特別室  
自由民権資料コーナー
《底点の民権ファイル》

Files of Democratists at the Bottom Point



房総自由民権資料館(home page)

香取地域 香取の商人自由党員 石田直吉




 《contents》

  
全国自由民権研究連絡会約束(2001年7月14日)

 

 (1)地域デモクラシーの底点を踏査して

 (2)統計:千葉県の自由民権運動の全国的位置

 (3)義民「永田隆三郎」翁等150年記念祭                                       






佐久間耕治主宰の民権通信サイト集成】 click

リンク・房総の自由民権研究文献目録 】(工事中)click






 

《 シンポジウムの御案内 》

自由民権120年東京フォーラム・自由民権研究と顕彰を問う

 【プログラム】
 2005年11月12日(土)
 13:00〜13:10 開会の言葉
 13:10〜16:40 シンポジウム
 17:00〜17:45 ポスターセッション・研究の最前線
 18:30〜20:30 懇親会

 2005年11月13日(日)
 9:30〜10:15 コメンテーター発表
 10:15〜12:00 全体会-研究と顕彰の過去・現在・未来
 12:00〜12:10 閉会の言葉
 13:30〜16:00 フィールドワーク
 ・銀座コース
 ・谷中コース
 ・町田コース

 場所・・・早稲田大学国際会議場 第1会議室〜第3会議室
      (地下鉄東西線早稲田駅下車 徒歩10分)
 主催・・・全国自由民権研究連絡会・早稲田大学自由民権研究所

 事務局(早稲田大学文学部 安在研究室内 自由民権資料研究会)
    (電話 03−3203−4114 内線3616)






全国自由民権研究連絡会約束     2001年7月14日

 

1 会の名称・目的
(1) 名称
「全国自由民権研究連絡会」(略称「みんけん連」)とする。
(2) 目的
自由民権運動の研究・教育・顕彰活動を行っている団体・機関・個人等、および関連資料の収集・整理・保存・展示等の業務を行っている資料館・記念館等が情報交換を行い、親睦・相互交流を図ることを目的とする。

2 活動期間
「自由民権120年」と位置付け、2001年から5年間を目標とする。

3 活動内容
(1)  例会の開催
・情報交換や会活動に関する話し合いの場として例会を開く。
・例会には、団体・機関・個人を問わず自由に参加することができる。
・例会は年2〜3回開く。
(2) 通信の集約と発行
・各団体・機関・個人発信の通信を集約し、『みんけん連通信』として発行する。
・通信には、本会に参加するすべての個人および団体・機関が自由に投稿することができる。
・通信の用紙は、サイズを「A4版」に統一する。
・通信の内容は、イベント・シンポジウム・講演会などに関する情報、研究成果報告(要旨、掲載誌、著書等)、新史料の紹介(文書名、所蔵者あるいは所蔵機関、閲覧の可否等)、近況報告などとし、1枚を原則とする。但、政治的利用を意図するようなもの、差別を助長するようなもの、他の個人・団体・機関等を誹謗中傷するようなものについては、これを収めない。
・通信の集約・発行は年2〜3回とする。
(3)その他

4 組織・運営
(1) 会員
目的に賛同する団体・機関・個人および資料館・記念館等。
(2) 事務局の設置と役割
・事務局の設置
連絡会の中に事務局を置き、団体・機関・資料館・記念館等が1年毎の持ち回りで担当する。
・事務局の役割
・入会の受け付けを行い、最新の名簿を作成する。
但、名簿掲載の場合、団体・機関については、代表あるいは責任者一人の名を掲載することを原則とする。
・通信を集約・発行する。 
・例会案内を発送し、例会の司会を務める。
(3) 世話人
・連絡会の中に世話人を置く。
・世話人は本会の運営の責任を負い、例会の開催ほか事務局との連絡等にあたる。

5 運営費
参加団体・機関・個人等の実費負担(郵送料等)とする。


              









《 地域デモクラシーの底点を踏査して 》


房総の自由民権運動の概観
人物名をclickすると 関係するページへ移動します ↓


自由への起動 start toward liberty

 
 地租改正後の租税負担は、農民にとってけっして軽いものではなかった。その後、紙幣が増発され米価等が上昇した。府県会規則が1878(明治11)年に制定され、翌年、県会議員は各郡区から選出されるようになった。選挙権は女子には無く、男子のみに与えられ、地租5円以上を納める者に限られた。房総の自由民権運動は、維新後の訴訟や建白の時期を経て、この頃から起動する。
 1879(明治12)年6月、山武郡芝山町の
桜井静は、「国会開設懇請協議案」を全国に送付し、翌年東京に地方連合会を設立しようとした。しかし集会条例のため挫折を余儀なくされてしまう。


民権結社と新聞 democratic parties and newspaper
 
 房総の著名な民権結社の一つである夷隅郡の以文会は、1880(明治13)年11月頃、
井上幹らによって結成された。会員はおよそ700名余であった。民権結社は県内各地に組織され,演説会や討論会を開催した。植木枝盛等の政党理論家や都市ジャーナリストは各地を遊説し、房総民衆の総学習の時代が到来した。東葛飾郡の東寧会と啓蒙会、安房郡の浩鳴社、長生郡の鳴求社、山武郡の愛信会と開信会、香取郡の温知社など約60社の存在がこれまでに調査されている。
 
桜井静は出獄後、1881(明治14)年6月総房共立新開を発刊し、「地方自治」と「立憲政治」を千葉県民に訴えた。発行部数は2500部、隔日刊で、千葉県の代表的民権派政治新聞であった。1882(明治15)年3月には、自由党下総地方部が結成された。


減租運動と弾圧  movement of tax reduction and oppression
 
 
松方デフレ政策期の1884(明治17)年、夷隅郡の君塚省三達は郡下4000名程の署名を集め、地租軽減の請願運動をおこなった。同じ頃、安房地方でも減租運動が展開された。
 この年10月に、茨城県の加波山事件の中心人物である
富松正安が安房地方に逃亡して来た。長狭郡奈良林村の佐久間吉太郎ら若い民権家たちは富松を匿った。この時、隠匿(いんとく)罪によって安房地方の民権家は捕縛され、房州の民権運動は大きな打撃を受ける。同じ頃、夷隅郡の民権家も検挙され弾圧された。

激化事件と千葉県 radical incidents and chiba prefecture
 
 
1884(明治17)年11月の秩父困民党蜂起には、千葉県出身の参加者が3名程いた。海上郡足洗(あしあらい)村生れの千本松吉兵衛は、蜂起した農民から「東京ノ先生」と呼ばれ、抜刀隊長であった。
 翌年の1885(明治18)年11月に勃発した大阪事件の公判において、長柄(ながら)郡出身の代言人
板倉中大井憲太郎飯田喜太郎の弁護活動を行った。また、千葉県の旧自由党員たちは、物心両面にわたり景山英子等被告の救援活動に取り組んだ。

諸建白と再結集運動 many petitions and the re-organization of democratic parties

 
1887(明治20)年、三大事件建白運動は、地租軽減、言論集会の自由、外交策の挽回のスローガンを掲げた。房総地域ではさらに、国会開設準備要求が加えられている。千葉県の民権家は中央への建白運動に積極的に参加したが、保安条例によって齊藤自治夫山田嶋吉高野麟三君塚省三小高純一らは東京からの退去を命じられた。
 しかし、その後も房総の自由民権運動(演説会や懇親会)は終息することなく粘り強く再結集が模索され、大同団結運動が展開された。そして、1890(明治23)年7月第1回衆議院総選挙が実施され、同年11月に漸く立憲制議会の開会を迎えたのであった。

【参考文献】
『房総の自由民権─歩きながら考え、考えながら歩き続けて』佐久間耕治著(崙書房1992年) 
The Movement for Civic Rights and Freedom in the 1880s OF BOSO District : I think while I am walking and continue walking while I think ”─ by SAKUMA KOUJI, published 1992 by Ron Shobou.








統計》千葉県の自由民権運動の全国的位置

【STATISTICS】position of liberty and people's right movement of chiba prefecture in the whole country




【Number of Petitions】
府県別建白書・請願書参加者数(上位10県)


  順位

  府県別

  参加者人数

1

  高知県

  48,392人

2

  千葉県(chiba prefecture)

  32,015人+α

3

  広島県

  26,394人

4

  岡山県

  25,204人

5

  神奈川県

  23,555人

6

  長野県

  23,536人

7

  静岡県

  20,000人

8

  福岡県

  13,358人

9

  滋賀県

  12,530人

10

  茨城県

  12,263人


【参考文献】『自由民権革命の研究』江村栄一著 法政大学出版局 1984年



【Number of Democratic Parties】全国の民権結社数(上位10府県)


  順位

  府県別

   民権結社数

1

  高知県

   127社

2

  茨城県

    99社

3

  神奈川県

    97社

4

  新潟県

    76社

5

  静岡県

    74社

6

  宮城県

    62社

7

  千葉県(chiba prefecture)

    57社+α

8

  栃木県

    55社

9

  福島県

    48社

10

  埼玉県

    45社


【参考文献】『週間朝日百科日本の歴史100 自由・民権・国権』色川大吉編 朝日新聞社 1988年




【Number of Members of Liberal Party】自由党の党員数(上位10府県)


  順位

  府県別

   党員数(明治17年)

1

  秋田県

  428人

2

  栃木県

  315人

3

  神奈川県

  268人

4

  群馬県

  212人

5

  千葉県 (chiba prefecture)

  183人

6

  長野県

  178人

7

  埼玉県

  148人

8

  島根県

  121人

9

  茨城県

  112人

10

  東京府

  82人


【参考文献】『困民党と自由党』色川大吉著 揺籃社 1984年







 義民「永田隆三郎」翁等150年記念祭
 ・・・栖本町(熊本県天草郡)・町おこしの大事・・・

日時:平成11年3月28日(日)午前10時〜
場所:栖本町古江公民館

総司会:実行委員

(1) 開式
(2) 除幕式(記念碑)
(3) 読経
(4) 主催者挨拶
(5) 来賓祝辞
(6)  講話
     講師  自由民権研究家 佐久間耕治 氏
     講師  天草歴史研究家 上中万五郎 氏
(7) 御礼  永田家後裔の益田家代表
(8) 閉式  古江老人会会長
(9) 懇親会
(10) 展示会  益田家遺品 木山家書簡 上中氏作画
(11) 史跡めぐり  天草歴史研究家 鶴田文史氏
(12) 反省会

主催:義民永田隆三郎翁(弘化の大一揆の指導者)等150年記念祭実行委員会





義民「永田隆三郎」翁等150年記念祭 (1999/3/28・栖本町)





世直し一揆と自由民権
(義民「永田隆三郎」翁等150年記念祭講話草稿・1999/3/28)

                       佐久間耕治

(序)美しき世に逢う
 
 江戸時代の義民について書かれた名著、小室信介編『東洋民権百家伝』(岩波文庫)を読むと、百姓一揆の時代環境と自由民権の時代情況を比較している箇所がある。裁判の制度が変革されて、大審院までの上告が可能になったので、かつての一揆の指導者は「今の世に出なば、あたら一命を捨てずとも志を達せし人も多かりしや」と述べている。(同書P138)そして明治23年(1890)に国会が開設された後には、「美しき世に逢」うことができるであろうと記している。(同前)

 小室信介の言葉を念頭に置きながら、「世直し一揆(弘化大一揆)」と「自由民権運動(房総の自由民権)」を史料論の視点から比較検討してみたい。

(一)新聞資料と言論の自由
 
 地域の自由民権運動を調査研究する際に、まず読まなくてはならない文献資料は、明治10年代の新聞記事である。朝野新聞、東京横浜毎日新聞、自由新聞等民権派の新聞はほとんど復刻されているので、地域の県立図書館などで読むことができる。
 
 千葉県では桜井静が社主となって創刊した総房共立新聞があり、社説には民権派の政治的主張が、「立憲政治」、「国会開設」、「地方自治」、「町村自治」等の論題で掲げられている。同紙の雑報欄には、房総各地の演説会や懇親会のニュースが詳細に報道されている。千葉県内ではこれまでの研究で、60余の民権結社が検出されている。
 
 弘化の大一揆関係の史料(鶴田文史著『法界平等の碑』みくに社発行参照)を読んでみると、明治前期の新聞資料に相当するものが無いことが分かる。時代環境の違いで当然なのだが、「郡民蜂起」に至るまでの合法的な言論活動・相談・交渉等の経過が自由民権期の言論活動程に再構成できないのは、やはり近世と近代の違いであろうか? 嘉永2年(1849)から明治12年(1879)まで、わずか30年である。

(二)日記と書簡(書状)

 私は房総の自由民権運動を研究するなかで、原亀太郎という民権派の小学校教師の日記を翻刻したことがある。明治16年(1883)6月から明治17年(1884)10月までの1年半程の日記で、ちょうど松方デフレ政策による物価下落のために激化事件が頻発した時期である。
 
 日常生活が克明に記録され、毎日の天候、学校生活、農業生産、民俗行事が記され、演説会、討論会参加の記述もあった。折々の情勢に対する心情の吐露もあった。
 
 弘化大一揆の参加者の日記が残存しておれば、第一級の世直し一揆資料となったであろう。岩手県出身の三浦命助の「獄中記」(安丸良夫他編『日本思想体系58・民衆運動の思想』岩波書店)と同程度の貴重なものとなろう。 
 
 永田隆三郎翁の書状は5通程発掘されている。文面は相当の学識を思わせる。一揆に直接関係した内容ではないのが残念である。自由民権運動の研究では、民権家相互の連絡の書簡は、彼らの行動と思想を知る上で欠かせない資料である。新資料の発掘も相次いでいる。
 
 永田隆三郎翁の学問上の師である人物に関する資料が、もう少し発掘されることを期待したい。如何なる儒学?如何なる陽明学であったか?ラディカルな儒学の解釈、例えば孟子の「貴為民」(民を貴しと為す)の思想は、自由民権運動のイデオローグである植木枝盛に受け継がれている。(『植木枝盛集第1巻』岩波書店)

(三)その他の資料(写真・裁判記録等)

 明治10年代以降になると、地方の豪農層は自分の肖像写真を撮るようになり、房総の民権家の風貌や容姿を如実に知ることができる。永田隆三郎翁は、写真はもちろん肖像画も残していない。どのような体躯と風貌の人物であったかは、伝承と想像の領域である。
 
 弘化大一揆の参加者数は1万5000人くらいであった。自由民権運動の最大の激化事件である秩父事件は、8000人から1万人程度の参加者である。規模の大きさでいえば、近代日本最大の民衆蜂起である秩父事件よりも、幕末の弘化大一揆の方が上であろう。組織形態や、内部規律の比較ではどうか?
 
 蜂起した民衆の行動形態は「長崎入牢記録」や「判決申渡書」を読み込むことで知ることができる。しかし官側が把握した民衆の行動形態がそのまま史実であるとは限らない。もっと苛烈でもっと人間的な深さや慈愛に溢れていたかもしれない。罪状を軽減するための戦術的知恵はいつの時代でもあるものである。研究する側の歴史的構想力が試される場であると感じる。
 
 秩父事件の裁判記録によると、農民個人個人に対する訊問が行われ、約4200人の個性が認められる。弘化の大一揆の「判決申渡書」では、1万5000人の参加者のうち個人として名前が確認できる者は85人程である。(青木虹二編・保坂智補編『編年百姓一揆史料集成第17巻』三一書房)この点でも近世から近代への移行を感じる。

(結)石の声を聴く
 
 永田隆三郎翁末裔の益田家親戚(故益田進の三女の夫)として、結びに慰霊の俳句を読み上げ奉納させて戴きたい。拙い俳句であるが150年記念法要の時点における、私自身の心情の吐露である。

★ 春の夜の光や首落とされし魚
  ハルノヨノ ヒカリヤクビ オトサレシウオ 
 永田隆三郎翁は獄中最期の夕食に、頭部のない魚を出されたという口碑(義母益田弥生からの聞き取り)が残る。その伝承を詠んだ一句である。

★ 夢一揆百五十年の石の声 
  ユメイッキ ヒャクゴジュウネンノ イシノコエ
 1万5000人もの人々が参集した弘化大一揆は、多数の犠牲者を出した。しかし「郡民蜂起」の魂は、一揆鎮圧後も天草民衆の精神的な遺産となって語り継がれ、150年後の今日に至っている。地域の伝承は、驚くばかりに正確である。石の声は「法界平等」の碑文の声であり、蜂起した民衆の泉下の声を聴かねばという思いの一句である。






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