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うこ 房 総 自 由 民 権 資 料 館 付設・主基田(スキデン)研究センター 2012年05月20日(日)更新 |
交通アクセス 千葉県鴨川市 長狭街道バス停「主基駅」(JR鴨川駅からバス15分) 主基交差点南入ル 50㍍ 開館曜日: 土曜 ・ 日曜 ・ 祝祭日 開館時間: 午前10時~午後4時 (ウィークデイは事前予約別途受付) 問い合わせ先 sakumako@beige.ocn.ne.jp |
| ☆ 1980年1月 『高神村一揆』(崙書房)上梓 ☆ 1985年4~10月 NHKドラマ「澪つくし」で高神村一揆放映 ☆ 1987年夏から 「房総の自由民権資料展」を各地で開催 ☆ 1992年9月 『房総の自由民権』(崙書房)上梓 ☆ 1998年10月11日(日) HP開設「房総自由民権資料館」主宰 ☆ 2002年7月 『底点の自由民権運動』(岩田書院)上梓 ☆ 2011年3月11日 東日本大震災 福島原発放射能汚染 ☆ 2012年夏(新装準備中) Reflect, Limit, Stop, Secure, Save, Survive, Dream, Plow |
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【館長ブログ《象の耳・象の鼻》】 ◇撫子の二鉢ありて白と紅 (凡一愚詠) ナデシコノ フタハチアリテ シロトベニ ◇馬鈴薯も紫と黄に咲きにけり ( 同 ) ジャガイモモ ムラサキトキニ サキニケリ ※参考資料 「1871年の大嘗祭と主基田」(発表草稿、安房歴史文化研究会公開講座、館山市コミュニティーセンター、2011/3/26) 【発表要旨】 1871(明治4)年の大嘗祭(ダイジョウサイ)主基田(スキデン)に関する史実は、布告(3月)、卜定(5月)、抜穂(9月)、大嘗祭(11月)、豊明節会(11月)という順序で進行しました。史料紹介をしながら史実を段階的に確認します。 発表の視点は ①岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文が、洋行で不在の時期に明治天皇大嘗祭が実施され、留守政府(三条実美・中山忠能・西郷隆盛・板垣退助・大隈重信・井上馨)が主管したこと。 ②悠紀米(ユキマイ)と主基米(スキマイ)が、史上初めて関東で卜定(ボクジョウ)・抜穂(ヌキホ)されたこと。 ③大嘗祭と廃藩置県前後の地方行政(花房県・木更津県)との関連を明らかにすること。 に特に着目します。 依拠する資料は、『太政官日誌』(国会図書館所蔵)、『大嘗祭記』(宮内庁書陵部所蔵)、『花房県歴史』(国立公文書館所蔵)、『明治4年大嘗会式』(木耳社)、『明治天皇紀』(吉川弘文館)、『日本近代思想大系・天皇と華族』(岩波書店)、『日本近代思想大系・宗教と国家』(岩波書店)等です。 大嘗祭についての柳田国男説、折口信夫説、吉本隆明説、谷川健一説、宮地正人説、高木博志説等から学びつつ研究史を整理します。 (1)布告(1871年3月25日) 1871年の大嘗祭(ダイジョウサイ・オオニエノマツリ)の史実を、資料に忠実に追いかけてみます。(地域の視点を喪失することなく、段階的に)『太政官日誌』3月25日の記録は下記の通りです。句読点とカタカナ訓読は筆者が付けました。(以下同じ) ◇御布告写、今冬、於東京、大嘗会被為執行候旨、被仰出候事 ゴフコクウツシ、コントウ、トウキョウニオイテ、ダイジョウエシッコウセラレソウロウムネ、オオセイダサレソウロウコト ◇御沙汰書写、各通、大納言嵯峨実愛、大辯坊城俊政、大嘗会御用掛、被仰付候事 ゴサタショウツシ、カクツウ、ダイナゴンサガサネナル、ダイベンボウジョウトシタダ、ダイジョウエゴヨウガカリ、オオセツケラレソウロウコト (国立国会図書館「デジタルライブラリー」、石井良助編『太政官日誌・第五巻』東京堂出版1981年85頁) 若い頃に較べると格段に便利になり、国会図書館の明治期の資料は自宅のパソコン上で閲覧できます。周縁に住む老人に優しいシステムです。国立公文書館の方は残念ながら未だ部分的のようです。 上掲資料は、1871年の大嘗祭の実務が始まったことを証明する基本資料です。『明治天皇紀・第2巻』(吉川弘文館1969年)には、次のように記述されています。 ◇3月25日、大嘗会執行の事を布告す。 ◇祭儀、11月卯の日、天皇、天神地祇を親察したまひ、辰巳の両日、悠紀・主基両国の新穀を聞食し宴を群臣に賜ふ。 (『明治天皇紀・第2巻』435頁~436頁) 「悠紀」はユキと読み、「主基」はスキと読みます。「聞食し」はキコシメ(オ)シと読みます。典拠資料として、『太政官日誌』、『公文録』、『明治四年大嘗会記』、『冷泉為理(タメタダ)日記』、『福羽美静(フクバ・ビセイまたはヨシズ)履歴書』、『諸家系譜』、『法規分類大全』が列挙されていますので信用できる史実であると思います。 『明治天皇紀・第2巻』3月25日には、大嘗祭は1870年に行われる予定でしたが、東北地方不安定等の理由で延期されたと記述されています。大嘗会御用掛人事は後に(5月19日)、神祇少副の福羽美静、神祇大祐の北小路随光(キタコウジ・ヨリミツ)と門脇重綾(カドワキ・シゲアヤ)、従一位の中山忠能(ナカヤマ・タダヤス)も追加任命されています。上記の公家、国学者の動向は後半で詳論の予定です。 同書には、大嘗祭がニニギノミコト(天孫)以来の祭事であったこと、古代の天武朝前後に大嘗祭と新嘗祭(シンジョウサイ・ニイナメノマツリ)が分離されたことも指摘されています。 (2)山陵奉告(1871年4月17日) 1871年4月8日の『太政官日誌』には、大嘗祭執行を報告する勅使として徳大寺実則(トクダイジ・サネツネ)が命じられた沙汰書と、宣命の全文が記載されています。徳大寺実則は西園寺公望(昭和の最後の元老)の実兄でした。 ◇御沙汰書写、大納言徳大寺実則、孝明天皇山陵勅使、被仰付候事 ゴサタショウツシ、ダイナゴントクダイジサネツネ、コウメイテンノウサンリョウ(ミササギ)チョクシ、オオセツケラレソウロウコト (『太政官日誌』1871年4月8日) 『明治天皇紀・第2巻』には、4月の大嘗祭関係事項が次のように記述されています。 ◇4月6日、大納言徳大寺実則を勅使として孝明天皇後月輪東山陵に差遣し、・・・本年東京に於て大嘗会を行はせらるる旨を奉告せしめたまふ。・・・京都に至り、17日陵前に参向して宣命を奏し、5月2日帰京復命す。 (『明治天皇紀・第2巻』445頁) 『明治天皇紀・第2巻』の「4月6日」と『太政官日誌』の「4月8日」には、2日程の期日の差異があります。「差遣」と「沙汰書」(追認か?)のずれであると考えられます。高木博志氏の『近代天皇制の文化史的研究』(校倉書房1997年)は、『明治天皇紀・第2巻』を典拠にして、「4月6日」の「差遣」を史実として採用しています。(『近代天皇制の文化史的研究』31頁) 孝明天皇の後月輪東山陵(ノチノツキノワノヒガシノヤマノミササギ)は、泉涌寺の境内東側にあります。読み仮名が難しいですが、この寺は大変清潔感の溢れる寺院で、学生時代に何度か、桜の頃や紅葉の頃に訪れたことがあります。雪見に出かけた冬の日は立入禁止でした。 還暦を過ぎ、自己の自由民権研究の終着駅で、宣命の思想的解読に取り組むことになろうとは思ってもみませんでした。以下に、孝明天皇山陵前で奉読された宣命のエッセンスを史料紹介します。 ◇・・・往志明治二年乃春、東京尓伊傳麻志弖与利、内外乃国乃政乎聞食志、治服弊給布(中略) ・・・ユキシメイジニネンノハル、トウキョウニイデマシテヨリ、ウチトノクニノマツリゴトヲキコシメシ、オサメシタガエタマウ ◇・・・随尓尚、東京尓留坐弖、御代乃大嘗聞食佐牟事乎、今大前尓告左世給布(後略) ・・・マニマニナオ、トウキョウニトドマリマシテ、ミヨノオオニエキコシメサムコトヲ、イマオオマエニツゲサセタマウ (『太政官日誌』1871年4月8日) 「さ」の漢字表記は、「佐」と「左」の2種類が使用されています。東京遷(奠)都と東京大嘗祭を、前天皇に詫びているかのような文言です。 孝明天皇の死因は病死説と他殺説が存在します。名著である遠山茂樹氏の『明治維新』(岩波全書初版1951年)には、アーネスト・サトー(英国外交官)が書き残した毒殺談話が和訳で紹介されています。 遠山氏自身の見解は、前掲書に下記のように注記されており、前天皇と倒幕派公家の厳しい対立を指摘しています。即位の祭儀への言及は、同書では皆無です。 ◇孝明天皇が存生していたとすれば、倒幕の「密勅」は実現を見なかったであろうことは疑いない。蓋し文久3年8月18日の政変の責任者である天皇の下では、倒幕派公卿の進出は不可能であった。 ◇慶応3年正月、明治天皇が即位するや、尊攘派・倒幕派の親王・公卿の一斉赦免が実行された。中山忠能・正親町(オオギマチ)三條・中御門はその中にあり、岩倉もまた入京を許され、ここにはじめて彼らの公然たる政治活動が開始されたのであった。 (『明治維新』岩波全書初版1951年212頁) 遠山茂樹氏には、同席させていただき談話をした想い出が残っています。明治天皇の外祖父(生母の父)であった中山忠能と三條(嵯峨)実愛は、1871年11月の大嘗祭に参列します。辣腕の岩倉具視は、条約改正交渉の為に洋行し、何故か大嘗祭の式典当日は不在です。 1866年12月25日(旧暦)の孝明天皇(孝明は追号)逝去について、藤田覚(サトル)氏の『幕末の天皇』(講談社選書メチエ1994年)は、「悪性痘瘡」という原口清説と「砒素をもられた毒殺」という石井孝説の論争(90年代初頭)を整理しています。 ◇孝明天皇陵の調査が・・・許されるのは何時か、皆目見当もつかない。となると、毒殺か病死かを断定するのは困難というしかない。 (『幕末の天皇』講談社選書メチエ1994年237頁) 孝明天皇逝去後の即位関係記事を、『明治天皇紀(全13冊)』(1933年編集完了)の第1巻と第2巻から抜粋して整理しておきます。 ①慶応2年12月25日:遂に崩御あらせらる、宝算36、秘して未だ大喪を発せず、親王、大に哀悼。 ②慶応3年1月3日:山陵を京都泉山(センザン)に営造。 ③同年1月9日:清涼殿代小御所に於て践祚。 ④同年12月29日:孝明天皇の一周聖忌に丁(アタ)るを以て、般舟三昧院(ハンジュザンマイイン)・泉涌寺(センニュウジ)の両寺に於て法会。 (1868年1月3日:鳥羽・伏見の戦) ⑤明治元年8月27日:紫宸殿に出御(シュツギョ)、即位の礼。 ⑥同年9月20日:京都御発輦(ハツレン)。(10月13日江戸城着) ⑦同年12月25日:孝明天皇の3回聖忌(セイキ)・・・山陵に参拝。(一時在京都) ⑧明治2年3月7日:東幸のため京都を発。(3月28日東京着) ⑨同年12月25日:孝明天皇3年祭・・・山陵を遙拝。(在東京) ⑩明治3年12月25日:阿野公誠を勅使として後月輪東山陵に差遣し、陵祭を執行。(在東京) ⑪明治4年11月17日:大嘗祭。(在東京) 宮廷内の毒殺は、韓流歴史ドラマの展開に似ています。筆者が泉涌寺境内の雪見に出かけた頃(70年代前半)は、死因論争はまだありませんでした。 (3)国郡卜定(1871年5月22日) (ア)選考の経過 悠紀田(ユキデン)と主基田(スキデン)の卜定(神祇官所管)の期日は5月22日です。4月中から候補地選考作業(民部省所管)は始まっていました。山陵奉告と斎国(サイコク)選定の作業が同時進行ということになります。先ず、悠紀田に関する史料です。 ◇明治4年4月、日詳ナラス、本管内ニ就テ斉田ヲ相セントシ、民部省来訪アリ ・・・ヒツマビラカナラズ、ホンカンナイニツキテ、サイデンヲソウセントシ、ミンブショウライホウアリ (「祭典附録」『山梨県史第2巻』山梨県立図書館1959年587頁) 悠紀田を記念する石碑(1922年建碑)は、現在、山梨県甲府市の公園(南西第一公園)内にあります。 主基田に関する史料(4月12日付)は下記の通りです。『鴨川市史』と『千葉県史』には、大嘗祭卜定以前の史料の翻刻がほとんどないので『安房郡誌』から引用します。未だ研究の余地があると考えられます。 ◇御用有之、民部省より出役差出候間、右先触到着致候様、即刻可届候也、辛未4月12日、民政方 (中略) 滑谷村ヨリ、坂東村、北小町村ヘ、可相届候也 ゴヨウコレアリ、ミンブショウヨリシュツヤクサシダシソウロウアイダ、ミギサキブレトウチャクイタシソウロウヨウ、ソッコクトドクベクソウロウナリ、シンビ・・・ミンセイカタ(中略)ヌカリヤムラヨリ、バンドウムラ、キタコマチムラヘ、アイトドクベクソウロウナリ (『安房郡誌』1926年835頁) 「4月12日」が、史料で確認できる初動の日付です。滑谷(ヌカリヤ)、坂東(バンドウ)、北小町(キタコマチ)は鴨川市内の地名です。主基田を記念する石碑(1916年建碑)は、現在、鴨川市北小町の公園内にあります。 甲斐国2郡と安房国2郡が、斎田卜定の候補に挙げられた理由は何であったのでしょうか。偶然(歴史の女神クリオ)の悪戯か、それとも新政府(神祇官と太政官民部省)の作為か。神祇伯(ジンギハク)は中山忠能(タダヤス)、民部大輔(タイフ・タユウ)は大木喬任(タカトオ)でした。太政大臣であった三条実美の大嘗祭祝詞については後半に論及の予定です。 卜定の儀式(吉田神社神職担当)は、二つの候補地から一つに絞ったに過ぎないと言えます。武田秀章氏の『維新期天皇祭祀の研究』(大明堂1996年)は、候補地選考について次のような見解です。 ◇ひるがえって考える時、ここで卜定された悠紀・主基両国は、いずれもかつての戊辰戦争の激戦地であった。 (『維新期天皇祭祀の研究』大明堂1996年272頁) 甲斐国内は激戦地で、東山道先鋒総督府参謀は板垣(乾)退助でした。(『板垣退助君傳記・第1巻』原書房2009年) 『明治天皇紀』は、戊辰戦争の房総の擾乱(第1巻)と請西(ジョウザイ)藩主の林忠崇(ハヤシ・タダタカ)の永預(エイアズケ)(第2巻)を特記しています。 ◇江戸を脱走せる旧幕府兵撤兵頭福田八郎右衛門等は木更津に拠り、安房・上総両国の間に嘯集する者凡そ3200人(後略) (『明治天皇紀・第1巻』688頁) 撒兵(サンペイ)は、フランス人に教練された幕府の洋式歩兵の事です。嘯集(ショウシュウ)者3200人は多いです。何故、請西藩のあった上総国の木更津周辺(望陀郡)を斎国候補にしなかったのか、疑問が残ります。 『明治天皇紀・第2巻』5月22日は、理由を明記せずに、甲斐国2郡と安房国2郡の選定結果が記述されています。誰が、長狭(ナガサ)郡と平群(ヘグリ)郡を候補地と決定したのでしょうか。 ◇悠紀を甲斐国巨摩郡、若しくは同国山梨郡、主基を安房国長狭郡、若しくは同国平群郡と予定し(後略) (『明治天皇紀・第2巻』469頁) 「激戦地」説以外は無いようです。次に、京都の吉田神社の神職(シンショク)を出張させて、5月22日に神祇官(東京)において実施された、卜定の儀式について史料紹介をします。学生時代、吉田山に登るときは、この神社の前を行ったり来たりしました。 新史料や新史実の発見ではないので、地域の「主基田」関係史料の、段階的、巨視的整理に過ぎないと言えます。「微視」の地域民衆史を、「巨視」の中枢権力史(政治史)から再規定する試みです。 ◇五月廿日 正三位吉田良義、来ル廿二日、悠紀主基国郡卜定、参勤被仰付候事 ショウサンミヨシダヨリヨシ、キタルニジュウニニチ、ユキスキコクグンボクジョウ、サンキンオオセツケラレソウロウコト ◇鈴鹿煕明、来ル廿二日、悠紀主基国郡卜定、参勤申付候事 スズカヒロアキ、キタルニジュウニニチ、ユキスキコクグンボクジョウ、サンキンモウシツケソウロウコト ◇山田有年、鈴鹿通安、来ル廿二日、悠紀主基国郡卜定ニ付、役送勤仕申付候事 ヤマダアリトシ、スズカミチヤス、キタルニジュウニニチ、ユキスキコクグンボクジョウニツキ、ヤクソウキン(ゴン)シモウシツケソウロウコト (『太政官日誌』1871年5月20日) 吉田良義は堂上公家、 鈴鹿煕明 、山田有年、鈴鹿通安は京都の吉田神社の社司(シャシ)でした。東京に呼び寄せられたのです。文書の形式は「参勤被仰付」、「参勤申付」、「役送勤仕申付」の3種類のパターンがあります。 卜定当日の式次第は、『太政官日誌』に大変詳細に記載されています。不思議ですが、貴重な史料であると思われるので、全文を紹介します。 ◇五月廿二日 神祇官ニ於テ、悠紀主基国郡卜定御祭典 ジンギカンニオイテ、ユキスキコクグンボクジョウゴサイテン 次第 シダイ 早旦、神殿装束ヲ奉仕ス ソウタン、シンデンショウゾクヲホウシス 八字辨参入、卜儀ノ具否ヲ問フ ハチジベンサンニュウ、ボクギノグヒヲトウ 次、神祇官太政官民部省、官員着坐 ツギ、ジンギカンダジョウカンミンブショウ、カンインチャクザ 次、大臣辨ヲ召、卜儀ノ具否ヲ問フ、辨全脩ヲ申ス、大臣ト定ヲ命ス、辨之ヲ祐ニ傳フ ツギ、ダイジンベンヲメシ、ボクギノグヒヲトウ、ベンゼンシュウヲモウス、ダイジンボクジョウヲメイズ、ベンコレヲユウニツタウ 次、開扉 ツギ、カイソウ 奏、神楽歌 カグラウタヲ、ソウス 次、祝詞、伯奏之 ツギ、ノリト、ハクコレヲソウス (『太政官日誌』1871年5月22日) 以下に、中山忠能(明治天皇の外祖父)の「祝詞」が続きます。 (イ)中山忠能の祝詞 1871年5月22日の、卜定当日における中山忠能(神祇伯)の祝詞を便宜的に5分割して紹介します。訓読は『明治4年大嘗会式』所載の、「三條実美祝詞訓読ルビ」を参考にしました。 ◇祝詞 ノリト 掛巻母恐支八柱大神、天神地祇八百萬神御代御代乃天皇都弖三所乃大前尓、従一位行神祇伯藤原朝臣忠能、恐美恐美母白左久 カケマクモカシコキヤハシラオオカミ、アマツカミクニツカミ(テンジンチギ)ヤオヨロズノカミミヨミヨノスメラミコトスベテサンショノオオマエニ、ジュイチイギョウジンギハクフジワラノアソンタダヨシ、カシコミカシコミモマヲサク ◇今年天皇乃御代乃始乃大嘗聞食左牟尓、悠紀主基乃国与利御饌御酒奉出志種々乃物等波、大蔵省与利仕奉良牟止為弖 コトシスメラミコトノミヨノハジメノオオニエキコシメサムニ、ユキスキノクニヨリミケミキマツリイデシクサグサノモノドモワ、オオクラノツカサ(オオクラショウ)ヨリツカエマツラムトシテ ◇今日乎生日乃足日止此大前乃神籬尓、卜庭神乎坐世奉利卜部尓負弖、悠紀主基乃国郡乎卜弊麻迦那波志米弖、定米給波牟為乃故尓 キョウヲイクヒノタルヒトコノオオマエノヒモロギニ、ウラニワノカミヲマセマツリウラベニオワセテ、ユキスキノコクグンヲウラナエマカナワシメテ、サダメタマワムタメノユエニ ◇御酒波甕上高知甕腹満並弖、青海原乃物鰭広物鰭狭物奥津藻菜辺津藻菜、山野乃物波甘菜辛菜菓等乎、礼代止脩奉弖 ミキワミカノヘタカシリミカノハラノミテナラベテ、アヲミノハラノモノハタノヒロモノハタノサモノオキツモハヘツモハ、ヤマノノモノワアマナカラナカタチヲ、イヤシロトオサメタテマツリテ ◇斎祭良世給布故、今年止云年乃間波今年与利始弖、殊尓斎麻波里清麻波里仕奉良牟状乎聞食弖 イワイマツラセタマウユエ、コトシトイウトシノアイダワコトシヨリハジメテ、コトニイワイマワリキヨメマワリツカエマツラムスガタヲキコシメシテ、 ◇天皇乃朝廷乎始弖、天下四国尓波百災起留事無久、平気久安気久治米給比幸弊給弊止白須事乎高々尓聞食世止、恐美恐美母白須 スメラミコトノミカドヲハジメテ、アメノシタヨクニニワモモノワザワイオコルコトナク、タイラケクヤスラケクオサメタマイサキワエタマエト、マヲスコトヲタカダカニキコシメセト、カシコミカシコミモマヲス ◇次、神饌ヲ供ス (以下略) (『太政官日誌』1871年5月22日) 現代の視点からは、「天下四国尓波百災起留事無久」という文言が、大変印象的であると言えます。『太政官日誌』5月22日の卜定関係記事の最後に、卜定結果が記録されています。 ◇国郡卜定 コクグンボクジョウ 合 ゴウ 悠紀、甲斐国、巨摩郡 ユキ、カイノクニ、コマゴオリ 主基、安房国、長狭郡 スキ、アワノクニ、ナガサゴオリ (『太政官日誌』1871年5月22日) (4)抜穂の作業(1871年9月27日) 高木博志著『近代天皇制の文化史的研究』は、「斎田抜穂の儀」について『大嘗祭記』(宮内庁書陵部所蔵)に依拠して次のように述べています。 ◇『大嘗祭記』四の「大嘗会抜穂次第」は、悠紀斎田において勅使である大掌典白川資訓が地方官に抜穂を命じるくだりを、「大掌典大神部ヲ召シテ抜穂ヲ命ス、大神部座ヲ起チ命ヲ受ケ県参事ニ伝フ、参事属ニ命シ、属雑色人ニ仰ス」と詳しく伝えるが、ここから『明治天皇紀』のいう「地方官」とは甲府県権大参事渡辺衛であることはほぼ間違いない。したがって、悠紀・主基両国の抜穂の儀にかかわった地方官のトップは、大参事渡辺衛、大参事清水豊宜の両人であろう。なお明治の特色として、前近代には稲実卜部、禰宜卜部と悠紀・主基両国二人ずつ計四人いた抜穂使が、大掌典白川資訓一人となり、彼一人が、悠紀・主基両国(甲斐国・安房国)で9月11日と26日に抜穂の儀を執り行なっている。 (『近代天皇制の文化史的研究』校倉書房1997年148頁~149頁) 「神部」はカンベ、「雑色人」はゾウシキニンと読みます。高木博志氏は、9月26日に主基田の「抜穂の儀」が執行されたと記述しています。『明治天皇紀』も同様に記述しています。「花房県歴史」(国立公文書館所蔵)は、地域の農民による抜穂の作業について、次のように記しています。期日が異なります。 ◇九月廿四日、抜穂使トシテ大掌典白川資訓、権大録尾形厳彦、大神部仲美英、中神部徳岡久延(遠?)、北小町村エ到着、同廿五日河辺祓、同廿六日鎮祭、同廿七日抜穂ノ神事ヲ執行ス、同廿九日発途帰京セリ 但卜田ノ御稲籾壱石壱斗御用相成候事 (『千葉県史料 近代篇 明治初期一』千葉県1968年69頁) 「抜穂使」はヌキホノツカイと読みます。「花房県歴史」には、9月27日に「抜穂ノ神事」が執行されたと記録されています。『安房郡誌』にも「二十七日・・・夫より雑色四人、上下庶民七人、羽織袴にて稲刈を始め、了て稲実殿(イナミデン)に供へ奉り」と記されており、9月27日実施となっています。 (5)大嘗祭当日(1871年11月17日) (ア)11月17日の出席者名簿 「明治四年大嘗会式」(木版刊本)(田中初夫編『践祚大嘗祭資料篇』木耳社1975年所収)に出席者の官位氏名が列記されています。主要メンバーの西郷(薩摩)、板垣(土佐)、後藤(土佐)、副島(肥前)は明治6年の政変で下野することになります。板垣退助等はその後、民撰議院設立建白書を提出します。明治維新の路線対立と革新性を考える上で大変興味深い史実です。 ◇奉侍群官 太政大臣 従一位 三條實美 参議 正三位 西郷隆盛 参議 従四位 大隈重信 参議 従四位 板垣正形 議長 従四位 後藤元曄 外務卿 正四位 副島種臣 文部卿 従四位 大木喬任 宮内卿 正二位 徳大寺実則 神祇大輔 従四位 福羽美静 大蔵大輔 従五位 井上 馨 兵部大輔 従五位 山縣有朋 司法大輔 従五位 宍戸 璣 侍従長 従五位 河瀬忠孝 式部頭 従三位 坊城俊政 神祇少輔 従五位 門脇重綾 員外 従一位 中山忠能 悠紀方官員 甲府県知事 従五位 土肥實匡 主基方官員 花房県大参事 清水豊宜 (後略) (田中初夫編『践祚大嘗祭資料篇』木耳社1975年242頁) 板垣正形(セイケイ)は板垣退助のことです。後藤元曄(モトアキラ)は、後藤象二郎のことです。徳大寺実則(サネツネ)は生涯、明治天皇の側近でした。福羽美静(ヨシズ)は津和野藩出身の国学者です。司法大輔の宍戸璣(シシドタマキ)は長州藩出身です。中山忠能(タダヤス)は明治天皇の外祖父です。 欧米列強の外交官の出席者名簿も記載されていますので紹介します。列席者の「エルネストサトウ」は、『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)の著者です。 ◇公使交名 伊太利特派全権公使 コントアレサンドロフエ 蘭弁理公使 エフベーフアンドルフーヘン 英代理公使 エツオアダムス 西班牙代理公使 ヘフレヲロドリクセムノス 仏代理公使 ツチエン 米代理公使勤方 シオセハルト 英書記官 エルネストサトウ クリスチヤンウイリエムローレンス 独乙書記官 ケンフルマン 西班牙書記官 インリヲテゼーダ 米通辨官 ライス (田中初夫編『践祚大嘗祭資料篇』木耳社1975年246頁~247頁) (イ)三條実美の祝詞(11月17日) 「明治四年大嘗会式」(木版刊本)(田中初夫編『践祚大嘗祭資料篇』木耳社1975年所収)に、三條実美の祝詞が収録されています。この史料のルビによって、明治初年の標準的な祝詞の読み方が分かります。便宜的に9分割して紹介します。 ◇天皇乃新代乃、茂御代乃大御典止 スメラミコトノアラタヨノ、イカシミヨノオオミノリト ◇今年十一月乃中卯日乃生日乃足日尓、大嘗祭仕奉給布止為弖 コトシノシモツキノナカノウノヒノイクヒノタルヒニ、オオニエマツリツカエマツリタマウトシテ ◇齋清麻利造奉礼留是乃悠紀乃大殿乃神牀乃大前尓、太政大臣従一位三條實美、恐美恐美母白左久 イミキヨマリツクリマツレルコレノユキノオオトノノカムトコノオオマエニ、ダジョウダイジンジュイチイサンジョウサネトミ、カシコミカシコミモマヲサク ◇高天原尓神留座須、皇親神漏岐神漏美乃命以弖 タカマノハラニカムヅマリマス、スメラガムツカムロギカムロミノミコトモチテ ◇天日嗣乃高御座乎、天地乃共動久事無久変留事無久、堅石尓常石尓定給比之大御詔乃随尓、天皇乃知食須御代乃初乃、天津御饌乃遠御饌乃大嘗聞食須賀故尓 アマツヒツギノタカミクラヲ、アメツチノミナウゴクコトナクカワルコトナク、カキワニトキワニサダメタマイシオオミコトノマニマニ、スメラミコトノシロシメスミヨノハジメノ、アマツミケノトオミケノオオニエキコシメスガユエニ ◇先皇神等乃大前尓、御服波和妙荒妙御酒波白酒黒酒乎始弖、種々乃多米津物乎百取乃机代止置足波志弖 マズスメガミタチノオオマエニ、ミソワニギタエアラタエミキワシロキクロキヲハジメテ、クサグサノタメツモノヲモモトリノツクエシロトオキタラワシテ ◇太政大臣従一位三條實美乎始弖、官々乃長官次官等諸乎率給比阿登母比給比弖、神事仕奉給波久乎甘良尓聞食弖 ダジョウダイジンジュイチイサンジョウサネトミヲハジメテ、ツカサツカサノカミスケラモロモロヲヒキイタマイアトモイタマイテ、カムワザツカエマツリタマワクヲウマラニキコシメシテ ◇天皇乃大御代乎、萬千秋乃長五百秋尓立栄志米給比、天下内外乃国乃国止云国島止云島落留事無久洩留々事無久見行志聞食須 スメラミコトノオオミヨヲ、ヨロズチアキノナガイオアキニタチサカエシメタマイ、アメノシタウチトノクニノクニトイウクニシマトイウシマ、オツルコトナクモルルコトナクミソナワシキコシメス ◇天皇乃朝廷乎始弖、仕奉礼留親王百官人等乎毛、弥助気尓助給比弥進米尓進給倍止、白須事乎聞食世止、恐美恐美毛白須 スメラミコトノミカドヲハジメテ、ツカエマツレルミコモモツカサビトドモヲモ、イヤタスケニタスケタマイイヤススメニススメタマエト、マヲスコトヲキコシメセト、カシコミカシコミモマヲス (田中初夫編『践祚大嘗祭資料篇』木耳社1975年241頁~242頁) 上掲の祝詞の「仕奉礼留親王百官人等」、「弥助気尓助給比弥進米尓進給倍」の文言に、三條実美の思想の急進的な特徴が現れているように思います。 「明治四年大嘗会式」には、11月17日の大嘗祭次第と11月18日の豊明節会(トヨノアカリノセチエ)次第が詳細に記録されています。他日、別の機会に史料紹介をする予定でいます。 (補遺)地名としての「主基」について 最後に、由基村→主基村→長狭町という地名の変遷について、一つだけ史料を紹介しておきます。 ◇「主基村名乃由来」、皇統連綿トシテ百廿二代ニ及ブ歴代天皇中ノ天皇デオハシマシタ叡聖文武(エイセイブンブ)ナル明治天皇御即位後、明治四年十一月十七日ヲ以テ大嘗祭ノ御大典ヲ宮城内吹上御苑ニ於テ挙ゲサセ給フニ当リ、安房国長狭郡ヲ以テ主基ノ国ニ御治定アラセラルヽト共ニ、御齋田ヲ本村北小町字仲ノ坪一八五三番地ニ御卜定セラレタリ、明治廿二年町村制施行ノ際新村名ヲ附スルニ当リ、村民ハ未来永劫切ッテモ切レヌ此有難キ御皇恩ヲ拝シ無限ノ光栄ニ浴セシガ為メ、之ニ因ミテ由基村ト命名シタリシガ、当時怱卒ニ出テ古典ヲ調査スルノ暇ナク由基ト称セシガ、其後由基ニ非ラズ主基ナル事ヲ確メタルヲ以テ、大正四年大正天皇ノ御大典ヲ行ナハセラルヽニ当リ、此ノ光栄アル神蹟ノ煙滅ヲ惜ミ、多額ノ費ヲ投ジ佳木奇石ヲ列ネ公園ヲ設置シ、枢密顧問官男爵細川潤次郎氏ノ毫揮ヲ乞ヒ、明治天皇大嘗祭主基乃地ナル一大碑石ヲ建設シ、以テ主基村ト改称シタリ。上古ヨリ、関東ニ於テ御齋田ヲ選定セラレタルコトハ之ヲ以テ嚆矢トシ、我村トシテハ永劫無上ノ光栄トスル所ナリ。 (千葉県安房郡主基村『村治概要』房州印刷所1937年1頁~2頁) ※独吟歌仙(俳詩)「3・11大震災」 ☆序 大津波と原発汚染に恐れおののき詠む、序の愚句。 ◇浪の江にこおる涙や水ひつぎ 凡一 ☆初折の表 (発句)パロ句秋風の身は蕉翁ににたる哉 (脇 )黄昏れにちる肩のコスモス (第三)十六夜のどんどと酒屋はしごして (四句目)カシラを赤く唐辛子ふる (五句目)韓流のラブコメずきの笑いなき (折端)人散り散りに霜夜にいかる ☆初折の裏 (折立)わが家は牛に軒かす村時雨 (二句目)髪そめる間をなでしこの恋 (三句目)指先のいとしとフラを踊りいで (四句目)波を墓標にタンポポもさく (五句目)春光の終日寒く故紙をたき (六句目)姑は独りたえし古民家 (七句目)棚田なる古代は早苗くれる頃 (八句目)義理に異をたて駿馬か駄馬か (九句目)東を夏至にながめる月近し (十句目)スカイツリーは六三四の夕立 (十一句目)先帝に吉野の花の便りきく (折端)蝶はつるぎに双びおびえる ☆名残の表 (折立)一反をゲゲゲの女房跳びのらん (二句目)今は津波の襲いくる世ぞ (三句目)白浜に里見の船のさまよいて (四句目)しかし憶良のなげきし貧窮 (五句目)蓑かけて無理にもよめるホトトギス (六句目)わけ入りてなお一人青山 (七句目)粉々にくだけしは戦後思想家か (八句目)ハスは泥田の国の眼目 (九句目)戯れの謎ときもせぬアホウドリ (十句目)樽詰一斗語りつぐ冬 (十一句目)フクシマの原発浜に月さえて (折端)膚に経かく琵琶ひきの杖 ☆名残の裏 (一句目)馬のさく嶺岡牧の夕焼に (二句目)身にきりきりの尾根のいただき (三句目)夢の夢子々孫々もいのるべく (四句目)今日は孤老の雪かきをみて (五句目)渓流へ奥入瀬川も花ひらき (挙句)燈下は海の凪うたうなり ☆跋 いかなる宇宙空間の、いかなる時代に遭遇しているのか。パロディー俳句(略してパロ句)三十六句を詠み終えて締めくくる、跋の英文俳句。 ◇We should survive Every summer, young leaves put forth Even when crying (大津波、原発被災一周忌に擱筆) (御意見はこちらへsakumako@beige.ocn.ne.jp) ☆民権ブログ集成(2012年3月以前)へ click |
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