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苜蓿社と啄木
明治39年秋に文芸誌刊行を目的とした結成した文学愛好グループで、メンバーは、並木翡翠、松岡蕗堂、岩崎白鯨、吉野白村、大島野百合、飯島白圃、向井夷希微らでした。明治40年1月雑誌『紅苜蓿』(べにまごやし)を創刊していた。明治19年生まれの啄木と明治15年生まれの松岡蕗堂およそ同年代であり、文通しあう仲であったが
、啄木は蕗堂から文芸誌発刊の通知を受けると、すぐに、「公孫樹、かりがね、雪の夜」の三編を送り、創刊を祝った。
 創刊号は評判も良く販売部数も伸びていたが、その後原稿が不足がちになっていた。
 そのような時、啄木から函館に行って仲間に加わりたいという手紙を受け取り、仲間入りを歓迎した。啄木は、詩集『あこがれ』を出した天才詩人として名声を博してい
いたからであるが、啄木としては、生活に困り、函館行きを希望していたのである。
 苜蓿社は、松岡蕗堂の下宿先の八畳間にあり(青柳町45番地)啄木は、松岡と同居人の大井と3人でこの八畳間に起居をともにした。
 それまでの事実上の主宰者大島野百合は、女学校の国語の教師であったが教え子との結婚の破綻のため、日高に去り、啄木に編集が任されることとなった。
 「何か働く職が得られる様なら函館へ行きたいと思ふ」という手紙を受け取ったときの私達苜蓿舎同人の興奮ぶりは我ながらおかしい程であった。何しろその頃の啄木は一部の人から天才とたたえられ中央詩壇でも名を謳われて居たのだから、同じ明星派の流れを汲み而かも文学的郷土の函館に居すくまって遠くから望見して居る私達は、彼をあの美しい尾を曳いて天空を翔ける彗星になぞらえたり、私達の雑誌「紅苜蓿」の巻頭に彼から贈られた長詩を創刊号以来何回も載せて珠玉の様に誇示したりして居た・・・・
孔雀が鶏舎へ舞いこむ位に私達を狂喜させたといっても別に誇張ではない。勿論それが八方を食詰めて「石をもて追はるる如く故郷を出る」彼の函館落ちの瀬踏みの手紙だとは知る筈もなかった。
(宮崎郁雨「石川啄木読本」『函館落ちした啄木』

明治四十丁未歳日誌 明治40年5月5日(9月6日 記)
雑誌紅苜蓿は四十頁の小雑誌たれども北海に於ける唯一の真面目たる文芸雑誌なり、嘗て故山にありし時松岡君の手紙をえて遥かに援助を諾し一二回原稿を送れる事ありき、今予来って此函館に足を留むるや、大島氏の懇請やみ難くして予は遂に其主筆となりぬ。

啄木が編集した『紅苜蓿』は内容が充実し、啄木は六号に、次のような入社の辞を掲載している。
私事去る五月五日みちのくの花をあとにして、津軽の瀬戸を渡り、函館の人と相寄候ひしが、爾今、苜蓿社同人の清盟に加わり、所期を偕にして浪あらき北海の一角に、此文芸の孤城を守る事と相成り申候。
読者諸君へ、一寸入社の御挨拶迄。
  六月十日                   石川啄木

第七号では、啄木は、小説『漂白』を発表し、また、「六月の雑誌界」と題して『帝国文学』『明星』『新小説』の評論を書き、久しぶりに匿名で17首の短歌を発表した

■苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)
 函館の文学結社。文学愛好者の集まり野薔薇会の松岡蕗堂(政之助)の提唱で1906年(明39)暮れに結成。同人は蕗堂のほか吉野白村(章三)・岩崎白鯨(正)・並木翡翠(武雄)・宮崎郁雨(大四郎)。大島流人(経男)を主宰者に迎えて翌1907年(明40)1月に文芸誌『紅苜蓿』を創刊。寄稿者として飯島白圃・向井夷希微・伊藤稚山・西村彦次郎・永持徳市・長坂鑑次郎・沢田天峰ら,誌友として丸谷喜市・夏堀精一郎・相田直吉・和田豊作・浜野末吉・近藤龍三・阿部覚治らがいた。
 啄木は1907年(明40)1月の創刊号に詩3篇を寄稿している。この年3月,父一禎の宝徳寺復帰の働きかけが挫折し,渋民小学校の代用教員職を辞すことを考えていた啄木は松岡蕗堂に渡道を打診し,5月5日に函館に入って,『紅苜蓿』第6号から編集を任されている。ちなみに“苜蓿”とは詰草・クローバーのこと。


苜蓿社同人たち
 
並木翡翠 並木武雄。明治20年東京で生まれ、函館商業学校、東京外国語学校を卒業後三井郵船会社に入社、函館支店次長をしていた。
年二十一、郵船会社にあり、一番ハイカラにしてヴァイオリンを好み絵葉書を好む、
松岡蕗堂 松岡政之助 明治15年秋田県仙北郡横堀町で生まれる。紅苜蓿発刊当時は控訴院雇。明治40年夏病気のため故郷秋田に帰っていたが、大火の知らせを
聞き、直ちに函館に帰る。啄木より先に札幌へ移り道庁農務課に勤務し、啄木を北門新報に迎える。
その後小樽製油会社、旭川毎日新聞などに勤務して昭和25年没。
控訴院雇にして、色白く肥りて背は余り高からず、近眼鏡をかけて何処やら世にいふ色男めいたる風?也、手はよく書けり、床の間に 様々の書籍あれど一つとしてよく読みたりと見ゆるはなかりき、後に知りたる並木君と共に、この人も亦書を一種の装飾に用うる人なり 、さてその物いふ様、本来が相憎よき人にあらねど何処となく世慣れて社の誰よりも浮世臭き語を多く使ふ癖あり、一口にいへば一種の ヒネクレ者なり、これ其過去の富裕なる生活経験が作りたる哀しむべき性格ならむ。秋田県横堀の人、十五にして郷関を脱出してより流離転沛、南北にころがり歩いて惨苦具さに嘗めたりといふ、これ其境遇によるといべども、亦要するに共性格によれり、
岩崎白鯨 岩崎正。函館郵便局為替係。22歳。青森県八戸の出身で、裁判所判事だった父に先立たれて中学を中退し、函館郵便局に勤め母や弟妹など6人の家族を養っていた。肺結核にて松前の姉の元で療養していたが函館に戻り大正3年死去。
松岡君より少き事三歳、恰も予と同齢たり、君が十六の時物故したる父君は裁判所判事なりしといふ、八戸の中学にありて父君の死に 逢ひ爾後郵便局に入りて今現にこゝの局の二番口に為替の現業員たり、青くして角たる其顔、奇にして胸の底より出づる其声、一見して 兵卒直なる性格を知る、口に毫も世事を語らず、其歌最も情熱に富み、路上をゆくにも時々会心の歌を口ずさむ癖あり、
吉野白村 宮城の人、年最も長じ廿七歳といふ、快活にして事理に明かに、其歌また一家の風格あり、其妻なる人は仙台の有名たる琴楽人猪狩きね子嬢の令妹なり、一子あり真ちやんといふ、

明治14年〜大正7年肺結核で死亡。吉野章三。宮城県柴田郡舟岡村(現在:宮城県柴田郡柴田町舟岡)生まれ。苜蓿社同人。明治30年舟岡で教員となり、37年8月北海道中川郡利別小学校訓導、39年2月函館区立東川小学校。妻貞子は仙台の琴學家猪狩きぬ子の妹で、白村と同様区立宝小学校で教鞭を取った。
40年8月釧路に移り天寧小学校校長となる。
白村は啄木の就職探しに尽力し、函館商業会議所主任に啄木を紹介し臨時雇いとさせ、更に弥生尋常小学校代用教員として職を得させた。
啄木が上京後節子夫人を宝小学校の代用教員に就職させたのは白村夫人であった。
「かなしめば高く笑ひき・酒をもて・悶を解すという年上の友」の友は白村。
5月11日,苜蓿社同人吉野白村(章三)の紹介で函館商業会議所に臨時雇いの職を得る。日給60銭。
 5月26日,「馬車の中」を作詩。『紅苜蓿』第?号に発表。
 5月30日,商業会議所を辞める。
 6月11日,吉野白村の紹介で函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。月給12円(三級上俸)。同僚に19歳の“鹿ノ子百合”橘智恵子がいた。
大島野百合 大野経男、流水のペンネームを持つ。明治10年2月19日現在の静内町で生まれる。札幌農学校出身。31年から函館に住み函館遺愛女学校、私立函館英語学校で教鞭をとり、私立清和女学校の講師。
傍ら新詩社の社友として「明星」に短歌を発表していた。
教え子との結婚の破綻や人生に対する懐疑から「紅苜蓿」の編集を啄木に託して7月、故郷日高に帰る。
2年後から流人のペンネームで北海タイムスでのジャーナリストとして活躍。大正7年に上京。昭和17年没。
予らの最も敬服したる友なり、学深く才広く現に靖和女学校の教師たり、
飯島白圃
向井夷希微 向井永太郎
私塾を開いて英語を教へつつあり

宮崎郁雨(みやざき・いくう)
 1885年(明18)4月5日〜1962年(昭37)3月29日
 歌人。苜蓿社の同人。本名は大四郎。新潟県北蒲原郡荒川村で生まれる。その前年に祖父が200年続いた旧家を食いつぶして死去。大四郎5歳のときに一家は函館に移り味噌製造業を営む。大四郎は鶴岡小学校・宝小学校をへて北海道庁立函館商業学校を1905年(明38)3月に卒業,その年12月に1年志願兵として陸軍の旭川野砲第7連隊に入営し,翌年11月に除隊。函館に戻って苜蓿社の同人になった。
 1907年(明40)5月に啄木が北海道に渡って以来の友人で,啄木が北海道を離れて上京するとき家族を託されている。函館での交流は2ヶ月足らずだったにもかかわらず終生啄木一家に物心両面にわたる惜しみない援助を与えた。啄木の第1歌集『一握の砂』は,金田一京助とならんで郁雨にデディケートされている。1909年(明42)10月26日,啄木の妻節子の妹フキ子と結婚,啄木の義弟となる。節子への手紙問題から啄木は晩年に義絶したが,郁雨は函館啄木会の設立,啄木文庫の設置,立待岬への啄木一族の墓建立などに奔走した。1923年(大12)家業の味噌製造を継いだ。1958年(昭33)に函館市文化賞を受賞。1960年(昭35)11月,『函館の砂――啄木の歌と私と』(東峰書院)を刊行。没後の1963年(昭38)4月,『郁雨歌集』(東峰出版)が刊行された。享年77。
 『郁雨歌集』から1首をあげる。
  唯一のわれの遺業となるならむ啄木の墓を撫でてさびしむ ◇
 啄木が郁雨を詠んだ歌3首。
  演習のひまにわざわざ/汽車に乗りて/訪ひ来し友とのめる酒かな *
  大川の水の面を見るごとに/郁雨よ/君のなやみを思ふ *
  智慧とその深き慈悲とを/もちあぐみ/為すこともなく友は遊べり 









 紅苜蓿(べにまごやし→れつどくろばあ)
 啄木が寄稿し 後に編集もした「苜蓿社」の雑誌名で、啄木するようになってからは、誌名を「れっどくろばあ」と英語読みにした。
 苜蓿、クローバーにはいろいろな種類がある。苜蓿は春の季語。 
うまごやし(野苜蓿)一名まごやし Medicago denticulata,Willd
欧米原産の越年生草本。徳川時代渡來以来帰化植物となりて野生し特に沿海の地に多し。根は分枝して根瘤を具え、茎は基部より分枝し、横臥しあるいは傾上す。無毛あるいは少しく毛をおぶ。葉は互生。有柄の三小葉複葉をなし、小葉は倒卵形あるいは倒心臓型。先端円形あるいは凹入し、上部に鋸歯あり。下部は楔型。長さは凡1-1.5cm。托葉は鋸歯を有す。春日、葉腋より花梗を抽き、上部に頭状に聚りて少数の黄色蝶形花を開く。莢果は螺囘して莢面に美しき網目を有し、辺縁に毛状突起を具う。肥料及牧草として佳なり。和名馬肥やすと称するは此草良好なる飼馬科なればなり。漢名苜蓿(慣用)天藍は蓋しうまごやしならん。
牧野 植物図鑑:昭和15年より引用。一部現代表記に変え、カナはひらがなに。漢字の一部は新字体とした。

うまごやし
飼料および緑肥とするために栽培もされるマメ科の植物。飼料としてウマに与えると肥えるということから,ウマゴヤシ(馬肥し)という和名がついた。
近縁種のムラサキウマゴヤシ M. sativa L. や M. falcataはアルファルファまたはルーサンと呼ばれ,また,コメツブウマゴヤシ M. lupulina L. はウマゴヤシに似た
ヨーロッパ原産の帰化植物で,同じく牧草や緑肥として広く利用されている。

クローバー
マメ科,シャジクソウ属 Trifolium の多年草または一年草の総称。江戸時代,オランダから医療器具などを輸入した際,荷詰め用として日本に渡来したところからツメ
クサの名がある。
おもなものにシロクローバー(シロツメクサともいう),アカクローバー(アカツメクサ,ムラサキツメクサともいう),アルサイククローバー T. hybridum L.
(英名 alsike clover。タチオランダゲンゲともいう),ストロベリークローバー T.fragiferum L.(英名 strawberry clover。ツメクサダマシともいう),クリムソン
クローバー T.incarnatum L.(英名 crimson clover。ベニバナツメクサともいう),サブクローバーなどがある。
 これらの中でも,とくにシロクローバーをクローバーと呼ぶことが多い。 シロクローバーの原産地は,ヨーロッパからアジアにかけての温暖な地域とされ,今日では
世界中に広く分布している。日本には江戸時代に渡来し,明治以降も牧草用などにいくつかの品種が導入され,現在では各地に野生化している。
日立デジタル平凡社 CD-ROM版 世界大百科事典より一部引用

苜蓿
アカクローバー
シロクローバー