〜鉱山編〜
◎ 小坂鉱山
文久 元年(1861) 小坂村農民・小林与作、小坂鉱山を発見。
慶応 元年(1865) 旧盛岡(南部)藩営となる。
明治 2年(1869) 明治維新政府、小坂鉱山を没収。(第一次官営)
明治10年(1877) 南部家に経営権委譲。
明治13年(1880) 南部家、小坂鉱山を政府に返上。(第二次官営)
明治17年(1884) 藤田組へ小坂鉱山を払い下げ。
明治20年(1887) 黒鉱発見。
明治30年(1897) 小坂鉱山に電気導入。(県内で最初に発電し使用)
明治33年(1900) 自溶製錬法確立。広く諸鉱山に影響を与えた。
明治35年(1902) 黒鉱製錬の本格操業。
明治36年(1903) 従業員 5,400人、採掘鉱石 213,098t。
明治38年(1905) 上水道敷設。(浄水場ろ過室現存現役)
明治39年(1906) 大溶鉱炉完成。(当時:世界第一)
明治40年(1907) 鉱産額全国一。(鉱業上あらゆる世界文明の利器を装置)
明治41年(1908) 小坂鉱山病院、秋田県一の総合病院として開設。
明治40年度の数字 小坂鉱山の生産価額 8,871,505円
秋田県の歳入決算額 1,079,000円
「水と電気はタダ」で、住居・配給・医療・衛生・体育・娯楽・文化・宗教の各施設のほか、郵便局・銀行・警察に至るまで企業が招請、設置した。
山間へき地の中に、こつ然と「都市」が現出してあった。明治からの鉱山関連施設が現存し、現役で生産活動が存続していること自体、大きな遺産である。
昭和20年(1945) 社名「同和鉱業株式会社」とし、再出発。
昭和34年(1959) 内の岱大鉱床発見。黒鉱ブーム再燃。
平成 元年(1989) 良質鉱減少、円高不況により小坂製錬株式会社として分離独立。
平成 2年(1990) 鉱石枯渇により内の岱閉坑。(採掘終了)
現在は、南米や北米、カナダ、スペイン等からの輸入鉱を主体に、製錬事業を展開。銀ビスマスの生産量は国内トップレベル。
◎ 露天堀跡
明治41年(1908)〜大正9年(1920)に行われた歴史的掘削。(国内初)
大正3・4年ごろは、その階段は15段余りもあり、約 3,000人が働いていた。採掘跡は、東西300m・南北750m・深さ150mで、日々の作業量は、当時世界の大事業であったパナマ運河に匹敵するといわれた。(原則非公開)
◎ 電錬場
明治42年(1909)に竣成。レンガ造・平屋建。幅約50m、奥行約160m。
最初の電錬場は明治35年(1902)に竣工。明治41年(1908)に火災で 全焼し、ただちに復旧。床下2mの地中には縦横に走るレンガ製、アーチ形暗渠(高 さ約1m)が設置され、硫酸液漏れの対策を明治時代に既に取られていた。
電錬とは、製錬された粗銅(銅の含有率98.5%)を硫酸液につけ、電極分解に よって純銅(含有率99.99%)を種板に移転させる工程。現在の小坂製錬鰍フ主 要業務。(内部非公開)現在は、業務拡張に伴う増築が行われている。
◎ 小坂鉄道
小坂鉱山の激増する需要に対処するため、藤田組が敷設。明治41年(1908) 大館〜小坂間22.33kmを完工。翌明治42年(1909)一般旅客貨物運輸営業を開始した。現在も、貨物専用鉄道として小坂製錬鰍ェ経営。最重要貨物は、製錬の副産物である硫酸。第三セクター線を除いた県内唯一の私鉄。
旅客営業は、渓谷を縫って景観もよく“マッチ箱”の愛称でも親しまれ、1日7往 復・所要時間約36分で運行されていた。しかし、需要減少により平成6年(199 4)9月末で、惜しまれながら85年間の歴史を閉じた。
小坂鉄道の開業は、JR花輪線よりも早く全国39番目。東北最初の私鉄である。 かって東北六県中では、北海道と連絡する青森駅に次ぐ貨物運搬量だった。往時は小坂線で、客車の5両編成や貨物の4重連が見られた。現在も貨物は3重連で、1日2往復運転。貨物の3重連運転は、国内唯一といわれている。
昭和7年10月〜8年9月の貨物量 小坂駅 344,080t
青森駅 368,396t
昭和42年度(1967)は乗車人員210万人(うち小坂線92万人)貨物量108万t昭和3年(1928)に一部区間を電化し、電車とSLが混在して活躍。昭和37年(1962)狭軌から広軌に拡幅し、国鉄(現・JR)との貨物乗り入れを実現。車両はディーゼルカーに代わった。昭和37年導入の現存客車は、国鉄客車と異なる特注車両で、当時としてはデラックスな車両だった。
◎ 山神社
鉱夫たちから篤い信仰をあつめた山神社は、明治39年(1906)に鉱山のほぼ中央の丘の頂に建てられた。本殿は一間社流造で、方三間向拝付の拝殿がその前に建っている。本殿は、鉱山の何処からでも視野におさまるよう配慮されている。