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Being On the Road
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| 映画|テレビドラマ|文学|歴史 | ||
| 多民族国家 中国(1/6) | ||
| ■第一章 「中華」と異民族 中国は古代に国家として誕生して以来、一貫して多民族国家であった。夏・商・周の時代の統治者は「四夷」といわれる「非中華」的異民族であった。彼らは絶対的権威を持つ「天」の意志であるという主張を通じて、はじめて自らの「中華」を支配する正統性を民主に納得させ、「天下」の秩序を遵守させることができた。 紀元五〜六世紀に「中原」(中央の平野地帯)と、「華」(草木が繁り実るという意、農業に従事する共同体)をあわせ「中華」という用語ができた。この用語は、「中原」の住民が「四方」の住民と違い、農業に従事するということが強調されている。「中原」「中国」の「華」は自分の世界観に基づき、「中原」の周辺に住む者を「四夷」とまとめ、さらに「東夷」、「西戎」、「南蛮」、「北狄」と分類した。これらの呼称は周辺の狩猟・遊牧集団の生活、生産様式と言語の特徴を示している。文化様式を基準に共同体を区分することは、後天的に選択可能という意味において重要である。 「中華文化」は「中原」に入ってきた「四夷」によって作り上げられたため、人間が「文化」(の実施)によって、非「中華」から「中華」に変身しうるという論理を内包している。「夷」、「戎」、「蛮」、「狄」だった人間(共同体)は、後天的学習を通じて「華」の文化を身につけ、「華」になることができると考えられた。つまり、「中原」に移住し、農業を始め、「中原」の農業文明を基礎にする「中華文化」を受け入れるのである。また、孔子は住む場所ではなく、「礼」の有無という文化的基準で、「華」であるか「四夷」であるかを判断すべきであると述べている。ここに、周辺地域の「中原化」(農業化し、「礼」という文化システムを取り込む)という概念が生まれる。 「文化」(文を以て強化する)は、武力と対照的に使われており、「文化」を最良の征服手段とする考えは、「徳治」の思想から来ている。つまり、支配者の「徳」は「蛮・夷・戎・狄」にも及ぶ。異民族が「中原」で政権を樹立し、その「華」を支配する正当性を主張するため、絶対的権威を持つ「天」という抽象的な概念を作り上げ、地上の世界を「天下」とし、支配者を「天子」とした。「天子」は「天」の「徳」を以て「天下」を管理する。そして、「天下」の中で「天子」の政治的支配力が及ぶ部分と及ばない部分は「中国」と「四方」に分けられる。 ■第二章 漢民族国家という幻想 中国=漢民族国家という強い意識は、十九世紀末から二十世紀にかけて形成された。漢王朝の成立により、「漢」は中国王朝を象徴する用語となり、その後も中国の王朝、その領域及び領域内に流行する文化を複合的に象徴する用語として生き残った。しかし、異民族が外部から漢地に侵入して征服王朝を作った時代には、「漢人」=「漢地の文化をもつ人」となる。清朝の漢族に対する差別政策は、「漢族」という民族意識を刺激し、孫文をはじめとする多くの革命家はここから「漢」民族主義、「漢」民族国家の幻想を描きはじめた。 清朝はモンゴル、ウイグル、チベットに対し「藩部支配」の体制を敷く「多元型」帝国システムをとった。一方、漢、唐、明のような「漢人」王朝は、1.皇帝が直接支配する「中華」、2.「中華」に移行中の異民族による内属国、3.異民族である外臣国や朝貢国という「多重型」帝国システムであった。 清朝末期、民族革命のシンボルは「漢族」ではなく「中華」とされた。つまり、「漢族」=「中華」であり、「満州族」=「中華」でないという公式を浸透させる狙いがあった。一九一一年の辛亥革命によって「五族共和」を唱える中華民国が成立したが、孫文は一九一九年の『三民主義』において「わが中国のあらゆる諸民族を一つの中華民族に融和しなければならない」と述べている。しかし、周辺民族の漢族への同化の上にできる「中華民族国家」は本質的に「漢民族国家」と変わらない。 |
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