これは、前作『断層の日々』が第一部・第二部・第三……と総頁も400字詰め原稿用紙換算で750枚にもおよび、とてもホームページ向きとは言えないので、約三分の一に縮め、いわばそのダイジェスト版ともいうべきものを作ってみました。
 お暇と興味おありのお方は、併せて読み比べていただければ、どこを割愛し、どこをどう書き直したか? また一興かと存じます。




(1)

 自分の記憶力のあいまいさをこの時ほど思い知らされたことはなかった。アラスカの山中を彷徨しているのではない。姫路の近郊、播州平野の真ん中である。ところどころ低い丘があり、揖保川という一級河川が蛇行し、その支流をはさんで聚落が点在している。そしてそれを結ぶいくつもの村道が四方八方にのびているのだ。

 一九九四年一月十五日、午後三時まえ。
 いま私は亡母の生まれた家を探しあぐねている。
 還暦をすぎて早や四年、さいきんの記憶はとみに失われたとはいえ、断片的によみがえる幼いころの、とくに小学生後半のありし日の自分の姿や山野のたたずまいは、まるで昨日のことのように思いうかぶ。
 ――兵庫県揖保郡揖保村字山下。この母の実家の在所名もちゃんと諳んじている。小学生の何年間、毎年のように正月や夏休みの盆前後に母に連れられてすごした母の故郷。ひとにいちいち尋ねなくとも、この小学生時代の記憶だけで必ずたどりつけると固く信じて疑わなかったのだ。
 午ちかくからの霙まじりの雨にこぜわしく動くフロントガラスのワイパーを透かして、いまさらのように私は、簫条と灰色にかすむ冬ざれた野面を見まわした。北か南か、あるいは東か西かさだかならぬ左手にこぢんまりした丘陵があり、葉を落とした櫟らしい樹の梢や、そのあいだから抽んでた幾本かのひょろ長い松の頂が、心なしか白く見える。丘のふもとの田んぼの不規則な切り株の頭もうっすらと雪をかぶっているようだ。風が加わったのか、ときおり運転席側の窓ガラスに霙が音をたてはじめた。
 このまま本格的な雪になって、帰途、夜にはいればタイヤチェンの用意のない車。私はあせった。

 関西に進出してきた西武百貨店系列の、ザ・モール専門店のテナントとして、長男の昇一が、こんど五つ目のチェン店を姫路市内に出すにあたり、私に相談があった。私はほとんど即座に「それは考えもんや」といった。
「考えてもみィ。バブル崩壊後のこの不景気に、あっちもこっちも店ばっかり増えて、増えた店の数と比例して、どこもここも人口は増えてないんやぞ。げんにいまの店だってどうにか採算がとれるかとれんかやろ。借金どないするんや」
 できのわるい長男で、次男の雅治は自分の志望校であった東京の、伝統ある私大の中でも難関といわれた理工学部建築科に現役で入ったが、長男は府下のマンモス大学の、それも商学部にしか入れなかった。
 私は、べつに教育ママ的な父親ではなかった。それどころか多分に放任主義で、志望校も各自の判断に任せていた。
 長女の祥子のばあいでも、彼女が府立高女から市内の国立外国語大学英文科への希望を述べたとき、「ちょっと成績が下のほうやからな」と担任の指導で、郊外の歴史の浅い私立外国語大学に格下げしたことを、私はながいこと知らなかった。ただ、三人の子供には“浪人”だけは許さないと申しわたしていた。
 だがやはり娘はともかく、ふたりの息子には画然とした学歴の差がゆくてを分けた。次男雅治は、大学OBが社長である竹中工務店をはじめ、鹿島や清水建設や大林組からでも引く手あまたであったのに較べて、長男の昇一はどこからも口がかからなかった。唯一、昇一が高校時代にサッカーのゴールキーパーで、大学四回生のときヨット部のキャプテンだったという履歴がかわれて、東京に本社をもつ高級輸入家具専門の大阪支社に採用された。
 そのわけは、やがて解った。この会社は各社員にセールスから搬入まで何もかもやらすのだ。いったん出勤するや、いつ帰ってくるか判らない日がつづく。夜討ち朝駆けは毎日のことで、天竜川を境として東は東京本社、西は大阪支社で、中部・北陸・近畿・中国・四国・九州と商品の配達に追い回されるのである。体力と運動神経が要求される所以であった。
 そのような長男のありように、私はひと言も干渉しなかった。学歴のなさに劣等感を抱きつづけながらも、どうにか生きてきた自分に照らし合わせて「何事も苦労するこっちゃ。それが本人の薬になる」と、どこか加虐的な快感にゆすられてさえいた。
 長男の大学に関して、思いだすことがある。
 それはもう、自宅を大阪から奈良の学園前に移して何年か経った浅春の午後、たまたま在宅して書き物をしていた机上の電話が鳴った。大学の学務部とか名乗る男の声で、
「お宅の息子さんは卒業できませんよ」という。
「ほう、それは仕方ありませんな」と私。
「えッ、あのう……あなたは、どなたで」
「父親ですが」
「息子さんの大事なことですがね」
「そうですな。本人にとっては残念なことでしょうが、成績がわるくて落第なら、それも人生のひとつの試練でしょう」
「しかし、まあ、あのう……成績はあれなんですが、どうしても単位のほうが、ね」
 私は開き直ったかんじで、
「しかしですなあ。息子はヨット部のキャプテンとして、大学を代表して博多や葉山まで全日本学生選手権の試合にいったと聞いておりまっせ。西宮のヨットハーバーの宿舎の外壁の修理に、うちの仕事用の足場丸太や吹付けのコンプレッサーまで持ち出して、泊まり込みで一所懸命ペンキ塗りまでしたらしい。本来なら学校の予算で業者を使ってやらなあかんことまでね」
「…………」
「ともかく、大学のばあい、クラブ活動で単位がとれなかったなら、あるていど大目に見てくれはんのんと違いまんのんか」
「そうですな……」
 男は語尾をにごしたあと沈黙し、通話はおわった。相手は何をいいたかったのだろう。まさか、魚心あれば水心、応分の寄付さえしてくれたら、追加講義に出たことにして卒業させてやってもいい、という含みをもたせていたのだとは、大学の名誉のために思いたくない。
 次男の雅治は、すべての建設会社をけって大手の商社に就職した。勤務地は東京本社で、部署は開発局建設部であった。二年のち資格年数に達するや一級建築士の免許をとった。そしていま海外派遣社員としてロサンゼルスにいる。
 昇一は、輸入家具会社を三年で辞め、奈良国体のヨット指導が縁で、大和郡山にできた西友ストア五階の、麺類店の雇われ店長になって馴れぬ仕事に就いた。五年間店長として実績をあげてくれたら、将来、その店の経営者になってもらうという約束で。
 世間一般的にいうなら、次男はいわゆるエリートコースを順調にたどったことになろう。そして長男はうどん屋。
 しかし昇一はもちまえの負けん気で頑張った。自ら新しいメニューを考え、自腹を切って評判の店の味見探求に励み、嫁に店を手伝わせ、奈良県下の〈うまいもん案内〉に掲載されるまでに店を育てていった。そうして五年が経った。しかしオーナーは「あれは口約束にしかすぎない」とか、「こちらにもいろいろ事情ができて……」などと言を左右にして、昇一に店を任すことを拒んだ。欲が出たのだ。どうやらその火元はオーナー自身にあるのではなく、その連れ合いの焚付けによるものらしかった。このままの状態を保っておれば、安い店長給与ですむのに、店を遣ってしまえば、一時金でおわりだ――。
 すでに昇一は三女の親になっている。嫁は泣いた。いままで買いたい物も買わず辛抱してきたのに、このままでは先行きどうなることやら、と。
 さすが温和しい昇一も怒気をあらわにしてオーナーに詰め寄った。するとオーナーは法外な権利譲渡金と水揚げに準じた月々の歩合を要求してきた。その金利と歩合を勘案すれば、まだしも雇われ店長でいたほうがマシだという結論に達した。
 そんな一部始終をを聞かされて私は言下に、
「そんな店、辞めてしまえ! 男一匹、いくらでも他に生きる途がある」と怒鳴った。
 折りもおり、西友の営業部から、営業不振で空きのできた同じフロアの和風料理の店を引き継いでやってくれないか、きみなら流行らせてくれるだろうという、打診というより懇請があった。店の敷金も格安にして、当初、軌道にのるまで何かと面倒をみるからという条件だった。
 昇一は、それまでの麺類店の店長を兼ねて、その店を引き受けることにした。しかし改装費に一千数百万を要し、かなりの皿・小鉢も新たにしたから、それは、そのまま敷金とは別の借金として残った。高い金利は払えぬから、その借金の大半は嫁の実家やその親戚に頼った。
 店名を《季乃庄》と名付けた。これは私の案であった。
 東京本社から視察にやってきた営業部長も、「いい名だなあ」と褒めてくれたらしい。
 さいわい《季乃庄》は、まあまあの採算にのった。
 それを見きわめたように、次は大阪東部の西友八戸ノ里店のバトンタッチだった。矢継ぎ早にこんどは大阪市南部の、これは西友系列ではないが、その紹介で、近鉄阿倍野百貨店と都ホテルの間に建った《新宿ごちそうビル》からの誘いだった。
 敷金、一億三千五百万。月々の家賃二百五十万。
 このときばかり昇一は、私に頭を下げた。親父名義の不動産を銀行の担保に差し出してくれと。
 当時、私の土地や建物はバルブの絶頂期、自宅の売買を斡旋した不動産屋に、一ヵ月の予告期間を設けて、いつでも根抵当権を抹消するという条件で貸していた。その謝礼金が月に三十万円だった。昇一も、それくらいの金は出すからというのだが、息子から、そんな金を受け取るわけにはいくまい。昇一の事業に一抹の危惧をかんじながらも、ちょうど彼の年齢のころ、ぐうたらな親父に、伸びようとする事業の足をひっぱられ、志なかばにも達しなかったわが身の苦い経験から、
「よし!」といった。
 狂乱地価が音立てて崩れ落ちていた。一ヵ月の予告どころか、三ヵ月経っても、不動産屋は抵当権を抹消しようとはしない。私はだんだん不安になってきた。第三《季乃庄》の契約日が近づいてくる。私は必死になって抹消登記を迫った。このころから知人の「えらいことしはりましたな。もうその不動産はもどれしまへんで」とか、「難しいですな。このケースは」とかいう銀行筋の声もあがりはじめ。私は青ざめた。
 こうなると、昇一に用立てるという目的どころか、家族全体の死活問題である。
 バルブ華やかなりし時代、バーやクラブでひと晩に二、三十万円を散じ、ひとり数百万円単位の手当で三、四人もの女を囲ったという不動産屋の顔の歪みよ。夜逃げ同然、なかなか捕まらぬ不動産屋を突き止めて、強行談判におよび、やっと抹消登記に漕ぎつけたときには、もはや私は疲労困憊、虚脱状態だった。
 抵当権が廻りまわって、たちの悪い取り立て屋に「善意の第三者」をふりかざされ、家を追い出されることを考えれば、よしや昇一が事業に失敗して人手に家が渡るようなことになっても、一蓮托生、父親として本望である。
「好きなようにせい」と、私は機嫌よく実印を捺した。
 さすが阿倍野は、キタの梅田やミナミの難波につぐ大阪第三の繁華街である。大和郡山の寂れた市や、人口は多いが流動性の少ない東大阪の店とは水揚げがちがう。とはいえ、折れて曲がるほどの儲けがあるわけではなく、高い敷金の金利や家賃を考えると、なにほどのものが手元に残るのか。好きなようにせいといっておきながら、喉元をすぎればまた不安になってくる。
 そんな私の心配をよそに、昇一はまるで抑圧されたうどん屋時代の鬱憤を晴らすかのように、京都・山科に第四《季乃庄》を開き、飲食店のみならず、いろいろな事業も展開できるように株式会社「翔和」を設立した。
 そして、こんどは第五《季乃庄》を姫路に出そうという。
「資金はどないするんや。資金は」
「アベノ店の権利金を担保にして、銀行から……」
「もう、ええ加減にせい」と私は横を向いた。
 昇一は答えなかった。
 そのおり、ついでのように、彼にとっての祖母のことを訊かれたのがきっかけだった。

 いま私は、その姫路を隔てること西へ十二キロ地点の田舎道に車を停めて、霙まじりの雨あしを眺めている。

 ――母の実家は播州でも指折りの地主で、一町田と称ばれる美田を何十枚も擁し、国鉄竜野駅から他人の地所をいっさい踏まずに歩けた、明治の末期に建て替えた母屋は、広い庭と七つの土蔵にかこまれ、三階建てかと見まがう大屋根の上には三本の避雷針が屹立し、部屋数は数えきれないくらいあった……。
 これは祖母が生前によく口にした事柄で、それと組み合わせのように、自らの実家もまた一人息子のその嫁の里に比肩しえたという譬え話として、
「彦左衛門さんとこに無い物は、お菊さんの睾丸と馬の角だけや」と人からいわれたもんや、と私に語った。
 お菊さんというのは、その祖母の祖母であった。つまり、福井県大野郡上庄村森政領家の先々代の祖母の家には、無いものはなかった、ということだろう。
 祖母は決して法螺を吹くひとではなかった。嫁姑の垣根をこえて祖母は、母の実家のことは尊敬の眼差しでそう語り、自分の先祖のことは控えめに述べた。この話は、私の妻もよく聞かされていて、「おばあちゃんがいいはんねんやったら、そうでしょう」と頷いていた。
 両家の共通点は、父方のほうが徳川末期、先祖が堂島の米相場に手を出して財を潰し、母方のほうは、戦後の農地改革によって手足をもがれ、跡取りの婿養子のあまりにもの不甲斐なさによって実家が人手に渡ったことである。
 どちらにせよ、その没落ぶりは時間の長短こそあれ似たもので、つづく我が家の没落も母の死を合図かのように、母の持参金で大阪市内の各所に建てた三十戸にあまる一戸建ての貸家も、かなり大きい居宅も、最初の空襲があった昭和十九年の初め、すべて二束三文に売り払い、福井県の山奥に疎開したことから始まった。皮肉にも、売った家作はただの一軒も焼けず、いや、灰になっていても、戦後、その土地値だけで、優に一生、食べていける価値があるのだが、そのとき親父が手にしたのは、貨幣価値の差があったとはいえ、たったの百十七万円だった。それも戦後の新円封鎖で凍結されたまま未曾有のインフレに巻込まれ、物価は日に日に高騰して、紙くず同然になってしまった。

 私の母は、私が小学校六年を迎えようとする春先の、昭和十六年二月十一日、紀元節の晩、満三十九歳の若さで亡くなった。肺結核だった。

 母の死を境に私は、絶えて久しく母の郷里を訪れることはなかった。
 だが、播州の母の実家の書庫蔵でむさぼるようにして読んだ総ルビ付きの立川文庫によって、私は難しい字と、その読み方を知ったし、当時、母のいちばん末の妹が愛読していた菊池寛や久米正雄や中村武羅夫の恋愛小説の物語性にうっとりし、次なる『アンナ・カレーニナ』や『赤と黒』や『女の一生』なぞの翻訳物は、長ったらしくて退屈をきわめたが、なにか文学の香りめいた匂いをかいだ感じて高揚の気分をあじわった。
 そうした、いささかおませじみた少年時代のことは、忘れようとしても忘れられるものではない。

 師走に入って間もない夕方、昇一から電話があって、
「いまJR竜野の駅前にきてるんやけど、そのおばあちゃんの生まれた家の場所はどういったらいいんかな」
「なんや、おまえ。ほんまに姫路店やるのか」
 一週間に一度も顔を合わせたことがないほど忙しい息子が、その目的のためだけに姫路の郊外へ行くわけがない。
「そうや。この前おやじにいうたとおりやんか」
「わしは、もうええ加減に店を増やすのは止めとけ、っていうたはずやぞ」
「うん、わかった。出すも出さんも、いままだ下調べの段階やんか。ぼくも、ちゃんと考えてるって」
 ああ、もう何をかいわん……私の忠告もここまでである。
 妻がいう。「昇一は、いつまでも子供とちがいますよ。子供どころか、もう四十にちかいおっさんやのに、おとうちゃんは、いつまでも子供あつかいにして……」
 息子は、自分の思いどおりに、やろうと思えばやるだろう。それでいい。私の意見に右往左往するようなら、かえって心細い。ただ、私の小刻みの意見が、軌道を脱線しようとする車輪の修正、EEコントロール的なブレーキの役目を果たしてくれるのなら。
「そうか。それならな、駅前をまっすぐ北へいけ。まっすぐやぞ。およそ三、四キロ走ったら右側に火の見櫓がある。その百五十メーターほど手前のT字路を入って約三百メータいったところの左の大きな家が、そうや。いきすぎたらあかんぞ。いきすぎたら、揖保川の土手に出て、右手前が醤油会社の建物や。橋を渡ったらますます遠く離れてしまうぞ」
「オッケイ。了解」
 小一時間ほどして、また昇一から電話があった。
「なんぼ探しても、それらしい所へ出えへんねんけどな。火の見櫓もないし、村の交番できいても……」
「山下という在所名をいうたか」
「山下という地名はあるけど、それやったら、ずうっと南へ五、六キロさがったところやいうてるしな。もう真っ暗やし、また姫路へもどって播但自動車道に出るのも時間かかるし、いまから新宮町に出て、最短距離を走って、山崎インターから中国自動車道に乗らんと、本部の打ち合わせに間に合わんから、もう帰るわ」
「うーむ」
 受話器を置いたとたん、私は、あっ、と声を出した。昇一が電話をかけてきたのは、竜野は竜野でも、姫新線の本竜野駅ではないか。私が教えた竜野は山陽本線の、たんなる竜野駅である。山陽本線を底辺にして、姫新線は姫路から津山に向かって北上している。ちょうどT定規を逆さにして、長いほうの一辺の中途に本竜野駅があり、下部の短い一辺の、向かって左端が竜野駅なのだ。息子は、北に向かったのではなく西に向かったのである。それでは探し当てることができなかったはずである。
 私のうちに、いますぐにでも母のかつての実家をたしかめたい衝動がはしった。想えば私がさいごに母の家を見たのは十歳の夏だった。私はこの一月九日で、満六十四になった。五十四年の歳月が、空白が、しらじらと冷たい夜空の銀河を見るおもいで横たわっている。
 その間、母の死についで、その父、その母、長兄、次兄、妹までも亡くなった。長兄の一人娘の綾子という、ずいぶん年上の従姉は婿をとって谷村家を継いだというが、戦後数年にして家を手放したと聞いた。いま、大阪府のどこかにいるらしいが、ともに音信不通で、もはや谷村家は完全に絶え果てたかんじだ。
 他人の名義になっていても、家そのものは厳然と在るはずだった。
 周囲はとりたてて景色の良いところではなかったが、子供心にも、そんな平凡な田園風景がかえって心を和ませてくれる温かい滋味となって、その田んぼの稲の一株ひと株に、小川のせせらぎに、池の面のさざなみに伝わっていた。
 だが、どうしたことだろう、この荒涼とした光景は。
 なるほど、子供のころの印象とは様がわりに人家も多くなって賑やかだ。土埃が舞っていた田舎道はアスファルト舗装され、ドライブイン・レストランまがいのしゃれた喫茶店も随所に出来て、戸惑うくらいだ。しかし、何か冷たくよそよそしいのである。それは、あながち降りしきる氷雨のせいでも、いまや他人のものとなった母の家への隔絶感からくる寂寥でもない。
 こうなったら、意地からでも人には訊けないと、もう一度竜野駅からやり直してみたその途中、何回もくぐった国道二号バイパスの、名神・東名高速道路かと疑うばかりの巨大な高架構造物。都会育ちで自身もそうした建造物工事に携わり、圧倒されるはずもないのに、なにか私にはものがなしかった。

 やっと、その近所を捜し当てた。
 母の長兄が村に寄進したという、火の見櫓を目印にしていたのがいけなかったのである。この場所なら何回通りすぎたことか。火の見櫓の跡付近には白いペンキ塗りのコンビニエンス・ストアが建っていた。避雷針の立った大屋根は、いくら雨空でもそこから充分望めるはずだった。しかし、その姿は無かった。二次元の酷似した世界にさまよいこんだような頼りない感覚だった。いつかこれとそっくりな夢を見たことがある。げんに夢を見ているのではないかと思ったほどだ。母の家が無いのである。どうりで迷ったわけだ。同じところをぐるぐると。
 そこで初めて人に訊ねた。
「さあ、あたしら昔のことはわからんけど、この辺のことやったら、そこを曲がってちょっといったところの真殿さんに聞いてもろたら」
 三十前後の頬の赤いこの店の嫁か娘が、奥の壁のほうを顎で教えてくれた。
 車幅いっぱいの細い道であった。真殿という表札はすぐ見つかったが、駐車するスペースがないので、その先の十字路までいったん車を進めて切り返し、もときたほうに車首を向け、真殿家の近くの農具小屋とおぼしき広い犬走りに、運転席側の車輪を片乗せしてエンジンキーを抜いた。
 ドアを開けると、樋もない軒端の位置にちょうどドアがあって、冷たい雨のかたまりが頭に、襟首に落ちてきた。私はあわててトランクから傘を出すと、そこから五、六間むこうの真殿家に急いだ。
 訪いを入れるまでもなく、冠木門の入り口に、曲がった腰に後ろ手した老婆が伸びをしながら空を見あげていた。私は用件を述べた。
「へえ、へえー。ほう、まあ、谷村本家のお孫さんで、ま、わたしがここへ嫁た以前のことやったら、おじいさんのほうが詳しいでな。ちょっと呼びまひょわいの」といって、よろよろ玄関口に姿を消した。
 やがて冠木門の屋根下に立った小柄な老人は、深い皺のあいだのかなつぼ眼を光らせて、私を見あげ、
「ほう、政子さんの息子さんな。政子さんはわしより二学級上じゃった」
「すると、ご主人は、いま八十九で……」
「いんや、数えでもう九十じゃて」
 私は、しみじみと老人の深い皺を眺めた。母が存命なら、やはりこの老人のように顔に無数の皺を刻み、老婆のように腰が曲がったであろうか。
「まあ、家のなかに入とってよ」といわれたが、私がそこの道路半分に車を駐め、いつ他の車がやってきて通行の妨げになってはいけない旨を告げると、
「なあーん、いまごろ滅多に車は通ってやない」といいながらも納得した表情で、肝心の私の質問に答えてくれた。
 老人の指差す南の方角に、ビニールが蒲鉾型ににぶく光る温床の列があり、そのビニールハウスの波の上に、あたかも艦隊を組んで遊弋中の巡洋艦の司令塔を想わせる、この付近では普通の百坪前後の二階建てが三軒、かなりの間隔をおいて建っている。
「あれが、本家の屋敷跡に建っとう家なんや。あんまし広いんでな、三つに地分けしたんよ。ほいでも、このわしんとこの敷地よりもずっと広かろ。蔵はこぶっちもたが、母屋のほうはな、勿体ないゆうて分割しよるときに、播磨造船の社長が引き取って、どっかに移築したあんばいらしいがな。もう三十年も前の話じゃて」
 かげろうのごとき人の世に、たとえ家だけでも何処かで命脈を保っていることに私は何か安堵感をおぼえたが、ふいに思いもかけず嗚咽がこみあげてくる衝動がした。それをごまかすように、
「しかし、墓はあるでしょう。墓が」
 そうだ。せっかくここまで来たのだから、せめて墓参りだけでもしていこうと私は思った。
「それがのう。それもないんやて」
 老人は遠い眼つきで、視線を墓の在る西山のほうにおよがせながら、寒そうに鼻水をすすった。気の毒に、もう長話はできない。この老人に風邪をひかさせてはならない。
「墓はなあ、綾子さんと養子さんが、大阪へもっていっとうてや。それも三十年もまえになるかな。墓の魂をぬいてな。でかい墓やったけん、山のふもとのトラックのとこまで、わしらも手伝うたもんよ」
「それじゃあ、墓参りもできませんね。仕方ありません」私は、頭をさげた。
「あとに、松が植わっとうよ。その松もだいぶ大けいなったな」
 傷ましそうな老人の声を背に、私は車にもどった。門のところで立ち話をしていたときは小降りだった氷雨が、また勢いをぶりかえしてきた。立ち話のときにはさほど感じなかった寒さが急におそってきて、イグニッション・キーをかける指先がかじかんでいる。真冬の午後の四時は、雨空も加わって、もう日暮れだ。
 さて、どうしよう。往路と同じように姫路にもどって、播但自動車道から中国自動車道に出るか、このまま北上して山崎経由にするか。それとも南下して山陽自動車道から第二神明道路、阪神高速道路と乗り継いで帰るか。いっとき思案をしていると、真殿の老人が黒い傘を傾けながら車に近寄ってきて何か口を動かしている。私は仕方なくサイドガラスを下げた。雨がどっと車内になだれ込む。
「ああ、思いだしたんやが、墓のう。ちっちゃい分家の墓なら、奥まったところにあるんやがな。それでも参っていきよってなら、もうすぐ息子が帰ってくるけん、息子に案内させてもええんやがな。分家ゆうたって、かなり濃い血縁のもんやさかい、どうかな」
「ありがとうございます、が……その、あのう」
 口走りながら私は、窓いっぱいに肩を突き出して右腕全体で、ドア内部の肘掛け状のところに集まっているスイッチ類をかばった。なにしろ、車の右サイドを一段高い犬走りに乗り上げているものだから、道路側に傾いた車は、軒庇からの雨雫を斜めに受ける皿のような形になって、まともに入ってくる。声の聞こえるていどに、プラスチックバイザーのところまでガラスをぎりぎり上げれば被害は最小限度にくいとめられるが、親切に教えてくれる老人に対してそんな失礼なことはできない。前からでも後ろからでもいい、車が来てくれれば口実ができるのだが、それも来ない。よっぽど私は、雨だれを二段の滝のように中継させて、余分な雨量を窓に流しこんでくる老人の傘をこちらに近づけ、私の頭を覆ってくれるように頼もうかと思ったが、それも横着なような気がする。
 老人は、なおもくどくどと親身になって何かいってくれているが、もう私の耳には入らなかった。そうした苛立ちがいや増すと、その老人の気の利かなさに対する腹立たしさがしだいに嵩じて、やがては憐れみとも情けなさとも何ともいえぬ嫌悪の情が、私の脳裏を占めた。この嫌悪感はいったいどこからくるのか……。
 東に向かって帰りを急ぐ坦々とした中国自動車道で、私は“老醜”について考えた。眼は規則正しく動くワイパーをとおして先行車のテールランプを見つめながら、頭のなかは、そのことを反芻していた。
 ――わななく手でがま口をひらいて電車の切符を買う老人。眼をしょぼつかせて空席を窺う老人。降車を急ぐ乗客の前を塞いでのろのろ出口へ動く老人。壮年時、何ほどの地位にいたかは知らないが、染みだらけの顔をしてステッキを突き、周りを睥睨している老人……威厳を払っているつもりか知らないが、芯から古武士を偲ばせる風格のある老人は、めっきり少なくなった。
 それはもう、哀れというより滑稽で……つい私は、八十六で死んだ親父の姿をそこに重ねてしまうのだ。

 播州から帰った翌朝の寝覚め、ひどく鼻が詰まっている。昨日、氷雨に肩から腕にかけてぐしゃぐしゃに濡れた水分は、帰途、車内で目いっぱいの暖房をかけたのに、とうとう自宅へ帰りつくまでに乾かなかったのだ。フロアシートのカーペットもじっとり湿ったままだった。
 風邪をひくとてきめんにタバコの香りがしない。食事もワラを噛むおもいである。そうでなくとも、近ごろ、食欲は極端に減っている。五十代の半分、四十代の三分の一、三十代の四分の一、二十代の五分の一以下……。
 普段、朝食は摂らない。昼も食べたり食べなかったり。晩だって、めしは茶碗に軽く八分目、副食も、魚の煮付けでも焼き物でも一きれていど。それに汁物を軽く一杯と漬け物。肉でも水炊きでも、その総量には変わりがない。まさに一汁一菜。それに一飯。それを標榜した昔の質素な人物だって飯だけは何杯もお代わりしたろう。
 その日は大阪の事務所に出たが、夕方から微熱が加わり躯全体が浮いたようになってふらつく。食欲のないまま絶食して風呂も入らずに寝る。夜半に、急激な便意をもよおしてトイレに走り、間一髪で漏らさずにすんだが、しゃぶしゃぶの黄色い液体が大量に迸った。それから半時間おきに便座にしゃがみこんで吐き気をこらえる。もう何も出ない完全な脱水症状なのに、便意と吐き気は明け方までつづいた。
 さすが翌日は仕事を休んだ。その旨従業員に伝える電話の声も別人みたいに嗄れて、常備薬を飲むがいっこう良くならない。家人は心配して病院へ行けと勧めるが、医者に診てもらう気力もなく、テレビを視る興味も失せ、本を読んでもさっぱり頭にはいらない。
 こんな日が、三日も続いた。私としてはめずらしいことである。
 私の“傲岸”はこんなところからきているのかも知れない。風邪で三日寝たくらいがめずらしいとは、結構なことだ。これがもし死の宣告をうけたに等しい癌などで何十日も何ヵ月も病床に臥す身ともなれば、その苦痛はいかばかりか。
 ――動作が鈍く機転が利かないといっても、まだしも真殿老人やその他の老人は自分の足腰で起って歩けるし、口も利けるからいいほうである。日常眼に触れない寝たきりの老人は……。もし自分がそんな老人の一人になったら、どうするか。否! もし……ではない。可能性としては八十パーセントそうなるという統計もある。時間の問題で私もやがて、いや、明日にでもそうならないという保証はない。
 老人に対する思いやりのなさは、現時点での己れの健康を基準においた傲岸に他ならないのではないか。
 昼か夜か、夢うつつの浮遊状態のなかで、それからの私に去来するのは、ありし日の自分の姿。肉親のことども。幼年期から少年期、さらには青年期から壮年期へ、そしてまた少年期、幼年期へと前後入り乱れてとりとめもなく、うなされたようにしきりと思い返えされるのだ。


(2)

 私は、一九三〇年一月九日午前十一時三十分、大阪市は東の一角で産声をあげた。体重四・一五キログラム。AB 型。

 もっとも幼い記憶として、こんな情景がよみがえる。
 黄色い電球の下で、祖母と母が私の下半身をむきだしにして、小さな巻き貝を、貴重なもののように覗き込んでいた。つづけさまに女ばかり生まれて、四人目が私だった。
 祖母が、その巻き貝を人差し指で軽くはじきながら、
「こりゃ、これも大きうなったら道楽するようになるんかいや。清一みたいに」といった。
「ほんに、まあ……」母は含み笑いをしていたようだ。
 襁褓を換える前なのか後なのか。そんな会話の断片を薄目をあいて憶えているぐらいだから、乳児の頃ではなかったように思う。すると風呂あがりの天花粉をはたく場面だったか、どうか。
 次なる幼児期の思い出は、一枚の写真にある。何かの記念撮影だろう。左側に黒っぽいきものを着た七、八人の男女のすました顔の群れがあり、離れた右側で、木製の三脚の上に据えた大型の箱カメラを覗いている男の姿。その手前に三つか四つの私が、右手を群れのほうに水平に伸ばし、伸ばした方向に躯をかたむけて駄々をこねている。その左手をこれも黒い着物姿の母がつかんで、やや及び腰だ。
 あそこに行って一緒に写真をうつしてもらうんだ、とでもいっているのか。背景の池や灯籠は、見おぼえのある播州の母の実家の庭である。写真もだが、私は今でもその母の掌の感触を憶えている。おそらくこの撮影風景のスナップを撮ったのは父であろう。
 父は、姉たちが生まれた時分より写真をはじめていたらしい。当時のことだからガラス乾板で、現在のようなフィルムではない。もちろんフラッシュもストロボではなく、マグネシウムを焚くのである。閃光球を使うようになったのは戦後すこし経ってからだから、父は大正の末期から、そうした不便な機材と現像薬品を使い、暗室にこもって、ハート型に切り抜いたポートレートや、裾を波形にあしらった記念写真の“傑作”づくりにいそしんでいた。

 私の生まれた家は、大阪市東成区の中本町に在った。西にどす黒い城東運河が南北に流れ、糞尿や砂利を積んだ荷役舟が行き交っていた。その運河に架かる橋を玉津橋といい、橋を渡って真っ直ぐ西へ向かえば省線の玉造駅で、橋の手前を横切るように曲がりくねった道が奈良街道だった。左に行けば、やがて街道は南から東へ向きを変え、遠く生駒連峰の暗峠に分け入り、右は大阪城の巽門に通じている。奈良街道に沿って神社やお寺が散在し、私の育った家の庭にも、そうした神社や寺の境内から風の吹くまま、春には桜の花びらが、秋には銀杏の落ち葉がはらはら舞い落ちて、常緑樹の前栽に白紅や黄金色の彩りをそえた。
 今里の幼稚園に通うまで、私はよくそんな境内であそんだ。今里の幼稚園も寺院の経営だったが、近所の寺には幼稚園の施設がなく、あっても宗旨がちがっていたので、一徹な祖母が許さなかったろう。私は、毛糸の袋に入れた小さな丸いアルミの弁当箱を提げて通園した。弁当箱は上の部分におかず、下がご飯で、午になって、それを広げるとき「きょうは何のおかずやろ……」と胸をときめかした。玉子焼きが入っているとご満悦で、塩鮭だと顔をしかめた。
 幼稚園のあの独特のにおいは、いったい何だったのだろう。それは弁当の匂いか? いいや、園に入るとにおってくる一種独特なにおい。ペンキやニスのにおいでもあるし、クレヨンのにおいもある。座布団の埃っぽいにおい、それに、そこはかともなく漂う汲み取り便所の臭いとちぐはぐな、本堂で燻べる抹香や線香の香り。
 幼児期の記憶は、ふしぎと匂いがつきまとう。
 泥亀を見つけて、棒で甲羅をつついているうちに足を滑らして城東運河に落ちたとき、すぐ、橋のたもとの花屋の主人に救けてもらったが、全身泥水に染まってわんわん泣きながら家に帰り、頭からバケツの水をかけられ、風呂場で石鹸をいくら使っても臭いは脱けなかった。そのどぶ川の饐えた悪臭は忘れることができない。
 俗に、女の子は育てやすいが、男の子は育てにくい、といわれるが、私も胃腸が弱かった。
 戸外でチャンバラごっこをやっていて、急に便意をもよおすが、家へ駆け込むいとまもなく、どさりとウンチをする。その股間の何ともいえない温かい重みと格好わるさは、その臭いとともに今でも鮮やかである。
 そんな鼻たれ、ばばたれ時代に、室戸台風が京阪神を直撃した。瓦は木の葉のように舞い。ガラス戸は吹っ飛び、家全体がミシミシ鳴って、今にも倒壊しそうになった。恐怖のあまり私は泣きだし、誰がどうしたのか長持ちのなかに入っていた。そのときの衣類にしみた樟脳のにおいは、一種の郷愁をともなってまつわりついている。
 風水害の爪跡は、付近一帯の床下浸水となって残り、三日も四日も水がひかなかった。汲み取り便所の糞尿と混ざりあった汚水の上に、私はブリキの舟を浮かべてあそんだ。家中、いや町じゅう黴びくさい臭いが充満し、腸チフスにかかるの、コレラが蔓延するの、と大人のあいだで騒がれて、ちょうど臨月をむかえていた母と、末っ子の私が播州に避難することになった。

 揖保川の水は清冽であった。小川のせせらぎは別天地のものだった。泥亀のかわりに銭亀がいたし、鮒や泥鰌のかわりに鯉や鰻がいた。私は男衆の付き添いで、終日あそび暮らした。
 谷村家の墓地は、村の西のはずれに在った。小高い丘にすぎなかったが、幼い私の目線には、大阪・奈良の府県境に横たわる六三四メートルの生駒山に匹敵する高い山だった。
 秋たけなわの櫟の黄色い葉、イタドリやウルシの真紅。落葉を踏んで小径をゆけば、苔や落ち葉特有の湿っぽいにおいが鼻腔をくすぐり、これもあれも大阪にないものだった。
 夕陽が西の丘にしずむ寸前は、丘は黒いシルエットになり、やがて稜線は金環食の一辺となって映えた。もうその頃になると、風呂の焚き口にちょろちょろ赤く燃える薪のにおい、むらさき色の煙のにおい、魚を焼くにおい、飯を炊くにおい、竈にかかる味噌汁のにおいが漂って、妙に人恋しくなるのだ。
 晩は、母とふたりきりの部屋で寝た。絵本を読んでくれたり、おとぎ話を聞かせてくれるのも楽しかったが、母を独占していることが何より嬉しかった。三人の姉と私をつぎつぎ産んで、またこんど五人目の出産だ。厳しい姑に仕え、浮気な亭主の機嫌をとり、子育てに追われどうしの母にとって、やはり実家はどこよりも心やすまる処だったのだろう。幼な心にも、それは何となく伝わり、それも嬉しいことのひとつだった。
 考えてみると、私は母の二十八歳の正月の子だから、このとき母は三十二歳だったのだ。
 高等女学校を卒業した地主の娘の母と、先祖はともかく、零落した母ひとり子ひとりの、小学校しか了えていない父と、なぜ一緒になったのだろうか。
 父は、一介の左官職だった。
 三歳の秋親父を喪い、十五歳の春、百姓に見切りをつけて、福井の山奥から祖母と大阪に出てきた父は、先ずは手に職を……と、左官の親方のもとに住込みの弟子入をした。弟子の期間中は、ほんの小遣い銭ていどだから、年期があける五年間、祖母は裏長屋に独り住んで、縫い物や洗い張りの賃仕事に精をだして自らの糊口をしのいだ。
 父は、なかなか機転が利き、器用だったらしい。重宝がられて親方に引き留められたが、残る一年のお礼奉公を通いで済ますと、修業のためと称して、他の親方のところに移った。それが、母の七つ上の次兄である谷村才蔵だった。
 谷村組は、大阪でも名の通った左官業者で、主に船場の高級な居宅や店や土蔵などの塗りごめ物を手がけていた。
 なぜ、地主の息子が左官をしているかというと、播州では、かならずしも人に軽んじられる職業ではなかったからだ。代々、谷村の分家は、姫路城出入りの左官の棟梁だった。塗りごめ技術の高度に発達した土地柄で、周辺の農家まで、漆喰仕上げの立派な外装を施していた。
 長兄の定之助は、田畑は小作人に任せて、財を背景に大阪で金貸しをしていたが、才蔵は次男ということもあって分家に左官見習いに出された。一人前になったが、田舎では仕事に限りがあるので、左官の伯父を頼って大阪に出た。その伯父の地盤を引き継ぐかたちで船場・島之内の老舗の塗ごめ店舗をはじめ、その関連の別荘や、数寄屋普請などの左官工事で名を売って、大勢の職人を抱えるようになった。職人の多くは播州出身だった。
 ここで父は、さらに腕に磨きをかけ、金筋の播州職人のなかで頭角をあらわしていった。
 谷村組は、内弟子だけでも十七、八人もいて、その食事や弁当詰めの世話だけでも大変だった。女中もいたが、それを指図していた身重の嫂の応援にやってきたのが、まだ嫁入りまえの母であった。
 こうして、父と母は知り合ったのだが、母は、父のどこに惹かれたのか。
 若い頃の父が写真館で撮ったプリントを見ると、三揃えの背広に蝶ネクタイをしめて中折れ帽をかぶり、伊達メガネをかけている。ご丁寧にステッキまでついて、いかにも瀟洒な構えだ。いまの私から見るとただにやけて鼻持ちならないが、そんな気障っぽさが当時のダンディズムに則ったモダンボーイの姿だったのだろう。
 親方の才蔵は、父と母の仲を快く思わなかった。
 十人前の容色と教養をそなえた母なら、郷里のいかなる資産家のもとにも嫁げたし、じじつ、得意先の船場の旦那衆からも仲人口があったらしい。


 母の持参金には条件が付いていた。それは、株や相場にいっさい手を出さず、立地条件を弁えた不動産にしておくこと。
 独立した父は、市周辺の閑静地に、いまでいう高級建売住宅のような一戸建を建てていった。当初、才蔵から暖簾分けのかたちで、得意先の一部をしぶしぶ譲ってもらっていたが、その仕事をこなしながら、貸家の左官仕事だけでもけっこう忙しく職人の数も増えた。
 おなじ東成区の深江の居宅が完成したのは、私の小学校入学まえだった。
 深江町は、私の生まれた中本町からおよそ五キロ東の新興地で碁盤目に区画され、近くにはすでに市場も銭湯も歯医者も内科医院も在って一応の町の体裁が整っていた。
 父は、たまたま空いていた十区画ほどの土地に目をつけ、そこに自分の居宅と倉庫と七軒の貸家を建てた。ワンブロックとでもいうか、その敷地は東西南北、道路に囲まれていたから好きなように設計できたのだ。
 そのころ深江小学校はまだ出来ていなくて、私は一年生から三年生まで神路小学校に通った。学校の前の道を明治天皇がお通りになったから「神路」と称されるようになったときくが、子供の足ではけっこう遠かった。
 新築の家は、何もかも新しくて気持がよかったが、真夜中ミシミシ音が鳴った。恐がってもしがみつく誰もいない。母の布団のなかには、今年生まれたばかりの二番目の弟が寝ていた。すぐ下の弟は祖母と寝ている。枕を抱いて父の部屋へ行くと、
「あれは、木がもどる音や。心配せんでもええ」といった。
 物音というと、私は、馬のいななきと、その馬の尻を材木で殴る音が忘れられない。
 東北の向こう角に「玄武」という材木屋が在った。宵に荷積みをした馬車を朝早く出すのだが、地面が荒れて馬が足掻く。それを苛立った親方が責めるのだ。
「おうりゃ。どうした、このガキ」
 材木のかなり大きい切り落としで、馬の尻を殴りつける。馬はたてがみを振り乱して気張るのだが、思うようにはならない。
「さ、どうした。こん畜生」と、また殴りつける。
 馬の尻から血が流れている。それを見た祖母は、
「ああ、もつけないのう」といった。大野弁で「かわいそう」という意だった。
 豆腐を売り歩くラッパの音が聞こえる早朝、材木屋の方角から嘶きがきこえてくる。怒鳴る声につづいて、ばしっ、ばしっと、鳴る音。私は床のなかで首をちぢめて、
「ああ、もつけないなあ」とつぶやく。
 いちど、見かねた祖母が、「もうすこし、馬を可愛がって大事にあつかうわけにはいかんのですか。玄武さん」と、声をかけたことがあった。
「何を! わいの馬をどうしようと他人のお節介はうけんわい」と親方は怒鳴り返した。
 その四角い赤ら顔を見て、私は絵本にのっている赤鬼そっくりだと、後ずさりして祖母のエプロンの袖に隠れた。
 そのやりとりのあいだ、しばしの休養を与えられた馬が、訴えるような悲しい眼つきで祖母のほうを見た。馬のおおきい眼からは心なしか涙がでているように私には見えた。
 馬の哀しい悲鳴は、それから半年、親方に召集令状くるまでつづいた。
 ――余談だが、戦後も七、八年経った谷町の上がり坂の途中で、エンコしている長尺ボディーの三輪トラックを見かけた。荷台に材木を満載している。紺色の横腹に「玄武材木店」と白いペンキで書かれていた。運転手は何回もキックするのだが、なかなかエンジンが掛からない。業をにやした運転手が、ぶつぶついいながら降りてくると、材木を転がす梃子棒を荷台とキャビンの間から取り出し、
「おうりゃ。こいつ」と、車の後部を殴りはじめた。現在のように車の性能のいい時代ではない。ここかしこで見かける風景であった。しかし、舌打ちしながらエンジンカバーを拳で叩いたり、タイヤを蹴ったりすることはあっても、車の尻を殴るとは……。ひょいと見ると、その運転手は、赤い四角い顔の玄武の親方だった。

 明治の後半、まだ日本には牛肉を食べる習慣は、とくに農村ではなかったが、祖母は小娘のとき、眼のまえで、屠殺場から逃げてきた牛が、追いかけてきた屠殺人に鉞で眉間を一撃されたのを見て気絶してから以後、後年、ステーキやすき焼きが一般的になっても、牛肉はおろか、いっさいの四つ足の獣肉は口にしなくなった。
 たいへんな信仰家で、絶えず「なむあみだぶつ。ああ、ありがたや、ありがたや。なむあみだぶつ」と、唱えていた。
 二十二歳のとき、二十五歳の連れ合いを、餅食い競争が因で亡くし、それから女手ひとつで息子を育ててきた祖母は、ひとしお世の無常を感じとっていたのかも知れない。自分は節約できるだけ節約して、貯まった小遣いをいそいそお寺に寄付をし、それが亡くなった亭主の唯一の功徳になるのだと思いこんでいた。金まわりのよくなってきた父が、
「もうちょっとマシな格好をしいな」と渡す金は、
「ああ、ありがたや、ありがたや。なむあみだぶつ」と、押しいただいて、それはそのまま、お寺の寄進になるのだった。
 私は、こんな祖母から「地獄・極楽」を教えられ、「もったいない」を、徹底的に叩きこまれた。食卓の下にご飯のひと粒でも落とし、それを拾って食べないと、
「ああ、もったいない、もったいない。八十八の手間ひまかけた菩薩さんを粗末にして、罰が当たるんやぞえ……」
 私は、いまでも外食のさい、自分の注文した食べ物は残さずに食べる。戦中戦後の未曾有の食糧難の経験もさることながら、この祖母の教えが身に沁み込んでいるのだ。疎開して、祖母が田んぼの落ち穂ひろいをしているところを見たことがあるが、夕暮れの田の切り株をまさぐって、手元が見えなくなっても、それこそ、宝石でも捜しているかのような祖母の真剣な姿は忘れない。
 母には、箸の持ち方と、姿勢を矯正された。ヘンな持ち方をしていると、すかさず物差しがびしっときた。背中を丸めて食事をしていると、首から板が差し込まれる。
 こんなに仕込まれたのに、私の生涯における恨みは、ガニ股になったことである。これは父にも共通しているスタイルだが、赤ん坊時代、朝から晩まで「うずめ」といって、内外に何重も油紙を貼った唐丸状の籠の中に、胡座をかいた格好で入れられていた後遺症である。底に藁が厚く敷き詰められいて、躯の保持に周囲を布切や毛布で囲った、いわば越前大野の貧農の揺りかごが、私のO脚を形成したのだ。襁褓から洩れたおしっこは、藁が吸収してくれる。泣けば「うずめ」の端につけた紐を二、三度引っ張ってあやせばよい。あまり泣きやまなければ襁褓の替えどきである。
 こんな横着な揺りかごを進言したのは、祖母にちがいなかった。そうして、暇をつくって、祖母と母はせっせと内職に励んでいたのだ。
 母がいま健在なら、そのときのことを何というだろうか。きっと、「うずめ」には不賛成であった、内職する必要もなかったが、仕方なしに祖母にしたがった、というにちがいない。したがいすぎて病気になったとも。
 ふしぎと、姉三人はO脚になっていない。弟二人もそうだ。すると、これは父のわるいところを私ひとりだけ受け継いだのか。いや、長男の私がいちばん長いこと「うずめ」に入っていたような気がする。

 深江の家に転宅して、十日も経たないうちに、近所の子供とあそぶようになった。年下の鼻たれ小僧は二、三人で、あとは年上ばかりだった。その中の高谷数男という団子鼻をした高等小学校一年生が、ガキ大将だった。彼は部下を集めていう。
「わからんことがあったら、なんでもおれにきいてみィ」
 私に日頃悩んでいたことがあった。――産まれた、産まれたというが、自分はいったい母のどこから産まれてきたのだろうか……。そのことに就いて母にいちど訊ねたことがある。母の答えは、
「そうねえ。ユキちゃんは、播州の、ほら、庭に大きな楠木があっとうやろ。あの上から四番目の枝の付け根から神様に授かっとうよ」だった。
 それからの私は、奈落に突き落とされた思いに悩んだ。
(ぼくは、母の子ではないんだ。木の股から産まれたんだ)
 母は、そのときもう、肺結核に冒されていたのだ。六人目の子供を生んでから、目に見えて痩せていった。祖母の浄土真宗に対して、母の精神の拠りどころは〈成長の家〉だった。よく仏壇に向かって、『生命の実相』とかいう難しい本を黙読していた。
 そんな母の背中を見つめながら、私は慟哭に耐えていた。
(僕は、この母のほんとうの子ではないんや)
 懐疑は、姉弟におよばなかった。ひたすら自分のことのみ考えていた。私はわっと母の背にすがりついて叫んだ。
「ぼくは、おかあちゃんの子とちがうねんな」
「何いっとうや。この子は。ちゃんとおかあさんの子なんよ」
 振り返って母は怪訝な表情で私を見て、
「あんまり、近寄ったらあかん。あっちへ行っとう。おかあさんは病気やよってにな」
 距離をおいて優しく私の両手を握った。
「だって。だって……」
 私は、その両手を振って泣き喚いた。つーんと涙腺から鼻にかけて甘酢っぽい涙の味がはしった。
 私の問いに、ガキ大将は
「アホか、おまえ。木の股からやなんて、何いうてんねん。ちょっとこっちへ寄れ」
 五、六人の丸坊主が輪を縮めた。大将は声をひくめて、
「〇〇〇からにきまっているやんか」
「そしたら、何で、そこから出てくるんや」と、三年生がいった。
「そらあ、おまえ。〇〇〇するからやんけ。天皇陛下だって、やってんねんぞ」
 ガキ大将は、得意げに小鼻をひくつかせる。
「アホな。天皇陛下はべつや」と、五年生がいった。
「アホなんは、おまえや。〇〇〇せえへんかったら、どうして子供できんねや。それこそ、こいつのいうように木の股からうまれるんかいな」
 私は、いっぺんに明るくなった。

 それは若葉の季節だったか、六畳間ほどある物干台の簀板の上で、母がうららかな陽射しを浴びて昼寝をしていた。天気の良い日には、母は日課のように「からだにいいから」と時間をつくって日光浴を心がけている。
 私はぐるりを見まわした。
 北の借家は二階建ちだが、背中合わせになっていて物干台からは死角になっている。西も南も平屋。通りをはさんだ東は、春日教会とよばれる新興宗教か何かの建物で、行事でもないかぎりひっそりしていた。いわば、深江の家の物干台は展望台のようなものだった。
 母はよく眠っていた。私は、そっと母の着物の裾をめくった。小麦色の脹ら脛があらわれ、そこで様子を窺うが、母は微動だにしない。私はだんだん大胆になって尚も裾をあげていくと、母は、風呂あがりにちらっと見たことがある姉のような白いものは穿いていなくて、いきなり針山の中身さながらの物体があらわれた。いちど、祖母が針山の材料に、頭髪の梳き毛を丸めているのを見て質問をしたら、「髪の毛を入れた山に針を刺しとくとな、脂気で針の滑りがようなるんじゃわいな。錆へんしのう」といった塊を連想したのだが、それともちがう、黒い茂みの密集したなだらかな丘だった。これが、私をあれほど悩ましつづけた、私の出所の根元だったのである。
 上級生たちが秘密めかして、
「〇〇コ」あるいは「〇〇〇コ」といっていたが、なぜ、三文字と四文字とがあって、どうちがうのかと不審に思っていたわけが、これで分かった気になった。
「〇〇コ」は平坦で「〇〇〇コ」は、お饅頭を形容するリアルな表現だったのである。また「コ」は女の子の「コ」ではないかと私は勝手に納得した。しかし、そうなると次のばあいはどうなるのか。
「登美子。よう、〇ソソ洗いなさいや」
「やらしィわ、おばあちゃん。そんないいかたして」
 風呂場の磨りガラス越しに聞こえた、三つ違いの姉と祖母との会話で、新たないい方があるのに私は戸惑うのだ。
 そんな私の観察もつかの間、母は「ふーっ」と息を吐いて、「もういいでしょう」とでもいうように、着物の裾をぱっと直すとくるりと向こう側へ寝返りをうった。
 見つかったか、と私は動転したが、そうでもなさそうで、夕食のときの母の私に対する態度は普段どおりだった。

 冬になると、ガキ大将は手下に命じて薪集めをさす。薪の宝庫は玄武の材木屋の小屋あたりである。材木の木っ端や皮のへぎを拾う。焚付けはゴミ箱の新聞紙だった。それを各自すこし離れた空き地に持ち寄ってトント(焚き火)を囲む。そんな放課後のある日、近所のおばさんが、
「おお、寒い、寒い。ちょっとトントにあたらしてね」と輪のなかに加わった。おばさんといっても二十五、六ぐらいではなかったか。小学生にとって十九、はたち以上はもうおねえさんではない。悪童どもは瞬時しゅんと白けたが、すぐ他愛のない話にもどる。
 と、おばさんの足袋の踝の上あたりに赤い筋がついている。
「あっ、ケガしてる」と、私が指さして叫んだ。
 皆が一斉にそちらを見る。おばさんの着物の裾から赤い液体が白い足首にかけて伝わっていた。皆の視線におばさんは、自分の足許に眼をおとし、
「あれ、まあ……」といったかと思うと、くるりと向きを変えて自宅のほうに歩いて行った。怪我をしている割には痛そうなふうでもない。その後ろ姿を見送って大将がいった。「アホか、おまえは。あれはな月経ちゅうもんや」
「ゲッケイ?」
 私は、ぽかんと口をあけた。
「おんなに、月いっかいあるやつや」
「へえー」
 私は、そのニキビ面の物知り博士の得意満面の丸い顔を畏敬の念をこめて見あげた。


(3)

 長男だから、初めての男の子だから……と、大事にはされたが「蝶や花よ」と育てられたおぼえはない。これは極端な質素を旨とした祖母の生き方が、母に及ぼした影響によるものか、あるいは、母本来の躾の厳しさか。私には、豊富に小遣いを与えられて、好きな物をなんでも買えたという経験がないのである。ある本が欲しくて欲しくて、父にせがめば、答えはきまっていた。「おかあちゃんにいわんかいな」と。その母がダメなのである。ダメだと分ると、胸に恨みが残った。食べ物でも、そうだった。
 夏になって、父に浜寺の海水浴場に連れてもらって帰るさ、南海電車終点の、高島屋百貨店の大食堂で食べさせてもらったカレーライスが、大変なご馳走だったのだから。
 ただし、病気のときだけは別であった。
 小学校三年生の冬、二階の踊り場から階段を転げ落ちて、左腕骨折、胸部打撲で半月ほど寝込んだことがある。腕は肘の部分をギブスで固定され、胸の打撲は肋膜になるおそれがあるというので、大事にされた。バナナ、カステラ、鯛の煮付け、ゆで卵。日頃口にすることのできない旨い食べ物が私に供された。それは嬉しかったが、左手を首から包帯で吊り、胸の痛みに耐える代償かと思うと情けなかった。すぐ下の弟が、
「ぼくにも、ほしい」と指をさす。
「アホか。ほしかったら、おまえもケガせい」と噛みつき、「アア、タタ。アア、タタ、タ……」わざと大げさに腕をさする。
 胸部打撲は、肋膜の危険性をはらんだまま、やがて痛みは去ったが、回復の日数がかかったのは、腕のほうであった。ギブスが除れたあと、いまで謂うところのリハビリテーションに通うのだが、接骨医が無理に曲げたり伸ばしたりする屈伸運動の痛いこと、痛いこと。
 最初の二、三回は祖母が付き添ったが、あとは私が治療費を持って独りで通うことになった。
 痛いおもいをするわりには腕はなかなか恢復しない。良くならないのに何でいまからまた痛い目に遭いにいかなければならないかと思えば足がにぶり、ある日、ふと気がつくと私は医院の前から回れ右をして、なにくわぬ顔で、「ただいまァ。お医者さんにいってきたよ」と母に告げていた。
 これが、私が生まれて初めてついた「ウソ」だった。
 困ったことに、治療費がそのまま残った。金を返せば医院に行かなかったことがバレル。私は、ポケットのなかで握りしめて汗ばんだそれを、自分の小さな蝦蟇口のなかに忍び込ませた。
 これが、私の「ドロボウ」の始まりであった。
 三日に一回のわりでそれが続くと。九日目には『タンクタンクロウ』や『のらくろ』や『冒険ダン吉』などの連続漫画のどれかが一冊買えた。丈夫な布貼りの装幀で、たしか一冊一円二十銭くらいだったか。
 当時も、それからも、母に一冊の本を買ってもらえるのは容易なことではなかった。少年講談の『孫悟空』が欲しければひと月間、いっさいの口答えを封じ込められた。母にも祖母にも、その一ヵ月間、従順であったご褒美として、一円五十銭の本が一冊与えられるのだ。その間、一度でも反語対(祖母は口答えの事をこういっていた)をすれば振り出しにもどるのだった。母のいう口答えと、祖母のいう反語対の共同戦線のはざまで、小学生の私は渇仰の日々をおくった。
 三人の姉も、そう簡単に本は与えられなかったが、私ほど読書は好きでなかったし、適当に友だちから借りて読んでいたあんばいだった。その、いちばん下の登美子姉が、たしか、『アーサー王騎士物語』とかいう少年向きの本を、級友の兄さんからもらってきて、私に見せびらかしたことがある。私はそれに飛びつき、
「読んだら貸してくれ」と懇願した。
 姉は、勿体つけて、
「わたしのいいつけを守ったら……」と母みたいなことをいい、結局は、誰それに貸してあげたから返ってからね、とか何とかいって、しまいには、階段の下の押入の棚にたしか置いといたはずやけど、おかしいな、などと焦らすのだ。
「どこや、どの棚や……」私は懸命にその押入を捜す。見つからない。もう一回隅ずみまでひっくりかえしてみる。が、無い。
 その後、諦めきれずに私は、姉の記憶ちがいかもしれないと、家中の別の押入を何回捜したことか。その虚しい努力は、あしかけ二た月つづいた、と思う。
 本、一冊でもそんなふうだったから、他のものは推して知るべしで、たとえば、小学四年のとき、級友の田中という鏡屋の息子が本革のピカピカの編み上げ靴をはいているのを見て、欲しくてたまらず……それには三ヵ月の絶対服従だった。
 やっと満願の日がきて、手にした編上靴は、編上靴でも、百姓が野良仕事にはくような黒のズック製で、爪先と踵の部分にゴムが張り付けてあるやつだった。「ズック製」の怨念はまだまだあって、二ヵ月のドッジボール、二ヵ月半のグローブもそれで、皮革独特のにおいは、とうとう嗅がされずじまいだった。
 本といえば、深江小学校が完成した四年生の新学期から同級で仲良くなった岡崎八郎という友達は、製薬会社の一人息子で、彼の部屋には、まさに垂涎の書が本棚狭しと並んでいた。私は、彼にこびへつらい、何冊かの本を借り出すことに成功したが、ある日彼から、
「ぼくからばかし借りていかんと、きみも交換に何か本を貸してくれや」といわれた。
 私の持っている本は、すでに彼が持っていて、私には彼に貸す本がない。
 原田はメッキ屋の次男で、兄貴が吉川英治の『宮本武蔵』を読んでいた。紫色の和紙の装幀で〈地の巻〉から借りて、次は〈水の巻〉だった。〈火の巻〉〈風の巻〉とすすんで、〈空の巻〉で尽きてしまった。本屋の店頭には〈二天の巻〉〈円明の巻〉の広告がでている。待ち遠しさに原田を急かすと、
「そんなに読みたいんやったら、自分で買うて読んだらどないやねん。兄貴もまだ読んでへん本、貸せるかいな」
 深江書店という本屋が、家から南へ五、六百メートル行った新道筋に在った。私はそこで『宮本武蔵』の〈二天の巻〉の立ち読みをはじめた。すると、奥から手ばたきを持った店のおやじがやってきて、わざとらしくその辺をはたく。ほんとうは蝿のように私を叩きたかったのだろう。
 それでも、執拗に立ち読みをつづける私を、メガネ越しの上目づかいでジロリと睨む。さすがの私も、本のページを追いながら、横目でおやじの顔色を窺う卑屈な行為には長時間耐えきれず、しおしおと店を出て行かなくてはならなかった。
 そのうち、私はいいことを思いついた。少々遠いが隣町まで行って、そこで嫌がられるまで、先ほどの続きを読む。そしてまた別の店へ。まるで回遊魚のようにいくつもの店を転々として、とうとう一冊分を読んだ。しかし、そんな読書法には限界があった。
 私は要注意人物だった。私が万引きをしなかったのは、ひとえに店番の厳しい監視下におかれていたからで、隙があったらしていたかもしれない。
 そのかわり、母の財布から金をくすねた。
 おおくは、水屋の抽出に入れてあったから盗みやすかったのだが、鰐皮の財布には小銭を混ぜて多いときも少ないときもあった。私は悪知恵をはたらかせて、少ないときには少なく、多いときには多くちょろまかした。
 十円札や五円札には手をつけなかった。もっぱら、一銭、五銭、十銭で、最高は五十銭玉だった。倹約家の母が金銭の管理に杜撰とは思われなかった。したがって、一回の盗みは、せいぜい二、三十銭にかぎられていて、焦れったいことだが、一冊の本を買えるまでそれを貯金しておかなくてはならなかった。
 しかし、それも永くはつづかなかった。ある日、母が卓袱台の家計簿をひらいて頬づえをつき、しきりに考えこんでいる姿を目撃して、私は観念した。
 母の財布がダメなら……と、私の標的は父のそれに移った。父は財布をいつも腹巻きのなかに入れていた。財布の重みで腹巻きが垂れている。チャンスは父が風呂に入っているときしかなかった。私は、初めてここで一円札を抜いた。思うにその頃の父はひと晩で私の子供本など何十冊も買える金を、キタの新地やミナミの待合いで散じていたのだ。様子を窺っても、父はけろりとしていた。味をしめて今度は五円札を盗った。もちろん、硬貨も。
 私は、その金で好きな本を買い、貪り読んだ。読んだ本を古本屋に持っていって売ることも知っていたが、私には多分その頃から蒐集癖があったのだろう。見つからないように、すべて押入の奥深く隠した。もう岡崎に、劣等感を秘して本を借りる必要がない。本の交換もしなくてもよい。この本は自分専用の本であって、他人の垢はつけたくない、という異常な独占欲に凝りかたまっていた。
 読む本が増えると勉強どころではない。もともと勉強は嫌いであった。成績が良かったのは、図画と手工と綴方ぐらいなもので、体操はいささかできたが、算術と修身は最低だった。綴方と図画はいつも教室に貼りだされた。
 近所に、助産院の息子で薄髭の生えた中学五年生が、私の描いた、岬の灯台の岩礁に波が打ち上げている絵を見て、
「上手い」と感心し、「しやけど、もうちょっと、波の飛沫を動きあるものにしたら、最高やで」と助言してくれた。
 私は、それからというものは、読書以外に、波を工夫した灯台の絵ばかりを描いた。
 手工は、課題以外は趣味の模型軍艦だった。巡洋艦〈那智・愛宕〉は、少年倶楽部の「工作部門」の優秀賞をとって、五円の国債をもらった。
 綴方は、冬、雪だるまを作って、すぐ融けたのを題材にし、「ショウカイセキ(蒋介石)も、ソウビレイ(宋美齢)も、この雪だるまのとけるように、早くとけてしまったらいいなあと思いました」と、締めくくったのを、四年生を一年間だけ担当した、いかつい坊主頭の八野先生に褒められて有頂天になった。支那事変たけなわの頃である。
 八野先生は、こわい先生で、殴る蹴るはふつうだった。
 田村という児童が、宿題を忘れてきて、いろんないい訳をするのに業を煮やし、彼の両耳を持って吊るし上げて振り回したのには驚いた。
 鹿野という児童が、糊の代わりに墨汁で紙を貼り合わせたのを見つけて、
「なるほど、墨にはニカワ分があって紙はくっつくやろ。しかし、墨を糊がわりに使うなんて横着にもほどがある」
 床を弁慶のように踏みならして怒った。
 八野先生は、四年の終わりに召集された。
 あとにも先にも、私が緊張して少しは勉強するようになったのは、この先生の担任の間だけであり。征ってしまってからは、まるで気のぬけたように勉強をしなくなった。それどころか、いまでいう登校拒否みたいに、ずる休みをするようになった。
 五年になると、竹島好夫という、ふさふさした髪を七三に分けた、面長で色白の先生にかわった。この先生は優しかった。怒っても、コツンと殴る真似をするだけで全然痛くはなかった。
 当時、女先生は全校で三人だけだった。四、五、六年と男女組が三クラスあって、女先生は、その担当だった。
 その男女組に伊丹奈津子という愛くるしい女の子がいて、体操の時間など、黒いブルーマーから、すらりと伸びた透きとおるような白い脚に私は見とれ、なぜ自分は男女組に編入されなかったのか、と嘆いた。
 ずる休みの方法もいろいろあった。登校直前になって、腹痛を起こしたり、登校しても、頭が痛いと早退したり、前日から仮病をつかったりして寝込むのである。
 そして、本を読む。
 そんな日が二、三日つづくと祖母は私をひっぱって、川田医院へ連れていこうとする。診察されればバレルので、頭もあげられぬ重態をよそおって、うんうん唸っていると、川田先生が往診にやってきた。胸に聴診器を当て、肋骨を打診し、瞼を開き、舌を見、体温を測って、首をかしげた。
「おかしいな。もう肋膜の気はないし、熱はないし……しいていえば、下腹がすこし固いぐらいで、まあ、今晩はお粥にして、胃腸の薬をのんで、ひと晩寝たら治るでしょう。あとで取りにきてください。それより、おかあさんのほうは、どうですか」
「はい。政子は、やはり、あいかわらずで……」
 祖母は眼を伏せる。
「うん、そうですか。あの病気には何より静養と栄養が薬ですからな。ま、ついでですから、ちょっと診ていきましょう」
「はい。ありがとうございます」
 祖母は畳に両手をついて深ぶかと頭をさげた。
 母は、二階の一室に籠もりがちだった。子供たちは入室を禁じられていた。
 私たち六人の兄弟姉妹は、この一年のちに母を喪うことになるのだが、現在の癌にひとしい不治の病といわれた肺病で、伝染を懼れて子供たちにも碌に会えぬ母の日々の思いは、どんなであったろう。


 歴史に「もし、あのときに……」という仮定を当てれば際限がない。それが可能なら、歴史では無くなるからだ。有るのは、その過程における厳然たる事実のみである。
 それなのに私は、歩きながらも未練がましく、
 ――もし自分に、あのとき盗癖が生じなかったなら。もし、そのため勉強をおろそかにしなかったなら。もし、母が早く亡くならなかったなら。もし、父が二束三文で大阪の不動産を売らなかったなら。もし……と、際限もなく胸のなかで呟くのである。

 ずる休みも、口実がつかなくなってくると、私は、学校へ行くふりをして、学校とは正反対の東の方角に歩いて行った。いっとき、校区がちがう他校の児童とまじるが、それもやがて疎らになり、なおも歩くと、私ひとりになる。登校時間をすぎた、ランドセルに小倉の半ズボンの児童服姿は目立つ。行き交う人びとが皆、怪訝な目で見ているような気がしてならない。疚しさに、さも忘れ物を取りに帰るふうを装って、小走りに歩く。
 私は、向きを東から北に転じた。町をはずれると、思いもかけぬ、播州平野のような広びろとした田園風景が展けた。一面の稲田である。右に生駒の連峰、左に低い町並み、北はかなり遠くまで人家は無い。田や畑のひろがりの中に切妻の小さな建物が点在している。野良仕事の農機具や器材を一時ほりこんで置くバラック建ての小屋だった。軒下の架台に稲を干すときに使う竹や丸太が押し込まれていた。
 私は、そのなかの一つに潜り込んだ。なつかしい播州の藁のにおいがした。板切れや筵や荒縄、足踏み式の脱穀機などが雑然と転がっていた。それは母の故郷の周辺農家を思いおこさせ、ついで幼年期、懸命に作った“ぼくのトーチカ”がうかんだ。
 中本町の二階に、納戸と名づけられた四畳半ほどの脇部屋が在った。ふだんは夏冬の替え布団や長持などが置かれていて、つきあたりに明かりとりの小窓が付いていた。私は、その納戸で、他の部屋や押入から集めた、脚のないアイロン台だの段ボールやらを組み合わせて、まるで鳥の巣のような自分の砦を作った。ちょっと押せば崩れてしまう脆い砦だが、私にとってはトーチカであり、無限の宇宙空間だった。
 さいわい、小屋には、板切れだの細竹の弦だの藁やら油紙などの豊富な“資材”があった。私は巣作りに夢中になった。完成してはじめて激しい空腹を感じた。時計を持たないので時間は正確ではないが、そろそろ下校の時間であることが太陽の位置で知れた。急いで弁当箱をひらいて食べおわると、あとを振りかえり振りかえり、その小屋をあとにした。明日が待ち遠しかった。
 翌日、小屋に行ってみると、昨日、私が設営した砦は健在だった。じつは、あれから小屋の持ち主がやってきて取り払ってしまわないかと、気が気でなかったのだ。私は胸を撫でおろすと、ランドセルから用意の本を取り出して、藁のマットに寝ころび、節穴からスポットライトのように射し込んでくる光にページを当てて読みだした。
 七月の太陽を浴びてむせる稲のにおい。畦の草いきれ。温んだ田の面の泥臭いにおい。頬に触れる藁の豊穣な匂いにくるまれて、私はしあわせだった。そのうち、蛙の鳴き音があちこちで始まった。音は高く低く、いっとき、一斉にぱたりと鳴きやんだかと思うと、次には勢いを盛りかえして、合唱がはじまる。
 節穴のスポットライトは刻々と光を当てる場所を移動させていく。私もそれにつれて躯を動かすのだが、自分の作った塒に、自給自足の生活をおくったロビンソン・クルーソーを偲んでみたり、眼を閉じては『厳窟王』のモンテ・クリスト伯が無実の罪に泣いた牢獄になぞらえたり、また、乞食王子の主人公に自らを擬してみたり、空想はかぎりなく自由で、それは、家庭や学校では味わえなかった夢の環境であった。
 そんな夢心地が三日もつづいたろうか。読み疲れてうとうとしていた私の頭上から大声で、「こらっ! 坊主。そこで何してるんや」と一喝されて腰を抜かした。小屋の主だった。手に研ぎ澄ました鎌を持っている。
「わア……」
 意味をなさない叫び声をあげて、私は本をランドセルに入れるのももどかしく小屋を飛び出して一目散に逃げた。
 帰宅すると、待ち受けていたのは、祖母の厳しい顔であった。
「ユキヨシ。おまえ、いままでどこにいってたんぞいや。さっき先生が、欠席届もでてないし、というて訪ねて来られたばかしや。いったい、何日も……おまえは」
 母親代わりを自任している祖母の声は震えていた。涙が滲んでいる。
 こんどは、夕食まえに帰宅した父の、おっかぶせるような詰問だった。
「金が足らん、足らんとおもてたら、おまえやな。これ、どないしたんや。ええ」
 傍らに、押入に隠してあったはずの夥しい本が山と積まれている。 証拠品を前にして、
「ぼく、知らんでェ」という、いい訳は通らなかった。
 父の胴巻きから十円札を抜いたのがいけなかったのである。当時、十円紙幣は「いのしし」と称ばれ、それ一枚あれば、大人二、三人が料亭でたらふく喰って飲んで、タクシーで帰ってこられる金額だったのだ。一円、五円で味をしめ、調子にのって、十円でも分るまいと思っていた自分が迂闊だった。
 その場で私は、父によって後ろ手に細引で縛りあげられ、裏庭の石の上に据えられた。
 いつもの、へらへらした父ではなかった。
「わしが許すまで、絶対にユキヨシの縄を、解いたらあかんぞ」
 いい放って父は晩酌の膳についた。
 茶の間から賑やかに茶碗に箸がふれあう音が聞こえてくる。
 だんだん空が暗くなってきた。
 私の眼から、涙がとめどなく溢れて出て、鼻腔から頭にかけて塩辛いものが突き抜ける。
 躯じゅうの水分が涙となって出尽くしたのか、昼から何も摂っていない膀胱のせいか、尿意はおぼえなかったが、空腹はその度を超し、縛られた手首の感覚がなくなった。
 姉や弟が、わざと私を見ない神妙な顔つきで廊下を渡っていく。いちばん下の弟だけが、通りすぎるとき、こちらを向いてにゃっと笑ったようだ。私は涙の膜の切れ目からその弟を睨む。
 しだいに夜が更けていく。蚊帳を吊った父の部屋からラジオの浪花節の音が洩れてくる。長く、短く、低く、高く、さびた声は哀調をおびて震え、むせび泣くようだった。
 首のまわりに蚊の羽音がする。頭を振ったり回したり仰け反らしたり俯いたりしてその攻撃を避けようとするが、そのうちの何匹かに刺された。痒くても、どうしようもない。こんどは膝の上に蟻か何かかが這っている。内股にも、もぞもぞ何匹か動いているようだ。いきなり疼痛がはしった。百足ではないか!
「痛い! 痛いよう。虫にかまれた」
 叫んだが、誰もこない。
 ラジオの音も絶え、各部屋の明かりが消えていき、もう深夜の気配だった。
 泣き疲れて、首をうなだれている私の肩を、誰かがゆすった。見ると、母だった。月明かりに白いガーゼのマスクが、後ろにまわって、細引を解こうとするが、粗い麻縄の結び目は強いらしく、なかなか解けない。母はぜいぜい息を切らしながら、
「ほれ、もうちょっとよ」といっては、咳きこむ。
 そこへ、どこで様子を見ていたのか、祖母が庭におりてきて、無言で手伝った。祖母の百姓で鍛えた手にかかると、縄はわけなく解けた。私は手を擦る。その手首を把って母は、「さあ……」と引き立てる。その母を介添えする祖母。
 母の手は温かかったが骨張っていた。
 二階への階段にかかると祖母が先に立ち、母の手をひっぱった。
 私は、母の部屋に座らされて、対かい合った。
「ユキちゃん。おかあさんの眼をみなさい。眼をそらしてはいけません」
 常とは異なる改まった口調であった。
 母は、きッと私を正視して、瞳に力をこめた。
 母の土色の頬は痩け、マスクの両端に隙間があいている。マスクが動いて、
「ユキちゃん……あなたは何をしとうか……それが、どんなにいけないことなんか、もう六年生やから、わかっとうやろ。あるいは、あんたを……そんな手癖のわるい子にしたんは、この、おかあさんにも………責任がないとはいえません。もすこし、欲しがるものを買うてあげたら……よかった……そうまでして、倹約を――」
 ここで、私は「わアーっ」と声をあげて泣いた。
 こんどの涙は、甘酸っぱい涙だった。
「泣いたら、あかん。ユキちゃん、あんたは長男ですよ。お姉ちゃんは、やがて、家を出ます。あんたは、ここの跡取り。大黒柱。ふたりの弟をみてやらなあかんのに、そのひとが、こんな、こんなことでは……おかあさん、死んでも死にきれんやないの」
「そうや。そうや」
 斜めうしろに、祖母が立っていたのを私は忘れていた。振り向くと、祖母の眼に涙があった。さかんに鼻をすすり、
「ほんに、ユキヨシ。おかあさんのいうとおりじゃよ。おまえは、長男やからなあ……」
 いつの間にか、母の赤い眼にも涙が光っていた。

 その母は、翌年の二月十一日の晩、息をひきとった。最期まで、私をはじめ、姉やちいさい弟たちのことを気にかけながら。
 湯潅される母の遺体は、芋茎を干したように萎び、褐色がかっていた。あの物干し台のころの豊かさはどこにもなかった。あのときも、痩せかけていたが、あれが中肉なら、それは、ミイラだった。棺の蓋が覆われ、釘を打つとき祖母はとりすがって泣き、姉たちはしくしくと、弟はわんわん泣いた。私は、歯をくいしばって嗚咽をこらえていた。父はどんな表情だったのか憶えていない。

 そうして、その年の十二月八日未明、日本は真珠湾に奇襲攻撃をかけた。


(4)

 母の説教と死がこたえのか、それからの私は真面目だった。だが、もう遅かった。私は、高等小学校の途しかなかった。唯一の親友といってもいい岡崎は、中学への進学を目指して、共にあそぶ回数は減ってきたし、その他、私がガキ大将のとき苛めてやった級友たちは、高等小学校組を見くだして、素知らぬ顔で受験勉強にいそしんでいた。
 とりつく島もない淋しさに、私は孤立した。

 岡崎は、布施中学に入った。歯科医院の木村は、天王寺中学へ。鏡屋の田中は、高津中学へ。そして私は、西今里尋常高等小学校に――。
 姉弟にしても、すべて、いまの高校ていど以上の教育はうけている。私だけだった。尋常高等小学校は。
 自業自得とはいえ、それからの私は、すべて投げやりになった。おりから日本は緒戦の戦果に酔い、軍国熱は日に日に高まるばかり。学校の教練も厳しさを増していく。
 耐寒訓練として、凍てつく校庭で裸足の朝礼をうけたり、椅子を高くかかげて直立不動を保つ懲罰や、ちょっとした怠慢に対する体罰は日常化していった。

 そんな最中に、父に後妻が来た。背が高く色の白い肉感的な美人といえば美人のうちにはいるのだろうが、片目が不自由で、白濁した目玉がとびだしている出戻りの三十半ばだった。その眼をごまかすためか、女按摩のような濃いサングラスをかけているのだが、どこか白痴的なところがあった。名前を美保といった。
 長女の美保子姉は、「いややわ。わたしの名から、子をとっただけやないの」と、小鼻にしわを寄せ、三女の登美子姉は、「まあーね……」と語尾をにごし、「おとうちゃん、情けないわ」と呟いた。
 すぐ下の四つちがいの次男の薫治は、何を感じたか、この義母が来てまもなく、玄関先で、その義母の腰あたりを両手を伸ばして押しながら、
「でてゆけ。でてゆけ」とわめいた。
 末弟の章雄は、まだ鼻を垂らしている段階ながら、これも「そや、そや」と、囃したてた。
 次女の淑子姉だけが、あっけらかんとして、
「しようがないじゃない。お父さん、まだ若いんだもん」
 平然と顔をパフでたたくのに余念がなかった。
 そして、祖母の口からは、それまで耳にしたことのない嫁いびり的な、姑発言がとびだした。曰く、
「賢かった政子とは、えらいちがいや。まるで玄人みたいで……」
 私は、といえば、やはり、一年たらずで後妻を迎えた父に反感をもっていたが、それより父のあり方に不潔感をいだいた。
 土曜の午後のことだった。物干し台で紙粘土で作った工作の立体地図を乾かそうとして、二階奥の十畳間の襖を開けたとたん「あっ」と義母の声がした。父と同衾していたのだ。慌てて掛け布団をひき寄せる二人。
「なんや、ユキヨシ。何の用あって、こっちへきたんや」
 父のばつの悪さをごまかす声を、私は聞えぬふりをし、さっさと物干し台に進んだ。だって、この部屋を通らなければ物干し台に行けないではないか。
 その生ぐさい光景は、いままで、父が私に見せたことのないものだった。

 またぞろ、私の“ずる休み”がはじまった。
 ずる休みには資金が要る。
 たまたま、長姉の美保子との結婚に熱心な、父方の遠縁にあたる陸軍士官学校出の関東軍の少尉が、姉に逢いに家を訪ねていた。その軍服の内ポケットの財布から十円札を抜いた。三、四枚の十円札の中からだから、発覚は当然のことと思ったが、私には狡い計算があった。銀行に勤めていた長姉はこの少尉を嫌っていた。けっきょくは、それから間もなく結婚して、共に夫の任地である大連に赴いたのだから、嫌っていたのか、たんに羞じらいから「何よ、あんなひと……」といっていたのか判断がつきかねるが、いずれにせよ、紛失金に関しては、内心おかしいと思っても、表面、騒ぎ立てることはないと私は考えた。案の定、義兄は素知らぬ顔で、ただニコニコしていた。
 話は前後するが、この長姉についての思い出の一つとして、次のような場面があった。
 それは、母が亡くなった年の夏休みだったか、家のなかで半透明な長風船を見つけて、次弟とあそんでいた。空気の吹き込み口が異常に大きくて、先端にもうひとつの小さな丸い膨らみがあった。家の前の防火用水槽の水を、持ち重りするほどその中に入れても、破けない丈夫な風船であった。半透明をすかしてボウフラが乱舞している。
「金魚おったら、もっとええのにな。餌もあるし」と、私は持ち上げる。
「しやな」と弟は見あげた。
 そのとき美保子姉が、
「それ、あれとちがうの?」と、首を傾げて近づき、「まあ……それ、こっちにかしなさい」と顔を染めて風船をつかむなり中の水をぶち撒いて、それを抓んで家のなかへ駈けこんだ。風船の水が広がった灰色の敷石の上に、黒いボウフラがのたうちまわっていた。
“酒は、黄桜……”のポスター絵に似ていた長姉は、私より八つ上だから、そのとき十九歳になっていたわけだが、当時の生娘の知識で、すでに、その風船が何に使用される物であるのか知っていたのか。

 長姉の最初のお産のとき、祖母ははるばる満州まで手助けに行った。気丈夫な祖母で、陸軍特別計らいの切符をもっていたとはいえ、大阪から下関、下関から関釜連絡船に乗って釜山、釜山から朝鮮半島を縦断して鴨緑江を渡り、奉天へ、さらに、そこから折り返して遼陽半島南端の大連へ、車中四泊船中一泊乗り継ぎ二泊、併せて七泊八日の旅だった。
 ――大連の星ヶ浦に面して官舎が在った。海は終日、サーフィンにもってこいの波がうち寄せ、陽はきらめいていた。当番の兵隊さんがついて、雑用は全部やってくれた……まあ、わたしぐらいなもんやろ、この年で、あんなとこまで行ったんは……とは、祖母の語り草だが、祖母は一身で母の役もこなしていたのだ。
 中の姉の淑子は、大阪中之島の銀行証券取引所に勤めていた。のちに南京に渡って陸軍偕交社に勤務し、そこで知り合った陸軍大学出の大尉と結婚することになるのだが、大のパン好きで、私はパンの調達係だった。
 すでにパンは、もうどこでもここでも買えなくなっていた。
 新道筋より、さらに少し南へいった所に、生駒山の麓の石切から大阪の中心部へ東西にのびる国道がある。この道を毎晩八時ごろパンを積んだオート三輪が西に向かう。
 悪ガキと共謀して、そのパンを盗むのである。一人がタイミングを見て車の前を横切る。運転手がブレーキをかける隙に別働隊が車のリアバンパーに飛び乗って、荷台の縁に片手をかけ、片手でパンを入れた箱の蓋を開けて中のパンを手掴みする。降りるときは信号待ちの交差点か徐行運転のときだ。
 箱ごと盗むのではないから、数の知れた“戦利品”であった。それを、勿体つけて淑子姉に、一個十五銭で売るのである。
 今日のような交通事情のもとでは不可能なことだが、当時の交通量は少なく、木炭自動車であったから、スピードも出ない。そういう点ではのんびりした時代であった。
 しかし、それもながく続かなかった。やがて、パンを積んだ荷台はシートで覆われ、その上からロープが縦横に掛けられた。
 そうして、私は、私にとって、最初で最後の、他人の家に忍び込んで金品を掠め盗るという行為をはたらいたのである。
 ――背中あわせにうちの借家が並んでいる。家の裏は三尺の路地であった。この迷路のような路地は、便所の汲取り桶の搬出の通路であり、私たちの探偵ごっこの経路でもあった。もぐら叩きのように路地の交差点に相手が首を出すのを待ち構えて物差しでぴしゃっとやる。先に気づいた者の勝ちで、げらげら笑いながら走り回ったものだ。
 さすが高等小学校にあがってからは、そんな遊びから遠ざかっていたが、ある日、模型飛行機の落下地点を捜しにいって、その一軒の裏木戸に隙間があるのを見た。そうっと引くと木戸が開いた。様子を窺うと、留守のようだった。
 私は、それこそ、抜き足、差し足、忍び足で家のなかへ上がり込んで、辺りを物色した。恐るおそる、箪笥の抽出をあけたり、戸棚を探ったりしたが、“戦果”は一銭銅貨二枚と五銭白銅の穴あきが一枚だけだった。尚もきょろきょろ見まわすが金はない。が、四角い広口のガラス容器に砂糖が半分ほど入っているのを見つけた。私は、それを抱えて舐めはじめた。そのとき表戸ががらりと開いて家人が帰ってきた。私は砂糖の瓶を投げ出してすっ飛んだ。縁側から靴下裸足で裏木戸に突進した。玄関から裏庭まで見通しである。家人は、犯人が誰であるか見破ったはずだ。
 見破るも、見破らないもない、私は歴然とした証拠の品を残してきたのである。
 半時間後、そこの家人が、
「これ、家主さんとこの息子さんの靴とちがいますの」
 応対に出たのは祖母であった。隣室で聞き耳たてる私に入ってくるのは、平謝りに謝っている祖母の声と、低い相手のひそひそ声で、しまいに相手のたてた笑い声だった。「まあ、そんなことで、出来心とはおもいますけど、おばあちゃんもたいへんですねえ。お子さんのおかあさんを亡くされて」
 相手を見送る祖母のくぐもった声があり、こちらに戻ってくる祖母の気配で私は奥に逃げた。
 その晩、父の激しい面罵をうけたが、もう縛られはしなかった。
 三日ほどして、学校の担任が訪ねてきて、祖母を交えて長い話し合いがあった。私は、この先生が好きではなかった。「神経」という渾名がついていて、なるほど、眉毛の端がよじれてピンとはねあがり、頬を絶えず痙攣させて、度の強いメガネの奥の眼は、瞬時もまばたきを止めなかった。
 私の知らないうちに、事はすすめられていたのだ。
 そうして、私は、盗癖のある少年ばかり集めて矯正する施設に送られることになったのである。

 その施設は、〈常照園〉といい、大阪市の北郊、服部丘陵のはざまに在った。年齢は十二歳から十八歳までの私設の感化院で、収容人員は増減があるが、ざっと三十人前後。
 保護者が自発的に月謝を払って預けるわけだから、刑事事件になって、少年院送りになったわけではない。したがって、塀もなければ柵もない。脱走は自由であった。しかし、すぐ連れもどされる。家庭が受け入れてくれなければ、戻ってくるよりほかがない。家に帰らず漂泊の逃亡生活をするような、そんな度胸のある少年はいない。みんな甘ったれなのだ。
 私も、その一人だった。不良少年にしては、従順に父や祖母にしたがったものだし、逃げもしなかった。
 少年院ではないのだから、と思い込もうとした。しかし、その内実は、少年院のそれと大差なかったのではないか。
 まず、学課がなかった。有るのは「矯正作業」という、封筒貼りばかりだった。それに、軍事教練と称する体操。
 そのころ拳闘界で有名だったピストン堀口に、顎の張った顔が似ているところから、ピストンの異名をもつ指導員が日本刀をふるって配属将校さながらの号令をかける。姿勢のわるい園生は、刀の峰打ちだ。脅しのためだから、もちろん、加減しているのだろうが、頭の薄皮を破られて、血を出した園生がいた。
 園生の起床は六時。朝食まえの一時間、服部川の堤防の上を駆け足。大人の背丈の十八歳と、まだ小学校六年生の小さい躯が、それに伍して走る、何とも奇妙な集団だった。
 午前八時から正午まで、午後一時から六時まで矯正作業。三日に一度ぐらいの農作業。
 型紙に、端に糊をひいた封筒の素材紙を、手前から折って向こうを折り返す。すると筒状の形ができる。何百枚と纏まったところで、底になる部分に折り目をつけ、糊を塗って伏せこめば終わり……という単純きわまりない作業。
 何かで読んだが、囚人を罰する一番効果的な方法は、底のない桶に、朝から晩まで水を汲ませる作業だそうだ。それと「無為」。そんなことをいえば、すべての単純労働にそれは当てはまるが、すくなくとも報酬がある。私たちには、一銭もない。無為よりマシかも知らないが、朝から晩まで水を汲まされているみたいだった。
 こんな内職的な仕事でも代価は支払われるのだろうから、いったい、その金はどこへ消えていくのか。
 夕食、七時。八時には、ところどころ綿のはみ出た一枚の、鼻汁や躯の脂や垢で黒光りした臭い布団で寝る。ごわごわした布団の裏表の皮がくっついて、ぜんぜん綿のない部分もある。寒さに起きあがって、布団の裂け目から手をつっこんで、ころころになった綿を満遍なく広げる。けれども、いちど寝返りをうてば、また躯の山を峰として、綿は振り分けに荷物のようになってしまう。
 この布団に、蚤が飛び跳ねる。幾日も着替えをしていない下着の縫い目に微小な真珠の虱の卵が鈴なりになって、それを見張るかのように親虱が、うようよ這いずりまわる。千手観音の手足をもった白濁の背に、赤黒い内臓が透けて見える。潰すと、ぶちゅと音をたてて血で染まる。卵は、ぱちん。蚤は、ぷつん……これは、園生の内職であった。半数は疥癬にかかってぼりぼり掻いている。
 ――これが、盗みの罰か矯正か。こんな毎日を送って何の効果があるというのか。これこそ「無為」というものだ。
 ああ、本が読みたい。いや、勉強がしたい。
 この時期ほど、心の底から勉強をしたいと思ったことはなかった。小学四年のときの活発な八野先生の授業が懐かしい。いいや、五年からの竹島先生のときだって勉強をしようと思えばいくらでもできたのだ。高等小学校になってからも、私が望んでいた中学校ではないけれど勉強はそれなりにいくらでも出来る。猛勉強の結果、中途で中学の試験合格も不可能ではない。ところがここでは、勉強どころか、絵を描くにも画用紙一枚ない。墨もなければ半紙もない。教科書もノートも鉛筆一本ない生活である。これが本人の将来に益する矯正施設のあり方か。
 反駁と疑問と渇仰で、惑乱の日がつづく。

 入園してから二ヵ月目くらいかに、歩いて大阪の扇町公園にかかった大相撲を見に行ったことがあった。常照園お仕着せの、外側に太い赤のラインが入った黒の長ズボンが恥ずかしくて、道みち顔をあげられなかった。それは、“娑婆の囚人服”だった。私は、晒し者の屈辱を味わった。
 常照園の付近の農家の人びとの、園生を見る目は警戒の色がみなぎっている。常照園とはいわず、ドロボウ学園と呼んでいた。
 畑荒らしが横行し、それを全部、園生にかぶせたがった。
 畑荒らしも心得ていたのだろう。わざと常照園への道に獲物を落とし、罪をなすりつけた。
 自給自足を唱えて園でも畑を作っていたが、それは小規模で、とても園生の腹を満たすには足りなかった。
 朝食は、うすい粥に汁一杯とタクワンの漬け物が二た切れ。昼食は、麦飯が丼八分目におかずは単品、漬け物少々。夕食は、麦飯に、ごった煮の副食が皿に一ぱいと味噌汁。これ以外の変化のある食べ物といえば、差し入れしかない。差し入れも、替え下着同様の制限があった。特定の園生ばかり差し入れがあると、不公平感を招いて、教育上よろしくないし「懲罰」にならないというのが原則のようだ。
 小部健太郎というのっぽの十七歳の少年がいて、「ええしのぼんぼん」だとの噂だった。定期的に、その姉が訪ねてくる。色白の瓜実顔が和服に似合っていた。園主はともかくピストンは、その姉の差し入れだけは毎日でも歓迎だ、というように相好をくずして迎えた。
「ピストン、小部の姉さんに惚れとるぜ」と年上の園生がいった。小部は私によく、「おまえだけ、特別やぞ」といって、ぼた餅やばら寿司を分けてくれた。
 小部と同年の牧村は、常照園における不気味なガキ大将であった。
 彼と便所当番を組んだとき、わざと肥桶をひっくり返す。
 飛沫がとんで私の顔にかかる。
「ああ汚な……!」と拭う私に、彼はせせら嗤って、
「汚いも何も、おまえもこいたやつ、こんなかに入っとるんやないか」といいながら桶に浮いた塊を人差し指の先ですくい上げ、平然と口の中に入れて食べてしまった。
 唖然とする私に彼は、柄杓で糞尿を掛けようとする。「へ、へ、へ、へえ……」と残忍な声は笑うが、卵形の茶褐色の土偶に似た目は笑っていない。私は、ぞうっとした。
 また、彼には、いちど胃の中に収めた食物を、再び口の中にもどして食べ直すことができるという特技があった。
 それは、七つの胃袋を持つときく牛そのものの機能であった。そうすることによって、もういちど食事の愉悦を味わえるのである。
「どや、おまえもやってみィ。こないするんじゃ」
 牧村が、まるで人間ポンプのように、いったん嚥下して粥状になったやつを、ぐびりと口の中にもどし、大きく口をあけて皆に見せ、咀嚼しては、また、空になった口腔にもどして見せる。もどすときは腹をすぼめて喉頚をアコーデオンのように伸縮させる。粥がほとんど液体にちかくなっても、その反芻は自由自在で、何回も繰り返せるのだ。
 真似て私もやってみたが、なかなかうまくいかない。
 そのうち、何かの拍子にぐびりっと、さっき食べたばかりの食物がこみ上げてきた。味は、飯もおかずも汁も混ぜこじゃの、いわば雑炊のかんじだった。
 牧村のように糞を喰らうのではない、自分が食べた純然たる食物である。雑炊はご馳走であった。病みつきになりそうだった。とても牧村みたいには器用にいかないが、一度かぎりだと諦めていた食事が何回もできるなんて、これは素晴らしことだった。さすが、おおっぴらに人前で口を動かすことはできなかったが。
 しかし、ああ、本当の食べ物が欲しい……。
 私には、小部健太郎のような姉が来ない。長姉は満州に、中の姉は支那大陸に、末の姉は女学校の四年生で、こんな所に来るには若すぎた。小部は姉のおかげで、ピストンから手加減してもらっているあんばいだが、私は、ひたすら祖母の面会を待つばかりであった。
 月に二回と決められた面会日だが、祖母は月に一回しか来なかった。父はとうとう、退園するまでの半年間、一度も訪れたことはなかった。もちろん義母も。
 祖母の差し入れは、決まっておはぎだった。むろん、それは最高で、私は物陰に隠れて小部と食べた。
 牧村が、ひょいと顔を出したことがあった。私はお愛想にも、「これ、食べへんか……」と差し出さなければならなかった。が、彼は「そんなもん、いるけェ」と、顎を突き出して唾を吐きかけてきた。
 食べ盛りの園生はみな飢じい思いをしていた。
「おまえら、近所の畑から、物を盗んだんか。ええ」
 農家からの苦情で弱り果てた指導員が、朝礼のとき居丈高にいった。
「何もしてませんで」と全員、口をとがらせて答える。なかの一人が
「盗みをなおしにきて盗んだら、それこそドロボウ学校や」
 どっと、笑い声がわいた。
「そうや。げんに、そういわれとる」
 傍らに立っていたピストンが苦々しげにいった。
「へえー。そんなら、ほんまにやろか」と、声があった。
 こんどは、誰も笑わなかった。妙にしーんと静まりかえった園庭に、ピストンの怒声がひびきわたった。
「バカ! そんなことをしてみろ。これだぞ」
 軍刀を抜いて、大上段に構えた。

 私には誘いもなかったが、
「どうせ、疑われているんやったら、やってこましたろか」
 と、夜、付近の畑の芋を掘り、大根を抜いて、生かじりする連中が続出した。その先頭に立ったのが牧村だった。
 全員が集められ、自白を強要された。誰も口をつぐんで答えなかった。ピストンは怒り狂って、尻に軍刀の峰打ちを加えた。
 尻の痛さに歯を食いしばって耐えながら、私は、こんな学園……何が矯正学園か――と恨みつづけた。


 のちに分かるが、私の盗癖など、可愛らしいものだったのである。
 小部健太郎は異常だった。彼は、退園すると、もうその日のうちに盗みをはたらく。家の物も他人の物も見境がなかった。
 学校に忍び込んで職員室を荒らす。デパートでは万引きをする。置き引き、掻払いの常習犯で、それを勲章のように自慢する。刑事事件になって少年院送りにならないのが不思議なくらいだ。そうして、入退園を繰り返すこと三回。
 それに比べれば、私なんかおぼこいもんであった。
 弁解するようだが、そうした観点から眺めれば、私は、少し手癖の悪い少年でしかなかったのだ。それなのに、悪質な連中と同じように、こんな所に放り込む祖母の気持が分らなかった。そうして、父の考えも。
 あるいは、父は私が邪魔だったのかもしれない。義母との睦み合いを、じっと物陰から白い目で絶えず観察しているようなこの私が。
 祖母は長男の将来を心配するあまり、こんへんで立ち直ってもらいたいと仏様に縋って、心を鬼にしたのか。それならば、幼さいときに、もっと――。私は、それを配慮しなかった一徹な祖母を恨んだ。
 私は、母をおもった。母が私に洩らした言葉。
「あるいは、あんたを……そんな手癖のわるい子にしたんは、この、おかあさんにも……責任がないとはいえません。もう少し、欲しがるものを買うてあげたら……よかった……そうまでして倹約を――」
 父はそのことに気がついていたのか。潤沢な家賃の揚がりで贅沢三昧。写真に凝り、碁に凝り、謡や踊りに凝って待合あそび。私が一生かかっても読み切れない本代を、ひと月たらずで散財し、おれを折檻した……。
 私は知っている。中本町の頃から父は仕事に身をいれず、急く仕事の職人の手配に、祖母と母は手分けして、深夜の町を頼みに回っていたことを。いまのように猫も杓子も電話をひいている時代ではなかった。連絡には電報か歩くしかなかったのだ。深江に移って、母が病弱になると、こんどは本格的な女あそび。北で「セーさん」、南で「サーさん」――。
 そんな父の放蕩代を、祖母と母は内職に励み、倹約に徹し、子供にろくろく小遣いを与えず、せっせと補っていたのである。
 ――母は、父に殺されたようなものだ。

 この父に対する単純な怒りと不信は、このときから、私の心の襞に大きな亀裂をよび、父との生涯における軋轢の源となった。
 そうして、たといそれが、まったくの教育的善意から出たものであったにせよ、融通の利かなかった祖母に対しても、自分でも恐ろしいくらい、それからの私は冷淡になっていったのである。


(5)

 半年ぶりに我が家に帰った私を迎えたのは、二度目の義母だった。裏の平屋のほうの借家に住んでいる、大阪交通局勤務の店子の妹で、名はミキといい、亡母よりひと回り若い、このとき三十一歳になっていた。
「嫁かず後家」「嫁けず後家」という、茶化した言葉があるが。義母は後者のほうであった。理由は、子供のときの火傷によって左手の手首から先が握った状態に癒着し、親指、人差し指、薬指の三本の第二関節から先しか使えない、といった欠陥があり、背も低く容貌も決していいといえないところにあったようだ。
 しかし祖母は、この嫁を気に入っていた。
「嫁なんて、家の道具や。それにミキは裁縫ができるし」
 能登半島の生まれで、そうした躯のハンデを補う針仕事が義母を支えてきた。不自由な左手ながら三本の指先を懸命に動かして仕立てあげる着物は、上出来だと、祖母は目を細めた。前の女のようにヘンに色っぽい「玄人」めいたところのないのが、何よりだと思ったのだろう。
 その点、新しい義母は対照的で、いかにも土臭かった。それが、姉や弟をして気安く、「おかあちゃん」といえる要素になったのだと思う。前の義母には一切この呼びかけはなかったのだから。
 父は晩酌の盃を左に、右手で赤い顔の顎を撫でながら私の名をよび、
「これこんどのお母ちゃんや。よういうこときいてな。心をいれかえて、な」といった。
(心を入れ替えるべきは、あんたじゃないか)私は胸のなかで毒突いていた。
 もうすこし、家庭をかえりみて、母を大事にしてくれていたら、母の寿命も延びたに相違ない。そうして、私の盗癖も……したがって、勉学……も、こんな卑屈なおもいを抱くにんげんにならなくて済んだかもしれない。
 義母は、私に両手を……丸まった左こぶしの上に右手の掌をのせて、
「ながいあいだ、ごくろうさまでした」といった。
 それは、まるで、刑期を終えたヤクザの親分を迎える子分の口上のようであったが、義母は皮肉をいえる女ではなかった。多分に懼れをいだきつつ、私を労ってくれたのだ。

 その点、高等小学校の担任の「神経」は、私がおずおず教室に入っていった日の一時限目、鼠をいたぶる猫の目で、
「どうや、別荘の居心地はよかったか。ええ、サナダ」
 級友の視線が一斉に私に集まった。
 だが、私は、もう目を伏せなかった。
 ここにも、私を〈常照園〉に送り込んだ共犯者がいたのだ。いや、首謀者ではなかったか。これが、教育者の吐く言辞か。まさか、みんなにいいふらしたりはしていないだろうが、何という無神経なッ……反射的に私は、その神経の顔をぐっと睨みつけやった。
 すると、神経の目が怯んだようだ。私は胸をそらした。神経は顔をそむける。ここで私は、何か、自分の生き方を会得した感じになった。ふてぶてしいといわれればそれまでだが、このふてぶてしさは、前にはないものだった。
 小学校のとき、登校拒否めいた行動をとったが、私は、めそめそした児童ではなかった。苛められるより、苛める側の生意気な児童だったのだ。読書を通じて唯一の親友と許す岡崎は別だが、他の連中は、たいがい、私の“イジメ”の対象だった。とくに、彼らが、進学試験の勉強に没頭するようになってからは、その傾向は強まった。強まった、といっても暴力をふるったわけではない。口先で相手を苛めるだけだ。私は口が達者だった。
 しかし、そうした口先だけのイジメでは、相手に無視されれば、それまで、といった類のものだったから、彼らは私を敬遠して賢く立ち回り、私は置き去りにされたのだ。
 それが、常照園から復学して「神経」を怯ませてから、みょうに自信がつき、口先だけではない喧嘩をするようになった。級友は、知っていたのだろうか、私の別荘生活を。

 昭和も十八年にはいると、大本営発表はいよいよ熱をおび、連戦連勝のわが日本軍は、破竹の勢いで中支に、ビルマに……太平洋上の島々に戦線を拡大していった。街には出征兵士を見送る旗の波が途絶えることなく、歓呼の声は、日本全国津々浦々にこだましていた。
 映画館にかかる看板も『我に続くを信ず』とか『西住戦車部隊長』『加藤隼戦闘隊』等々、戦意高揚企画の真っただ中にあって、とくに私の胸を打ったのは、学校から集団で観にいった『決戦の大空』という「予科練」の映画だった。
 主題歌は〈若鷲の歌〉で、

  若い血潮の予科練の
  七つ釦は桜に錨
  今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ
  でっかい希望の雲がわく

 朝焼けを背景に、歌に合わせて手を大きく振りながら行進する海軍予科練習生の姿に、級友たちも口ぐちに「恰好ええなあ」といいあい、私は感動の溜息をついた。このとき私は、ひそかに、予科練への志願を決めたのだ。
 校内にも、満蒙開拓義勇軍やら予科練のポスターが貼られていた。
 鍬やスコップを担いだ国防色の満蒙開拓義勇軍は、泥臭くて嫌だった。志願するなら、紺色の制服に七つ釦が金色に光り短剣を吊った予科練が、最高だと思った。
 応募資格は、甲種予科練のばあい中学卒業者。乙種予科練は入隊時、高等小学校卒業見込みの、満十四歳以上。
 当然、私は「乙練」だが、七つ釦の制服はかわらないとのことであった。
 私は、予科練の願書を出した。
 志願しなくとも、どうせ残りは、勤労隊に狩りだされて、砲兵工廠の弾磨きか鋳物の掃除だろう。そのどちらかを選ばなくてはならないのであれば、断然、予科練なのだ。
 進学した級友を見返すには、この途しかなかった。頭はいいか知らないが、貧弱な彼らの肉体では望んでも得られぬ七つ釦である。彼らは砲兵工廠へ行けばよい。おれは、予科練……ざまア、見ろ――。

 ――昭和十八年十一月三十日の第一次試験は、区役所の廃油を塗った板の間で、基礎的な身体検査が行なわれた。身長・体重・胸囲・座高・視力・聴力などのほか、握力・跳躍・片手懸垂などの体力テストが主だった。
 第二次試験は、年が改まった昭和十九年一月十五日、呉の大竹海兵団だった。ここでは、更に、肺活量・両、片手懸垂の持続力・腕立て伏せの回数・扁平足の有無、ことに、視力は徹底的に調べられ、実質的には、これで操縦に適しているか否かを秤にかけられるのである。眼筋平衡といって、視線を真正面に向けたままの耳の背後から迫ってくる物体をいち早く察知し、そのほうに挙手する視界の狭広・反応力の遅速を測定するなどの精密な検査が重ねられた。
 学科試験は、歴史と国語、数学と理科だけだった。勉強をしなかったわりに、案外、そう難しくなかった。

 私の「盗癖」は、いつの間にかなくなっていた。やはり、あの常照園の矯正が効いたのか。いや、そうでもなかろう。父や祖母が適当な小遣いを呉れるようになったせいでもあるが、それを決定づけたのは、小部建太郎であった。
 退園して一ヵ月ほど経った日曜日、彼が私を訪ねてきた。三日まえ四回目の退園したばかりだといった。そうして、私を誘い出したのが、彼の住所近くの小学校だった。
 獲物を求めて放課後の教室に忍び込む彼の動作は、大柄なせいか緩慢に見え、まるで自分の家のなかを歩いているように平然としていた。ゆったりとした手つきで先生用の机の抽出を開ける。中を探って何も無いと分かると、ちぇっと舌打ちして隣りの教室へ行く。
 私は共犯の、見張り役的な立場にたたされていたが、旨い獲物があれば直接に手を出してもいいという気持もないでもなかった。しかし、小部建太郎を見ているうちに、だんだん彼がうとましくなってきた。時間が経つにつれて、盗みの現場を見つけられる恐れの焦りよりも、そうした行為自体が、私のうちに生理的な嫌悪をよび、やがて、居たたまらなくなって、「ぼくは、もう帰るでェ」と告げた。
 小部は“病気”なのだ。彼のばあい、いくら小遣銭を与えられても、そうしたスリルが無ければ生きられないのであった。
「なんでやねん。もうちょっと待ちィな」
 こんな面白いことが退屈だなんて信じられん、といった顔つきで、彼は口をあけて私を見送った。唇の端から涎がたれていた。
 その後、彼には会っていないが、彼のそうした“生態”のおかげで、私のうちに、少しでも邪な考えが起きると、ほとんど条件反射的に、もうひとりの私が顔をしかめ、止めとけ、止めとけ……と諌めるようになったのである。

 三月に入って間もなく、待ちに待った合格通知がきた。

  来る昭和十九年六月十四日
  鹿児島海軍航空隊に入隊を命ず
   昭和十九年三月三日
   佐世保鎮守府

 私の高等小学校と、姉の府立女学校の卒業と、次弟の小学校四年、末弟の一年進学を前にした春休み、福井への疎開がはじまった。
 それは「疎開」といういい方に相応しいかどうか。いままで住んでいた家を全部売って、生活の本拠をすべて福井へ移すのだから、父や祖母にとっては「帰郷」であり、私にとっては「転宅」であった。

 ――近年、北陸の小京都といわれる福井県大野市は、昭和二十六年に、周辺の村々が合併して市制がひかれ、人口約五万。当時は二万足らずの町だった。県庁の所在地から南南東へおよそ三三キロ。周辺を、五、六百メートルから千メートル余の山々に囲まれた、盆地のなかの城下町である。盆地の東北から西南にかけて斜めに流れる真名川が、上庄・下庄・西谷・五箇・坂谷、穴馬等の六ヵ村の水を集めて、九頭竜川に注いでいる。
 規模こそちがえ大野は、いうなれば、播州平野の姫路市であり、そのたたずまいは京都のそれであった。さらに、京都に無い伏流水が町のいたる所に湧き出で、なかでも本願清水には、この泉にしか棲めぬ「イトヨ」という天然記念物の魚が泳いでいる。
 町の西を流れる、水量豊かな赤根川を背後にした亀山の頂には、天正四年、金森長近が、城を築いた城跡が残っていて、その麓の、本町と八間の角が、こんど引っ越した私たちの家だった。ちなみに、大野の町は碁盤目は碁盤目だが、地名のつけ方が変わっていて、南北の通りを西から、本町(一番)二番、三番、四番、五番、六番……、そして東西は、南から一間(横町)、二間、三間、四間、五間、六間、七間、八間と……駅に近づくほど数が増えて、これは、なまじ京都のように御所を中心とした「上がりやして、下りやして」より覚えやすかった。

 予科練に入隊するまでの二ヵ月半、私はここで過ごした。何も課せられない、すべてが大目にみられた日々であった。いや、あったはずであった。
 近くの山に登ったり、川で釣り糸をたれたり、このうえない満ち足りた毎日を送っていた。戦場に出て戦死するかもしれないという恐怖と不安はなかった。あるのは、護国の為に凛々しく奉ずる、短剣を吊った、七つ釦に桜に錨の自分の勇姿のみだった。
 ところが、ある日、親戚の農家へあそびにいって、ふと目についた『キング』だか『家の光』かの雑誌のページを読んだ瞬間から、私のまえは真っ暗になった。そこには、

  《心当たりは、ありませんか。恐ろしい癩病の話》
  指の先が、ときどき痺れたり、感覚が無くなつたりした事は
  ありませんか。また虫も這ってゐないのに、何かが這って居
  る感覚を覚えた事はありませんか。もしそんな兆候があれば
  大変です。いま直ぐ当社の薬を服用して下さい。
  必ず、治ります。手遅れにならないうちに、一日も早く!
  簡単な手続きで、絶対に誰にも知られずに薬をお送りします。
  ――秘密厳守。

 私には、ぜんぶ、心当たりがあることばかりではないか。
 常照園の不潔な布団がうかぶ。共有していた蚤の跳梁。もぞもぞと這う虱。肌着の縫い目にびっしり鈴なりになった虱の卵。ぷちぷちとそれを潰す音。唇にかかった糞尿。碌に洗わない食器……いや、それより、先天的に――。
 潜伏期間は、長いので十年、十五年とあるが、例外もあるらしい。
 かたわらに〈獅子面癩〉とあって、写真が載っている。まったく獅子の顔だ。そして、その隣には、崩れて擂り粉木状になった手や、生姜様の足の写真が、これでもか、これでもか……と、私に迫ってくる。
 こんにちのように、レプラ、あるいは、ハンセン氏病などといういい方はなかった。業病、即ライ病で、そのおぞましい呼称は、神経質な私を、地獄に突き落とすに充分だった。私は、坊主頭を掻きむしって煩悶した。
 私は、その薬の販売元である東京神田・神保町に、薬の代金と、予科練の入隊が間近だということ、それまでに何とか治らないものか……といった切々の手紙を書いて送った。
 十日ほどして、小さな薬の包みと同梱の手紙が届いて、

  お国の為のご志願、察するに余りあるものがあります。
  けれども、身体の健康無くしてはご奉公も適ひません。
  まず、これを服用して下さい。あなたはまだ若いのだから
  これから、まだまだ機会があります。
  どうか、気を落とさないで頑張つて下さい。

 癩病の薬は、焦げ茶色の丸薬で、征露丸に似ていた。
 私は、処方箋にしたがって、規則正しく、それを服んだ。
 半月、そして、ひと月、
 だんだん、六月十四日の、入隊日が近づいてくる。


(6)

 一九九四年五月十三日、午後一時すぎ。私は、私のあの少年時代後半のエネルギーを注ぎ尽くした、いや、絞り尽くされた鹿児島海軍航空隊の跡地に立った。
 建築業界の付き合いで、南九州二泊三日旅行の一人として、この地を訪れ、鹿児島市南端の鴨池近くに、大型バスを何十台も呼び込む一万三千坪の《本場大島紬の里》というパピリオンに寄り、そこの一時間半の見学時間を利用して、タクシーをとばしてやって来たのだ。
 鹿児島海軍航空隊の敷地跡全体は、いまや野球場やテニスコートやプール等々を含む陸上競技場をはじめとして、科学舘・公民館・熱帯植物園・鴨池マリンパーク、それに、ジャングルパーク遊園地と称する、メリーゴーランドやジェットコースター……無重力体験のできるフライングステーションや巨大迷路などのアトラクションの娯楽施設がひしめく遊園地になっていた。終戦後ここは、鹿児島市から北東三五キロ地点のシラス台地に現在の新空港ができるまで、鹿児島の空の玄関口になっていたのだ。
 あまりの変わりように私は呆然と立ちつくした。もちろん、木造二階建ての幾十もの兵舎は影もなかった。隣接する第二航空隊の巨大な蒲鉾型の格納庫も――。
 それは、分っていたものの、それでも飛行機に関係があったのだ。私は、憮然とした。
 一角に、かろうじてその名残をとどめた「貴様と俺」のモニュメントが在った。高さおよそ七メートルの大理石に浮き彫りされた飛行服姿の〈予科練昇天〉の姿だった。脇の石碑に、次のような文言が刻まれていた。

  大東亜戦さなかの昭和一八年
  鹿児島海軍航空隊が
  ここに生まれる
  多くの若鷲がこの鴨池に巣立ち
  祖国防衛戦に散った
  戦後二十年友相寄り相語りて
  亡き戦友の霊を慰めるため
  この碑をたてる
   昭和四十一年四月
  鹿児島海軍航空隊在隊者有志

 ただ一つ変わらないのは、あの時も現在も、錦江湾をへだてて、ごつごつした西側の岩肌を見せる桜島の山巓だけだった。一一一七メートルの北岳の頂上付近からうっすらと噴煙が立ち昇っていた。市中には火山灰の堆積が車道の側溝や家の瓦屋根に薄く見られたが、いま噴火は小康状態なのか、細い煙は炭焼き小屋のそれに似て、五月晴れの青い空にのどかに棚引いている。

 いまから五十年前の昭和十九年六月、入隊日の十四日を前にした十一日午前十時、私は出征兵士を送る旗の波に押されて、癩病の特効薬の入手もままならぬここへ、後ろ髪を曳かれる思いでやってきたのだ。
 そう。あれは正に唐突だった。それまでの私に何の自覚症状や予兆があったわけではない。それだけに、あの雑誌の売薬広告……。
 それを見たばっかりに、それこそそのとき私は青天の霹靂に撃たれ、奈落の底に突き墜とされたのだった。いまにして思えば、指の先が痺れる気がするの、虫も這っていないのに這っている感じがする……なんて、ときにおいて誰にでも起こりうる感覚で脅かされ、まんまとインチキ業者の口車にのせられたのである。「癩」という業病のおぞましさから送薬を頼む人間は金輪際口外はすまい。業者が「秘密」を守るより先、本人が秘匿するに決まっているのを見越しての、狡猾極まりないペテン商法。
 じっさい、私は、何らかの事由をつけて、予科練入隊を拒もうかと幾度おもったかもしれない。だが、そんなことは、いきなり重病人にでもならなければ不可能だし、だいいち、級友を見返してやるという初期の目的にも悖る。
 悶々の果てにゆきついたのは、予科練=特攻隊=死……という図式であった。
 ――発病前に自分は死ぬ……何が癩病だ。自分は清い身体のまま死ねるのだ。
 こう考えたとき、悟りのようなものが開けた気がした。
 が、予科練とて、死ぬとはかぎらないではないか、もし生き残れば……などと心は千々に乱れるばかり。
 そんな私を押しだしたのが旗の波だった。
 あらかじめその当日用に準備してあった町内会の、私の名前を書いた幟や日の丸の旗の数かずは、私に嫌も応もいわせなかった。午前九時、本町の自宅の前から二番を経て、町いちばんの三番の目抜き通りを、愛国行進曲や予科練の歌を唱いながら、京福電鉄大野三番駅まで行進してきたのだ。私は……といえば、その路上をまるで御輿のように運ばれてきたにすぎない。自分の足であって自分の足でないようであった。
 父や祖母や姉や二人の弟……そして義母の顔もあったはずだが、浮遊状態のそのときの私から記憶が脱落している。
 そのくせ、同時刻、おなじように駅頭で見送りの人数に囲まれた予備役補充兵か、中年の、いかにも山奥から出てきたという百姓風の小柄な男の陽にやけた当惑げな顔が、いまもって忘れられない。
 男がぼそぼそと答辞を述べている。見送るほうも何か告別式のそれに似た湿りようだ。
 いっぽう、私のほうは景気が良かった。
 駅前における万歳三唱。戦闘帽の庇すれすれの挙手の敬礼。外面的には雄々しく見えたであろう態度と、勇ましい……いまから考えると歯のういたような、
「――この身、年少なりとも、飛行兵としてお国に捧げ、憎っくき米英撃滅を目指して頑張ります。では、行って参ります」の挨拶。
 肩から斜めにかけた旭日旗の、何と誇らしく、しかし、国防色のズボンの膝に当たった大きな継ぎの極まり悪かったことか。
 京福電鉄終点の大野三番駅を発した電車は、約一時間二十分で福井駅に着く。そこから大阪行きの北陸線に乗り換えるのだが、その間、出征兵士の中年男は、福井駅まで同行してきた妻らしき、これも朴訥な化粧っ氣のぜんぜん無い中年女に対して、
「それでのう、晩稲の水の手当はそれでいいけどーォ、早稲の中打ちは、こまめにのう。里芋も水浸しになるとだちかんぞや……」
 などと、それまでにも幾度も注意してきたであろう農事に関することどもを細ごまと繰りかえしては、溜息をついていた。
 福井駅で、年輩の出征兵士がどやどや乗り込んできた。プラットホームに立った見送り人の数は百人を越えている。次の越前花堂でも、その次の大土呂でも小規模な見送りがあった。そして列車が重そうに車輪を軋らせて鯖江駅に停まると、各車両から一斉に中年兵士が、よくもこれだけ乗っていたかと思われる集団で降り立った。ああ、鯖江の歩兵連隊に入隊するのだな、と私は思った。
 すでに不要不急の旅行は禁止され、鉄道切符購入には制限があり、緊急の乗車には証明書が要る時代になっていた。
 六月十二日午後七時三十分指定の、大阪駅仕立て鹿児島行き特別専用列車のホームは、私と同年輩ないし十五、六までの少年の群れで溢れていた。
 しかし皆、鹿児島までとは限らなかった。神戸や姫路で大勢乗り、その間の明石・加古川で数人のグループを拾いつつ列車はのろのろと進んだ。向かい合わせの座席の膝と膝の間にも脚を抱いた二人がはいった。全身ギプスに固められたようなぎゅうぎゅう詰めの状態が夜どおしつづいたが、倉敷で少し降り、福山でもかなり降りた。それでも定員は割らなかった。通路に身を横たえて微睡める者は幸せだった。すくなくとも足腰を伸ばせたのだから。私はといえば、大阪駅で幸運にも窓際の席を確保できたのはいいが、座りづくめの窮屈さは変わりなかった。
 当時、すでに特急・寝台・食堂車は廃止され、急行の蒸気機関車で東京、博多間が三十二時間かかっていた。それもそのはず、急行とは名ばかりで、現在とは逆に貨物列車優先であった。じじつ、客車は少なく、頻繁に長蛇の軍用貨物列車とすれちがった。
 まだ夜明け前だというのに、尾道から、進行方向左の瀬戸内海に面した窓のブラインドがおろされた。造船所の規模や進捗状態、あるいは艦隊の碇泊如何に関する防諜のためだそうだが、われわれは海軍軍人として将来そうした軍事基地に赴き、竣工した艦船に乗るのに何の遮蔽ぞや……これは、そうした軍人のタマゴばかりを載せた特別列車ではないか、と稚い自尊心を傷つけられた。
 薄暗い車内に汗と小便くさい臭いが充満する。呉までの間、右側の窓の空気を求めて酸素欠乏の金魚さながら全員が口をパクパク開けて喘いだ。
 竹原で夜が明けた。呉で長い停車のあと、広島でかなり乗り込み大竹・岩国と人員を降ろしたあと、柳井・徳山・小郡・宇部・下関・小倉と積み込んで、博多に着いた時はもう三日目の夜に入ってた。
 呉で直ぐ売れ切れて口に入らなかったアイスクリームが、ここでは売り子の胸の搬台に山積みされていた。私は欲張って五個買い、むしゃぶりついた。
 大阪までの食事は家から持参の握り飯だった。大阪からは軍当局はからいのお仕着せ弁当の支給で、その都度わずかの茶の配給があったが、甘味など望むべくもなかった。
 アイスクリームは小さな経木の函に詰められていて、そのがちがちに凍った固体は俄に掬いようがなく、私は待ちきれずに、経木の縁をへし折ってアイスキャンデーのように丸裸にして噛じりついた。
 久留米で列車はながいこと停車し、動いたかと思うと、また停り、停まっては動いて鹿児島本線をのろのろ南下していった。
 そうして、やっと西鹿児島の駅に着いたのが十四日の午前八時すぎ。じつに疎開先の大野を発してから、まる三日、七十時間強。
 私たち鹿児島海軍航空隊入隊の第二十二期飛行予科練習生二千五百余名は、駅前に待機していた数珠つなぎの貸切の市電に分乗して、そこからノンストップで約十五分の鴨池停留所に運ばれ、海寄り徒歩五分の衛門をくぐったのだ。
 衛門は地獄の門であった。衛門をくぐったとたん、極楽の娑婆とのお別れだった。
 それからの私たちには、すくなくとも私には、嗜虐的な……としか思われない罰直と想像を絶する月月火水木金金の猛訓練の毎日が待っていたのである。
 何とか無事に生きて還ったいまとなってみれば、それも肉体に植え付けられた財産かも知れない。けれども、その当時はそう思わなかった。神経質に癩という業病の予感に怯え、級友を見返すためと思い詰めて単純に七つ釦を選び、そのいっぽう、純粋にお国の為に、といった“軍国少年”の意気込みと誇りの錯綜する複雑な感情をいだいた、満十四歳と六ヵ月だった。


 ――遠雷のように聞こえてくるのは、隣接する第二航空隊・鹿児島基地所属の零戦の始動音か。徐々にエンジンの回転をあげ、やがて風を巻いて耳元をつんざくのは――。
 突然の轟音は、遊園地のジェットコースターのものだった。遠くで高く低く駆動音を発していたジェットコースターの驀進が収斂され、近くにきて飛行機の轟音と化していたのだ。我に返ってからも、しばらくは、エンジンの轟音とジェットコースターのそれとが回想のなかの私に重なって尾をひいた。


(7)

 入隊後、先ず驚かされたのは予科練の『若鷲の歌』がここでは通じないことだった。
 十時の点呼。直ちに分隊わけが成されて班別があった。
 私は、第三十一分隊第五班。兵籍番号は、佐志飛(佐世保鎮守府の管掌地域で採用された志願兵飛行科の略)の三七一五〇。
 第三次試験や軍服支給に先だって、十二時ちょうど、われわれは定められた兵舎の食卓をはさんで身長順に八名ずつ十六人向かい合っていた。一班は三十二名編制で二食卓であった。服装はまちまちだが、白の開襟シャツに学校時代の国防色の長ズボンにゲートル巻きが大半で、膝に継ぎの当たっている者も少なくない。
 われわれは若かった。車中三泊の囚人の檻にも似た兵員輸送列車の疲れも、一歩現地の土を踏んだ瞬間から吹き飛んで、食欲は旺盛であった。初めて出される海軍の食事(あとで知ったが海軍では食事のことを「食餌」といった)に対する期待と、これから予科練の一員になるのだという昂揚感で期せずして、誰はじめるとなく口について出たのが『若鷲の歌』だった。
  若い血潮の予科練の
  七つ釦は桜に錨――
 始め、低くはいった歌声も、つぎつぎと隣りの食卓に伝播していくにしたがい、
  今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ
  でっかい希望の雲が湧く
 しだいに大合唱となって、食卓を拳で叩いて伴奏を入れる者もあらわれた。
 と、突然、
「なんごとか!」
 大音声があがり、床をドスンと打ち鳴らす鈍い音が起った。音に振りむくと、さきほど紹介された松木という、見るからに骨格の逞しい班長が、長さおよそ一メートル直径八、九センチぐらいの丸太ん棒を右手に突いて仁王立ちになっている。そうしていっとき辺りを睥睨した。その赤銅色の顔は肩に埋まったかんじの猪首で、あの、赤鬼みたいな玄武親方の四角い顔を少し丸めた精悍な面構えだった。
 大小の食罐を両手に提げた食卓番を従えて戻ってきた、ひょろっと背の高い先任(途中で病気になって進級が遅れ、班長助手を務めている)朝永練習生を脇に、松木班長は、その丸太ん棒を鬼の金棒さながらに構えて真っ赤になっている。見れば見るほど玄武の親方に似ている。手にした丸太ん棒も、馬を責めた材木の切り落としに似ていなくもない。
 ――そうして私たちは、ほんとうに、この日を境としてバッターの洗礼を毎日のように受ける「馬車馬」になったのだ。
 これが私が初めて目にした海軍のバッターであった。バッターの横腹に文字が墨書されている。
 《海軍精神注入棒・十糎迫撃砲》
 と読めた。
 それを班長は、これ見よがしに目の高さに捧げてぐるりと捻って見せ、もう一度床をドスンと鳴らし、
「なんか、そん歌! ここんじゃ、そん娑婆の流行歌など唱うちゃならん。よかか! 二度と唱うちょみい。こいだぞ!」
 と、バッターを頭上で横薙ぎしてみせた。びゅうっと風切り音がした。
 たいした腕力である。
 私たちは唖然とした。
 何より、この『若鷲の歌』に魅せられ、七つ釦に憧れて予科練を志願してきたのに、いきなり出鼻を挫かれたからだ。
 生唾を呑んで見おろす食卓に並べられたのは、琺瑯びきの大の椀に麦飯が山盛り、中の椀に豚の角切りや馬鈴薯や玉葱なぞをごった煮にした副食、小の椀に茶、皿に漬け物。
 ――やがて分かることだが、この大中小の食器の中身は、朝に中食器が汁碗になる以外、四季を通じて鹿児島海軍航空隊の基本的献立であった。季節によって変わるのは皿の漬け物で、白菜、杓子菜、大根、そしてほうれん草の浸し物などなど……しかし、娑婆の目から見れば豪華版であり、
「かかれーッ!」の号令で食べ始めたボリュームも、食べきれないほどの満点であった。
 だがこの量も、やはり車中二泊の窮屈な列車の旅の運動不足の所為であって、本格的な猛訓練に入ると忽ち雀の涙となり、慢性的に飢えることになるのである。

 手旗・モールス信号から始まって、水泳・ボートに陸戦教練に苛酷をきわめた予科練生活にも、ほっと一息つく一日もあった。クラブである。
 年若いヘイタイさんの里心を癒すべく、海軍が委嘱したクラブは、航空隊の周辺で十七、八カ所くらいあったろうか。私たちのクラブは、隊から鹿児島市のほうに歩いて三十分ほどの、まだ農村の面影を色濃く残す畑のなかに在った。
 藁屋根の大きな家で、玄関の表札脇に、
《出征兵士を送る家》と札が貼られていた。戸主が召集されているのだろう。
 そのお嫁さんと、小学生くらいの娘ふたりに、まだ学齢まえの息子、それに舅・姑が、その家の家族構成だった。
 松木班長が、「よろしくお願いします。こんど入った二十二期生です」と頭を下げ、私たちのほうを向いて、「きょうは初日だから、思い思いにするとよかが、こんどからちいとばか畑の手伝いなとするように。そうすれば、また何か食わせてもらえるぞ」といい残して帰っていった。班長の家は枕崎である。
 この日にそなえて井戸水で冷やした西瓜が出た。幾つもの盆に山盛りの西瓜も、あっという間に無くなった。
「おうおう、見ン事な食いっぷりじゃなあ。もちっとありゃあよかのう。そいでみんなじゃ。また、おじゃんせ。こんど来っときゃあ、次ぎんがもちっと太ちょうじゃろで」
 老爺の額の皺が、播州の祖父を想いおこさせた。老婦の優しい目元が祖母を、そして主婦が母を――。

 入隊八ヵ月後の二月十一日の紀元節に、面会があった。――母の命日でもあった。
 以前は一週間ないし十日も休暇があったらしいが、これまた戦局急迫の影響で三日間の休暇が精いっぱいだということだった。――何もかも短縮されてきたのだ。
 三日間では、近畿や、まして北陸の地に家がある私のような者は一時帰休は不可能なので、海軍が親元に手配して面会日が決められた。ともかく三日間は自由行動であるとのことで、九州近辺に親戚や知り合いのある練習生は二泊三日の外泊が許されたのだ。
 班長から外泊の可否を問われたとき、
「近くには親類はありません。零戦を貸していただければ福井へちょっと帰ってきたいと思いますが」と、いった。
「こいつ、操縦に合格したからといって生意気な。飛行機に乗れるんは、飛練へいってみっちり修業してからぞ」
 笑いながら、頭をこつんと軽くやられた。
 思えば私には故郷がなかった。生まれたところは大阪だが、疎開という名目の引っ越し先は、祖母や父の出生の地というだけで馴染みがなかった。しいて心の中に生きている故郷といえば、母の里の播州であった。つまり、私の故郷は分散していたのだ。

 面会室に入ってきた父は、あたりの騒々しい雰囲気に圧されてか、怯んだ目になって私の前に腰をおろした。
 八ヵ月ぶりの父は痩せていた。もともと肥える体質ではないのだが、顔が干しスルメの、色の濃い薄皮の部分のような艶をおび、目元も落ちくぼんで、いっきに六十歳になったかと思うほど老けた風貌になっていた。私は、父の三十一の子だから、このとき父は数え四十七歳のはずである。
「海軍さんから連絡があってのう、旅行証明や米の持参許可ももろてな。ま、すこしは余分に持ってきたけどな」と、父は傍らの風呂敷包を指して笑った。そして、「たくましなったな、ユキさん。見ちがえるほどや。訓練、えらいか……からだ大丈夫か」
「わたしか……」といいかけて、「ぼく」に直そうとしたが、どうしても、その「僕」が出てこなかった。「わし」もヘンだし……と迷った末、口に出たのは「おれ」だった。急 に不良じみた不遜な感じで、自分でも違和感を覚えながら、この父にはこれでいい、これが相応しいのだと自分にいいきかせた。どうしても素直になれなかった。
 私の脳裡には、常照園がうかんでいた。往復半日もかからぬ距離にいながら、その半年間、一度も面会に来なかった父。
 この日を境にして、いや、「ぼく」といってバッターの洗礼を受けた時点から、まるで失語症のように私の語彙から「ぼく」の自称は消えて、以来、五十年、さらに今日にいたるまで、私の口から「僕」の「ぼ」の字も発することはなくなった。
「どうや、ユキさん。今日、明日、明後日と三日間自由やから、いまから二泊三日の旅行しょうか。どこがええ」
 父は、常照園の償いのように、私の機嫌をとった。
「そうやなあ……どこか田舎の旅館で風呂にゆっくり浸かって、白いメシ食べて、それから布団の上で寝たいな。毎日カラスの行水で麦飯ばっかり。ずっとハンモックやったからな」
 日々の渇仰を満たすとすれば、それに尽きるのだ。
「そうか。それやったら、温泉にしようか」
 父は、この付近にも南へくだったら指宿もあるし、北の山をのぼれば霧島温泉もあるが、旅行というからには、せいぜい遠いところへ行ってみようやないかと、選んだ先が大分の湯布院温泉だった。
 いまでこそ湯布院は、映画や音楽祭などのイベントを催し、個性的な美術舘なども多く建てられて若者に人気のある温泉地になっているが、当時は鄙びた高原の湯治場だった。

 標高一五八四メートルの湯布岳にいだかれた盆地は暖かい日だまりの中にあって、銀盆のような金鱗湖は、夜になると冴えわたった月を映し、朝には濃い霧が立ちこめて、海辺ばかりで過ごしたこの期間とは、まったく違った環境だった。
「なんや、大野盆地に似てるなあ」私がいうと、
「そういうたら、そうやなあ。七、八年まえきたときは気がつかんかったけど」
「ふーん、一回きたことあるの」
「うん、別府へあそびにきたついでにな」
 どうせ、芸者を揚げて、ここで遊び疲れを癒したのだろう。あるいは、芸者を連れての遠出か……。またもや、父へのわだかまりが迫りあがってくる。
 父は、ここへ来るまでの車中、去年の秋から建設者動員の徴用がかかって福井市内の家屋疎開や、水力発電所の補強工事に従事し、今度の面会も海軍さんの証明書がなかったら来れんとこやった、といった。どうりで、色白だった顔が干し鯣するめになったわけだ。
 父が差し出した二人分の食い扶持より多い米と鼻薬が効いたのか、晩おそく着いたのに食膳は豪勢な豊後牛の鋤焼きやステーキで、また下痢を起こさないかと心配した。
 湯は、あくまで澄明に滑らかで、予科練八ヵ月間の垢がひと晩で洗い流される思いだった。

 予期しない災難が起きたのは、二泊の湯布院を帰隊時間の六時に遅れまいと、一番列車で発って大分で乗り換え、日豊本線を一路鹿児島に向かっている時のことだった。
 延岡から高鍋への途中、たぶん川南あたりだったと思うが、冬とも思えぬ日南の陽射しに満員の車内の暖気があがって、ちょっと外の空気を吸おうと窓を開けたとたん、窓の外枠の框に吹き溜まっていた石炭滓が、もろに私の右眼にとび込んだのである。
 思わず目を押さえたが、かなり大きい異物がごろごろする。動転して父に見てもらうと、大小の粒や煤でいっぱいだとのこと。父も慌てて手拭いの端を唾で濡らし、瞼を裏返して何回も拭きとってくれた。ぷーんと生ぐさい唾液のにおいがした。
 それでだいぶ痛みもおさまったが、あとから考えれば、何はともあれその時点で、通路の乗客の身体を踏み越えてでも、洗面所へ走って水洗いすれば良かったのである。
 その時は大したことはないと思っていたが、しだいと疼き出し、帰隊早々軍医の手当を受けた。軍医はいった。
「こすったな」
「いいえ、こすりませんです」
「いや、かなり眼球に傷がついとる」

 私は「軽業」の木の札をもらい、一日二回医務室に通い、洗滌と目薬の点眼を受けた。
 しかし、やがて右眼の瞼は膿をもった目バチコとなって腫れ、治癒は捗ばかしくなかった。そんなある夜の巡検後、パッキンの異名をもつ島崎分隊士が回ってきて、
「聞けーッ!」と、喚いた。
「甲板が汚れておる! 艶もないッ。全員、整列!」
 あいにく、私たちの班長は上陸外泊だった。松木班長は、この島崎パッキンから班員を庇うようになっていた。その班長に対する反目からか、日頃、この分隊士は鵜の目鷹の目でアラ捜しをやっているふうだった。いや、アラなど、いかようにもつけられる。それが軍隊なのだ。
 私たちに科せられたのは、相互ビンタであった。
「あのうー、わたしは休業中でありますが……」
 私は敬礼して分隊士に、木札がよく見えるように胸を張った。
 分隊士の薄い唇が歪んで、
「なんだ! 片目を患っているくらいで。人数が半端だ、貴様も並べッ!」
 相手はたいていのばあい日頃食卓をはさんで向かい合っている仲間である。そいつは左利きだった。眼帯をしているほうは右である。加減してくれればいいのにと念じつつ、最初の一発のとき、思わず右眼をかばって顔をねじ曲げてしまった。ふつうなら顴骨に当たる相手の拳骨が、私がそうしたばっかりに、まともに右目の眼窩に食い込んだ。激痛が奔り私は棒立ちになった。
 白い眼帯から黄色い膿混じりの血が滲み出ているのを、指さして教えてくれたのは、助手の朝永一飛曹だった。
 治ろうとしていた目が、その事によって四谷怪談のお岩のように腫れあがり、悪化した。

 三月のかかり、私は軍医に呼ばれた。
「どうだ、眞田練習生。まだ痛むか……腫れはかなりひいたようだが、ながびくな」
 いつもの荒っぽい軍医とは違っていた。五十年輩のこの軍医は、日頃の毅然とした態度を失い、町医者のような親しみさえ見せて、
「どうだ。帰って家で養生するか。また今度のようなことがあってはいけないからな」
「えッ!」
 私は、自分の耳を疑った。
「はっきりいおう。この三月の十五日をもって、予科練本来の教育はなくなる。あとは本土防衛要員として各地に配置されるのみだ。したがって疾患のある練習生は、除隊ということになる」
「…………」
 要するに、私などは足手まといだから、追放だというわけか――。私の片目から涙があふれでた。
「眞田ッ。おまえの悔しい気持は、よくわかる。しかし、どこにおっても国のために尽くすことの本分は変わらないはずだ。こんど除隊になるのはおまえだけではない。先任練習生の朝永もそうだ。ほかの分隊にもかなりいるんだ」
 寝耳に水のように、私の全身を襲ったそのときの感情を、どう表現したらいいのか。
 呪いつづけてきたこの予科練の教育だが、帰れといわれたその瞬間から、無上のものがここにあって、それから疎外される哀しみに私は打ちひしがれていた。だいいち、おめおめこのまま大野に帰られようか。
 大野駅前で振られた歓呼の旗の波が頭をよぎる。
 つい二十五日前、父が面会に来たばかりではないか。

 翌々日、中央練兵場の号令台上に、航空司令が立った。
 葭谷大佐の顔は沈痛だった。何かを必死に堪えているかのように、練習生の列を見まわしていたが、やがてきりだした。
「――戦局はいまや極度に逼迫し、おまえたちを搭乗員として、時間をかけて教育していては間に合わなくなってきた。そこで、来る三月十五日をもって、おまえたちの飛行予科練習生としての教育は中止し、全員が本土決戦配置につくことになった。よっておまえたちは、今後は……」
 この、劇的な、すくなくとも練習生にとっては敗北宣言にもひとしい、発表でもって、日本海軍が世界に誇った予科練習生制度は事実上の終息を告げたのである。
 いまにして思えば、練習機や水上機、輸送機まで特攻に駆り立てていたその頃の日本には、もう艦も飛行機も燃料も銃・弾薬もなく、四面はすっかり敵軍に囲まれて、断末魔の状態だったのだ。
 飛練の一部は、ベニヤばりの人間魚雷「回天」などの水中特別攻撃隊、あるいは爆弾を抱いて戦車の下部めがけて自爆する陸戦隊など陸上特攻要員にまわされたが、多くは沿岸警備に就かされたのである。

 司令は十五日からといったが、実質的には、もう翌日から課業はなかった。
 昨日まで、ボートを漕ぎ、陸戦教練に追われ、棒倒しに熱中し、手旗や無線電信の練習に打ち込んだ時間割は、すべて無くなった。飛行機に乗るんだという基本的な目標が失われたのだ。いや、もう予科練ではなくなってしまったのである。
 それでは何をするのかといえば、総員起こしや朝礼、体操、甲板掃除などはいままで通りだが、そのあとは、
「戦備強化作業」
 と称して、防空壕の増設や隣の基地の修復工事、沿岸の蛸壷掘りに、鶴嘴やスコップを担いで出掛けるのである。
 昭和二十年三月といえば、サイパン島を基地としたB29戦略爆撃機による絨毯爆撃が、まさに開始されようとしていたときであり、沖縄本島への上陸が目捷に迫っていた。
 鹿児島の本格的な大規模空襲は二十年六月の十七日、沖縄を制圧した米軍が百五十機の四発を連ねて焼夷弾の雨を降らせ、市中を焼き尽くし、鹿児島海軍航空隊の兵舎も大半、灰燼に帰した。
 その爆撃に止めを刺されたかのように、鹿児島海軍航空隊は二年三ヵ月の歴史をきざんで、同年七月に閉隊した。
 私は、その閉隊に先立つこと百日、すなわち、三月の二十五日の昼すぎ、朝永教員助手を含む七十六人とともに衛門をあとにした。下賜された第一軍装は紺の上下に金色の七つ釦だが、敗残の兵さながらの除隊だった。
「帽、ふれッ……」の見送りは、なかった。
 衛兵がお義理のように返礼をしてくれただけだった。


(8)

 大野に帰った私は、ひたすら目の治療に専念した。四月も末ちかくになって、やっと眼帯が除れた。
 しかし、私の右の目は、永い化膿状態の後遺症でふた皮がひと皮となり、しかも細くなっていた。
 が、ともかく、両眼が見えるようになったのである。
 それを待っていたかのように、徴用令状がきた。
 五月一日から、大野航空工業株式会社に勤務せよ……。
 大野航空は、家から歩いて片道三十五分。大野の町を東へ横切って本願清水を経、篠座神社の手前に在って、元は大野紡績株式会社という機織り物の工場だった。福井県は有数の羽二重の産地である。湿潤な気候が繊細な絹糸加工に適していたのだろう。県内の各地に機織り工場は在ったが、なかでも大野は盛んだった。大小の工場の中で大野紡績は群をぬいていて十二、三棟の工場を擁していた。
 それを、軍に接収され、岐阜に在る中島航空の下請け仕事をしていた。作業の内容は、飛行機の補助翼の型仕上げであった。型とは、翼の芯になる波形の部品をプレスするときの当て板に使う原型で、素材の板はチッソライトと呼ばれる硬質のエボナイト様の物だった。厚さ、大きさは様ざまあり、それをバイスに挟んで型紙に合わせて切り、周縁に定められた角度の傾斜を付けるのである。
 木材の加工のように簡単にはいかない。何しろ堅いのだ。
 エア・カッターで粗削りをして、仕上げは目の粗いヤスリから順次細かいヤスリに換えていって、滑らかな表面を作るのである。
 大野航空には「大中」と略して称する大野中学の生徒が何百人と動員されていた。大中は今も昔も県下一、二を争う進学校で、多くは私と同じ年輩の四年・五年生が、国防色の制服の胸に血液型を並記した名札をつけ、ズボンにゲートルを巻いて働いていた。
 その頃のことだから、大野でも余裕のある町家の息子だとか、中農以上の倅だとか、一見してわかる親のすねかじり的な柔弱な面つきの学徒どもで、予科練の苛酷な生活に揉まれてきた私から見れば、その動作、その態度、その話っぷりは、当初、奇矯に感じられたものだ。

 職場は、勤労学徒ばかり一緒にしておかなかった。それは彼らだけのグループにしておくと、ふざけ合ったり、示し合わせてサボったりする虞からか、工場各棟に割り当てられた比率は、一般の、――散髪屋だとか、米・味噌・醤油、油屋、小間物・呉服、文房具店・旅館業者などなど雑多な職業の徴用工が三。町や近郷農家から集められた私のような少年が一。勤労学徒が五……あとの一割は前からこの工場で働いていた事務系・運搬・ボイラー係・機械の整備工、その他の職能で、その社員が指揮をとっていた。
 もともとが女の工場である。男の人材は限られていて、予科練でいえば社長が司令、専務が副長、分隊長が工場長、分隊士が職場長、班長が一棟を三等分した二十人ほどの長で名も同じ班長、といった按配になっていた。
 したがって、一班二十名の構成は、一般徴用工六名、少年工二名、勤労学徒十名、以前からの従業員二名の配分で、それぞれのバイス台も分散されていて、学徒同士は隣り合わせや真正面にならないように配置されていた。
 これならお喋りもし難いし、真面目に作業をやらざるを得ないといえた。
 昼休みばかりは生徒どうしが一ヵ所にかたまり、弁当以外に家から持ってきた馬鈴薯や玉蜀黍を分けあい、級友たちとの屈託のない話に打ち興じている。たまには先輩や同学年の者が予科練に行った話がでる。
「何なには、どうしているんじゃろかなァー」
「うら(俺)もォ行きたかったけどーォ。おっ父うがのう……」
「跡取りじゃいうて、おぞい顔をするんけェ」
「そーや、そーや」
「あーあ、こんなとこへ放りこまれてのう。勉強もロクすっぽでけんじゃったら、特攻隊になったほうがマシじゃで」
「予科練はええのう。七つボタンに桜に錨……か」
 ――ああ、その予科練が、おまえらの目の前のここにおるぞ、と私はいくたび口に出して叫びたかったことか。そうして、その制服を着てきたら彼らはどんな顔をするだろう。思うだに胸は高鳴りどきまぎする。
 だが、何でいえよう。名誉の除隊とは異なり、意気地ない傷病除隊。当時の感覚では、非国民に等しい身の、もと予科練にすぎない私が、七つ釦の制服はおろか、口に出していうことすらできない。いえば、「ほーけ、ほーけー……」と、一時は好奇心で寄ってくるだろうが、そのあと落伍者として蔑まれるのが目に見えている。
 彼らのエリート意識は軒昂で、受験高の品定めに余念がない。
「うら、金沢の四高じゃ」
「うらア、京都の三高じゃ」
「えっへん、うらー東京の一高じゃ」
 私の僻みか、まるで私への面当てみたいに、すくなくとも私にはそう感じられる語気で話し合うのだ。ちらりとこちらを見やる目のうごきが、その効果をはかっているかのように、卑屈になっている私の胸を刺す。
 おなじ棟の中の他班に、東京の麻生第一中学校を今年卒業したという二つ上の疎開者がいて、人気はそちらのほうに集中した。丸顔がマシュマロのようにふんわりしていて、黒縁の円いメガネをかけ、背は高いが猫背で動作がおっとりしている、この玉置という男はいかにも坊ちゃん坊ちゃんしていた。
 歯切れのいい東京弁とともに、一中卒という経歴が、彼ら大中生の羨望と尊敬の的だった。
「麻生一中をでて、なんで一高を受けんじゃったかいな。うらなら、すぐ受けるけどなーァ」
「いま、東京はたいへんだからねえ。ぼくんちも焼けちゃったし、命あっての物種だよ。一高なんていつでもまた受けられるさ」
 じっさい、田舎者の彼らでなくとも、まだ東京へ行ったことのない私は、東京を外国のように夢みて、東京弁をフランス語のように憧れていた。私がこちらに帰ってきて話していた言葉は、標準語を基本にした大阪訛だった。
 ことさら標準語を東京弁にちかづけようとしたって、それは無理だった。東京弁もまた偉大なる方言だからである。私の東京に対するコンプレックスはこのときに始まった。
 いまでこそ、ひとりの姉とふたりの弟を東京に出して三十有余年。しかし、いかに流暢に姉弟たちが東京弁を操っても、ときたま逢ってそこに大阪訛を嗅ぐとき、事情もおなじ東北弁を綯い交ぜにした東京弁の滑稽さを嗤い、いくど足をはこんでも、どうしても馴染めぬ東京の街の雑駁さに辟易し、言葉とおなじくああ大いなる田舎町よ……と軽蔑でき、開き直って純粋に(近い)大阪弁をわざと使っているが、当時はそうでなかった。
 言葉の上からも私は浮きあがっていた。東京者ではもちろんないし、ヘンな標準語を喋っているから大阪者でもなく、大野弁は苦手であったから土地の者ではない。

 工場内で私ひとりが異端者だった。思いは内訌し、私は周囲に辛辣な批判の目をむけるようになった。
 けれども、その一方の端で、生徒たちや東京の玉置に取り入り、話仲間に加わりたい一心で、私は、自分もまた中学生であるという証に、あることを思いついた。私も彼らとおなじ中学生に化けるのである。“学歴詐称”であった。
 口でいっても説得力がない。そこで大阪の誰彼を思いうかべ、私と似た背格好の柳原を思いつき、彼に頼むことにした。彼は普通中学ではなく工業中学だったが、中学生には変わりがないのだからと、思いきって手紙を書いた。
 ――出来れば制服そのものが有り難いが、釦だけでも何かと交換で送って欲しい……と。
 制服なら予科練入隊時のやつがある。しかしそれはずいぶん小さくなっていて、帰ってきてから着ようとしたが着れなかった代物だ。義母に広げられないかと相談すると、肩のつけ根や袖や脇や背中の縫い代をはつはつに出せばなんとかなるといった。それに釦を付け替えて……。
 しかし、そんな無理をせず、ちゃんとしたやつが欲しい。
 返辞が待ち遠しかった。やっときたのは十日も経ってからで、それには、
 ――米を送って欲しい。釦つきの上着なら一斗。釦だけなら二升。ズボンも全部なら一斗五升……一粒欠けてもあかん。と、あった。
 食料統制の時代、闇米摘発は厳しく、一斗はどう考えても無理だった。二升ならどうにか誤魔化せるだろうと、それでも米袋を古毛布やボロ切れに何重にも包んで嵩と重量のバランスを図り「古着」として送った。
 輸送事情の悪化に腹が立った。待望の日本工業中学の釦が三週間後にようやく届いた。
 義母が改造してくれた上着は、背中も脇も肩も袖も広げたり伸ばしたりしたところが一センチから二センチ幅に濃い色が露出していて、なんとも珍妙な縞模様になっていた。しかもその箇所はミシンでなく、手縫いである。
「これでもう、精いっぱいかいな。おかあちゃん」
「もうそれ以上やったら、縫い代のみみがのうなって、あかんがや」と、義母はいった。
 私は、それに釦を付け替えてもらった。
 翌日私は早速、工場にそれを着て出勤した。
 肩を張るとはちきれそうで、前の釦も掛けられなかった。袖もちょんちょんであった。
 私は破けないように、そうっと羽織るようにして、しかし、これ見よがしに歩いた。前をはだけることで右側の釦がすれ違う人の目によくついた。私はできるだけ道の左側を歩くことに心がけた。
 私の思惑は当たって、たちまち大中生の認めるところとなった。彼らは私を見直したように釦に目をとめ、玉置をおいて、私に群がった。そうして、日本工業とは大阪のどこにあるのか、どんなランクなのか、何科を出たのかなぞなぞ質問攻めにした。
「建築科……」と私は答えた。

 予科練では直接の上司である分隊士や班長が猛威をふるっていたが、この大野航空でも職場長と班長が威張っていた。鷲鼻の四十半ばの職場長は男鹿といい、顎のとがった三十七、八の班長は近藤といった。二人とも軍隊の経験があるのかどうかは知らないが、恰好だけは軍刀を持たしたら似合いそうな将校並であった。
 だが私にいわせば笑止千万である。恰好だけ一人前であるだけに、腹の底では笑いが止まらなかった。
 ふっと、ほんものの島崎分隊士や松木班長が懐かしくなるぐらいだった。
 ここではまた軍隊とちがった意味の、何もかも杓子定規で、図らずもその一端が露呈したのは、私がここにきて一ヵ月半くらいの時分か。岐阜の本社から技術部長が検査にきたときだ。
「なんですかッ、この型板の角度は! これは成型の、つまり、プレスして出来あがった完成品の角度で、これじゃあ使いものになりません。いいですか! ジュラルミンをこの型板にかぶせて圧板したとき、返りがくる。八十五度の角度の型板でやると八十八度になる。仕上げを八十五度にしようとすれば、型板の角度は八十二度でなければならん。それをあなたたちは……」部長は絶句して、この田舎者めが……といった色をあらわに、
「ぜんぶ、やり直し!」と息巻いた。
 そんな初歩的な指示が、いままでに為されていなかったことも腑におちないが、それでは今まで作った型板はどうなったのかと、私は不思議だった。
 戦争は、負けるかもしれないという不安がこのとき漠然とした。――先に作った不良品は、使われていなかったのではないか。それにまた、何でいまさら……。
 職場長や班長のしおれ方は見るも哀れだった。

 越前大野は、しかし、すべてがのんびりしていた。
 夜の地平を真っ赤に焦がした七月二十三日の福井大空襲のとき、直線距離で三〇キロ離れた大野でも、まるで対岸の火事のように見えた。そうして、またそれは大野にとっては、まったくの対岸の火事であった。
 父は今度は、その福井市の軍需工場の再建に建設要員として駆り出され、祖母は大野郡各地に散在する親類農家の田や畑仕事の手伝の報酬として幾ばくかの米や豆を持ちかえり、姉は町外れの鐘紡化学の分工場の事務員として勤め、次弟は大野中学校の一年生で、末弟はその大中に隣接する有終男子校の小学四年生だった。
 そうして、義母に子供が生まれた。女の子であった。
 頭が、烏帽子のごとくに長く、しかも途中で糸瓜のようにくびれていた。これは、お産のとき何回も休みながら生んだからで、中ほどのくびれは大休止のせいだと産婆はいった。父は義妹に麗子と名付けた。

 大中の生徒は「えらいのう……てきねえのう」といっていたが、予科練の課業に比べればあそんでいるみたいなもので、私は大人たちの二倍の能率を上げ、しかも仕上げは綺麗だった。予科練で鍛えられた腕力に、小学生時代、模型の軍艦造りの細部に凝りに凝った感覚が甦っていた。もしノルマというものがあれば、私は半日仕事をして半日自由であってもよかったはずだ。
 そんな私を班長は大目に見ていたが、私の三分の一も出来ず仕上げも汚い徴用工は、自分より年下の班長から平手の体罰を受けた。生徒が職場長に蹴られている姿も見た。
 水の中の油の一滴のように、私は周囲から孤立していたが、半面、それをよいことにして、唯我独尊、しだいと傲慢になっていった。これが私の「傲岸不遜」の萌芽だった。

 ――もし私に、予科練の負の遺産でないものがあるとすれば、それはいまでも目覚まし時計がなくても早起きできることと、声が大きく、よくとおること。思い立ったら朝から晩まで食事を摂らないでやりかけたことをやってしまうこと。ふた晩くらいの徹夜は平気であること。
 たしかに罰直は苛酷だったが、そうしたマイナスの要素がなければ、人間なんて情けない動物で、プラスの部分も生まれてこなかったかもしれない。それは、こんにちの日本のふやけた若者の生態が雄弁に物語っている。
 戦後日本の復興は、復員兵の力によって成されたのであり、現状のまま、われわれ戦中・戦後派が完全にこの世から姿を消した暁には、日本はどうなるだろう。
 聞くところによると、時の軍部にも卓見の士が居て、艦も飛行機も弾も無くなった敗戦前、それと知りつつ何万人もの少年を予科練として海軍に投入したのは、そこで鍛えあげられた人間が、必ずや戦後復興の一翼を担ってくれるであろうという遠大な目算があったとか。
 これなど、捨て鉢の論理である。が、たしかに私自身の経験からいわしめれば、家庭にあって満足な食事も与えられないで育った少年にくらべて、たとえ短期間とはいえ、その育ちざかりに国費でもって賄われた予科練の食餌は粗食とはいえ栄養価に富んだものだったし、罰直訓練の結果はいわずもがなのことである。
 げんに、鹿児島航空除隊後、家では肉けは一切なくて、明けても暮れても野菜の煮付けばかりで、
「おれ、鶏とちがうぞ。毎日毎日こんな鶏の餌みたいな葉っぱばっかり喰わせやがって!」と、祖母に毒づき、義母を困らせていた。
「ああ、もったいない、もったいない。都会のひとはこの野菜も手に入らんのに、なんと罰当たりな。これでもわたしが一所懸命田植えをし、田の草をとって、畑仕事の手っ伝いもして、やっとこさ貰うてきたもんや」
「うるさいッ! クソばばあ。ひとを鶏とまちがえやがって。こんなもん喰えるかッ」
 私は人間が変わったようになっていた。常照園の思い出が、食糧事情の惨めさが、まだまだ食い気盛りの私を苦しめ、その鬱憤を祖母に向かって晴らした。
 日本本土が殆ど焼き尽くされたというのに、屁にもならない型板作りが相変わらず行なわれ、退屈と焦燥の日々がつづいた。
 こんな工場でもやはり、朝礼があって、壇上に登った社長が、
「戦局多難なおりから、各人、戦地で活躍されている兵士と同じ気持になって、一機でも多く、米英撃滅の為に渾身の力をふりしぼって増産に励まれんことを……」
 毎朝の空疎な決まり文句であった。
 日本は負けると思いたくはないが、予科練教育打ち切りの現実を目の当たりに体験してきた私は、肌ではそう感じずにはおれなかった。不意に、自暴自棄的な感情がこみあげて自分をもてあます瞬間がある。

 おなじ班に小西という、私と同じ歳ぐらいの背の低い肥っちょの農村出の少年がいた。それまで私はこの小西に何の関心も払わないできた。しいていえば、動作が鈍くて仕事が遅いうえに下手なので、軽蔑の対象でしかなかった。動物的な勘で、彼はそんな私を生意気だと見ていたのか、偶然とは思われないことが起きた。あとで考えると、あきらかに因縁をつけるためのいいがかりだったと思う。
 正午のサイレンで手洗いへ行こうとした私に小西が突き当たるようにして擦れちがった。そのときチャリンと彼の手からスパナが落ちた。小癪にも彼は私を睨みつけて、
「こいつはまあ、うらにつきあたっておいて、なんじゃらほい。拾えや。早よ拾えや! この上方のゼイロクめッ」
 私は唖然とした。次の瞬間、私の拳は彼の顎をすくいあげ同時に蹴倒していた。
 小西は他愛もなく蹲り、唇の血を拭きながら私を憎悪のこもった眼差しで見あげ、
「よし! わかったけん。おぼえとけなァ」といった。
 その日の帰途だった。小西を含む五人連れの地元の少年から襲撃を受けたのは。
 なかには、もう少年とはいえないような大柄なニキビ面も混じっていて、どうやら其奴が親分格らしかった。
 私は挑発の罠にかかったのだ。
「ようー。よう、うらの弟分をかわいがってくれたのう。わりゃあ、このまえもうらの面きったじゃろが」
「メン?……しらんな。おれは、あんたのメンをきった覚えなんかない」
「うるさい! ま、ちょっとこっち来ー」
 私は、篠座神社の境内に連れて行かれた。神社の森に蜩の音が静寂を深めている。
 私は、そこで袋叩きに遭ったのだ。
 殴られるのには馴れていたが、相手によりけりである。
 あれほど大事にしていた私の制服の釦”が千切れ飛び、四方から掴み掛かってきた手によって上着がずたずたに引き裂かれたとき、私は狂った。
「この、予科練の生き残りを知らないか!」
 口をついて出たのがその啖呵だった。
 蹴り、払い、横殴りして二人を叩きのめしたが、どん柄の大きい親分の股ぐらに武者振りついて頭突きをくらわせた瞬間、残った二人に両足を持ち上げられ、私は地面に蛙のように這わされていた。
 あとは、踏んだり蹴ったりの打擲だった。

 私は復讐を誓った。
 奴等を、このままのさばらしてはおけぬと思った。

 中二日、私は会社を病欠したが、工場のバイス台に向かうと、
「うらに手を出すとまたああなるぞ……」と、勝ち誇ったような、そのくせ怯えたように背後からこちらを窺う小西を尻目に、あとは暇をぬすんで、メリケン造りに励んだ。
 チッソライトの原盤を拳大の半月型に切り、中央に親指を除いた右指の四本が入るように穴を空け、拳とメリケンが一体となるように加工するのである。
 三日のち、理想的な人工鉄拳が出来あがった。
 相手を殴った反動でこちらの手が痛くないように、穴から縁に掛けて包帯をぐるりと巻いた。
 一軒一軒、個別に呼び出すため、私は丹念に五人の住所を調べ、道順を克明に描いた。さいわい彼らの家は近在に集中していた。
 何日もかかっては用心される。時間はその日の晩から翌朝の出勤前までである。


 私が、天皇の戦争終結の玉音を聞いたのは、大野航空内の拡声器をとおしてであった。
 ヘンな抑揚のかぼそい震え声で、雑音もひどく、何をいっているのか分らなかった。ただ、最後あたりの、
「――堪エ難キヲ堪エ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス……」
 と、いったようなくだりだけが辛うじて聞きとれた。


(9)

 一九九五年一月十七日の朝まだき――。
 姫路《季乃庄》の料理撮影が徹夜になり、朝の仕事の段取りに間に合わすべく、私は阪神高速道路を大阪に向けて車を走らせていた。
 べつに一日くらい職人に顔を見せなくともいいのだが、これは私の永年の習性であった。
 午前五時四十六分。
 阪奈道路への分岐点にさしかかろうとしたとき、突然、異様なショックを受けた。全身を一気に揺すり上げる衝撃が起き、次に烈しい横波に浚われる蠕動で車が左のガードレールにもっていかれようとする。
 地震だ!
 危うく逸れて、私は急ブレーキを踏んだままハンドルにしがみついた。そして大きく吐息をつき、周囲を見まわした。さいわい、早朝のことで、前後の車が少なかったからよかったものの、もしこれが日中であったなら車どうしの接触は免れなかったことだろう。
 カーラジオが、気ぜわしく地震速報をながしている。
「震源地は神戸沖、淡路島北端よりの深さ一四キロ。マグニチュード六・〇。詳しいことは分かりしだいお伝えします」
 (――六・〇か……たしか関東大震災が七・九で、新潟地震は七・五だったから、たいしたことないんじゃないか。それにしてもひどい揺れだったなあ。震源地からかなり離れた車のなかでもこんなに感じたぐらいだから)
 その時点での私の感懐はそんなものだった。余震がないのを見定めてから、車をスタートさせて思考はまたもや昇一が経営するチェン店にいく。
 阿倍野ごちそうビル《季乃庄》における前月の収支決算は、経費を引いた残りが八千円だと聞いた。八千円? 冗談じゃない! だからいわんこっちゃない。あれほど止めとけといったのに。その分、姫路店に賭けていると昇一はいう。しかし、献立を変えるたびに写さなければならないパンフ用の料理写真はプロに頼むと高い値段を取られ、しかも、原板は返してもらえないという。それならば……と、私が乗り出した。昭和四十年の秋、私は二科展の写真部門で初入選している。写真が唯一の趣味であった。カメラは35ミリの一眼レフしかないが、大型カメラと照明機器をそろえれば要領は同じだ。購入代金もじきに元がとれそうだった。
 思いは次男の雅治にうつる。大手の商社に勤めて十五年。二年前にロサンゼルス支店に転勤になった彼は、いまだに自分の英語が通じないと嘆きの手紙を寄越してきた。インテリ階級相手なら正確な英語でゆっくり話してくれ、こちらの発音も理解に努めてくれるが、ガソリンスタンドやスーパマーケットの店員などのスラングはお手あげだという。あれほど高校時代から英語が得意で、よくホテルのロビーや街頭などで白人を見かけると、積極的に話しかけ、へへー、話せた、話せたと悦に入っていた奴が……。
 勤務状態も、東京本社を上まわる猛烈社員ぶりで、帰宅は早くて夜の十時すぎ、十二時をまわることなど珍しくない。嫁は、その夫の帰りの無事を祈って、まんじりともせず社宅で待つ。日暮れともなれば一歩も外に出られぬ物騒な街である。強盗・強姦・殺人は日本の交通事故なみで、自衛のためのピストル所持も分かる気がするとも書いてきた。
 赴任して一年目にイラクのクウェート侵攻が起きた。中東なぞに行って人質にならなかった代わりに、アメリカにおける反日感情が貿易不均衡の苛立ちに上乗せされて更に高まった。ロサンゼルス在住の邦人に対する風当たりも日増しに強く、難儀している……と、 さいきんの内容は悲愴だった。
 かつて、そんな戦時中の疎開児童みたいな弱音を吐いたことのない次男だけに、私の胸はくもった。私は返信の文面をかんがえた。半ば志願した格好で行った先である。
「――泣き言をいうな! 自業自得ではないか……」では、あんまりか。
 そういえば、娘の結婚式のとき、おれは泣かなかったなあ。泣かなかったことで、参列した娘の友人たちから「おとうさんは、泣きはれしませんのねぇ」と非難をあびた。なぜ、 娘の結婚に父親が儀式のように涙を見せなければいけないのか。演歌の『娘よ』みたいな、あんな、ベタベタした心境には到底なれない。近親相姦めいて気色がわるいではないか。
 ――しばらくコマーシャルをやっていたラジオが、こんどはテンションを高めて矢継ぎ早に地震速報をながしはじめた。
 続報は二転三転し、「マグニチュードは六以上かとおもわれます。阪神高速神戸線の高架が倒壊して、その上を走っていた車が転落……各地に火災が発生した模様……」と喋っている。
 阪神高速神戸線の高架が倒壊? それは、たった先ほど、せいぜい一時間ほどまえに私が通過してきた箇所ではないか。

 帰宅してから視るテレビの画面に、六三五メートルにわたって屏風状に横転した高架道の無惨な映像が何回も映し出されていた。そうして、あちこちに上がる炎と煙。交通途絶。生き埋めになった家族の阿鼻叫喚。酸鼻をきわめた倒壊家屋の惨状。
 三日後、気象庁は、現地調査の結果、震度七と発表。警察は、死者六千余人と報じた。
 この阪神・淡路大震災が、バルブ崩壊後の不良債権と相まって、私の事業に大きな痛手を与えようとは、このときの私には考えもおよばなかった。わずかの時間差で難をのがれた運の良さに胸を撫で下ろし、災害地の被災者を悼むばかりであった。


(10)

 一九九八年九月二十三日の昼下がり。
 南に面した窓いっぱいに隣家の下見板が迫り、その裾の垣根にのぞくアジサイの花は、前日、紀伊半島を縦断した台風七号の烈しい風雨にも散らず、相変わらず茶色に干涸らびたまま葉の先端にこびり付いている。なぜアジサイの花はこうも散りぎわがわるいのだろう。醜いだけではないか。その醜さは、私のいまの姿だ。
 おなじ南に面しても前の家の庭は高台に在って、一望、さえぎるものがなかった。
 住まいもまた、重層の入母屋に日本瓦が銀鼠色に光る以前の数寄屋普請とは似ても似つかぬ、四角い箱に急勾配のS瓦切妻屋根が乗っただけの貧相な代物だ。その家の、書斎とは名ばかりの三畳間に据えた机を前に、私は、回想の頬づえをつく。
 齢、すでに六十八歳と八ヵ月。――私のこれまでの人生は何だったのか。

 終戦直後の大野の町がよみがえる。
 大野航空は、もとの紡績工場にもどり、威張っていた鷲鼻の職場長の男鹿や、顎のとがっ班長の近藤など、町で行き会うと、わざわざ自転車からおりて腰を低めるようになった。
 しかし、そんなものは心で快哉を叫んでも、腹の足しにはならなかった。
 父は後妻に戦中から戦後にかけてつぎつぎ子供を産ませ、私たち同腹の、女・女・女・私・男・男の順に加えて異腹の、女・男・男の計九人に、祖母・父・義母と合計十三人の大家族になっていた。もっとも、長姉は関東軍の青年将校に嫁いで満州にいたし、次の姉も南京偕行社に勤め、そこで知り合った陸軍大学出身の大尉こと終戦少佐と結婚して、引き揚げの時期の前後はあっても、いちおう、それぞれの婚家先に落ち着き、末の義弟はまだ義母の腹の中だったから、じっさいその時点では十人だったが、(やがて、引き揚げてきた長姉と次姉の家族が、大阪へ出てからの私を頼ってくることになるのである)
 大阪の不動産を売った金は、インフレによってたちまち半減し、また半減した、そこへやってきたのが、「新円封鎖」……紙幣に証紙を貼らなければ通用しなくなったのだ。各所帯に割り均てられた証紙の枚数だけが通貨で、あとは目減りするばかり。
 なにしろ大所帯である。下の姉も働いていたが、自分の身の回りの品を買うのがやっとの女事務員。祖母はわずかな畑を親戚から借り受け、細ぼそ野菜などを作っていたが、このほうが花札片手の父の稼ぎより、実質的な実入りがあるといえた。
 私は、飯場に泊り込んで、九頭竜川支流の真名川の堤防復旧工事に従事した。つまり、土方になったのだ、働かなければ食べられない。手っ取り早い方法は、身体だけが資本の土方仕事だった。飯場の、お菜とて碌に無いが、ともかく腹いっぱい食べられる飯も魅力であった。
 卑屈なおもいで食べ物を貰いに、田舎の親戚まわりをするのは、姉や弟たちに任せて、私は飯場に泊まり込み、毎日、河原でスコップを握り、ツルハシを振い、トロッコの尻を押した。着のみ着のままで私は出面(でづら=給料)の全部を家に送った。
 堤防工事が完成すると、仕事を求めて隣県の隧道人夫になった、冬がやってきて、山は豪雪に閉ざされ、掘った土を運び出せぬまま私は失職した。最終のリフトで山を降りた私は、里も厚い雪に覆われて、仕事が無いということを知らされた。
 何か、手に職をつけなければ――。これが、私の念頭から離れなかった。が、手に職を持ったとしても、こんな雪国では続かない……大阪へ。とにかく都会に出なければ――。
 春になって、さすがの父も懐手もならず、昔とった杵柄の左官仕事をぼちぼちやり始めた。むろん、私もじっとしているわけにはいかない。土方より少しでも収入のよい仕事なら……と、父について廻るようになった。

 しかし、私は左官が厭であった。辞書をひくと左官の語源は【(禁裏の修理に、仮に木工寮の属として出入りさせたからという) 壁を塗る職人。かべぬり。壁大工。泥工。しゃかん】――泥工=ドロ公。しゃかん……そこに屋をつけると、左官屋――。
 土方はやっていても、それは一時しのぎの生活の手段であって、決して一生の職業ではないと割り切っていたからこそ出来たもので、左官のばあい、なんだか、このままずるずると生業になってしまいそうなイヤな予感がして気がすすまなかった。
 だが私は、その嫌いな左官になったのだ。越前大野では「左官」とはいわない。「かべ屋」である。朝から晩まで、足で土を踏み、大きな肥たご一杯の練り土を天秤で担い、戦後のヤミ米成金の百姓家の――それまで粗壁で放置してあった土蔵に中塗りを施し、白漆喰の化粧壁に仕上げるのだ。

 また、長い冬がやってきた。
 無理矢理に父を説き伏せ、祖母と弟妹を残して私たちは大阪へ出た。
 八方手を尽くしてやっと借りた小部屋は、結局、祖母が寄進にはげんだ元檀那寺の本堂の脇にくっついた畳四枚の納所あとである。便所は遠く、炊事施設もない。
 その細長い部屋へ、私と父と姉と義母と、まだ赤子の義妹の五人が、石炭箱の水屋、みかん箱の卓袱台、七輪コンロに鍋釜とわずかな着替えや布団とともに移り住んで生活を始めたのだった。水は、便所の手洗い用の蛇口からバケツに汲んで運んだ。
 焼け跡の壕に、赤茶けたトタンの切れ端を寄せ集めて雨露をしのいだバラックがまだ珍しくない大阪であったが、焼け残ったその寺の一帯はむかしのままで、寺の納所の長四畳に棲む私たち一家に、近所の好奇の目が集中した。
 (どうやって荷物といっしょに、五人もの人間が、あんなところに住めるんやろ。親子折り重なって寝ているのか)
 じじつ、折り重なりこそはしないが、寝返りをうつこともできぬ有様だった。
 本堂の縁側にコンロを置き、建築現場から拾ってきた木ぎれで炊いた甘藷の蔓に米粒が数えられるほどくっついている晩飯を、みかん箱の卓袱台に並べ、頭を寄せ合って食べるのである。――ヤミ市の、得体のしれない毛の生えた肉片を唯一の動物蛋白源とし、進駐軍の自いメリケン粉で加工したパンなど、夢にまで涎をたらす貴重品であった。
 多くは、焦げ茶色の芋の粉か、黄色い玉蜀黍の荒びきのパンで、すいとんと称ばれた純粋のメリケン粉の団子汁など、一ヵ月にいっぺんの御馳走だった。

 炎天下、轍のはずれかかった大八車の輪を番線で巻き、ボロ雑巾状の肩縄を私は引く。
 田舎で、多少「かべ屋」のコテを握ったとて、大阪における専業の「左官」の鏝は、いきなり持たせてもらえない、先ずは手許・手伝い仕事からだった。かつて大阪の東の一角に左官請負業として大きな顔をしていた親父は、以前使っていた職人に顎で使われ、たまに切り投げ(部分的手間請け)仕事のおこぼれに預かることになる。
 お情けでも何んでも、極力、投げ仕事を取るように、私は父にせっついた。常雇の出面賃だけじゃ、芋のパンも喰えないのだ。

 材料の小運搬はもっぱら大八車であった。縦長の荷台に、セメントや浅黄土や石灰の袋や俵を積み、瓦礫の町を、先が鰐口にパクパク開いている地下足袋で一歩一歩踏みしめ踏みしめ、肩に喰い込む引き縄の痛みに耐えて引っ張るのである。
 玉造から本町、御堂筋を経て十三に出、豊中までの一七キロの道を往復したこともあった。いまは自動車でなんでもないが、実際に歩いてみると十三から先は長い登り勾配で、私は喘いだ、街には牛・馬車が多く、その牛馬と競うようにして歩くのである。半年もはいた地下足袋は、いかにセメント袋の口糸を抜いて繕ろうても、もはや針を貫すしっかりした縁もなく、底は摺り切れ、しまいには藁縄でぐるぐる巻きにした。脂足でもないのに、靴下をはいていないため、歩くたびにずるけそうになる足の裏に歯止めをかけるのに苦労する。
 栄養失調気味の躯に、そうやって鞭打つが、顔や腕につたわる汗は玉とならず、偏平にたらりとだらしなく流れ、道ばたの鼻たれ小僧が旨そうに舐めているズルチン入りのアイスキャンデーを、まさに、喉から手の出るおもいで眺めたものだった。
 疲れ切って帰ってきたそんなある晩、寺の本堂に人がいっぱい集まって、何やら演芸会の最中であった。娯楽に飢えていた時代である。だみ声の科白が聴え、拍手がおこり、歌があって、喝采が挙がった。観客はしだいにふくれあがる様子で、納所の戸口の縁側で物の壊れる音が断続的にした。
「なんや……」と見に出た父の口論する声が聞え、久しぶりのすいとんの箸を措いて私がのぞいてみると、縁側の端まであふれた人の波に、私たちの炊事道具はさらわれて跡形もなく、縁の下の地面に鍋や釜が散乱して、七輪は木っ端微塵。そして、そのあいだに父が、突き落されて唸っている。
「誰や! うちの親父をやった奴は。ええ」
「おお、わいや、こんなとこに、こんなもん、置いときやがって! おっさん、文句つけさらすよってに……」
 みなまで聞かず、私はその男に突進していった。三、四人の仲間らしき者がいて、いっせいに私を囲んだが、私は怯まなかった。
 ――勝負は一瞬のうちについた。が、大騒ぎになり、これが原因で寺から一家は放逐されることになる。入居したときから追い出す口実を考えていたような住職にとって、もっけの幸いであったろう。

 私たち一家は、以前、店を構えていた深江町の近くに九十五坪の焼け跡を借り、昔馴染みの工務店に、今後の仕事の代金を済しくずしの交換条件ということにしてもらって、十五坪ほどのバラックの平屋を建てた。
 そして一年後に福井の残り家族を呼び寄せ、さらに二年のち、また借金して裏庭に、二十三坪の二階家を建てた。この二階に満州から引き揚げてきて、いったん北海道の夫の郷里に落ち着いたものの仕事がなく、職を求めて大阪にやって来た長姉の家族が住んだ。
 すぐ休もうとする父をよそに、私は働いた。それこそ夜に日をつぎ、ただ闇雲にはたらいた。一ヵ月のうち二十日間は徹夜仕事である。われながら超人的ですらあった。後年、何十人もの弟子を育てるに当って、
「にんげん、働いたぐらいで死にやせん……」と、タコ部屋顔負けの厳しいノルマを課し、深夜におよんでも、さいごの一人が帰ってきて揃うまで飯を喰わさない……という苛酷な躾の基礎がこの時期にできあがったのである。
 むろんその頃はすべて請負仕事で、二月の深更、鶴橋商店街の本建築工事現場における三階の足場の上で、人造洗い出しポンプのハンドルを押す。ポンプの霧も凍る極寒である。滑る筏足場を伝わり、一瞬の油断が死と直結する作業に挑むのである。
 河内松原の木造二戸建の現場では、ワラすさの入った俵の間に寝て、空が白むと同時に起き出し、大きな木製の練箱の表面に張った氷を割り、プラスターや浅黄の上塗り材を練り返して、昨夜十二時ちかくまでかかって塗りつけた中塗のうえに施すのだ。
 普通、一人が三、四日かかる仕事を私は一日で仕上げていった。それでいて出来栄えは他の職人のそれより擢んでいた。自分でいうのも可笑しいが、性来の器用さというか、熱心な凝り性と几帳面さとが、ここでは良い結果を生んで私の評判はよく、名指しで仕事が舞い込むようになった。
 上六のビルの工事で、三日連続の徹夜に明けた朝、帰途の下味原の降り坂でブレーキをかけた自転車のハンドルを握る手が硬直して、どうしてもほぐれず、坂の途中で横倒しに投げ出されたこともあった。この頃、鏡を視ると、極度の睡眠不足から目のふちに婦人病患者のそれを思わす蒼ぐろい隈ができ、幽鬼さながらであった。
 こんな事もあった。――深夜、店舗の土間モルタル塗りの作業中、不覚にも、その場で均し鏝を持ったまま眠り込んでしまい、朝、気がついたとき、動けない。見ると、あたかも、小人の手によって無数のロープと杭で地面に固定されたガリバーのように、私の躯は硬化した土間のセメントに捉えられていた。

 やがて、どう頑張ってみたところで、ひとりの力では知れていると、二十六年の春、伊都子と所帯を持つと、翌年からつぎつぎ弟子を入れ、妻はそれまでの共稼ぎである銀行勤めの、算盤をはじき、ペンを執り、札束をかぞえた手で、朝の四時から夜の十二時ごろまで、住みこみの若い衆の賄と世話に明け暮れ、ろくろく髪を梳く暇もなかった。
 そんな忙しい最中でも子供だけは産まれてきて、子供が三人、住み込みの若い衆が十五、六人、通い職人が二十二、三人ぐらいに達した昭和四十年すぎ、私はまず、父・義母・義妹・義弟、五人の水入らずの一戸を東大阪市内に建て、それまでのバラック群を取り壊し、空いた敷地に本格的な事務所と倉庫と寮を設けて事業の万全を期してから、これまで蓄積した建築思想のすべてを傾けた和風の邸宅を、奈良市西郊の一等地といわれた学園前に普請した。西に臨む大淵池を隔てた向こう岸に、近鉄社長の佐伯邸が在った。

 ――賄婦を雇い、妻を不眠と皹から解放して、それまでの労苦に酬いるために……二年かけた、敷地五百余坪、延床面積二百五十七坪の数寄屋建築の規模もさることながら、家は、私の虐げられた青春の、怨念をこめた、それは、反動の結晶といえた。
 祖母は、その間に亡くなっている。
 義妹が嫁ぎ、義弟二人が独立するのを待ちかねたように、父は――せっかく父のために私が建てた家を、女につぎこんで売ってしまった。ひと言の相談もなかった。
 そうして、上の義弟のもとに転がり込んで、六年後、風呂場で昏倒し、そのまま病院の集中治療室に運ばれた。
 報らせで私が奈良市の自宅から河内長野市の病院に駈けつけた深夜、父はベッドに仰向けに寝かされ、人工呼吸器の装置にかけられていた。
 上半身は裸であった。提灯の竹骨のように肋骨がうき出た胸や、鶏のガラ同然に痩せ細った腕にとめられた何本かのコードがいろんな計器につながっていて、機械的に動くフイゴにも似たレスピレーターのはたらきに反応して心電図が山形グラフの波を刻んでいる。
 まるでここは、無人の遠隔管理にあやつられた実験動物の温床工場だ。レスピレーターの作動音が、洞窟にひそむ複数の巨獣の鼓動を聴く不気味さで私をつつんだ。
「で、医者はどういうてるんや、ツヨシ」
 私は、かたわらの異母弟に声をひそめて訊いた。明るい室内には他に三つのベッドが並んでいて、そのいずれにも似たような手当を受けている患者が固定されていた。みな痩せおとろえた老人ばかりで性別すらさだかではないが、頭髪の恰好から女ひとり男ふたりと判断できた。大きな透明ガラスを隔ててナース・ステーションが在り、二十四時間態勢の看護婦の白衣が見える。
「医者はですね、仮にこのまま命をとりとめても、九十九パーセントは植物人間やいうてますねん」――この状態で、何年も生きる例もあると、義弟はつけ加えた。
「植物人問のままで……何年も」私は絶句した。
 父は、この上もなお我われに厄介をかけるのか……。
 結局、父は意識をとりもどすことなく三日のちに息をひきとった。

 通夜には、異母妹夫婦と、ツヨシの弟夫婦、それに府下八尾市に住む長姉と(夫は先年脳溢血で半身不随になったので来れなかったが)その娘たちが集まり、夜おそくになって東京から次の姉と、私のすぐ下の弟と三男がそれぞれの配偶者を伴って到着した。
 仏壇の脇から読経の声が音吐朗々といった調子でながれていた。それは生前、父が自らの読経をテープに録音した阿弥陀経を含む浄土三部経や五帖御文、正信偈御和讃などの長ながしいものであった。
 父は、小唄・端唄・長唄・新内・都々逸・かっぽれ・謡曲何でもござれ……晩年にいたっては御詠歌に凝り、やがては罪滅ぼしのように御経に没頭した。
 住職が勤行を了えて帰ったあとも、その念仏は絶え間なくつづいていて、ひとしきり終わると、義母がテープ・レコーダーににじり寄っては巻き戻し、また最初から始まるのだった。
 通夜の客は、型どおり遺影の前で頭をたれ、手を合わせ、線香を立てると三々五々ひきあげていき、あとには親戚だけが残った。夜食を潮にみな居間にあつまると、仏間には誰もいなくなった。誰もいない部屋の棺桶のなかで胸に手を組み仰臥した死者が、自分自身が読みあげる経文に回向されている図は何とも奇妙なおかしみがあったが、同時にそれは、ぞっと寒気をともなう孤独な姿を私に強いた。
 まるで、隣室に生きた父が座っているがごとく、ときどき咳払いのまじるお経の声を聞きながら、勝手気ままに生きた父のあり方が話題になった。
「好きなように生きて、死ぬときも、自分が死んだとも分らんような死にかたで、こんな幸福なにんげんはないで。わしに借金の肩代わりばっかりさせて」
 私の言葉に、それぞれがうなずく。しかしそれはおおむね私の愚痴であり、弟たちはゴッドファーザー然とした私のいい分をひたすら聴くという聞き役にまわったが、酒がまわり、しだいと恩きせがましい口舌が嵩じてくると、すぐ下の四つちがいの弟が反撃してきた。
「すると、兄貴がおらんかったら僕たちは死んでた……とでもいうんか。あの時代は、進駐軍配給のおこぼれだけ舐めて、どうにかみんな生きていた時代やないか」
「ああ、そうよ。しかしなあ、終戦後、おれはみんなのために、ひと月二十日間の徹夜をして働いた。そのため俺は高等小学校どまりやけど、おまえらは大学を出た。おやじがおれに断りもなく家を売るまで、月々のおやじらへの生活費を出していたんはおれだけやないか。それにくらべて、おまえらは……ええ。食いもんだけのもんやあれへんねんぞ」
 私の憤懣は、毎度のことながら、それに始まりそれに尽きた。
 話は口ぐちに戦中戦後の家長としての父の責任問題にうつり、その無軌道、放埒ぶりが更めて問い直されて、延々と深夜におよび、
「もう、死んだおじいちゃんのわるくちいうのんは、そのくらいで止めといて――」と絶叫した義母の涙声があがるまでつづいたのだ。
 勝手に家を売ってからの父は二年間音沙汰がなかった。体よく義弟に父を押しつけたかっこうで、私は、私の長男としての義務はそれまでと思っていた。義弟のツヨシは大学卒業後、インテリア専門の会社に勤め、近年独立して自分の会社を興し、それが軌道にのって、むしろ私の収入を上回る所得があるはずだった。
 三年目、父が私のまえに姿をあらわしたとき、女を連れていた。女は、もと大阪堀江新地で左褄をとっていた芸者だったが、色香も失せ、頼る父に甲斐性が無くなると、保険の外交員となって、父に紹介先を強要しているらしかった。
 往年の、歌舞伎役者ばりの二枚目は見る影もなかった。セピア色に褪せた父の若いときの写真をおもいだす。伊達メガネをかけ、ソフト帽をかぶり、瀟洒な白いコートを高級ヤクザ風に羽織って錦帯橋の欄干の手摺りに片手をおいて見得を切っていた立ち姿は今、小さく縮んだ頭に禿かくしの鳥打帽をのせ、背をまるめ、しなびた指先にはさんだ煙草もふるえ気味で、おずおずした口のきき方、落ち着きのない目のあそばせ様は、まったく、うらぶれ果てた老人の挿絵そのものだった。それでいて、ときおり背筋を伸ばし、胸を張って咳払い一つ、女の手前を取り繕ってか、昔の威厳をとりもどすかのように、
「ところで、ユキさん。仕事のほうはあんばいいってるか。ええ……」
 気取った語り口は、本人がただそう思っているだけで、かすれた震え声にしかならず、その素振がまた老醜の見本のようになってうとましく、そんな父に対する肚立たしさがいや増すと、反転、肉親憎悪ともいうべき感情におそわれ、また、そんな自分がやりきれなく、しだいと己れをジレンマの淵に陥れていくのだった。
 父は義弟から、潤沢な小遣いは与えられておらなかったのだろう。しばしば奈良の自宅を訪ねて、いくばくかの金を手にしないとぐずぐずするようになった。
 居留守こそつかわなかったが、私はできるだけそのような父に会うのを避けた。
 冷淡な私に代わって、妻がその都度いくらか渡しているようだった。


 一見、同心円状に広がる木の年輪もまちまちだ。陽当たりの良い南に面した側の年輪は粗く、北側のそれは目が詰んでいる。なかには深く切れ込んで凹凸を形づくっている歪なものもある。喬木もあれば灌木もある。針葉樹と広葉樹は異なり、一様ではない。
 陰と陽。そう。屈折した陰の時代ばかりではなかった。それをバネに暖かい陽をむかえた時期もあったのだ。灌木にも、あるいは喬木にもなりえた。針葉樹にも広葉樹にも。

 順風満帆かにみえた私の事業も、第一次オイルショックで、多額の不渡り手形をつかまされ、それまでの事務所・倉庫・寮に建てかえた借地を明け渡し、借地権料を資金に、東大阪の御厨に縮小した規模の根拠地をもった。
 職人の数は半減した。つづく第二次オイルショック六年後、そこも持ちこたえられず、郊外の八尾にマンションの一室を借り、それを事務所として、倉庫はガレージ五戸、車は付近のモータープールの七区画を借りてしのいだ。
 そうしたバラバラの形態は、当然、非能率であったが、残った子飼い七人の職人のため、いや、自身の生活のために、仕方がないことだった。
 じり貧はそれにとどまらず、バブル崩壊後、これだけは絶対に……と思っていた家もとうとう手放さなければならない羽目になった。あながちそれは、長男昇一の借金経済ためだけではなく、根本的には世の不況に抗しきれなかったのだ。
 敷地も家もまた、それまでの五分の一になり、南は隣家の下見板にふさがれ、小さな庭は雑草の茂るにまかせている。
 そんな中、倉庫代わりに借りていたガレージの立ち退きを迫られる。四度目であった。ガレージには借地権も居住権もない。そもそもガレージを物置に貸すのは違法で、それを盾に家主は宣告するのだ。空いているあいだはともかく、本来の希望者があれば、うっとうしい左官のガラクタ道具などまっぴらだ、といったところか。
 そのつど道具を移動するのも容易ではない。全員一日がかりで費用もかさむ。
 思いあぐねて私は、知人を頼って、事務所から一キロほど離れた恩知川の河川敷沿いに細長い三〇坪の土地を購入して、そこへ鉄骨スレート葺き十五坪余の倉庫とプレハブの事務所を建てた。宅地でもないのに、足元をみられて、土地価格、坪当たり七十万円。これは相場の五割高である。建物あわせて合計二千四百五十万円。頭金の四百五十万円を引いた残りは銀行から借りた。月々、元金四十万円返済の五年月賦。
 取り柄は、敷地に面した河川敷に車が十台ほど駐車できることだった。マンションは四十すぎても嫁のきてのない末の弟子を住まわすことになり、小さな倉庫事務所には入りきれない書類やパソコンやロッカーを置いていたから空けることはできなかったが、それも家賃を末弟子にそれまでのアパート代なみの三分の一を負担させ、私がマンションと倉庫を往復することによって、いままで払っていたガレージとモータープール代が浮いた分を計算すれば、差額は二十万円ほどで済む。五年、何とか頑張れば物件は自分のものになる。なぜ、もっと早く気がつかなかったのか……と、悔やんだくらいだった。

 ところが、今年の五月ごろから、仕事がぴたりと来なくなった。
 こんなことは、左官を始めて五十数年、初めてのことである。オイルショックの時だって何だって、せいぜい一週間か十日ほどの休みで済んだのだ。
 阪神大震災の影響である。震災後も、世間が思うほど忙しくなかった。職人の絶対数がすくないのだから、たとい忙しくとも、受注できないから同じことであったが。
 まあ、細ぼそやっていけるだろうと考えていた矢先、外壁仕上げのほとんどが、サイリングとよばれる軽量化粧板に取って替わられ、そうでなくとも内装など、左官仕上げは日本間くらいで、あとはクロス貼りが幅を利かせる世になっている。
 重い瓦屋根とあいまって、ラス地にモルタルの壁は亀裂が多いと敬遠されたのだ。
 数少ない家が建っても、そんな調子で、左官工事の入りこむ隙もなく、あってもベランダとか基礎塗りの一部に限られ、それは知れていた。
 借金返済はまだ三年ある。よしんばここで廃業を決断し、倉庫の土地を売りにかけてもこの不況下、宅地でもない物件など、買った値段の三分の一でも買い手ははつくまい。
 ――子飼いである職人の最低生活も維持しなければならない。
 失業に等しい無収入の状態で、今後どうするか。頭の底が白く凍りつく。
 三人の経営者が首を吊った事件はまだ私の記憶に生々しい。同時に自殺するなんて、それ自体は心中めいて奇異だが、死にたい気持はよく分る。
 いったい私が、何をしたというのか。一切の賭け事と名のつくものは、――競輪・競馬・競艇・パチンコはいうにおよばず、碁や将棋や麻雀・ゴルフ……宝くじさえ、そこに少しでも賭金の要素が加われば敬遠しつづけてきた。すべて、父が反面教師だった。
 地上げ屋的な土地の買いあさりや株取引とも無縁の存在であった。ただ、我武者羅に精いっぱい地道に働いてきただけだ。なにゆえ、そんな私が、そうしたあぶく経済……不良債権……金融破綻のツケを支払わなければならないのか。阪神大震災の影響はあるにせよ、景気が普通であれば、わずかな職人たちが糊口を凌ぐくらいの仕事量はあるわけだ。
 毎日、毎晩、天気予報なみにテレビにながれる株価や為替などのニュースなど、おぞましいかぎりである。それらに一喜一憂する人間の浅ましさよ。
 一時期、職人を多少つかい、一応の生活をしてきたが、それをも、そういう人たちの努力に与っていたのだ、といわれれば、ああ、何をかいわんや……である。


 私は、湿気を含んで茶色い濡れ雑巾の塊になっているアジサイの花にむかって問いかける。枯れた花はうなだれたままだ。よくよく往生際のわるい花である。しかし――。
 アジサイは、雄しべ雌しべの退化した中性の花ときく。それゆえ、これがこの時期のあるがままの姿だとすれば、それはまた更なる立派な花を育てるための肥やしになろうとしているのではないか。
「クソばばあ」と罵ったときの祖母の表情がうかぶ。悲しげな母の顔も。そうして、無心にきては、ろくろく長男に口を利いてもらえず、悄然と帰っていった父のうしろ姿も。
 その父の通夜の席……咳払いまじりの気取った父の読経の声がよみがえってくる。
 このとき――、はじめて、胸のうちに嗚咽にも似た烈しい痛みがはしった。
 が、考えてみると、父はいっとき歪んだ年輪の月日があったにせよ、ほとんど生涯、万遍なく、ぬくぬく陽を浴びて育った杉みたいな樹で、好きなように生き、死ぬときも、おそらく、自分が死ぬことすら意識する間もなく死んだ幸せな男ではないか。死後も、自分の経で自分を弔うなど、決して孤独ではなかったのだ。すくなくとも、この私よりも。

 しかし、私にも残された家族がいる。パーキンソン病で躯を傾げて歩くようになった六十六歳の妻の容態は気になるが、懸命に事業に打ち込む長男の昇一。家が小さくなっても、舅・姑の同居にも表面おおらかなその嫁。いずれもツンとして可愛げがないが、短大・高校・中学の三人の孫娘。嫁ぎ先で恙なく日を送っている長女。子宝に恵まれず、犬をこども代わりに共稼ぎの次男夫婦。衰えたといえども私も今のところ致命的な疾患はない。あるは経済的孤絶のみ。
 なあーに、また食えなくなったら、この家を売ればいい。売って、あの寺の長四畳みたいなところに棲む気なら、この世に恐いものなどあるものか。要するに、元の木阿彌になるだけのことである。木阿彌……おおいに結構。死んで墓場にもってもいけず、裸一貫。自分はやるだけのことはやったのだ。そうして思う。
 いかに、戦中戦後の惨めな生活の反動とはいえ、あまりにも自分は“物”に固執してこなかったか。浅ましいのは他ならぬ私であった……という、私の声を私は聞くのである。

 有為転変、醜い人間の営みをよそに、アジサイの花は時節がくれば、また白から青紫、そして紅紫と、鮮やかな球状の花弁を愉しませてくれるにちがいない。
 私は来年も、そんな瑞々しい花を見たいとおもう。