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Being On the Road | ||
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| ヨーロッパにおけるシティズンシップ(2/6) | ||
| ■第1章 再生するネーション 過去四〇年ほどの間に、スコットランド、ウェールズ(イギリス)、カタルーニャ、バスク、ガリシア(スペイン)、フランデレン、ワロニー(ベルギー)、アルト・アーディジェ(南ティロル)、ヴァッレ・ダオスタ、サルディーニャ(イタリア)、ジュラ(スイス)といった民族地域が「自治」や「連邦」化した。これらの地域の人々は自らを一個の「ネーション」というが、生まれを共にし、歴史的にある領域に居住する集団が、「われわれ意識」をもち、自らの共同体をつくろうという意志を持つとき、これをネーションと呼ぶ。ヨーロッパ近代国家は、内にかかえる様々なネーションを単一のネーションに統合し、「国民国家(ネーション・ステイト)」を作り上げようとしてきた。そして言語の統一が重視されてきた。 一九五〇年代、六〇年代の高度経済成長によって中央と周辺の格差が広がり、地域アイデンティティの喚起を伴ったため、国家は経済成長のバランスを取るため経済計画や行政の分権化の改革を行った。また、ECとしての統合が進んだことで、それぞれの主権国家の相対化が行なわれ、「地域」の自律性が高まった。これらのナショナリズムは独立国家を目指す「民族自決ナショナリズム」とはことなり、官僚制化された近代国家に反発し、小さくとも共同のアイデンティティの下で生きられる社会を求め、経済的自立と文化、言語の擁護を志向するものである。「分離独立」がねらいではないため、「自治」の要求の中身としては経済とならんで文化・言語の権利要求が中心となっている。 これらの運動は国民国家統合の時期を経たのちの多様性の追求であるといいえる。ウェールズに住む人々の九十九パーセントは英語、バスクに住む人々の九十九パーセントはカスティーリア語(スペイン語)を使用者でもあって、その上で彼ら固有の言語の権利を求めている。つまり、文化・アイデンティティの実現を要求しているのである。一方、バルト三国ではソ連に組み込まれていた時期に移住してきたロシア語しか使えないロシア人住民による言語の権利の強い要求があるが、これは政治化している。 一九八一年一〇月に欧州議会でアルフェ報告が提出され、教育カリキュラムの中での地域言語・文化教育を承認すること、公的生活においてマイノリティが固有言語で自分を表現し、公権力の代表者に対して発言することを可能にすることなどが求められた。スペインでは一九七五年にフランコが死亡すると、カタルーニャ、バスクは一九七九年に自治州へ移行し、八二年十一月にはバスク州で「バスク語使用正常化基本法」が、八三年四月にはカタルーニャ州で「言語正常化法」が立法化された。正常化(ノーマライゼーション)とは教育、文化、社会生活におけるその言語の使用の定着、拡大をはかるための方法、規則をさだめることである。カタルーニャでは初等教育は児童の「通常使用言語」でこれを受ける権利をもつと認める一方、初等教育が終わるまでにカタルーニャ語とカスティーリャ語を共に正しく使用できなければならないと定めている。一方、バスクでは言語の選択の自由をすべての学校のレベルで認めている。ウェールズでは「一九九三年ウェールズ言語法」によってウェールズ語の使用をすすめるための計画を義務付けた。実際のところウェールズ語の話者は二〇%程度であり、この言語法の目的は「ウェールズ語と英語の同等の扱い」が主眼であって、二言語表示を原則とするが、選択の自由に関する深刻な事態は生じていない。 ■第2章 言語、アイデンティティ、シティズンシップ−カタラーナの世界− 「カタルーニャ」はスペインの十七の自治州の一つである。人口は約七〇〇万人、歴史的、文化的には一六五九年のピレネー条約でフランス王国に編入された現在のフランスのルシヨン地方を含めた地域も含んでいる。スペインという国家の誕生は十五世紀後半のことであるが、そのはるか以前からカタルーニャは固有文化を持ったバルセローナ伯国という独立地域であり、言語的にはロマンス語の一つで中世の南仏語(オック語)と多くの共通点をもちながら、十二世紀頃にカタルーニャ語として自立した。地中海における活発な商業で栄え、商人勢力が強かったこの地方は、スペイン国家からの自立を保ったが、一七一四年にスペインの軍門に下り、スペイン全土の書き言葉がカスティーリア語に統一されることとなった。一九世紀になると地の利をいかして織物業を中心に工業化が進み、二〇世紀にかけては民族的アイデンティティが喚起され、ガウディ、アルベニス、カザルスらの芸術家を輩出し、文芸復興運動も誕生する。そして、一九三二年に王制が倒れ共和制が復活すると自治政府が成立するが、一九三六年のフランコ軍の蜂起に始まる内乱の際に共和国側に立ったため、フランコの勝利(一九三九年)以降は、カタルーニャ語の使用の権利を含めいっさいの自治を失うこととなった。一九七五年のフランコの死によって「冬の時代」は終わりを告げ、言語正常化の試みが行われた。しかし、初・中等教育においてカタルーニャ語を準義務化する動きは、カスティーリア語による教育を望む親の訴訟や、州外出身者の住民達の不安を生んだ。 カタルーニャでは、カタルーニャ語とカスティーリャ語が公用語である。義務教育の終了までに二つの言語を同じように使えるようになることが求められる。カスティーリャ語は幼少のときからマスメディアなどを通じてなじんでしまうため、義務教育期間ではカタルーニャ語に比重を置いた教育が行われている。しかし、一六歳を越えれば教育における言語の選択はより柔軟になり、カタルーニャ語での授業を行うかは学校の自治に任される(一方、カナダのケベックでは学校教育のみならず、職場にけるフランス語文書の正式化が進められ、ベルギーの大学はフランス語の大学とオランダ語の大学にわかれている)。一方、地名の表記については、カタルーニャ語に統一されている(ウェールズや南フランスのオクシタニーでは二言語表記がとられている)。 カタルーニャでは人口の九十九パーセントがカスティーリャ語を話し、バルセローナのような大都市になるとアンダルーシアなど他地域からやってきた労働者、マドリードから赴任するサラリーマン、南米やマグレブからの移民、保養や老後の移住でやってくるヨーロッパ人、観光客など、非カタルーニャ人口の割合が多く、街頭でカタルーニャ語の会話を聞くのは難しい。地方都市では、顔見知りの土地の人とはカタルーニャ語で話すが、初対面の人にはカスティーリャ語で話すという。カタルーニャ語のテレビ局は2チャンネルあり、日刊紙は5誌あるが、発行部数ではカスティーリャ語のものには遠く及ばない。カタルーニャ州の中では公用語であり、七割以上の住民が使える言葉でも、場所や関係を問わずに使われうる言葉として維持していくのは容易でない。 | ||