帰って来ない息子
息子の死
報道
事件後の出来事及び加須警察署の対応
事件概要
少年達の供述
1999年 (平成 11年) 10月 5日 (火) 埼玉県警 本部長・西村浩司 殿宛文書
1999年 (平成 11年) 10月 9日 (土) 「少年犯罪被害当事者の会」 主催 『WILL』 席上読上げて頂いた文章
埼玉県警本部長宛文書に対する、加須警察署副署長・ 向井氏の回答
医師作成・司法解剖鑑定書


帰って来ない息子
 1999年 (平成 11年) 5月 13日(木) 夜 10時頃、「今犬の散歩から帰ったからこれから行くよ。」 と携帯電話の相手に言い、息子は散歩から帰ったその足で出かけて行ってしまいました。
 ドア越しに聞こえた話の様子から、「誰か親しい友人にでもちょっと会いに行ってくるのかな。」 くらいに私は思っていたのです。
ところが、14日朝になっても帰ってきません。
心配で友樹が普段一番仲が良かったと思われるM君宅へ電話しました。

 M君のお母さんの話では、「M君が昨夜殴られたような怪我をして帰ってきたが、『どうしたの?』 と聞いても何も言わない。」 とのことでした。
M君に話を聞きたい旨伝えたところM君に代わってくれましたが、お母さんの前では話しづらそうだったので、M君の携帯へ電話をかけ直し話を聞くことにしました。
M君によれば、「バイクのことで呼び出され、小学校で金属バット等で殴る蹴るの暴行を受けた、僕は、『もう帰っていい。このことを親や警察に言ったらこれくらいじゃ済まないぞ。』 と脅されたので言えなかった、友樹君はそれからまたどこかへ連れて行かれた。」というのです。

 この話を聞き、『友樹は怪我をしてどこかに動けずにいるのかな?』
それにしては携帯の呼び出し音が鳴っているのに電話に出ない、『携帯電話に出られない程ひどい怪我をしているのかな?』
『捜索願を出したほうが良いだろうか?』
 そんなことを自問自答している時、加須警察から、「息子さんのことで至急署まで来てください。」 との電話があったのです。
私は、『友樹も怪我をしているだろうから保険証を持っていかなくては・・・』 と思っているところへ
ちょうどM君のお母さんからも心配して電話がきたので、警察から連絡があった旨伝えると、「私共も一緒に行きます。」 と言って下さったので、M君とM君のお母さんにも一緒に行ってもらうことにしました。
M君は腫れ上がった顔を氷で冷やしながら行ってくれました。
 警察でM君は、「どうして警察に通報しなかったんだ、そんな脅しに負けてたんじゃしょうがないだろう。」 と怒られていました。

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息子の死
 「早く息子に逢わせて下さい。」 と言う私に向かって、清水生活安全課長は、「もし、お宅のお子さんでしたら、既に亡くなっています。これから確認をお願いします。だいぶ顔が変ってしまっていますので、よく確認してください。」 と言われました。
目の前が真っ暗になりました。
友樹でないことを祈りながら、課長の後をついていくと、建物の外に出て粗末な小屋に案内されました。
 そこには、素裸の体にビニールシートを被せられ、顔は紫に腫れ上がり額から頭・体中傷だらけで、冷たく変わり果てて横たわったいる友樹の姿がありました・・・。
 「どうして?うそでしょう友樹!」 何度問いかけても、私の手には友樹の体の冷たさしか伝わってきませんでした。

 清水生活安全課長の話しでは、「現在 4人の少年が逮捕されています、本日中にもう一人逮捕する予定です。容疑者は他にも何人かいるようです。」 ということでしたが、逮捕されている少年達の名前などは、「取調べ中」 ということで教えてくれませんでした。
 司法解剖に承諾するよう説得され、泣く泣くサインをしました。主人も私も友樹はさんざん痛い思いをさせられたのに、これ以上解剖なんて可愛そう過ぎると申しましたが、清水生活安全課長に、「犯人の少年達の供述と傷の具合が合っているかを知る必要があるから」 と言われ、本当に断腸の思いでサインをしたのです。

 友樹の遺体が埼玉医科大学から自宅に帰って来たのは、夜の 10時頃でした。
頭は綿(わた)で作った三角巾で覆われ、浴衣を着せられ、もうお棺に納められていました。
私は友樹を抱きしめてやることも出来ませんでした。

死体検案書には、死亡推定時刻 平成 11年 5月 14日午前 1時頃
死因 クモ膜下出血及び出血性ショック。
発症から死に至るまで 約 2時間半 とありました。

 お通夜・告別式には、中学校や入学したばかりの高校の先生・同級生・友人、小学校の時お世話になった先生方までも、本当にたくさんの方が弔問に来てくださいました。
「お友達がたくさん来てくれたよ、良かったね友樹。」 主人も私も、友樹の為に来て下さった方々に感謝の気持ちでいっぱいでした。
 「友樹のこと忘れないでね。」 私はお友達にお願いするのが精一杯でした。         

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報道
 友樹が亡くなったという報道は、14日(金) 当日からテレビのニュースや新聞で早速報道されたようです。
私共にすればそんなもの見ている暇もないし、見る気にもなれませんでした。
警察から自宅へ戻ってからは、友樹が亡くなったということを親戚等へ連絡しなければならないし、お手伝いに来て下さった近所の方への対応もしなければなりません。
通夜・告別式の手配等はすべて主人が近所の方と相談し手配してくれました。

 私は、友樹の遺体が埼玉医科大学から戻ってからは、既にお棺に納められてしまっている友樹の側にいて、顔を撫でてあげることくらいしか出来ませんでした。
 どんなにつらかったか・・・。
 どんなに悔しかったか・・・。
 どんなに家に帰りたかったか、どんなに心細い思いで息を引き取ったか・・・。かわいそうでなりませんでした・・・。

 連絡を受けて親戚の方々も駆け付けて下さいました。
テレビのニュースや新聞を見たと、私の学生時代の友人達も心配して電話をくれたりしました。
でも、その報道の内容は主人・友樹の実名入りで、「無職少年の所有するバイクを盗んだのではないか、という理由で呼び出され集団で暴行され亡くなってしまった。」と、「まるで友樹が一人でバイクを盗み、素直に認めなかったから暴行された。」 と誤解を招くような報道のされ方だったのです。

 更に、5月 27日(木)付 の朝日新聞に詳しく事件の内容が載っていると、6月 7日に知人が届けて下さいました。
そこには、暴行の内容なども詳しく載っていたので、記事を書いた本人に会い、取材元を聞いたのです。
回答は、「加須警察と埼玉県警少年課からの発表」 ということでした。
警察は、私共には 「まだ捜査中だから詳しいことは話せない」 と言っておきながら、マスコミには加害者の一方的な言い分を発表していたのです。

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事件後の出来事及び加須警察の対応

  
事件から 11日目の 5月 24日(月)
 友樹が亡くなった 14日夕方、まだ友樹の遺体が返ってくる前に、「息子さんを病院へ連れて行けなくてすいませんでした。」 とお父さんと一緒にわざわざ来て下さった少年がいました。
この I.少年(18) のお父さんと主人とは同級生だったということでしたが、当日はゆっくり話を伺っている時間も心の余裕もありませんでしたから、すぐ引き取っていただいたのです。
 私は、そのことがずっと気になっていました。
少しでも事件の概要を知りたかったので、その少年宅へ 5月 24日の朝連絡しお邪魔しました。
その I.少年が話してくれた事件に関する内容は・・・。

 「13日夜 10時頃買い物に出かけ、午前 0時頃 家に戻った。自宅では友人がバイクの修理をしており、その友人から、『(18) と(18) が後輩を呼び出して、金属バットでシメル。』 と聞いてAの携帯へ電話した。
なぜ電話をしたかというと先輩が後輩をシメルなんてやめた方が良いと思い、それを止めようと思って電話をした。
A
は、『もうやっちゃったよ、終わっちゃったよ。』 と答えたので場所を聞くと、G.県 I.町のゲートボール場だということだった。

 行ってみると草むらに人が倒れており、誰だか分からない程顔が腫れて意識もなかった。
息をしているか確認し、胸に手を当ててみると鼓動は早いけど動いていた。
『生きているけど意識がないじゃないか。』 とA達に言うと、逆に食って掛かって来たので頭に来て一旦帰った。
自宅でバイクの修理を続けたが父親から、『もう遅いし近所に迷惑が掛かるから。』 と注意をされたので T 線 S 駅西口へ移動しバイクの修理を続けた、駅前に着いたのは、午前 1:10 頃 だったと思う。
午前 2 時頃、気になったのでゲートボール場へ行ってみたら、まだ倒れたままだったので、『このままじゃしょうがねぇだろう、ここに置いて帰るとかしてもまずいだろう。飯島君家乗っけてくべ。』 と言ったところ、(Aが) 『家の前置いて帰るのもマジーベー、家の前置いて帰って、いきなり死んでたとかそんなことになってもマジーベー』 と言うので、『取りあえず車、乗っけて、どっか運ぶべ。』 ということになり車のトランクへ入れてバイクを修理してた駅前に運んだ。」という内容だったのです。
 のちに読んだ参考人調書によると I.少年は、たちと元暴走族仲間で、「『救急車を呼ぶと警察も来るから』 と言っている仲間を裏切ることになるから。」と通報しませんでした。駅前に運んだのも、「( 彼らいわく、まだ生きていた) 飯島の 手当をするため」 と供述しています。しかし、実際は駅前ではなく、「騒ぎを聞きつけて誰かが来た時、飯島のことがバレると困るから。」 と、目立たない線路きわの公園の草むらに 「置いておいた。」 というのです。

 この話を聞いた後、加須警察に行きました。対応して下さったのは、県警の少年課の方でした。
私が I.少年から話を聞いて来た旨をお話すると、「トランクへ入れて運んだことまで、お聞きになったのですか。お母さんの耳には入れたくなかったのですが。死亡時刻についても、死体検案書の時刻より若干ずれるかもしれません。友樹さんを呼び出したのは、他にいますが直接暴行を加えたわけではないので、名前を教えることは出来ません。事件の詳しい内容も、現在捜査中なので、友樹さんの月命日くらいには、お話し出来るかも知れません。なぜ殺人ではなく、傷害致死かということについては、最初の段階で傷害致死ということで捜査を始めてしまった関係もありますし・・・」

 結局、警察からは詳しいことは聞けず、友樹が暴行された現場の地図と、遺体の発見された場所を教えて貰って帰って来たのです。その日、早速現場に花とお線香をあげに行きました。

事件から 21日目 6月 3日(木)
 さらに、2人の少年が逮捕されました。
夕方、警察からの電話で知りました。
 「事件当日逮捕された少年達の名前を教えてください。」 とお願いし、
当日逮捕されたのが、K町 (無職 18才) ・(無職 18才) ・(県立高校二年 17才) ・(新聞販売店店員 17才) と I.町(自営業手伝い 18才)  の 5人。

21日後の6月 3日(木)逮捕されたのが、I.町 (専門学校一年 15才) ・(私立高校一年 16才)  の 2人ということが、やっとわかったのです。
 (あとで分かったことですが、この日逮捕された少年とその後に逮捕された少年たちは、逮捕されるまで平然と学校に通っていたということです。)
事件から 25日目 6月 7日(月)
 前日の 6日(日) 主人の消防団時代の仲間のH.氏がお線香を上げに来て下さいました。
その方の話では、「現場に行ったのは、知り合いの救急救命士の方で、だいぶ硬直が進んでいて、死後 2〜3時間は経っていたらしい。」 と話されました。

 7日朝、私はその救急救命士の方にお話を聞きたくて、昨日来家して下さったH.氏に、「ぜひ救急救命士の方にお話が聞けるよう、御願いします。」 と電話でお願いしました。
H.氏は、早々に連絡を取って下さり、「直接会うことはできないけれど、7 :20分にお宅へ電話をするそうですから、お聞きになって下さい。」 と言って下さいました。
 AM 7:20 約束通り電話がありました。
 救急救命士の方は 「現場到着は 5月 14日 AM 4:06分、首を持ち上げようとしたら既に硬直が進んでおり、心肺停止からかなりの時間が経っていると感じた。」 とおっしゃいました。
更に、「5月 27日の朝日新聞の東部版に詳しい事件の概要が載っていたので、後でH.氏に届けてもらうよう頼んであげるから。」 と言って下さいました。

 同日、昼過ぎ加須警察に行きました。対応して下さったのは、清水生活安全課長でした。
 「現在、5名が少年鑑別所・2名が拘留中・他に容疑者が 1〜2名いる。
被害者の死亡推定時刻は、救急車の到着する一時間位前 (死体検案書に書かれた午前一時より1〜2時間あと) である。
被害者の飯島君は、不良少年であり、当然 I.町の連中とも交流があった。
だから、『おまえ等が盗んだのか?』 と聞かれた時、『いや、僕じゃないよ、I.町の連中だよ』 と答えた。
じゃあ I.町の連中を呼んで話を聞こうということで呼んで聞いたら、『違う。』 と言うので、もう一度聞いたら、『やりました。』 と白状したものだから両方のグループからリンチされたんですよ。」
と友樹を一方的に悪者扱いした、偏見を持った言い方で説明されました
 ( のちに分かったことですが、A.たちが 「飯島たちや I.町の連中を呼び出しておけ」 と呼び出し役のHu.に命令したのは、1999.5/12の夜なのです。)
事件から 39日目 6月 21日(月)
 夜 7時、加須警察署 清水生活安全課長が、事件当日友樹の着ていた洋服を持って、わが家へやってきました。
「数日後に審判があります。審判では被害者側は意見を述べられないので、現在の正直な心境をご主人の供述調書として取らせてください。」 と言われました。
主人が一通り意見を述べた後に、私が、「少年達は口裏を合わせているとしか思えません。」 と申したところ、
「そんなことは書けませんよ、供述調書は本人が言ったことをそのまま書くものではないんですから。」 とおっしゃるので、
「では警察は、加害者の言ったことはそのまま書いて、被害者の言ったことはそのまま書けないとおっしゃるのですか?」 と申したところ突然怒りだし、
「奥さんが、そんなに警察が信用できないと言うのでしたらもういいです。私は、もう帰りますから」
とおっしゃり、調書を閉まって帰ろうとしました。
主人が慌てて、
「そんなことおっしゃらずにお願いします。」 と頭を下げ、しぶしぶ供述調書を取って行きました。

事件から 43日目 6月 25日(金)
 審判

6月 26日(土) 友樹 49日法要
 お天気にも恵まれ、ご近所の方・親戚の方のご協力のもと、無事法要を済ませることができました。
これで、友樹は仏様になってしまったのです。
我が家の先祖代々の仏壇は、主人の母の家にあります。
友樹の位牌もそちらの仏壇に入ってしまうのです。
それでは余りにも忍びないので、ご住職の許可を頂いて、一回り小さな位牌を作り小さな仏壇を購入し、私共のリビングに置きました。
家族が集まる場所に友樹も一緒にいられるように、いつでもお線香をあげられるように・・・。

事件から 46日目 6月 28日(金)
 夕方加須警察から電話があり、「(事件から 42日目) 6月 24日(金) に 8人目 I.町専門学校一年 (16) を逮捕した。も調べ中。」 との事。

事件から 47日目 6月 29日(火)
 審判
夕方警察へ電話をし、審判結果を聞きました。
K町は中等少年院長期、I.町は中等少年院特殊短期という保護処分でした。
結局、主犯格のK町の四人も、誰一人として 『刑事処分妥当』 として 『逆送』 されなかったのです。
まして、は1月に傷害事件を起こし保護監察中だったのです。保護観察中の再犯だったにもかかわらず、 『逆送』 されなかったのです。
 ( 供述調書が届いてから分かったことですが、家裁に送る意見書には、Aをはじめ4人全員 「少年院送致相当」 に丸印が付けてあったのです。 「少年院送致相当」 に丸印が付けてある以上 『逆送』 されることはないそうです。)

事件から 54日目 7月 6日 (火)
 夜 7:30 近所の友人が新聞を届けてくれました。
 私は、友樹の事件の後、テレビも新聞も見る気になれずにいました。
私がこの町にお嫁に来てから一番仲良くさせていただいてるM.さんが、「被害者の会のことがわかるかも知れないから。」 と新聞の切抜きを持って来てくれました。

それは、読売新聞の弁護士シリーズ、『少年事件の壁』、というタイトルで私と同じように、我が子を少年に殺された方の記事が載っていました。
我が家も同じ新聞をとっていたのに、全然気付かなかったのです。

記事の中に、『加害少年が付された家庭裁判所の審判は非公開だ。だが、被害者側が示談や訴訟準備のために必要だという場合、家裁の判断で審判の記録や捜査段階の供述調書などが提供される。』 とありました。
私は、弁護士に頼んでみようと思いました。

 私はその晩、記事の中に載っていたメールアドレスに夢中でメールを出しました。
私が読売新聞社会部に送ったメールは、記者の方の目に留まり、「できれば、会って話しをお聞きしたい。」 とお返事いただき、色々お話させて頂き、「メールをなるべくそのままの形で記事にしたい。」 との依頼を受けました。
ですが、限られたスペースしかないということで私なりにまとめ直し、7月 17日 (土)記事にして頂きました。

事件から 67日目 7月 19日(月)
 I.町  審判。
 は、中等少年院特殊短期。 は、保護監察。
 I.町 書類送検。

事件から 74日目 7月 26日(月)
 I.町審判 保護監察。

事件から 86日目 8月 7日 (土)
 弁護士より、家裁から取り寄せた供述調書が届きました。 

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事件概要
1999,4/23  実は、友樹は友人のM.君(高1)・ N.君(高1)・ O.君(中3) の 4 人で 4月 23日(金)夜、S駅西口に一台だけ置いてあった白いスクーターを盗んでしまったのです。
その晩皆で順番に少しずつ乗り、M.君宅の近くの神社に隠して置いたそうです。
 (M.君たちの話によれば、「ナンバープレートが折り曲げられており、鍵穴の横には穴があいていて、車体の前のカバーの何箇所かのネジが外されカバーがパカパカしていたので、いったん盗まれたものが放置されていると思った」ということでした。警察に呼ばれたときにもそのことを話したけれど信用してもらえなかったそうです。)
4/24日 (土) 夕方また集まり、バイクを持って我が家へ 4人で来たらしいのです。
バイクは我が家の庭にはさすがに入れづらかったのか、我が家の裏の道へ止めて置いたそうです。
N.君は帰り、M.君と O.君の 2人が友樹の部屋へ泊りました。

4/25 (日)  M.君と O.君が友樹の部屋からバイクを見ると、少し移動していたそうです。何回目かに見た時には、なくなっていたそうです。
我が家の裏の道は土手へ通じており、土手際の S.氏が、「放置バイクがある。」 と、駐在所に連絡していたのです。
そうとは知らない M.君と O.君は、コンビニへ買い物へ行くついでに、バイクを探そうと土手の方へ行った時、S.氏が、「お前等そのバイクどうしたんだ。」 と聞き、後を追って行ったらしいのです。
M.君と O.君はバイクのエンジンが掛からないので、途中でバイクを放置して逃げましたが、S.氏に加え駐在所のお巡りさんや、応援のパトカーに捕まり、駐在所で事情を聞かれ 4人で盗んだことを話したのです。

 我が家にも駐在所のお巡りさんが来て、4/29 (みどりの日) に加須警察へ親子同伴で出頭するよう、主人に言って帰ったのです。
白いスクーターは盗難届は出ていなかったそうです。
ナンバーから税務課へ問い合わせ、持ち主を探したようです。
持ち主は、の母親でしたが、普段はが使っていたということで、達の犯人探しが始まったのです。

4/29 (みどりの日)  親子同伴で 4人が加須警察署に呼ばれました。
この時はあまり時間がなかったので、普段の生活のことを聞かれたくらいで、次回は 5/9 (日) に来るよう言われ返されたのです。
この時もバイクが誰の物なのか、警察も言わなかったし、親も 主人を含め 4人もいながら誰ひとり聞かなかったそうです。
日曜・祭日も仕事に出ていた私は、このことも含めてバイクに関してのことは、事件当日まで知りませんでした。
悔まれてなりません。
もし、私がこのことを知っていたなら、絶対持ち主を聞いて謝りに行ったのに・・・。
こんなことにはならずに済んだのに・・・。

5/2 (日)  早朝、友樹・M.君・ N.君・ O.君 の 4 人は、自転車で I.町へ遊びに行ったそうです。
自動販売機の前にいた I.町の少年達 (のちに友樹の暴行に加わることになる) に、人なつこいO.君 が、通りすがりに 「友達になろう !」 と声を掛けたそうです。
相手は何も言ってこないので、N.君 が 「何だ、シカトかよ !」 と言ったところ、相手も近づいて来て、「どこから来た」 「何しに来た」 などと話しをし、携帯番号を聞かれたので、N.君 が自分の携帯番号を教えて別れたそうです。
この日が、初めて友樹達と I.町の少年達との出会いでした。

5/5 (子供の日)  私は以前から子供達が欲しがっていたパソコンを買って帰りました。
友樹に配線を頼んだのです。友樹は説明書を見ながら一生懸命接続し、ウィンドーズの立ち上げもやってくれ、お姉ちゃんと友樹と私の 3人でパソコンで遊んでいたのです。
その最中にも友樹の携帯にはM.君達から何回も電話が入っていましたが、出て行きませんでした。
その頃 M.君・ N.君・ O.君の 3人は警察に補導されたにも関わらず、またS.駅で黒いスクーターを盗んでしまったのです。

5/8 (土)  友樹は、彼らからバイクを借りて一緒に乗っていたようでした。
N.君と友樹が乗っている時ガス欠になり、農道を 二人でバイクを押して歩いている所へ、同級生の H.君が近づいて来るのが見えました。二人は 『 H.君にバイクのことを聞かれたら、 I. 町の人から借りたことにしよう。』 と相談したそうです。
やはりH.君は 「そのバイクどうしたの。」 と聞いてきたので、 2人で相談した通り 「 I. 町の人から借りた。」 と答えたそうです。
H.君は学校で、「友樹やM.君・ N.君がバイクを盗んでいるらしい。」 と、何人かに話し、噂が広まって行ったのです。
黒いスクーターの持ち主であるT.君(高 2) も勿論犯人探しをしていました。

5/9 (日)  親子同伴で再び 4人が加須警察署に呼ばれました。
事情聴取が終わって家に帰った時 、黒いスクーターの持ち主である T.君とお母さんが、N.君 宅へバイクを取りに行ったそうです。
その時の様子を、1999,8/17(火) PM 5:00 T.君宅へお邪魔し、 T.君とT.君のお母さんから聞きました。

 H.君が、「N.君と飯島がバイクを押してたのを見た。」 と言っていたのを友人から聞き、N.君宅へ、「取りあえず話しを聞きに行こう。」 と母親と一緒に行った。その時の会話は、
T.君 「誰と盗んだんだ?」
N.君 「I.町の子に借りたんだ。」
T.君 「連絡取れるか?」
N.君 「一方的に連絡してくるから、こちらからは取れない。」
T.君 「他に誰かいるか?」
N.君 「飯島君だ。」
その後バイクを置いてある場所を聞き、飯島君家を探したけれど分からなかったのでバイクを持って帰った。
ということでした。

 私は、「友樹は黒いスクターは盗んでないのに、どうしてN.君が簡単に友樹の名前を出したのか?納得出来ませんでした。
そこで、二日後の 8/19(木) N.君宅へお邪魔し、 N.君とN.君のお母さんからその時 ( 5/9 ) のやり取りを聞きました。

その時の会話は、
T.君のお母さん 「この子知っている?」
N.君 「知りません。」
T.君のお母さん 「黒いバイクの持ち主なんだけど・・・。君の同級生が、『この子のバイク転がしているのを見た。』 と言っているんだけど知らない?」
N.君 「I.町の人達に借りた。」
T.君のお母さん 「同級生に見られた時、一緒にいたのは誰?」
N.君 「飯島君。」
その後バイクを置いてある場所を教えて、あったらしく帰って行った。その時の雰囲気では、「I.町の人達に借りた。」という言葉を信じているようだった。ということでした。

この微妙な会話のやり取りが、友樹に、『嘘つき。』 というレッテルを貼り付けさせる原因になっていると思われるのです。
実際、8/17(火) にT.君宅へお邪魔した時、「友樹は盗んだ時は一緒ではなかったけれど、借りて乗っていたようですのでお詫び致します。」 と申し上げたところ、「えっ、そうなんですか? 会社にいる時に飯島君の事件がテレビのニュースで流れたので、『この子、ウチの子のバイク盗んだ子よ。』 と職場の皆に言ったんです。」 とお母さんが言われました。

5/12 (水)  友樹とM.君がコンビニへ買い物に行ったら偶然 I.町の少年達に会い、店先で話しをしていたら目の前を黒い車が行ったり来たりしていたので、皆でその黒い車を見ていたそうです。
すると黒い車から、 「18才位の男。」 が降りて来て、「ナンか文句アンのか?お前等何してんだ?」 と声を掛けて来たそうです。
I.町の少年の1人が、「あーん。」 と生意気な返事をしてしまい、その男が怒ってしまったそうです。
この、「黒い車の 18才位の男。」 というのが、友樹の遺体を車のトランクへ入れて運ぶことになる I.少年だったのです。
I.少年は、生意気な返事をした I.町の少年を車に乗せ、どこかへ走り去り、一旦戻って来て、「この中にK.町の奴はいるか?」 と聞き、手を挙げた友樹とM.君の内、車に近い方にいた友樹を乗せて走り出しました。

車の中から I.少年は、(友樹の同級生の) Hu.君の携帯へ電話をし Hu.君・H.君を潰れたスーパーの駐車場に呼び出したそうです。そこへ友樹を連れて行き、「こいつ知ってるか?」 と Hu.君・H.君に聞いたそうです。ふたりは 「同じ高校の同級生。」 と答えると、「お前等の知り合いか、じゃまっいいや」 と言って、Hu.君とH.君も車に乗せ、コンビニへ戻り、「他にも知ってる奴いるか?」 などと聞いたそうです。
Hu.君とH.君は、「飯島君とM.君以外は、知らない。」 と答えたといいます。

 I.町のG(16)が、「これはヤバイことになる。」 と思い、従兄弟である(18) に連絡を取り、現場に来てもらい、「話しを付けてもらった。」 といいます。
I.町の少年達は、「ここにいたら又 I.少年が来るかも知れないから。」 と言って帰って行ったそうです。
別れ際にG(16)とM.君が連絡先を教え合ったといいます。

 夜、Hu.君の携帯へ 「 CD 20 枚集めて来い。」 と電話があったそうです。
Hu.君は、友人宅を回り CD を集めて友人 4 人で集合場所の潰れたスーパーの駐車場に行ったそうです。
駐車場には、I.少年と、リンチの主犯格となる達がいてHu.君達も交えて話しをしたそうです。そのうち I.少年が 「今日コンビニで後輩にカラまれた。」 などと話し出した時・・・。
 「そいつは飯島かもしれない。飯島は、I.町の連中とバイクを盗んでる噂がある。T.のバイクも飯島が盗んだみたいだ。」と、Hu.君達から話しが出たらしいのです。( 実際はカラんだのは I.少年で、「アーン」と生意気な返事をしたのは I.町の少年の1人だったのですが・・・ )

 それを聞いていたは、「 I.少年にからむなんて後輩のくせに、と思うと同時に(18)のバイクを盗んだのもその飯島や I.町の連中ではないかと思った。」 と供述しています。
また、「俺()の記憶では、この時に Hu.やH.に、『飯島や I.町の連中を呼び出しておけ。集まったら電話しろ。』 と言った覚えがあるのです。」と、供述しているのです。Hu.君は、それを聞いて、『学校で飯島君と顔を合わせるのがイヤで、13 日は学校を休んだ』 ということでした。

 加須警察署の清水生活安全課長が、
「被害者の飯島君は、不良少年であり、当然 I.町の連中とも交流があった。
だから、『おまえ等が盗んだのか?』 と聞かれた時、『いや、僕じゃないよ、I.町の連中だよ』 と答えた。
じゃあ I.町の連中を呼んで話を聞こうということで呼んで聞いたら、『違う。』 と言うのでもう一度聞いたら、『やりました。』 と白状したものだから両方のグループからリンチされたんですよ。」
と友樹を一方的に悪者扱いした説明を私にしましたが、達は、この 12日の夜に Huたちの話しから、「板倉の連中も呼べ」 と命令しているのです。

5/13 (木)  I.少年達は、I.町の友人に連絡を取り、「 I.町の連中がバイクを盗んでいるという噂があるから調べてくれ。 昨日コンビニの前にいた連中の中にいるらしい。」 と、前日の夜 Hu.君達から出た話しを伝えました。
は従兄弟で I.町に住むGに連絡を取り、 I.少年達から言われたことを伝えGとその友人(F)を連れて、 I.少年達のいるコンビニへ行きました。
 黒いスクーターの持ち主 T.君と I. 少年は、の説明で、『 I.町の連中』 は関係ないと納得しました。そしてそのあと、コンビニへ友樹とM.君を呼び出し、「黒いスクーターを盗んだのか?」 と問い詰めたそうです。
 友樹にしてみれば、 黒いスクーターについては、盗みには加わっていないのだから、正直に言ってしまえば良いものを、友人を庇う気持ちから、相談していた通りに、「 I.町の人から借りた」 と答えたそうです。ところが、M.君はあっさり認めてしまった。友樹は、「これは信じてください。僕は盗んではないけど、借りて乗っていました。」 と正直に言ったのですが、もう彼等には信用してもらえなかったようです。

 そこで、私が不信に思うのは、友人であるはずのM.君が、「 3人で盗んで、友樹はその時はいなかった。」 となぜ本当のことを言ってくれなかったのか?
 ( 2000年 (平成 12年) 1月 28日 M.君に話しを聞いたところ、最初に聞かれた時は一緒にやったと答えたけれど、友樹君の 『パソコンやってて・・・』 と言う言葉を聞いて思い出し、『飯島君は家に用事があると言って、その時は来なかった。』 と先輩に言い直した。ということでした。)
 結局、ふたりとも犯人にされ、友樹には、そのうえ「うそつき」 というレッテルが貼られてしまったのです。
黒いスクーターの持ち主であるT.君と、事件当日我が家へ来た I. 少年は、「親に言って、T.君宅へ誤りに行くということで、話しが付き、PM 7:00頃解散した。」 といいます。
このやり取りは、友樹の同級生や他の学年の子達、数人がずっと見ていたそうです。

 友樹はいったん帰って犬の散歩に出かけたようです。
私がこの日帰宅した時は、まだ犬の散歩から戻っていませんでした。
ですから、日中の出来事も残念ながら知りませんでした。

 一方、白いスクーターの持ち主であるも、暴力団幹部の甥っ子であるAと共に、噂に上がっている、友樹、M.君、そして I.町の少年達の呼び出しを、友樹の同級生の Hu.君に命じていました。
Hu.君は、友樹達がバイクを押して歩いているのを目撃した、H.君に応援を頼み、ふたりで友樹の携帯へ呼び出しの電話をかけたのです。
Hu.君とH.君は友樹達とは交友グループが違い、友樹やM.君の携帯番号も知りませんでした。そこにたまたまN.君と出くわし携帯の番号を聞きました。
もう一人のバイク盗みの犯人O.君には、M.君自身が呼び出しを受けいてる旨を電話で伝えました。
つまり、暴行のことはともかく、友樹とM.君が呼び出されていることを、二件のバイク盗みの犯人であるN.君とO.君は知っていたのです。
 ( Hu.君とH.君は、「 I. 少年に相談すれば、Aたちを止めてくれるかもしれない」 と I. 少年の携帯に電話をしたそうです。しかし、いつもは電話に出る I. 少年は、その時に限って電話に出なかったそうです。)

 最初の電話は犬の散歩中だったらしく、散歩から帰り玄関を入るなり、また携帯が鳴り、「今、犬の散歩から帰ったからこれから行くよ。」 という言葉を最後に、友樹はまたすぐ出かけて行ってしまったのです。
夜の 10時頃でした。友樹にすれば T.君の件が謝ってなんとかなったので、少し軽く考えていたのかもしれません・・・。

 コンビニへ呼び出されたのは、友樹とM.君と I.町の少年 10人くらいでした。
そこには、呼び出し役の同級生 Hu.君・H.君 の二人がいて、あとから白いスクーターの持ち主の(18)、暴力団幹部の甥っ子(18)、県立高校 2年生(17) 新聞販売店店員(17) の 4人が金属バットを持って来ました。友樹は達とは全く面識はありませんでした。
Aは 、I.町の友人(18)からの連絡で、 I.町の少年 10人については、「関係ないから帰れ」 と一旦返しました。
 場所をコンビニの裏の小学校に移し、金属バットを使って、殴る蹴るの凄惨な暴行が始まったのです。
金属バットを持って来たのは、「シメル」ためだと以外の少年は供述しています。友樹達が「バイク盗み」を認めるや、一旦返された I.町の(15) と(16) も携帯で呼ばれ暴行に加わりました。濡れ衣を着せられアタマに来ているだろうということで・・・(『I.町の連中とバイクを盗んでる噂がある。』と達に言ったのは、 Hu.君達であり、『コンビニの前にいた連中の中にいるらしい。』と特定したのは、 I.少年なのです。
ここでも友樹は嘘つき扱いされています。

でも、どんな理由も、「暴力を振るって良い・ましてや金属バットで殴って良い」 ということは絶対ありません。
M.君よりも友樹の方がたくさん暴力を振るわれたようです。
特に頭部には金属バットで殴るだけでなく、壁際に正座させ、顔めがけて前蹴りを何回も入れ、蹴りを入れられる度に友樹の後頭部は体育館の壁にぶつかり、ぶつかって戻って来るとまた蹴りを入れられるなど執拗なダメージを与えられ、広い範囲でクモ膜下出血が起こり、これが死因になっているのです。

M.君は、ここで先に帰されました。
呼び出し役の同級生 Hu.君とH.君 もそれまで、二人が暴力を振るわれるのを見ていましたが、やはりここで帰りました。
 少年達は、小学校では声や音を気にしなければならないので、「もっと思い切り暴力を振るいたい。」 との理由から、人気のないゲートボール場に移動します。
移動する際、彼らは小学校で吸ったタバコの吸殻を拾い、流れ出た友樹達の血を水で洗い流し、証拠の隠滅を謀っています。

 ゲートボール場では、友樹一人に入れ替わり立ち代り、殴る蹴るの暴行が繰り返されました。
金属バット・角材・竹ざお等の凶器を使い、自転車を投げ付け、タバコの火を手に押し付け、執拗な暴行が加えられたのです。
一人では立っていられなくなった友樹を両脇から抱え、サンドバック状態にして金属バット等を使い、殴ったり蹴ったりしたといいます。
『気を失っているようだ』 と言いながら、倒れた後まで暴力を振るわれているのです。
I.町のや、その後輩も一緒に暴力を振るっています。一旦帰った I.町のは別の友人(16) に 「チョー気分が良かった、お前も行って殴ってこいよ。」 と誘い、再び一緒にゲートボール場に戻って暴行を加えているのです。
 友樹は、全くの無抵抗だったといいます。
どんなに悔しかったか。どんなに辛かったか・・・。

 やがて、イビキをかき始めたので、さすがに暴力を振るうのをやめたといいます。
その代わり、「男として恥かしい思いをさせてやる。」 とズボン等を脱がし、下半身を丸裸にしたそうです。
そのままの状態で放って置いた時、A・I.町のと、その後輩(17) は、コンビニへ買い物に行っているのです。
コンビニでAは、ポップコーンや麦茶を買って飲み食いしたといいます。
レシートのコピーから午前 一時前後だと分かりました。このレシート、そして彼らが逮捕された後の供述から、午前一時頃まで暴行が行われていたことが確認されています。
 そのコンビニで、カラオケ帰りの後輩達 七人に会います。
達は、後輩達に 「俺のゲンチャリをパクった奴をシメたんだけど、ヤバイんだよ。」 などと話し、ゲートボール場に一緒に戻ったのです。

 そして、 I.少年の運転する車のトランクに友樹を乗せて、午前 二時過ぎ頃ゲートボール場を出発し、 T 線 S 駅西口へ運んだということです。 I.少年は、友樹が虫の息ながらもまだ生きていたと思われる段階の時に一度ゲートボール場に訪れながら 「仲間を裏切ることになっても・・・」 と、その段階での通報などをせず、一旦現場を離れています。
そして、のちの I.少年たちの供述調書によると、駅前に運んだのは 「手当をするため」 だそうです。 「手当をするため」 病院ではなく駅前へ、しかもトランクに入れて運ぶなど常識的にあり得るでしょうか? 
 さらに、その時にも、「まだ生きていた。」 と、「午前 3時か 4時近くまで生きていた。」 と、全員が口裏を合わせたように供述しているのです。
5/14 (金)  午前 4 時ころ、AからHu.君の携帯へ 「今警察にいる。飯島の家の電話番号と飯島の下の名前を即効調べてこい。」 と連絡が入る。
午前 4 時 06分 救急車現場到着。 遺体で発見される。
救急隊員からの無線連絡により加須警察現場到着。A逮捕。 I.少年達数人の少年が参考人として事情聴取される。

戻る (M.君・ N.君・ O.君 は、イニシャルを使わせていただくことに、快く承諾してくれました。)


少年達の供述
1999年 (平成 11年) 10月 5日 (火) 埼玉県警 本部長・西村浩司 殿宛文書
1999年 (平成 11年) 10月 9日 (土) 「少年犯罪被害当事者の会」 主催 『WILL』 席上読上げて頂いた文章
埼玉県警本部長宛文書に対する、加須警察署副署長 ・向井氏の回答
医師作成・司法解剖鑑定書