前9年・後3年の役
 八幡太郎義家の活躍
 
奥州藤原氏と八幡太郎義家

八幡太郎義家は父頼義とともに、当時奥州(東北地方)を支配し、朝廷に反逆していた安倍一族等を、清原(後の藤原3代に繋がる家系)と組んで、亡ぼしました。これが縁で、藤原氏との繋がりを持ち、100年後に、源九郎義経が三代・藤原秀衡を頼って、奥州へ赴くことになります。

 源太が産衣(げんたがうぶぎ・源氏相伝の家宝)
 河内源氏・源頼義の長男として、武門の家に生まれた義家は、2歳で帝に拝謁した時、鎧を着せられておりました。その鎧は、"源太が産衣”と名付けられて源家の家宝として歴代引き継がれて、源頼朝にも引き渡されたのです。(源太は幼名)

 髭切の太刀(源家相伝の家宝)
 前9年の役で、敵の首を髭ごと切り捨てた太刀は、”髭切(ひげきり)”と申して、源太が産衣とともに、頼朝が相続しました。

 八幡太郎義家の名前の由来
 源義家は元服式を、八幡市(京都府)の男山八幡宮で挙げた事にちなんで、八幡太郎義家と名乗りました。また、八幡宮が源氏の氏神にもなりました。
勿来の関を越えて、戦いに向かう義家
                  
画 年英
左の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
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     ”八幡太郎 ”     大正元年 小学校唱歌

 1、 駒の蹄(ひづめ)も匂うまで  ”道も背に散る山桜かな”
   しばし眺めて、 ”吹く風を 勿来(なこそ)の関と思えども”
   かひなき名やと微笑んで  ゆるく打たせしやさしさよ。
 
 2、 落ち行く敵を呼び止めて  ”衣のたては綻びにけり”
   敵は見返り  ”年を経し 糸の乱れの苦しさに”
   つけたることのめでたさに   めでてゆるししやさしさよ。


(これは小学4年生用として文部省が採用した、大正元年当時の小学唱歌です。今の小学生の歌と較べると隔世の感が有ります。)
前9年の役 あらすじ

 源義家は、清和天皇から源氏の姓を賜わって人臣に下り、摂津の国に基盤を置いた源満中を祖とする武門の家系に、源頼義の嫡男として、長暦3年(1039)に生まれたました。当時は、河内の国(現・羽曳野市)に領地を持っていました。従って、一般には、この一族を、”
河内源氏”と呼びます。ですから、彼は源氏の嫡流なのです。幼名は、”源太”と申します。

 2歳の時、白河天皇の拝謁を賜る機会を得て、その時、産着(うぶぎ)の代わりに着せられた鎧が、
”源太が産着”と名付けられて、末代まで家宝となりました。

 
永承6年(1051)陸奥の国の豪族、安倍頼時が、同地の国守に反抗して、租税の徴収や、使役も拒否している旨の報告が、朝廷(後冷泉天皇)にもたらされました。早速、陸奥の守藤原登任を、討伐に向かわせましたが、資力を蓄えた安倍の大軍を前に、大敗してしまいました。

 
慌てた朝廷は、当時、既に関東で武勇の誉れが高かった源頼義を鎮守府将軍・陸奥の守に任じて、安倍征伐に向かわせました。

 と申しますのは、源頼義は、20年ほど前に、関東一円を舞台に、反乱を起こした平忠常を亡ぼし、一躍名声を博して、数々の武勇伝が語られたほどだったのです。
 
 朝廷の期待を一身に受けて、奥州に向かった頼義でしたが、地の利と、兵糧補給の差は如何ともしがたく、苦戦を強いられます。
 
 康平5年(1062)になって、頼義は出羽の豪族清原武貞を、味方に付けることに成功し、ようやく有利な状況が生まれました。頼義の嫡男八幡太郎義家が、父に随って参戦したのは丁度この頃です。戦いの中で、義家の射た矢は、「神の如し。」と言われました。

 余談ですが、後の世に、屋島の戦いで、源義経公が、貧弱な弓を誤って取り落とし、先祖に恥じると、敵陣深く入って、これを拾ったと言う有名な話がありますが、義経が先祖と言ったのは、この義家や孫の為朝などを指しています。(
平家物語・下巻37話参照のこと。)

 一方、安倍方も、頼時が死んで、子供の貞任・宗任が、相続して引き続き戦いを挑んできました。
 
 白熱した一進一退の攻防戦が、広い奥州の地で繰り広げられましたが、康平5年秋、ようやく、安倍軍を本拠地の厨川に追いつめることに成功し、館に火をかけて、安倍一族を悉く焼き殺してしまいました。
 八幡太郎義家が24才になった秋のことでした。

 衣川の戦いで、義家が、騎馬で逃げる貞任を、追っかけている時のこと、

義家が、”
衣のたては ほころびにけり
 と、詠いますと、逃げる貞任が、”
年を経し 糸の乱れの 苦しさに

 と、即座に応えたので、義家は、つがえていた矢をはずし、貞任を逃がしてやったということです。

   この戦いで、召し取った敵方の首を、義家が鬚ごと切り捨てた刀が、”鬚切の太刀”と名付けられて、家宝となり頼朝まで伝えられたのです。
後3年の役 あらすじ

 
陸奥守兼鎮守府将軍義家45才の頃、当時、奥州は頼義と共に戦った清原氏が、出羽、陸奥を治めていました。

 しかし、この清原氏も内乱を起こして、義家が介入することとなりました。
原因は、複雑な兄弟の相続争いで、数年後には、義家が清衡に味方して、清原真衡が立て籠もる金沢柵を攻め、京から駆けつけた弟、新羅三郎の支援を受けて、兵糧責めでこれを亡ぼしました。

 この戦いで、義家が射た矢が、敵の鎧(よろい)を、悉く、射抜いてしまうので、敵からは大層、恐れられた。後に、試し射ちをしたところ、3枚の鎧を射通す強弓だったそうです。

 清衡は、この時から藤原姓を名乗り、平泉藤原3代の基礎を築きます。
鎮守府将軍となって、奥州に向かう義家が詠んだ歌は、千載集にも載っているそうです。

  吹く風を 勿来の関と 思へども
           道もせに散る やま桜かな


 また、金沢柵の近くにある蘆の茂る沼沢池で、義家が雁の列が乱れるのを見て、潜んでいる敵の家衡軍に気付いたと言う話も有名です。

 しかし、奥州を平定して、一躍源氏の名を全国に知らしめた鎮守府将軍・源義家でしたが、朝廷や白河院からは、義家がかっての平の将門の様に、奥州を自らの王国にするのではないかと恐れられ、若しくは私闘ではないかなどと疑われて、都へ凱旋した義家には、恩賞は一切与えられませんでした。

 共に戦った家来の功労に報いる事ができなくなった義家は、止む無く、自らの領地である河内の国の地を、家来に分け与えたのです。しかし、この事が全国の武門の間では美談となって広がり、義家の棟梁としての名声を、益々高める結果となったのです。

 (後に、伊豆に流された源頼朝が、打倒平家を旗印に蜂起した時、関東の豪族が多数馳せ参じたのは、100年経った当時も、源義家を崇拝する人々が各地に散在し、その威光が大きな力になったと言う事です。)

 一方、義家には数多の子供がありますが、その内、
次男の義親(よしちか)が対馬の守に叙されました。しかし、赴任した対馬で反乱を起こして、追われる身となったのです。そこで朝廷は、父の義家に義親討伐の命令を下しましたが、義家は病に倒れてそれを果せず、失意の内に、嘉承元年(1106)亡くなりました。

 この義親を九州の地で討伐したのが、
平家の棟梁・平正盛、即ち平の清盛の祖父でした。この事件が、源氏と平家の力の均衡を崩す大きな要因ともなり、平家の都への進出のきっかけにもなったのです。

 平正盛に亡ぼされた源義親の子供が、
六条判官・源為義・即ち源義朝の父です。
 保元の乱では、源氏は親子兄弟が二手に分かれて戦い、為義は嫡男義朝に殺されてしまいます。これが、平家物語の幕開けともなったのです。

 
(その後の話は、保元・平治・平家物語を御覧下さい。)
 ” 猛将 鎌倉権五郎景正 ” の物語


 梶原景時の先祖で、後3年の役で活躍した鎌倉権五郎と言う猛者の逸話が伝えられています。


 歌舞伎絵 鎌倉権五郎景正

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 ” 猛将 鎌倉権五郎景正 ”の物語

 後3年の役で、八幡太郎義家に従って戦った武将の中に、鎌倉権五郎景正という猛者がおりました。
金沢柵での戦いでも、真っ先駆けて奮戦していましたが、源氏の兵の中でも目立った存在でしたから、彼を倒さんと敵が群がって押し寄せ、遂には敵の武将鳥海弥三郎が狙い澄まして射た矢に、右目を貫かれてしまったのです。
 
 一瞬たじろいだ権五郎でしたが、目に刺さった矢を、ぽっきりとへし折り、噴き出す血を振り蒔きながら、我が目を射た鳥海弥三郎目掛けて猛然と突進して行きました。権五郎の勢いのすさまじさに、恐れおののいて逃げ回る弥三郎は騎馬の名手でしたが、ついには追いつめられて、一騎打ちをせんと振り向いた所を、弓を構えていた権五郎の矢に、胸板を貫かれて落馬し、その場で即死です。
 
 これを見極めた権五郎は、我が陣屋に取って返し、
 「権五郎手負いし故、しばし休まん」と言ったまま、その場に気を失って倒れ込んでしまいました。
戦いから帰ってきた同郷の三浦平太郎為次が、
 
 「おお、これは惨い。我が抜いて進ぜよう」とて、権五郎の顔を片足で踏みつけ、目に刺さった矢を抜きにかかりました。

 ところが、顔を踏みつけられて目をさました権五郎が、矢庭に小刀を抜き放ち、下から三浦を突き刺さんとします。
 
 「何をする、折角矢を抜いてやろうとしたのに。気でも触れたか」
 「大きなお世話だ。武士が矢に当たって死ぬのは本望、しかるに、土足で顔を踏みつけられるとは、末代までの恥」

 この権五郎の言葉に三浦も成る程とその非礼を詫びて、今度は皆に権五郎を押さえ付けさせて、やっと矢を抜き取ったと言うことです。
 
 鎌倉権五郎は、翌日には、血の滴る右目に血止めの蓬(ヨモギ)を押し当てて、戦場を駆け巡っていました。
八幡太郎義家 四方山話

 陸奥から都に帰った義家に、愛する女が出来ました。
 毎夜、娘の元へ通ってくる男に気が付いた女の母親が、館の廻りに高塀を巡らすなどして、男の侵入をくい止めんとしましたが、一向に効果がありません。

 夜、母親が木陰に身を潜めて、窺っていますと、男がまるで軽業師のように、高塀を飛び越えて、娘の部屋に難なく入っていきます。とても母の手には負えそうにありません。

 そこで、比叡山で修行中の兄に相談することにしました。相談を受けた兄の荒法師は、一計を案じました。毎夜、男が侵入してくる娘の部屋の入り口に碁盤を置いて、これに男が躓いてよろけるところを、一刀の元に切り捨てようと言うのです。

 夜になって、荒法師が戸口に碁盤を置いて、部屋の物陰で、刃を振りかざし、今や遅しと待ち構えて居るところへ、男がススッと入ってきました。しかし、男は部屋の中の殺気を察知したのか、抜く手も見せず、太刀で足元の碁盤をすぱっと、切り捨てたのでした。

 この神業のような太刀さばきを見た荒法師は、びっくり仰天、その男が噂の八幡太郎義家と聞くに及んで、何処かへすっ飛んで行きました。

 しかし、義家もこの夜以来、この女の元へは、来なくなったと言うことです。       完
 
八幡太郎義家碁盤を斬る
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