<目次>

平城宮について
   2002.3.31

木簡、遺物、遺構
   2002.3.31

世界遺産に登録 
   2002.3.31   

京奈和自動車道

不確定な予測で
地下トンネル建設を
決定してはならない
    2002.5.25

あなたの力を
    貸して!

最近の動き
文化財検討委員会の提言についての声明
  2002.8.31


お知らせ 
  2002.6.7


資料 
 シンポの意義 2002.4


 高速道路 2002.6

 地質について 2002.6

  歴史の証人 2002.6

 大気汚染 2002.6

みんなの広場

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 挨拶:世界遺産平城宮(京)跡のねうち
    今までこんなにも大切にされてきました

              大阪市立大学名誉教授   直木 孝次郎

 直木でございます。本日はいろいろご用のある中を、たくさんの方がお越しいただきまして、本当にありがとうございます。主催者側の一員として厚く御礼申し上げます。
 さて、「世界遺産平城宮跡のねうち〜今日までこんなに大切にされてきました〜」という題でございますが、ある意味では「こんなにひどい目にあってきました」という訳でもあるのですね。
 それを皆さんの力、われわれの先輩の方々の力でなんとか持ちこたえてきたのです。ですから後世にもこれを残すことが、先人にたいするわれわれの責任であろうと考えます。
明治以降における平城宮の保存のためにどういう仕事がなされたか、かいつまんで要領だけお話したいと思います。
 研究が始まったのは明治32年(1899)のことで、建築学者、若き日の関野貞先生が奈良県技師として奈良に着任されたことからはじまるというのが定説となっています。 休日のある日、関野先生が郊外を散歩されていたときに、佐紀のほうで「大黒の芝」と呼ばれる土壇が田圃の中にあるのに気づいて、「『大黒の芝』というのは大極殿ではないか」と直感されたのが研究のはじまりいわれています。先生の直感が正しかったのですが、長い間、ここを中心として平城宮があったことが忘れられてしまって、田圃になっていたのですね。
 そして、古本屋などを回って調べているうちに、北浦定政という幕末から明治にかけて伊勢の藤堂藩の大和古市奉行所の侍であった学者がおられて、「平城宮大内裏跡坪割乃図」という精密な測量図をこしらえているのを再発見される。これが近代的な研究の始まりです。
 先生は研究の成果を8年後の明治40年(1907)に『平城京及大内裏考』にまとめられますが、それよりさき、明治33年正月に『奈良新聞』に『平城宮大極殿趾考』という論文を発表された。その論文を、奈良公園出入りの植木商、棚田嘉十郎という方が読まれて、現地の「大黒芝」あたりをたずねて見ると、そこが全部田圃になっている。昔のことだから所々肥溜めがあり、糞尿が昔の天皇さんがおられたあたりに点々と存在する。
 大正15年(1926)に内務省の刊行した『平城宮阯調査報告』には「その地が空しく農夫の糞尿の堆積所たるの状景を目撃して」とあります。こんなことは畏れおおい・・。明治の方ですからそういうことが発奮の一番のもとになったようです。
 つまり、平城宮保存の運動は東大寺のお坊さんがやったのでもない、県庁の役人がやったのでもない一植木商の方が私財をなげうっておこなったのが始まりなのです。
 「平城宮趾保存会」は明治39年にできます。今、平城宮の北の端にお住まいの溝辺さん、当時は文四郎さんがご当主、それから石崎さん、塚本さん(県庁職員)、そういう方々が棚田さんに協力して保存に努力された。
 それがだんだん発展して、とうとう公爵徳川頼倫(紀州徳川)さんが会長になられた。
それは大正2年(1913)のことですが、こうやって保存運動が発展し、匿名の篤志家の寄付を含めて大極殿と今の朝堂院あたり一帯九町七反(9ヘクタール)を国に寄付した。さらに、民有地も含めて47ヘクタールが史跡名勝天然記念物保護法(大正8年制定)に基づいて史跡に指定されることとなった。これは大正11年(1922)のことで、これで平城宮の中心部分がある程度保存されることになりました。
 ところが、棚田嘉十郎さんはその2年前に割腹自殺をされて亡くなっておられるのですね。それは寄付の中心となった匿名の篤志家、これはまだはっきり突き止めていないが福田海(ふくでんかい)という仏教系の新興宗教が寄付していたのですが、問題をおこし、嘉十郎はその責任を負って、ついに割腹して罪を謝すという形で亡くなった。大正9年(1920)のことです。こういう悲劇が起こったのです。問題というのは不敬罪ともいいますが、よくわかりません。
 昭和に入ってからは、奈良県技師関野貞先生の何代かあと岸熊吉先生が史跡を保存するための工事として若干の調査をされて、大極殿の北の石積みの溝だとか、「宮内省」という墨書のある土器を発見されたりして、物的証拠がじょじょにはっきりしてきた。
 岸熊吉先生のご長男は岸俊男さんですが、平城宮と藤原宮の調査は岸熊吉・俊男の親子が大きな功績を残したということになります。
 こういう形で戦後を迎えて、1953年当時米軍キャンプがウワナベ古墳とコナベ古墳の間に設けられます。今は自衛隊が入っていますが、それと西大寺駅を結ぶ道路、当時は曲がりくねっていたのを拡幅して直線道路にする工事が始まって、それに立ち会って調べていると、奈良時代の遺跡がでてきて1954年から国の調査が始まる。それに一、二年遅れて長岡京の調査も始まり、政府も1952年に奈良国立文化財研究所をつくり、1959年から平城宮の本格的な調査にのりだすことになった。
 しかし、文化財保存の上で大きな問題になりましたのは、1962年に近鉄が西大寺駅を大きくして検車区、分かりやすくいえば車庫を平城宮内に建設する計画ですが、それを文化財保護委員会が承認してしまった。だから法的にはいつでも近鉄は車庫を建設できる状態になった。
 これは大変だということになり、全国規模の運動が起こってその先頭に立たれたのが和島先生でした。日本考古学協会の文化財保存特別委員会委員長という仕事をされていた。
 そして、東大寺の上司海雲さん、薬師寺の橋本凝胤さん、それから日教組が全国的に協力してくれまして署名運動を始めたところ、2、3ケ月間に2万6000人分を集めた。
 この数字は今でこそそれほど驚くに当たりませんが、その当時は文化財保存についての認識がきわめて低かった。一般市民の間に「文化財保存なんて何の役に立つか」「道路が大切だ」「住宅が大切だ」、それはある意味では当然とも言える訳ですが、そういう状態でした。とにもかくにも、2万6000人分を集めるのは大変な苦労があったと思います。
 しかし、こういう署名をもって国会請願をやり、橋本さんがどういう線からか政治家の大野伴睦、新幹線羽島駅前に彼の銅像が立っていますが、それほどの有名な政治家を動かしたりして運動は成功した。そういうことで近鉄は車庫を今の場所に変える訳です。
 そのころ、私は商工観光会館講堂で保存のための講演をしておりますが、当時42、3歳でまだ無名でしたのでそのせいか参加者は60人ほどでした。鈴木良さん編纂の『奈良県の百年』(山川出版、1985年)に書いてありますが、本を取り出して見ると「あのときはたったの60人だったんか」という気がしましたが、今日はその数倍の方々が集まっておられる訳でございます。
 もう一つの大きな問題は、「国道24号線バイパス問題」です。京都からくる24号線が混雑するのでバイパスをつくる。これは平城宮の東側を南北に通すということが決定された。
 ところがそれに関連する調査をしてみると、平城宮は正方形でなくて東に張り出し部分(つまり東院部分)があることがそのとき初めて分かった。これは大変だ、計画変更をしてもらわなければならないということになった。1966年前後のことです。これも県は既に承認してしまっていましたので、奈良県文化会館の前にそのころの知事の奥田良三さんの銅像がありますけれど、奥田さんもこの場合はなかなか承知してくれなかった。
 これがもう一つの大きな問題でした。このときは奈良女子大名誉教授で地理学の権威、帷子二郎先生がバイパス通過反対の会(フルネームは下記)の会長となってくださって大いに奮闘していただきました。 そのときに、こういうパンフレット『平城宮跡を守るために〜再度の破壊に抗議する〜』(奈良バイパスの奈良平城宮跡通過に反対する協議会編)をつくったりしていた。帷子先生が「挨拶」を書かれ、その次に和島先生がメッセージをよせていただいており、その次は私の文章がのっています。
 これは65年に運動が始まり68年4月に国会請願その他を経て路線変更が決定された。 それ以後はあまり大きな問題も起こらずに今日に至った。
 今日の問題は、ちょうど「国道24号線バイパス問題」とよく似た問題です。本日論議をいただく訳ですが、35年まえ「国道24号線バイパス」に反対して、平城京跡に地下高速道を通すことがあってはならないと私は大変心配しています。大変とびとびで急ぎましてお解りにならなかった点もあろうかと思いますが、これで私の話を終わらせていただきます。

付記
 棚田嘉十郎については、中田善明著『小説棚田嘉十郎』(京都書院、1988年)を参照した。