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●世界が戦争に傾く時
大正デモクラシーは、この時代を一世風靡(いっせい‐ふうび)したが、結局、大正ロマンと共に、当時の世相はエロ・グロ・ナンセンスに帰着した。これれは総(すべ)て、アメリカ支配中枢の誘導によるものだった。
そして大正時代の「大正デモクラシー」の華(はな)やかし頃、これは束(つか)の間の出来事として終焉(しゅうえん)し、その後間もなく、世界は大不況の波に洗われ、やがて日本は国粋化、軍国化の波に呑まれ、戦争の虎口(こぐち)へと引き摺(ず)られる事になる。
今日も同様の気配を感じる。同様の翳(かげ)りを感じる。政治も経済も不安定要素が複雑に絡み、好・不景気が一進一退しているからだ。政府の弱腰外交は、旧態依然である。今も昔も変わらない。国際協調の名に於いて、多くの貢物(みつぎもの)を差し出しながら、外国からまんまとしてやられている。
また、官僚主導の日本は、アメリカ追随主義を一向に改めようとしない。世の風が、逆風になっているのも知らないで……。
これは何処か、かつての大正デモクラシーに酔い痴(し)れた、あの衆愚時代に似ていないだろうか。
大正時代には「大正の政変」(【註】大正政変とも)という時期が二度あった。
この政変は「二個師団増設問題」と「第一次憲政擁護(護憲)運動」とが嵐となって吹き荒れた政変だった。
「大正」と改元が改められた直後、1912年(大正1)12月5日に、二個師団増設問題で、第二次西園寺公望内閣の総辞職した。
この発端となったのは、日露戦争後の陸海軍の軍備拡張に絡んだ増強問題であった。特に陸軍は新植民地となった朝鮮の守備隊に、新たに二個師団の増設を図り、これを議会に要求していた。ところが西園寺首相は、これをきっぱり跳(は)ね付け、陸軍の要求を拒否した。その為に陸軍と正面衝突して、退陣止むなきとなった。
また同月の21日に、第三次桂太郎内閣が発足したが、政党政治を好まない元老たちは、内大臣に就任したばかりの桂太郎に組閣を要請した。
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▲桂太郎
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しかし、12月19日の憲政擁護大会が東京で開催され、各地に波及していった。日本各地で憲政擁護の嵐(第一次護憲運動)が吹き荒れ、大正2年2月5日には局面打開の為に桂内閣は議会の停止を繰り返したが、政友会と国民党は桂内閣不信任案を提出した。また議会周辺では、「閥族(ばつぞく)打破・憲政擁護」を叫ぶ数万の護憲派の民衆が護憲派議員と共に国会を包囲し、激しい民衆デモを起した。
このデモ隊の背後に居たのは、反桂を唱えるブルジョアジーであった。特にこの中でも、三井系の拠点であった交詢社(こうじゅん‐しゃ)グループは、日本で最初の社交クラブで、明治13年(1880)に福沢諭吉が創立したものである。
福沢諭吉の掲げた論理は「脱亜入欧政策」であった。つまり「脱亜論」であり、この脱亜論こそ、植民地主義的思想の元凶であった。しかし福沢の、これを指摘する人は少ない。
今日、多くの日本国民は歴史の中で、福沢の「脱亜論」を完全に見逃していると言える。
福沢の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で有名な言葉は、アジア諸国の多くの人民には適応されなかったのである。これはアジア諸国の人民を人間としては看做していなかったことになる。
日本の文明開化は「脱亜入欧政策」で始まったが、日本の植民地主義の展開は、経済的な関心から始まったものではなく、国家とか軍事的戦略の思想から始まり、この最たるものに、韓国併合などの悲劇に見る事が出来る。日本の植民地政策は、近代化の為の、単に西欧列強と肩を並べる小道具に過ぎなかった。
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▲福沢諭吉
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福沢は幕末期から明治初頭にかけて、三回にも亘(わた)る欧米洋行を行っているが、二度目のヨーロッパを訪れた時、欧米列強がアジアを喰(く)い物にしているのを目(ま)の当たりにした。
福沢が植民地主義者にならざるを得なかった理由は、イギリスのインドに対する傍若無人な蛮行を見てからであった。したがって「脱亜入欧」こそ、植民地主義の最たるものであったと言う事になる。
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▲岩倉使節団は何の為に欧米派遣をしたのか。
岩倉使節団は、廃藩置県直後の明治4年(1871)11月より、翌々年9月にかけて、明治政府が米欧に派遣した使節団である。日本の歴史教科書で教えるところは、彼等は条約改正の準備交渉や海外視察などを使命としたとある。
使節団の構成は、特命全権大使の岩倉具視、副使の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、福沢諭吉、山口尚芳以下、多くの官員が参加し、女性としては津田梅子ら留学生も同行し、総勢100名を超えたと言われる。
さて、一体この大世帯の本当の目的は何であったのか。
恐らく、帝国主義・植民地主義を欧米から学ぶ為であった。このように考えれば、日本の台湾支配の実体が、歴史的に見てごく自然な形で、その政策に顕われていることが頷けるはずである。
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現に、日本が日清戦争に勝利して、清朝から台湾を手に入れた時、「島民の如きは眼中に置かず」と題して、「無知蒙昧(むち‐もうまい)な蛮民をば悉(ことごと)く境外に逐(お)ひ払ふて殖産(しょくさん)上一切の権利を日本人の手に握り、其全土を挙げて断然日本化せしむる」方針を主張したのである。
この主張こそ、脱亜論を掲げる福沢の脱亜入欧論者としての、欧米酔心への根拠と見る事が出来る。
福沢の主張が、これまでの日本的な「和」の精神を排し、欧米的な弱肉強食を世の習いとして、近代化を押し進め、植民地政策を押し進める事が重要であると提唱したのである。
社交クラブ・交詢社は、福沢のこうした主張に、日本人富裕層の良識を求め、経済界にも着実に脱亜論を浸透させていったのである。交詢社のスローガンには、デモクラシーと並行する形で、脱亜論が掲げられていたのである。
しかし、多くの日本人はこうした点を見逃し、ただデモクラシー下の護憲運動ばかりに目を奪われ、植民地主義の元凶となった、脱亜論を完全に見落としてしまったのである。
交詢社は本社を東京におく全国組織で、会員の中心は実業家が多く、政府に圧力をかけるアメリカ支配中枢の意図を汲んだ社交クラブでもあった。この時、交詢社の炉辺会議では、桂内閣並びに背後の元老打倒が宣言され、憲政擁護の運動計画が打ち出された。そして、グループ所屬の新聞記者、政党政治家らが推進力となり、民衆を煽った。
背後には欧米酔心派の大実業家らが護憲運動の兵站部(へいたん‐ぶ)を受け持ち、第一回憲政擁護大会は民衆の支持を得て、大いに盛り上がった。富裕層が下級層を煽ったからである。これはフランス革命の時、ユダヤ人銀行家などの富裕層が、共和主義的啓蒙思想(主権が国民にあり、国民の選んだ代表者たちが合議で行う政治システム)の影響を利用して、民衆を煽動し、革命を起させたケースに非常によく似ている。
大元年12月19日、歌舞伎座で行われた第一回憲政擁護大会では、三千人の聴衆に拍手喝采(はくしゅ‐かっさい)で迎えられた大会主催者達が「閥族(ばつぞく)の横暴跋扈(ばっこ)今や其極に達し、憲政の危機目睫(もくしょう)に迫る。吾人は断固妥協を排して閥族政治を根絶し、以て憲政を擁護(ようご)せんことを期す」という決議文を表明した。
翌年の1月2月には東京の他に大阪、香川、福島、岩手なでどでも全国各地で憲政擁護大会が開催され、未曾有(みぞう)の民衆の大動員となった。
桂首相は危機打開の為に、議会を、停会に次ぐ停会で乗り切ろうとした。
停会明けの議会では、政友会の尾崎行雄が、政友国民両党の政府弾劾決議案の説明に立ち、桂内閣の仮面を剥(は)ぐ痛烈な詰問演説を行い、桂首相は面色を失い、慄然(りつぜん)としたという。
同年2月10日には、議会を再開しようとした桂内閣に対し、国会へ押し掛けようとする民衆デモ隊と、騎馬警官隊並び憲兵が民衆を追い払おうとしたが、これに激昂(げつこう)した民衆は、忽(たちま)ち暴徒化し、全く手が付けられなくなった。その後、乱闘や焼き打ち事件が発生した為に、再開しようとした議会を止むなく断念せねばならなくなった。護憲派の民衆が気概を取り囲み、更には政府系の新聞社や警察を襲撃する事件が起った。
そして遂に、この世論の前に屈した桂内閣は、1913年(大正2)2月11日に総辞職し、僅か2ヵ月で崩壊した。
この当時、大正デモクラシーの民本主義と、民衆デモの暴挙は、同じ権利を持つくらいの民衆旋風だった。そしてインテリ階級が、この思想に染まっていくのは、必然的な時代の流れだった。
大正初期には、こうした二つの相次ぐ政変が起きた。これを「大正の政変」というが、近年の歴史研究では、專(もっぱ)ら後者を云うようだ。
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| ▲大正2年2月5日、五日間の停会令をだし、二日後の7日、首相・桂太郎は政府党を造る以外に政権維持は出来ないとしたが、大多数派の結集が失敗に終わり、桂の目論みは崩壊する。(帝国ホテルにて) |
大正時代の幕開けは、憲政擁護運動(護憲運動)の中で幕が開けられた。桂太郎の第三次桂内閣は、民衆デモに屈して総辞職した。
またこれに続く、山本権兵衛(やまもと‐ごんべい)は1913年に首相となり、政友会の支持を取り付けて、第一次山本内閣を組閣し、政局を乗り切ろうとするが、翌年ジーメンス事件が起きて瓦解した。
更に、この後を受けた第二次大隈内閣には、多くの国民の期待が集まったが、対華二十一箇条(第一次大戦中の1915年(大正4)、欧州勢力の後退に乗じて、日本が中国に突きつけた権益拡大要求)に代表される積極外交と軍拡路線で国民の失望を買った。そして、大隈内閣は大正5年(1916)10月4日総辞職をした。
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▲山本権兵衛
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大正2年の夏、東北地方は異常低温による大凶作に見舞われた。特に青森では惨状を呈し、農民達は木の葉や草の根で飢えを凌いだと言う。
そうした矢先の、大正3年(1914)1月、ドイツのジーメンス(Siemens)社が、海軍高官にコミッションを贈与する汚職が明るみに出た。この不詳事に数万の群集が議会に押し掛けた。そしてこの責任を取り、山本権兵衛内閣は、同年の3月24日に総辞職した。
山本権兵衛は“海軍の薩摩閥”を代表する人物で、「帝国海軍の棟梁(とうりょう)」と云われた人物である。第一次内閣は大正2年2月20日から3年3月24日まで。第二次内閣は大正12年9月2日から大正13年12月27日までで、何(いず)れも不詳事などの不測の事態で退陣を余儀なくされている。
デモクラシーが擡頭(たいとう)した大正時代、日本人の民本主義に入れ揚げる政治熱は、非常に大きな比重を占め始めていた。言論の自由もここに出現し、無産者の地位の向上を高める為の無産運動が起り、無産階級の利益を代表する政党の無産党までが出現する。
大正11年(1922)、コミンテルンの日本支部として、日本共産党が非合法に結成されたのも、大正デモクラシーの真っ只中であった。しかし、激しい弾圧下に、日本共産党は、昭和10年(1935)まで地下運動を続行した。
そして、この当時のスローガンは、天皇制打倒、寄生地主制の廃止、労働者・農民の政府の樹立を目標として、戦前の労働組合運動などを積極的に指導した。武装闘争路線の真っ只中にあった。
大正デモクラシーの春の宵(よい)を謳歌(おうか)している頃、日本を震憾(しんかん)させる大異変が起った。関東大震災である。
大正12年(1923)9月1日午前11時58分、突如、マグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲った。この大地震により、日本に深刻な不況の中に墜(お)ちて行く。そしてこうした状況下、社会情勢は更に不安定さを増し、街には失業者が溢れることになる。
脆弱(ぜいじゃく)な基盤の上に構築された日本経済は、関東大震災によって、不況の度合いを益々深刻化させて行く。こうした不況の最中、日本共産党が非合法的に結成(1922)されていて、社会主義や無政府主義を綱領に掲げる反体制運動が活発化して行く。
この不安定な社会情勢を巧みに捕らえた、革命後のソビエト連邦は、共産主義インターナショナルを通じて、全世界に革命を起こそうと、各国の共産主義者達に呼び掛けた。
これに危機感を募らせた日本政府は、「治安維持法」を大正14年(1925)に公布して、反体制組織の弾圧に乗り出す。この取締の尖兵(せんぺい)として猛威を揮ったのが「特高」と言われる特別警察であった。
「特高」という特別高等警察は、この時に生まれ、大本教(【註】正しくは「大本」)等の新興宗教の幹部や、左翼活動家達をビシビシ容赦(ようしゃ)なく取り締って行くことになる。これを境に、世の中は暗黒の時代へと突入し、暗い世相の事件が相次ぐ。
昭和2年(1927)4月には、大小の銀行が軒を並べて休業や倒産に追い込まれ、金融恐慌が起こった。そして、これまでの憲政会の若槻礼次郎内閣は総辞職し、政友会の田中義一内閣がこれに代わった。しかし田中内閣も前途多難であった。
陸軍大将であった田中義一は、陸軍首脳に押しが効かず、田中内閣は、発足から僅か二年足らずで、天皇の不信を買い、辞任に追い込まれる。昭和4年7月のことである。
そして政権は、民政党の浜口雄幸(はまぐち‐おさち)へと移って行く。昭和4年7月2日のことである。
しかし、日本の金融恐慌が、どうにか小康状態になった頃、今度はアメリカ経済に大恐慌が発生し、1929年(昭和4)10月24日朝、ニューヨーク・ウォール街で、株式が大暴落する言うパニックが発生した。世に言う「暗黒の木曜日」である。
この大暴落は世界規模の恐慌となって、やがて日本へもその影響が波及した。街には失業者が溢れ、残飯(ざんぱん)を求めて浮浪者の長蛇の列が出来た。
こうしたアメリカで起こった大恐慌は、瞬(またた)く間にヨーロッパへと波及し、更には、日本を直撃した。
輸出産品価格は下落し、在庫は山をなし、当時の日本の主力輸出品は生糸(きいと)で、総輸出品の四割を占め、生糸はその約九割がアメリカ向けであり、大打撃を受けることになった。
この深刻な状態は、紡績工場を始め、日本の主要産業は生産調整を迫られ、アメリカ同様に馘(くび)切り旋風(せんぷう)が吹き荒れ、日本各地では労働争議が激化して行く。 |