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<目次> 平城宮について 木簡、遺物、遺構 世界遺産に登録 不確定な予測で 地下トンネル建設を 決定してはならない 2002.5.25 お知らせ 2002.6.7 資料 シンポの意義 2002.4 高速道路 2002.6 地質について 2002.6 木簡 歴史の証人2002.6 大気汚染 2002.4 |
図表頁へはここをクリック 平城宮図 平城宮跡木簡出土地点図 長岡京跡木簡出土地点図 平城宮跡と木簡〜歴史の証人があぶない 奈良女子大学教授 佐藤 宗諄 ご紹介いただきました佐藤でございます。今日は「平城宮跡と木簡」というテーマでお話するお約束をしたのですが、本来ですとこの問題については、最前線で対応していただいている国立奈良文化財研究所の方々が適任かと思いますが、これまで同研究所で発掘調査されたことをふまえて私より報告させていただこうと思います。 今、園部先生のお話にもございましたが、私どもがバイパス問題をかんがえる時に、やはり何よりも木簡がどうなるかそれが大変気になる所でございます。木簡がなくなりはしないか、という心配であります。 平城宮で最初に木簡が発見されたのは、1961年1月24日、前所長の田中琢さんのエッセイでは午後2時ごろのことであったと書いていらっしゃいます。それ以前1930年ごろから木簡の存在が一部ではわかっていたのですが、本格的に木簡が日本の古代史の研究の大きな素材になっていくのはこの時からです。さきほどの直木先生のお話にもございました1961年4月、たまたま私は大学院生になったものですから、個人的にはちょうど院生になってから今までというのが、日本の木簡研究の年月になると思っております。 1962年2月に近鉄検車区の工事着工許可があり、さらに1964年11月には国道24号線奈良バイパス予定路線の問題が起こり、反対運動などをやってきました。それから約40年間に平城宮・京跡から出土した木簡が学会に与えた影響は実に多大であります。 平城宮で最初の木簡が見つかりました。レジメ2枚目に書いてある木簡「寺請小豆一斗醤一十五升・・・」であり、40点余りの木簡のうちの一つであります。これも田中さんのエッセイによりますと、1961年1月31日発見されたということです。これはのちの称徳天皇とその関係の木簡、当時は高野天皇と称していたが、その高野天皇の居所から小豆などを請求した木簡であります。それ以後、平城宮跡では約5万点ほどの木簡が出てきました。全国ではおそらく20万点を越えるほど出土しています。 そのような中で、坪井清足先生が1974年11月に東京大学史学会で「木簡学の提唱」という講演をなさっています。その後奈良国立文化財研究所で1967〜1968年に「木簡研究集会」というのがありまして、その後1971年4月には木簡学会をつくられ、現在に至っています。その間には、1988年に長屋王家木簡これは3万5千点、つづいて二条路木簡これは7万4千点という膨大な木簡が出土しました。古代史研究に木簡は不可欠な資料となりました。 次に、そういう木簡が出てくることによって、古代史の研究はどのように変わったのかを少しご紹介したいと思います。 まず木簡とは「木を文字記載の材料として情報伝達の手段とした資料またはその方法」などと定義されますが、その内容は、「文書木簡」と「付札木簡」、そのほか「習書・落書」の3区分されています。一般には短冊型のものにいろいろ加工されており、内容によって区分する場合もあります。 「文書木簡」の様相の1例としては、レジメ2枚目に「長屋親王宮鮑大贄十編」ほか「長屋王家木簡」を6点あげておきました。このような形で長屋王家の木簡の中に、例えば長屋王家に運びこまれた贄の付札、雅楽寮から長屋王家の家令所にすすめられた文書、吉備内親王の御所に米を出した出納のメモ、牛乳を持参した者への米の支給メモ、山背や佐保から運びこまれた物品のメモ、など「移」と書かれているいわゆる文書やメモ的なものなどいろいろ出てきています。 これはほんの1例ですが、このような木簡の出現で、古代史の研究がいかに変わったのかは、それまで活用してきた『続日本紀』とか『日本書紀』、いわゆる『六国史』などの編纂された史料を中心に史実を明らかにしようとしてきたわけです。もちろん『正倉院文書』など一部に一次的な資料はありますが、大半は二次的に編集された資料であったことと比較すると、飛躍的であります。 すなわち、木簡がてくることによって直接その当時に使用されたいろいろな情況がストレートにわかってきた訳ですから、今までの編纂された資料だけではなかなか分からない、いってみれば日本の古代社会というものの内実、たとえば太政官の政治のこまごました実体、たとえば文書主義の実態が明らかになりましたし、平城宮内の様相も、はっきりしてきました。その中では口頭(音声)の世界をも予測させるものもあります。 地方行政の実態も随分明らかになりました。私はかつては中央から行った法令は里長ぐらいまでは行っただろうけれども、それから後は口頭で行ったのではないか、 末端では実際には法律で定められたような文書ではないやり方でやられていたのではないかと理解していたのです。しかし、木簡によって地方末端の行政の様子がはっきりしてきました。政務の具体的な内容がわかってきた訳です。 あるいは支配の具体的な内容、例えば、令の規定にはみられない贄が出されていたことや、調の種類なども荷札の木簡から分かってきました。 さきの長屋王家の木簡からは、一人の有力な貴族の家政機関、その組織がどうなっているのかが分かってきた。それらは木簡ぬきでは考えられなかったことであります。 もう一つは、「文字世界をめぐる国文学等との共同研究の進展」と書いておきましたが、最近古代史についての、たとえば『古代史研究最前線』などという本がでていますが、文献だけで歴史家だけで編集されるのではなくて、考古学の方、国文学の方などそういう方々との共同研究、そこでは文字が単なる資料ではなくて、文字が当時の社会の中でどう使われたか、音声と文字とがどういう関係にあったか、こういうことが具体的に進められて、今の古代史研究の中心的なテーマ「文字の世界」を明らかにしつつあります。 このような他の研究分野の人々にも大きな影響を与えた例として、たとえば宣命があります。『続日本紀』には「文武天皇の即位宣命」がありますが、宣命は当時の人々の話し言葉に比較的近い形で、漢文ではなくて発音の通りに書かれた文がありますが、それは特殊なケースだろうといわれてきたものが、藤原宮跡や地方遺跡などから宣命文の木簡が出てくることによって、当時社会的に用いられた文体であることがわかった。このように、木簡による研究成果は1960年から40年あまりで、数え切れない程のものがあります。 ところで、平城宮木簡出土地点図をご覧ください。これは奈良国立文化財研究所がつくられたものですが、黒い網かけの部分が発掘調査地点です。特に、東大溝SD2700、例えば出土地点図172から、1984年と1986年であわせて2万点近くの木簡が出土しました。これは内裏の東方を南北に貫流している基幹排水路ですが、ここへ近辺から流れ込んだものと思われます。 東南の隅にあたる274で、1997年の第274次の調査で約3千点の木簡が出ました。現在いわれている高速道路は、これらの地域の下を通ることになる訳で、平城宮の中で最も豊富な木簡の出土地域であります。 平城京部分については平城京図をご覧ください。黒丸印のところが京域で木簡の出土した地点で、広範囲におよんでいます。2、3の地点について説明しましょう。私にとって興味深いのは「左京一条三坊十五・十六坪」(東三坊大路東側溝)の発掘です。24号バイパス建設にともなう1969年の発掘でしたが、出て来たのは「告知往還諸人・・・」という1mほどの板でした。そこを通る人々に「山階寺の南の花園池の辺り、つまり今の猿沢池の辺りで馬を失ったのだが、もし見つけたら山階寺の中室の南から3番目の坊に知らせてほしい。」という告知簡が見つかった。 平城京が放棄されて平安京へ都が移ったあと、820年ごろのものですが、人々が文字を読むことができたかどうか知るうえで大変貴重な資料です。通る人々が文字を読めたという前提で掲示を出す意味がある訳です。文献を見ていますと、そのころから法令などを出す場合に、「路頭に傍示せよ。」ということが出てきますが、この木簡とあわせて考えると、「8世紀末から9世紀はじめにかけて文字が読める人が多くなって来た。」ということを推測させます。 また、「□不弟申送省判依仲麻呂支党除□」とある木簡は、宮域の東南隅から出土したものですが、削り屑3、4枚つなぎあわせて苦労して読まれたものですが、要するに仲麻呂の反乱に加わったことで除名処分をされた人に関連するものです。これは『続日本紀』の「仲麻呂の反乱」だけを見ても全く分からないことです。 さらに、左京七条一坊十六坪の東一坊大路西側溝からは867点出て来ました。宮から離れた所から木簡が出てくるということになると、そこは平城京の単なる一市民の住んでいたところではなくて官僚たちの住んでいた街ではなかったかといわれています。これらはほんの一例に過ぎませんが、木簡の重要性がご理解いただけると思います。 また、これまで平城宮内の役所の配置は平安宮のものしか分りませんでしたから、平安宮のそれとほぼ同じだろうと考えられていました。しかし、発掘して出て来た木簡あるいは墨書土器によってそれがどんな役所であるかがわかってきました。その結果、平城宮内の役所の配置と平安宮のそれとのちがいが分かって来ました。ちがいがどうして出てくるのか、これは奈良時代と平安時代の政治機構のちがいを考える上で重要な資料となります。 次の「関々司前解近江国蒲生郡阿伎里人大初上阿□勝足石許田作人・・・」は、SD1900溝(下ツ道西側溝)から出土したものですが、要するに滋賀県竜王町の人で藤原京に勤務していた人が、農繁期か何かで故郷に帰って再び勤務地へ戻る時に必要だった通行手形です。これは朱雀門の内側を掘ったときに下部遺構から出て来たもので、平城京に遷都する前にあった下ツ道(その上に朱雀大路がつくられた)の側溝に65cmほどのものを二つに折って捨てられていたものでした。藤原京に勤務する役人たちが勤務地と出身地の故郷との間で、どういう関係をもっていたか知る大切な資料だと思います。 このように、木簡が日本の古代史の研究に果たした役割は、とくに平城宮(跡)から出て来たものはその影響に計り知れないものがあります。長岡京跡の木簡出土地点図をご覧いただければ、地下水位の高い部分から木簡が出土している様子を知ることができます。 木簡にとっては、園部先生がおっしゃったように地下水が大切でして、高速道路ができることによって、もし木簡の文字が読めなくなるようなことがあれば、もし木簡が消滅することになれば、日本の古代史の研究にとっては耐え難い損失であろうと思います。木簡は平城宮・京の歴史の証人であります。いま、その証人が消されようとしているのであります。 以上、時間が来てしまったので中途半端ですが、古代史研究において果たした木簡の役割の一端をお話しました。 |