わたしの戦争体験
その1
| 8月15日! 「終戦記念日」。あの時、わたしは女学校の3年生だった。(今の中学3年生である) 小学校一年生のときに日中戦争が始まった。(1937年7月7日) 1941年12月8日未明に日本軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。 当時わたしは国民学校(現小学校)5年生だった。 この頃はまだ戦争の悲惨さを感じるようなことは少なかった。むしろ日本軍は強く、戦勝が伝えられた。そして、ちょうちん行列をしてその戦勝を祝った。日本人の強さを誇りにしていたような感じもあった。学校のお習字の時間には「必勝 太平洋戦争」「欲しがりません 勝つまでは」と大きい字を書いて子供ながらに必勝を祈った。日本が勝つと信じていた。いや信じさせられていたというほうが正しいのかも知れない。 しかし、時が経つにつれ、物資の不足が伝えられるようになった。小さなゴムまり1つさえも自由には買えなかった。40人のクラスに4〜5個の配給があり、くじ引きをして当たった人がもらえ た。と言っても、6年生のときには三重県の伊勢神宮へ1泊2日の修学旅行に行くことが出来た。みんなで武運長久を祈った。 1943年4月に大阪の女学校に入学した。1年生ではじめて英語を習った。先生はわたしどもに熱心に英語を教えてくださった。楽しい授業でわたしたちも一生懸命に教わった。しかし、当時の政府は「敵国の言葉を勉強してはならない」と各学校に英語使用禁止を通達した。英語の授業時間は次第に減り、また、他の授業も担当の男の先生が出征されて、授業時間が減っていった。学校で習い始めたピアノも2,3ヶ月で終止符を打った。1994年になると、アメリカ軍の日本空襲がはじまった。お裁縫の時間には、授業の途中で「警戒警報」が発令されると、大急ぎで裁縫道具を片付けた。この頃はまだ「警戒警報」で終わることが多かった。 お友達も住んでいる家が立ち退きになり、田舎へ引っ越していった。そんな状況の中で、学校は工場となり、しばらくはここで飛行機の部品などを作った。授業時間は益々減っていった。 1945年3月、東京大空襲。この頃からアメリカ空軍の日本襲来の回数は増えて いった。わたしが住んでいた池田は伊丹空港の近くだったこともあって、「警戒警報」のサイレンがなって間もなく、「空襲警報」のサイレンを聞かないうちに飛行機上から機関銃が撃たれた。防空壕に入ることも出来ず、防空頭巾をつけて家の押入れで布団を被って、敵機が去るのを待ったこともしばしばであった。女学生が校庭にいて、逃げ遅れて、この機銃掃射にあって亡くなったということも聞くようになった。夜は灯火管制が厳しくなって、電灯は黒い布で覆い、光が漏れないようにしていた。 お風呂を炊くための薪もだんだん手に入らなくなった。沸かしても警報が出ると入れなかった。ゆっくりお風呂につかるようなことは殆どできなかった。お風呂でこっそり英語の単語を覚えたことも今は懐かしい思い出である。 1945年、わたしたちは工場で働くことになった。学徒動員である。 5月3日がこの工場の入所式だった。今も鮮明に記憶にあるのは、入所式のお祝いのお食事である。それは高粱のご飯で、小豆が3粒ずつ真ん中に載っていた。工場のアセチレンガスの臭うなかでいただいたときはなんとも言えなかった。 これほどいやなことはなかった。 わたしにはもう一ついやなことがあった。女学生の制服である。女学生の制服は学校によって特徴があった。殆どがセーラー服であった。しかし、当時は全国統一してへちま襟で、冬は紺色で襟には白いカバーをかけ、夏は白で半袖、勿論襟はへちま襟であった。スカートは禁止、モンペをはいた。そのモンペは殆どの人が古い絣の着物をモンペに改良したものだった。こんな姿で毎日工場へ働きに行った。 その後遺症なのか今でもヘチマ襟の服には抵抗がある。 工場での仕事はジュラルミン(岩波国語辞典によると、アルミニュームに銅・マグネシウム・マンガン・珪素などを混ぜた強い軽合金。飛行機などの材料にする。)を鑢で削って飛行機の部品を作ることだった。一日中立ちんぼで8時間くらい作業をした。昼食は粗食そのものだった。成長期の15歳だったわたしたちは本当に辛かった。でも、そういうことは口にすることはできなかった。当時は「兵隊さんは戦地で闘い、わたしたちは銃後を護る」ということが合言葉だった。 この工場での働きが本当にあの戦争のために役に立ったのだろうか?と思うのはわたしだけだろうか・・・・・ |