北の街の文学少女
大島多美子
《ヤングアダルト本の世界漫遊記・第3回/S.W.A.N. No.3(1988年10月15日号)》
何から書き始めたものか…とりあえず氷室冴子との出会いなどからでも。一番初めは3〜4年くらい前ではないかと思うのだけれど、マンガ版『クララ白書』の広告でしょう。マンガ雑誌を読んでると、よく同じ出版社の他のマンガ雑誌の広告が載ってたりしますよね、あれです。冒頭の入寮試験−夜中にこっそり45人分のドーナツを揚げる−のシーンなんだけど、どうしてそんな羽目になったのか、どうやってこの試練を成し遂げたのか、なんとなく気になるエピソードだったのです。原作の氷室冴子という名前は初耳で、でも印象に残っていました。
次の出会いは、これがもうどちらが先だったか定かでないのだけど、<なぜか『シンデレラ迷宮』を読みたかったこと>と<『ざ・ちぇんじ』を読んで、なかなか時代考証もちゃんとしているじゃないと思ったこと>のどちらかですね。
いずれにしても、そのあとは一気呵成。時代物、学園物、シリアス、ユーモア取り混ぜてここ数年の間に読んでしまったわけですから、初期からの忠実なファン、なんて律儀ものでは全然ない気まぐれな読者の一人です。いったい私はコバルト文庫に代表されるような<女の子青春小説>の類は基本的にキライです。そういう私が氷室冴子作品のどこを面白いと思ったか、を考えながら文を進めていきますので、コバルト大好き!の方にはかえってご不満かも。
T
まず彼女の初期作品集『さようならアルルカン』を丁寧にみていきたいと思います。ここには第10回青春小説新人賞佳作入選の標題作を含む4短編が載っています。
「さようならアルルカン」
高校2年生の少女(小田桐)の回想。小6から中2まで一緒だった柳沢真澄の思い出。無神経な他者とのかかわりで彼女の強烈な自意識は傷つき、彼女はアルルカンの仮面を被ってしまった。その記憶は、高校での宇野緒美との出会いで印象的によみがえる。なぜなら緒美も「仮面の人生」を送ってきた少年だったからだ。そして、現在。アルルカンにわかれをつげた真澄との再会のあとの新たな出発を暗示して終幕となる。
「アリスに接吻を」
14歳の少女(鹿子)の周辺スケッチ。年長の従姉妹のウエディングドレス、兄の友人たちのいとわしさ、かいまみてしまった友人のキスシーン…鏡の中に映るあなたは子どもでもないおとなでもない危うい少女。
「妹」
歌人の父と虚弱な姉の家庭に反発している「悪い子」の私(霧瀬蒼子)。父の愛情に飢えている思春期の少女には姉の無私の優しさはやり場のない思いを募らせるだけである。激情から姉にきびしい言葉を浴びせてしまった翌日、姉の事故死の知らせを受ける。私は、その時はじめて自分の姉に対する愛情に気ずくのであった。
「誘惑は赤いバラ」
ボーイフレンド秀くんとのデートにどきどきしている私(こゆみ)。だって、今日はわが家に秀くんを連れていく約束をなんだもの、我が家のかしましい連中がなんていうかとっても気になって… でも、友達の宵子がなにか変なの。二日酔いで学校を休んだり、「あんたを嫌いにならなけりゃいけないと思う」なんて突然私に言ったり…
9年前に出されたこの唯一の短編集を見ていると、それだけでいくつかの興味深い部分に気がつきます。現在の氷室冴子作品につながる萌芽でもあります。
彼女達のあまりの軽やかさに私は眩惑され、一歩後退る。
彼女達のためなら、私はいつでも道をあけよう。
耳に、眼に、全身につきささってくる彼女達の誇りかな笑いのためになら、私はどこででも罪人のように面を伏せよう。
だが、そうして私が眼を伏せ、俯いている一瞬の隙をついて、彼女達は見事なほどすばやく、音もなく、羽を脱ぎ落としてしまい、力強く歩き出す術を身につけていく。
脱ぎ落とされた羽の一枚なりとこの手にしてみたいのだけれど、未だにそのかけらさえ見つけられないのはどうしてなのだろう。
(『クララ白書ぱーとU』あとがき)
この少女たちの危うさ、捕らえがたさほど作家たちの心をそそるものはありません。このテーマこそ、多くの作家たちがこのジャンルに筆を染めた理由の大きなひとつでしょう。まして自分が感受性の鋭い少女であった時の記憶が鮮明なうちはことさら。ただし、<作者=少女>という図式は、小説よりもよりアナーキーなマンガというジャンルで花開いた感があります。萩尾望都、大島弓子以降の少女マンガの隆盛です。
さて、大学在学中にデビューした、つまりまだかなり<少女>であったはずの氷室冴子にとってもこの<少女の定着>というテーマは常に頭を離れないものであったはずです。『アリス………』は正面からそれに挑戦していますが、他の3編もあるパターンでまとめられます。それは単に主人公が少女であるというだけでなく、彼女たちがある事件に出会い、動揺するという形で少女期のゆらぎを描いることです。
もっと子どもであれば気づかないだろうし、もう少し大人であれば上手に乗り越えられるのに、といった事件によって。もちろん彼女たちの事件の乗り越え方はそれぞれです。蒼子はドラマティックかつ悲劇的に(いかにも70年代ジュニア小説的に)、まっとうに優等生らしく大人へのステップを登った小田桐さん、ユーモラスにあるがままに乗り越えたのはこゆみちゃん。
前後して書かれた(であろう)長編第1作『白い少女たち』は、札幌のミッションスクールの寄宿舎を舞台にして、一人の少女の突然の失踪が巻き起こす波紋を中心に描いた、まさにタイトルどおり<少女たち>の物語です。以後『クララ白書』、『アグネス白書』『恋する女たち』(わが愛する佳作!)、『雑居時代」』しだいにシリアスからユーモアへ、緊迫感からゆとりへと趣を変えつつすすんでいきます。そして初の時代物『ざ・ちぇんじ』の後の『シンデレラ迷宮』と『シンデレラミステリー』、このちょっと毛色の変わった連作を書くことによって、氷室冴子は<作者=少女>であることを終えたといってもよいでしょう。
それ以降に書かれた『なぎさボーイ』『多恵子ガール』が駄目だっていうんじゃないの。もうこうなるときちんと大人の作家の目であたりを観察したり、自分の中の少女時代の記憶を再構成してつくりだした<俺>であり<あたし>というわけなのだから。こう書くと、こんどは初期の氷室冴子をおとしめているみたいに解釈されても困るんですが…、どちらが優れているというのではなく、作家として成長していく上の一種の必然とでもいうのでしょうか。
U
氷室 いや、ほんとにそうなんですよ。北海道の人って、「うちは東京とは違う、きちんとした独自の文化を持ってるんだ」という自負と、その反面、中央に対するコンプレックスがあるんです。ちょっと文化独立国みたいなところもありますし…
(『小説ことばは耳感覚で』 小林信彦との対談)
北海道立図書館では氷室冴子の著作を郷土資料としてぜひ受け入れるべきではないかと私などは常々思っております。それは彼女が北海道生まれの作家だからというだけではなくて、あの北海道、とくに札幌への執着からです。
前述の短編集のあとがきで『誘惑は………』(場所は札幌)でトウモロコシをどうしても北海道方言のトウキビと書きたかった旨を述べています。
札幌の徳心学園というミッションスクールが舞台の『クララ白書』『アグネス白書』は、会話に「めんこくない」という言い方があったり、ソニープラザ・三越劇場・道新ホール・四プラ・ポールタウンという市内の地名、町村牛乳・千秋庵のノースマンなどという固有名詞も説明無用でさりげなくでてきたりします。
実は、現代ものの作品の大半は、北海道(そのほとんどが札幌)が舞台です。どうして彼女はそんなにも北海道(札幌)にこだわるのでしょう。
出身地だから。そこに住んでいたから。それだけでしょうか?
この夏のコバルト文庫の新刊に『北都プリンセス」』この作者も北海道出身です)というのがありましたが、これがめちゃくちゃ凄い。凄い、というのは、作品の出来は普通ですが、これが一種の情報小説なんですよね。特急「北斗星」は出てくる、ワゴン車のフィリピン料理のお店(今ふうでしょ)は出てくる。
で、この小説の前半の舞台は札幌なんですが、大通り公園で、トウキビをたべている地元の女の子3人と東京からきたカッコイイ大学生の出会い、という(読者に対する)観光案内で始まるんですが、「したって」「かぜて」という女の子たちの北海道コトバの会話にルビがふってあるんですよ! うーむ。
でも、氷室冴子の札幌っていうのは、こんなふうに異国情緒(?)あふれた観光地としての扱い方じゃない。
では、質問を少し変えましょう。
小説の中で<街>を舞台にするときに、普通はどこを使うのでしょうか。
地方都市を小説の舞台にした場合、必ずといっていいほど、そこには東京という都会の影がさしています。遥かな憧れの地として、あるいは夢破れた失意の地として、あるいはその都市を訪れた客人の形をとって、という風に。
けれども彼女の<札幌>はそうではありません。ひとつの完結した世界都市です。内地(という表現が北海道にはあります)の首都は東京、北海道の首都は札幌、くらいの対等さです。ジョイスのダブリンやカフカのプラハと同じ世界都市をコバルト文庫で(それは、知識人ではなく、札幌の女子校生レベルで)やってしまう…というのがスゴイ。
おもしろい話をききました。UWFというプロレスの団体があります。新しく再出発したばかりで、何かと話題なのですが、今のところTVで見られないせいもあって、東京での旗揚げのチケットが発売後数時間で完売した。これは前代未聞のことです。次の会場、札幌のチケットも15分で完売。次も当然「完売」と思われていた博多ですが、このあたりから「ほぼ完売」という表現になってきた。もともとTV放映がない、というのは都市部には強くても地方ではダメ…と既成のプロレス団体から言われ続けてきているのですが、どうやら、そういう大人たちの分別の方が正しいのかな…という状況だそうです。
しかし、ここでおもしろいのはUWFの営業成績ではなく、はからずもこのエピソードが東京と札幌のなにがしかの共通性をあぶりだしてしまったのではないか、ということです。
札幌は<街>なんだから完売ですよ…少なくとも氷室冴子にとってはそうでしょう。考えるまでもないこと、いちいち説明するまでもないこと…というところから氷室冴子の小説ははじめられています。札幌って本当に興味深い街だと思いませんか?
V
氷室 わたしの場合、確かに日常的にしゃべっている言葉は使っていますがでもそっくり持ち込んではいないんですよ。活字化するときに、そこには微妙な取捨選択が働いていますから。活字って本質的にすごく保守的なものですからね。
小林 ええ、あなたは操作してますね。
氷室 ところがそれをお読みになった方々の反応が、若い子ではないんですが、少女マンガのようなしゃべり方だとか、今の女子大生の話し言葉をそっくり持ち込んだみたいな言われ方をするんですよ。わたしはちょっと愕然としました。
(『小説ことばは耳感覚で』 小林信彦との対談)
氷室冴子といえば、一人称<あたし>小説、を女の子のおしゃべり言葉で、軽ーく書いてしまっている、という印象が強いようですが…。対談相手の小林信彦も、自作『極東セレナーデ』の後書で書いているように、この「言文一致」のラインをきめるのは本当にむづかしい。(後から真似をするのは簡単だけど)
ところで、氷室冴子は言葉や文体にこだわる作家ではないかと思います。なにしろ一人称・二人称・三人称のそれぞれの小説を書いたことがあるのですから。 当然、というか皆さんが思いだしたように、<私><あたし><俺>の一人称が圧倒的ですが、二人称<あなた>というのはスゴイ。短編集の『アリス………』です。二人称と言うのは、読者の感情移入を妨げるし、なかなかテクニックがいるので労多くして少なし、となりがちです。この作品も傑作、というわけではありませんが、そういった意味で忘れがたい。
現代ものの一人称をみていくと、上の引用にもあるようにある時点から私→あたしにかわっていきます。『クララ白書』『アグネス白書』全4作は、主人公桂木しのぶ(しーの)の一人称小説ですが、第1巻だけは<私>となっていて、以後の3巻は<あたし>です。呼び方の変化で地の文の長さが変わってくるのも面白い、というか、なるほど、というか…お手元に4冊ある方は最初と最後の巻を読み比べてください。
当然<私>にふさわしい作品世界、<あたし>にふさわしい作品世界という変化もあります。少女達の描き方も、観念的少女からよりありのままへ。(といっても、これが実態をそのまま写したわけではない、ということはお忘れなく。<あたし>も文字で定着された以上は観念の少女なのです)
『アグネス白書 』にはしーののルームメイト、及川朝衣という少女が登場します。彼女の姉に対するひそかな感情は、短編「妹」の主人公蒼子(私)そのものです。けれど、このアグネス舎の世界では、「妹」のような悲劇的クライマックスはおこりません。朝衣はいくつかのトラブルを起こしながらも、しーのたちのお節介のおかげで素直な自分に立ち戻れるのです。こういった展開を、甘い、とかご都合主義と見るむきもあるでしょう。でも、本当の話、思春期の葛藤をいつの間にか乗り越えて大人になっていく人間の方が圧倒的に多いじゃないありませんか。
氷室冴子の言葉に対する関心と言うのは、エッセイ『冴子の東京物語』の随所にみられます。学生の頃ある作家の読点のリズムの打ち方に惚れ、挙げ句の果ては、その作家の自宅付近に宿をとり徘徊したこと(「惚れる」)や気に入った小説を読むと読後にひとり芝居して台詞をいったり演じたりする(「アンケートをとりたい」)など。「ヨソユキ語」の章の北海道二重言語論などを読むとむべなるかな、であります。
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『冴子の東京物語』のひとり芝居の件でもわかるように、お話作りたい−それも、ある物語世界から刺激を受けて−という要素がかなり強い作家だと思います。それが、バラエティに富んだ作品を生んだのではないか。ひとつの作品世界を作り出すとその世界をあちらこちらから視点を当てて描けるという手法はあちらこちらに出てきます。『ジャパネスク・アンコール』なども、正編『なんて素敵にジャパネスク』に対してそういったポジションにある番外編です。
それが端的に現れたのが、この<蕨町シリーズ(というのは私がかってにつけました)>です。『なぎさボーイ』『多恵子ガール』は男の子なぎさくんと女の子多恵子ちゃんの青春恋愛小説で、それぞれの一人称で書かれており、両方あわせてペアになっている作品です。これは、蕨町の中学校と高校が舞台になっていますが、また、この『多恵子ガール』の第1話が、『蕨ケ丘物語』の第1話とペアになっているお話であるといった具合です。『蕨ケ丘物語』は大地主権藤家の跡目相続問題をバックに4人の女性(中学生から70歳すぎのおばあちゃんまで!)のそれぞれの一人称による連作なので、主人公はかわれど、各短編の事件はいろいろと重なり会っています。今のところ、雑誌掲載のみの『北里マドンナ』もこのシリーズなので、このあとまだ増えそうです。
あるいは『「クララ白書』の学園祭の劇「佐保彦の叛乱」のシノプシスや業界パロディもの『少女小説家は死なない!』での、火村彩子センセの傑作ファンタジー「ゲマルツォ城の五頭竜」の粗筋をはじめとしとしてひしめきあっている作中小説たち。ほんとにお話作りが好きですねえ。
また、オリジナルをもとにして、冴子流にアレンジしたものには『ざ・ちぇんじ』(とりかえばや物語)、『ヤマトタケル』(古事記)、そして、ちょっと変わった連作『シンデレラ迷宮』『シンデレラミステリー』があります。
成長するに従って、少しずつ自分だけの王国から抜け出して、もっと大きな世界を知らなくては、ね。
(中略)
だけど、時々、未練がましい顔でそっと王国を振り返ってしまうことがある。もちろん、振り返りながらも、少しずつ遠ざかっていくのだけれど。自分の王国にさよならさよならと言いながら、新しい世界に踏み出していく。それは、とても正しいことなんだけれど、それが生きていくってことなんだけど、時々、それがとても切なくなる…
(『シンデレラミステリー』あとがき)
冒頭に書いたように、読み始めたきっかけは、この『シンデレラ迷宮』なのです。どういうお話かというと…
深い眠りから目覚めた<あたし>は不思議な国で4人の女性と出会う。王妃(白雪姫の継母)、踊り子(白鳥の湖のオディール)、姫君(眠れる森の美女ゼランディーヌ)、奥方(ジェイン・エア)。どうやら、この4人と<あたし>は同じ苦しみをもっているらしい。
そして、作者は物語の中におしげもなく冴子流おとぎ話をばらまきました。たとえば、王妃の物語。白雪姫の継母、というのは陰険な魔女と言うことに相場が決まっていますね。この国の王妃も、王との結婚は隣の大国から押し付けられた政略結婚で、いつも一人で小暗い森に出かけているあやしげな女と国の人々に恐れ嫌われています。でも、形は政略結婚でも、かつて王様が幼かった頃、人質として住まわされていた隣国で、小さな初恋がなかったとどうしていえましょうか。一人で森をさまようのも遠いふるさとの森の国を懐かしんでのこととは思えないでしょうか。と、いった具合いに。
このように、自分の慣れ親しんだおはなしのわき役たちの復権をやってのけた作者、氷室冴子とともに読者は物語をおもちゃとして遊ぶことができます。でも、いつまでも遊んでいることは許されない。これはリハビリテーションなのだから。 名前も思い出せなかった<あたし>・利根は、彼女たちの苦しみに気づくたびに、自分がここにいるわけを思い出しそうになるのですが、とうとう最後の招待主奥方ジェイン(「『ジェイン・エア』は氷室冴子の愛読書!)のもとで気が付くのです。利根は失恋、それも意志表示もしていない幼い片思いなのですが、の傷みを忘れようと深い眠りにつき、いつまでもこの懐かしい夢の世界、いつまでも何かを待ち続けるシンデレラたちの仲間入りをしていたのだと。真実に気がついた利根は、ジェインとお互いの再出発を約束して、(字義どおり)目覚めるのでした。
次作『シンデレラミステリー』は以下のような小説です。『………迷宮』での経験の後、親友もでき、「現実は時々、とても美しいと、わけもなく感動することがあるがあるほど」になった利根だが、もう一度物語の世界にトリップしてしまう。ジェイン失踪の謎ときの答えは、前作同様、現実世界の利根をもう一歩成長に踏み出させてくれるものなのだが…。
この作品を氷室冴子ファンが、いえ読んでみたあなたがどう評価しているか知りたいものです。彼女の作品の中では出来のいい方ではないと思います。ミステリ仕立ての部分が分かりにくいし、テーマも前作『………迷宮』のだめ押し的な感じだし…。
けれど、とても心に引っかかる作品です。ひとつには、私も<利根>であったこと、おそらく氷室冴子もそうだったのでしょう。ま、思春期に趣味が「読書」だったなんて人間は多かれ少なかれ<利根>でありますが。その共感の他に、どうして第2作『………ミステリー』を書いたのだろうという興味。
『………迷宮』では、物語世界で遊ぶことと現実世界で大人になっていくことは、最終的には後者に傾くとは言え、かなり同等の比重を持っています。ある種のゆとりが感じられますが、『………ミステリー』は利根のあせりと切なさ、そしてあとがきにみられる氷室冴子自身の「大人になること」の意志表明と何回もの<だけど>のゆらぎ。
子どもの頃遊んで真っ黒になったぬいぐるみをいつまでも持ち続けることはできない、それはわかっているけれども。とっておいても飾っておくだけ、そのうち気にも止めなくなるだろう、それはわかっているけれども。でも、自分で「これはもういらない」と認めるのはとても苦しい。氷室冴子はそれをやっちゃったんだよね、偉いなぁ、でも切ないなぁ、と思います。
氷室冴子が優れたストーリーテラーであるという点は、多くの人が認める作品の魅力のひとつです。しかし、私にとっての彼女の作品の魅力の一番の部分は、ここ…この切なさへの共感…にあるのです。