旭川にて
初代旭川停車場(明治37年改築
大正2年落成第2
次駅舎
第3次旭川駅 
(昭和35〜平成22年10月9日)


第4次旭川駅
(2010/10/10 開業)
周辺整備前の高架駅 北側よりの写真
新駅周辺図
周辺整備の後(2011年秋?)
中央が駅、上が駅北の市街、中央が新駅、下に忠別川
右端のカーブが富良野線

明治31年7月15日に空知太〜旭川間の鉄道が開通し、宮下通8丁目に停車場が設けられた。停車場から宮下通にかけては傾斜して、小川が流れ、湿地や小沼が点在していたという。明治37年11月改築されたがが駅前の整備が進まず、「ヤチノキ」の巨木があった。啄木が降り立ったのは改築後の駅舎である。
第2次駅舎は大正2年に落成し、昭和35年まで続き、駅前広場は次第に整備された。
 第7師団から旭橋、師団通りを行進してきた出征兵士は、駅前広場に整列し、市民の見送りを受け、ノモンハン事件のなどの英霊はここで出迎えられた。
「北彩都あさひかわ」計画によって、2010年10月10日高架駅が開業する。やがて旧駅舎は取り壊され駅周辺は整備されるだろう
 なお、1898年開業時の駅名は(あさひわ)であったが1905年濁音の(あさひわ)と改称されていた。啄木が降り立ったのは(あさひわ)である。さらに1988年(あさひかわ)に戻った。
旭川市のホームページにはCity of Asahikawa と書かれていて、自治体名はあさひわである。
列車が駅に到着すると駅名の案内放送があったが(あさひがわ)が耳慣れた名称であった。最近の列車内での案内は(あさひかわ)である。

宮越屋
宮越屋のあった位置に立つ
旭川西武
案内表示

啄木の宿泊は向かって右の二階の部屋
宮越屋付近はかって旅館街であったが火災で消失した
上川支庁
北海旭新聞社
北海旭新聞社跡付近

名称の変更、立て替え,住所の変更などがあり、
この建物かどうか確認できない
旭川に下車して、停車場前の宮越屋旅店に投じた。帳場の上の時計は、午後三時十五分を示して居た。
日の暮れぬ間にと、町見物に出かける。流石は寒さに名高き旭川だけあつて、雪も深い。馬鉄の線路は、道路面から二尺も低くなつて居る。支庁前にさる家を訪ねて留守に逢うひ、北海旭新聞社に立寄った。旭川は札幌の小さいのだと能(よ)く人は云ふ。成程街の様子が甚だよく札幌に似て居て、曲つた道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい。さる四辻で、一人の巡査が恰(あたか)も立坊の如く立つて居た。其周匝(まはり)を一疋の小犬がグル/\と廻つて頻りに巡査の顔を見て居るのを、何だか面白いと思つた。知らぬ土地へ来て道を聞くには、女、殊に年若い女に訊くに限るといふ事を感じて宿に帰る。
湯に這入つた。薄暗くて立ち罩(こ)めた湯気の濛々(もうもう)たる中で、「旭川は数年にして屹度札幌を凌駕(りようが)する様になるよ」と気焔を吐いて居る男がある。「戸数は幾何あるですか」と訊くと、「左様六千余に上つてるでせう」と其人が答へた。甚※(どんな)人であつたかは、見る事が出来ずに了つた。
夜に入つて東泉先生も札幌から来られた。広い十畳間に黄銅の火鉢が大きい。旭川はアイヌ語でチウベツ(忠別)と云ふさうな、チウは日の出、ベツは川、日の出る方から来る川と云ふ意味なさうで、旭川はその意訳だと先生が話された。
催眠術の話が出た為めか、先生は既に眠つてしまつた。明朝は六時半に釧路行に乗る筈だから、自分もそろ/\枕につかねばならぬ。
時刻表によると旭川の定時到着時刻は午後1時58分である。日誌には3時15分下車と、雪中行には帳場の上の時計は午後3時15分を示していた書かれている。
駅から宮越屋までおよそ100mであるから2分程かかっただろう。いずれにせよ、汽車は1時間15分ほど遅れたことになる。日記にも雪中行にも途中遅れの原因となるような吹雪の記録は見られない。なぜ1時間も遅れたのだろうか。
日の暮れぬ間に町見物に出かけている。1月21日の旭川の日没は午後4時27分である。支庁前のさる家などを訪ねている。帰り着くまで2kmに満たない距離だが、慣れない雪道を1時間近くもかかったと思われる。投宿後間もなく出かけたとしても、宿に帰った時は日が暮れていただろう。
 宿泊の地案内には北海旭新聞に野口雨情を訪ねたが留守と書かれているが雨情はこの時期勤務しいていなかった
また、案内には北海旭新聞を尋ねてから宮越屋に入ったように書かれているが啄木の。雪中行の記述とは異なる
富良野線はもともと道央と道東を結ぶ幹線として建設された路線である。鉄道建設よりも,道路の開削が重要視されたが、北海道庁長官・北垣国道の「北海道開拓意見具申書」などにより鉄道建設の気運が増し,第一期線の一つとして,旭川と根室をむすぶ十勝線が計画された。
工事は旭川から進められ,美瑛,上富良野と順次開業し,下富良野(現・富良野)には明治33年8月に達した。一方,釧路側からも工事が進められ,明治40年9月に狩勝トンネル貫通により,旭川−釧路間が開通,釧路線と改称した。
しかし、大正2年に短絡線として滝川−下富良野間が開通し、富良野線は幹線としての地位を失い、更に日勝線の開通により、滝川・新得間の根室本線も幹線としての役割を終え、富良野線ホームは駅舎から100メートル以上も離れている。
昭和10年代、私が旭川で育った頃は、富良野線沿線は全くの田園地帯であったが、今、旭川近郊には住宅団地が開かれ、大学病院や旭川空港が連なり、更に進めば美瑛などの観光地が続き、快速列車など十数往復が運行されている。
高架工事が進められているが、富良野線ホームも高架に移ることだろう
2010年10月10日高架駅が開業、遠く離れていた富良野線ホームを新駅に移った。やがて周辺は整備されるだろう。

旭川駅富良野線ホーム 
高架駅以前
高架駅で富良野線が発着する1番線のあるホーム
(10月10日撮影