝居」にしても、その行為は第一に
聞き手(子どもたち)に精神的な安らぎの時間を与え、情緒を安定させる時間を与えることが目的なのであります。


   皆さま良くご存知の米国教育学者 ドロシー・ローノルトの詩 「子ども」をもう一度お読み下さい。

   ・批判ばかりされた子どもは非難することを覚える
   ・殴られて大きくなった子どもは、力に頼ることを覚える
   ・笑いものにされた子どもは、ものを云わずにいることを覚える
   ・皮肉にさらされた子どもは、鈍い良心の持ち主となる。しかし、激励を受けた子どもは自信を覚える
   ・寛容に出会った子どもは忍耐を覚える
   ・称賛を受けた子どもは評価することを覚える
   ・フェアプレーを経験した子どもは公正を覚える
   ・友情を知る子どもは親切を覚える
   ・安心を経験した子どもは信頼を覚える
   ・可愛がられ抱きしめられた子どもは世界中の愛情を感じ取ることを覚える

  
幼い頃、どんな育てられ方をしたかによって、どんな大人に成長するのかが良く説明されています。
  
私たちは「語り」や(読み聞かせも含めて)「紙芝居」を通じて子どもたちの情緒を安定させる時間を作ることが
  大切なのです。
  その時間が長ければ長いほど、深ければ深いほど、子どもたちは人間性豊かな大人へ成長し、その大人が再び
  次の子どもたちを育くんでくれると信じています。

  本来ならば、母親の愛情が不可欠なのですが、現代社会では多忙な母親が多く、その母親達と共に私たちが
  社会の一員として子どもたちへ愛情を注がなければなりません。

  次には、聞き手に何を伝えるのか? というのが重要なポイントだと思います。
  むかし、囲炉裏端でおばあちゃんがお話をしてくれた昔話には、子どもたちへのメッセージがあったのです。

  ここで、語り手の全国組織である「語り手たちの会」が発行している会報に掲載された僕の文章をご覧下さい。

  
「子どもたちへ語る目的」を考える

  
『昔話や民話の多くには想像の世界と同時に子どもたちへの道徳教育的なメッセージも内包されています。
   先人たちは、物語の中にソッと忍ばせていたのです。
   そして、想像と創造の世界へ誘い、また愛情を注ぐことによって子どもたちの情緒の安定を計ったのです。
   読み聞かせ・語り・紙芝居などは、子どもたちに「間接経験」を体験させると同時に語り手と子どもたちが
   触れ合う時間であり、「愛を感じさせ」「感性を育くむ時間」なのです。

   感性が豊かになれば、人の心や自然の美しさ、感動や思いやりなどの感覚が備わり、幼年期に間接経験や
   愛情を注がれずに育った子どもが、どんな大人に成長するのかは、最近の惨い事件を見ても明らかであります。
   それは、語りに限らず読み聞かせや紙芝居、また子守唄であっても同じことが言えるでしょう。』


    
4. 紙芝居のポイント

   どちらかと云えば「こうでなければ紙芝居ではない」といった定義のようなものは あまり存在しません。
   しかし、ここでは「こうすれば、もっと良い紙芝居になる」という独断と偏見のお話をさせて頂きたいと
   思っています。

   
紙芝居界の芥川賞と言われる高橋五山賞の選考委員であり、画家の久保雅勇さんは次のように云っておられます。

   
「最近の紙芝居は面白く無い。面白く無いとは“感動性が少ない”ということである。
   “感動”とは喜怒哀楽の感覚に対する情動であり、“抑えても抑えても思わず笑いがこみあげてくる”ものや
   “思わず胸のあたりが熱くなってくる”“思わず怒りがこみあげてくる”“なんだか知らないが楽しい気分に
   ひたつている”・・・そんな心のありようだと思う。
   心の奥底にある情緒が刺激されて起きる現象であり、そんな時、無意識の内に顔がほころんだり、笑い声が漏れ
   たり、目頭をおさえたり、手を握りしめたりしている。それが人間である。
   小説を読んだり、映画や演劇に求めているのも、基本的にはそれぞれの情緒を満足させたいという思いと、ときに
   観客と共に共感を分かち合いたいということだろうと思う。」

   
この文章を読んで僕は鳥肌がたちました。背中いっぱいに電波が走りました!!
   今まで、僕が思ってきた通りのことを云っており、僕の考えに間違いが無かったことを証明して下さったと・・・

    
紙芝居は誰でも行うことは可能です。しかし、誰でも観客の心を掴むことは出来ないのです!!