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「語り」という行為の始まりは、「祈る、呪う(まじなう)、唄う」などと同じ目的と働きがありました。
その語源をさかのぼると「魂をゆさぶり、魂と交流し、魂を鎮める」という意味に行き着きます。
語りを聞いて育った子どもたちは親世代が語りに託した贈り物を受け取ると共に、親世代にならって今度は自分たちが次の世代へ贈ろうと考え、知恵を寄せ集めます。
この営みは「再話」という形の語りとして、古い昔話も現代社会によみがえり魂と魂が交流しあえるのです。
ある語りべさんはこう話しています。
「昔話に凝縮されている数知れない人々の思いや 生きる知恵や 情感や 夢などに触れることによって、今を生きる私たちの魂がゆり起こされ、むかしの人々の生をよりよく生き直すことになる」と。
また、別の方は「どの民族であっても大人が子どもに昔話を語る時に、教育的な意味を込めていることは確かでしょう。
しかし、それは道徳的な教訓一色ではありません。昔話は、もっと広い人間観や世界観、自然観のしみ込んだ大きな世界なのです」と。
現代の子どもたちは、無関心・無気力・無感動だと云われていますし、僕もそれを実感しています。
それは、幼い頃からの親(特にお母さん)と子の心の交流が少なかったことが原因だと思っています。
特に幼い子どもたちには情緒の安定した生活の中で育てる必要があります。それは親子の会話であったり、子どもにお話を聞かせることであったりします。
お母さんのお話は、話し方が上手くなくても良いのです。オンチの子守唄だってかまいません。
そうすることによって、子どもは豊かな感情を育むことが出来るようになります。
米国教育学者 ドロシー・ローノルトの詩 「子ども」
・批判ばかりされた子どもは非難することを覚える
・殴られて大きくなった子どもは、力に頼ることを覚える
・笑いものにされた子どもは、ものを云わずにいることを覚える
・皮肉にさらされた子どもは、鈍い良心の持ち主となる。しかし、激励を受けた子どもは自信を覚える
・寛容に出会った子どもは忍耐を覚える
・称賛を受けた子どもは評価することを覚える
・フェアプレーを経験した子どもは公正を覚える
・友情を知る子どもは親切を覚える
・安心を経験した子どもは信頼を覚える
・可愛がられ抱きしめられた子どもは世界中の愛情を感じ取ることを覚える
さて、小学校教育と語りの結びつきの最も古い記録は明治29年、巌谷小波が京都府の小学校に訪問のとき、全校児童へ日本の昔話を語って聞かせたことでありました。このころは時代が時代ですから今のような語り口ではなく、まるで「講談のようだった」とも聞いています。
巌谷小波はのちに久留島武彦とともに全国の小学校を「口演童話」の実演をもって巡回しました。
大正時代には巌谷小波・久留島武彦・岸辺福雄(三大童話家とよばれました)らが、童話愛好者の小学校教諭を指導し、日本全国に数百人の口演童話家を育てました(『日本口演童話史』博文社)。
小学校教諭は自分の学級で児童にアンデルセン・グリム・日本昔話などの"おはなし"を聞かせました。
大正以後、昭和の戦争の時代まで、全国の小学校に「話し方発表」の時間があり、児童は教壇に上がり、5分程度の「お話」を発表したと云うことです。
私たちが、一般の子どもたちや お年寄りたちに語る場合の「語り方」と云うものを考えたとき、メモ帳や原稿を見たり、丸暗記した文字をそのまま吐き出すのではありません。
題材を語りべなりに理解し消化し、自分のお話として聞き手に語りかけ、題材に宿る魂と共に語りべの魂をも添えて語り、語り手と聞き手とがお互いに心の交流を深め合うものなのです。
最近になって、「読み語り」と云う新語が生まれているようですが、「読む」ことと「語る」こととは 全く意味が異なっているのです。
また、同じお話も人それぞれで語り方が違いますし、その日その日によっても少し変わります。
そして、あなたが友人などに話しかける場合、身振りや手振りを加えて自分の意志を伝えようとしているのと同じように、
語りも言葉を大切にしながら身振りや手振りを加えて伝えます。
話すことさえ難しいのですが、意志の伝わる話し方はもっと難しく、聞き手を感動させ、魂をゆさぶる 語り方は非常に難しいと思います。
しかし「北九州語りべの会」は挑戦し続けています!
そして、多くの皆さま方のご支援がなければ継続・発展は不可能です!
暖かな応援を末長くよろしくお願いいたします。
常田富士男さんと・・・
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