| 並木翡翠 |
並木武雄。明治20年東京で生まれ、函館商業学校、東京外国語学校を卒業後三井郵船会社に入社、函館支店次長をしていた。
年二十一、郵船会社にあり、一番ハイカラにしてヴァイオリンを好み絵葉書を好む、 |
| 松岡蕗堂 |
松岡政之助 明治15年秋田県仙北郡横堀町で生まれる。紅苜蓿発刊当時は控訴院雇。明治40年夏病気のため故郷秋田に帰っていたが、大火の知らせを
聞き、直ちに函館に帰る。啄木より先に札幌へ移り道庁農務課に勤務し、啄木を北門新報に迎える。
その後小樽製油会社、旭川毎日新聞などに勤務して昭和25年没。
控訴院雇にして、色白く肥りて背は余り高からず、近眼鏡をかけて何処やら世にいふ色男めいたる風?也、手はよく書けり、床の間に 様々の書籍あれど一つとしてよく読みたりと見ゆるはなかりき、後に知りたる並木君と共に、この人も亦書を一種の装飾に用うる人なり 、さてその物いふ様、本来が相憎よき人にあらねど何処となく世慣れて社の誰よりも浮世臭き語を多く使ふ癖あり、一口にいへば一種の ヒネクレ者なり、これ其過去の富裕なる生活経験が作りたる哀しむべき性格ならむ。秋田県横堀の人、十五にして郷関を脱出してより流離転沛、南北にころがり歩いて惨苦具さに嘗めたりといふ、これ其境遇によるといべども、亦要するに共性格によれり、
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| 岩崎白鯨 |
岩崎正。函館郵便局為替係。22歳。青森県八戸の出身で、裁判所判事だった父に先立たれて中学を中退し、函館郵便局に勤め母や弟妹など6人の家族を養っていた。肺結核にて松前の姉の元で療養していたが函館に戻り大正3年死去。
松岡君より少き事三歳、恰も予と同齢たり、君が十六の時物故したる父君は裁判所判事なりしといふ、八戸の中学にありて父君の死に 逢ひ爾後郵便局に入りて今現にこゝの局の二番口に為替の現業員たり、青くして角たる其顔、奇にして胸の底より出づる其声、一見して 兵卒直なる性格を知る、口に毫も世事を語らず、其歌最も情熱に富み、路上をゆくにも時々会心の歌を口ずさむ癖あり、 |
| 吉野白村 |
宮城の人、年最も長じ廿七歳といふ、快活にして事理に明かに、其歌また一家の風格あり、其妻なる人は仙台の有名たる琴楽人猪狩きね子嬢の令妹なり、一子あり真ちやんといふ、
明治14年〜大正7年肺結核で死亡。吉野章三。宮城県柴田郡舟岡村(現在:宮城県柴田郡柴田町舟岡)生まれ。苜蓿社同人。明治30年舟岡で教員となり、37年8月北海道中川郡利別小学校訓導、39年2月函館区立東川小学校。妻貞子は仙台の琴學家猪狩きぬ子の妹で、白村と同様区立宝小学校で教鞭を取った。
40年8月釧路に移り天寧小学校校長となる。
白村は啄木の就職探しに尽力し、函館商業会議所主任に啄木を紹介し臨時雇いとさせ、更に弥生尋常小学校代用教員として職を得させた。
啄木が上京後節子夫人を宝小学校の代用教員に就職させたのは白村夫人であった。
「かなしめば高く笑ひき・酒をもて・悶を解すという年上の友」の友は白村。
5月11日,苜蓿社同人吉野白村(章三)の紹介で函館商業会議所に臨時雇いの職を得る。日給60銭。
5月26日,「馬車の中」を作詩。『紅苜蓿』第?号に発表。
5月30日,商業会議所を辞める。
6月11日,吉野白村の紹介で函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。月給12円(三級上俸)。同僚に19歳の“鹿ノ子百合”橘智恵子がいた。 |
| 大島野百合 |
大野経男、流水のペンネームを持つ。明治10年2月19日現在の静内町で生まれる。札幌農学校出身。31年から函館に住み函館遺愛女学校、私立函館英語学校で教鞭をとり、私立清和女学校の講師。
傍ら新詩社の社友として「明星」に短歌を発表していた。
教え子との結婚の破綻や人生に対する懐疑から「紅苜蓿」の編集を啄木に託して7月、故郷日高に帰る。
2年後から流人のペンネームで北海タイムスでのジャーナリストとして活躍。大正7年に上京。昭和17年没。
予らの最も敬服したる友なり、学深く才広く現に靖和女学校の教師たり、 |
| 飯島白圃 |
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| 向井夷希微 |
向井永太郎
私塾を開いて英語を教へつつあり |
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宮崎郁雨(みやざき・いくう)
1885年(明18)4月5日〜1962年(昭37)3月29日
歌人。苜蓿社の同人。本名は大四郎。新潟県北蒲原郡荒川村で生まれる。その前年に祖父が200年続いた旧家を食いつぶして死去。大四郎5歳のときに一家は函館に移り味噌製造業を営む。大四郎は鶴岡小学校・宝小学校をへて北海道庁立函館商業学校を1905年(明38)3月に卒業,その年12月に1年志願兵として陸軍の旭川野砲第7連隊に入営し,翌年11月に除隊。函館に戻って苜蓿社の同人になった。
1907年(明40)5月に啄木が北海道に渡って以来の友人で,啄木が北海道を離れて上京するとき家族を託されている。函館での交流は2ヶ月足らずだったにもかかわらず終生啄木一家に物心両面にわたる惜しみない援助を与えた。啄木の第1歌集『一握の砂』は,金田一京助とならんで郁雨にデディケートされている。1909年(明42)10月26日,啄木の妻節子の妹フキ子と結婚,啄木の義弟となる。節子への手紙問題から啄木は晩年に義絶したが,郁雨は函館啄木会の設立,啄木文庫の設置,立待岬への啄木一族の墓建立などに奔走した。1923年(大12)家業の味噌製造を継いだ。1958年(昭33)に函館市文化賞を受賞。1960年(昭35)11月,『函館の砂――啄木の歌と私と』(東峰書院)を刊行。没後の1963年(昭38)4月,『郁雨歌集』(東峰出版)が刊行された。享年77。
『郁雨歌集』から1首をあげる。
唯一のわれの遺業となるならむ啄木の墓を撫でてさびしむ ◇
啄木が郁雨を詠んだ歌3首。
演習のひまにわざわざ/汽車に乗りて/訪ひ来し友とのめる酒かな *
大川の水の面を見るごとに/郁雨よ/君のなやみを思ふ *
智慧とその深き慈悲とを/もちあぐみ/為すこともなく友は遊べり
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