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役員 会員の意見・論文 『プランB』31号 2011.2.1
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地球からの警鐘──〈脱原発〉への転換を  2011.4.1発行『プランB』32号掲載

 東北新幹線「はやぶさ」が時速300キロで盛大に祝福されてスタートした6日後、3月11日に発生した東日本大震災は、日を追って甚大な災害となっている。マグニチュード9.0という未曾有の大地震と大津波である。世界最大級の規模である。津波は時速50キロメートルで地上20メートルの高さに達した。家屋やビルが倒壊・漂流し、都市全体が見渡す限り瓦礫の街と化し、死者は万単位となると予測され、被災者は数十万に及ぶ。しかも、大津波が襲来した海岸には原子力発電所がいくつも稼働している。東京電力の福島第一原発では重大な爆発事故を引き起こした。事態は刻々と悪化している。炉心溶融に近く、周辺では高濃度の放射能が検出され、極めて危険な水準となっており、20キロの範囲で住民の退避が指示された。
 まず、放射能の拡散を防ぐために命を賭けて必死に作業に当たっている人たち──東京電力(下請けも含む)の労働者、自衛隊員、消防署員に深く感謝する。彼らへの感謝と共感が一切の出発点である。作業の目的が果たされることを祈る。そして、被災した人たちの生活再建の努力にただ頭が下がる。街全体が大津波に飲み込まれ瓦礫の山と変貌したなかで、ある被災者は「復興には今から何年かかるか分からないから、今、挫けてはいられない」と語っている。被災地では電気は止まり、ガスもない。食べ物も水も薬も足りない。福島県外に「脱出」する被災者も増えている(1995年の阪神大震災では、兵庫県外で避難生活を送った人は12万人前後とされる)が、被災者はこの先、どこでどうやって生活すればよいのか。「無常」は安らぎの源泉となり、希望は活力を生み出す。
 夕刊紙は「日本沈没」とか「東京麻痺」と度でかい活字で無責任を競っている。過剰な表現は百害あって一利なしである。政府・マスコミには責任ある、正確な科学的知識に基づく現状認識とその情報公開が求められている。この点では、電子機器の飛躍的発達が事態を大きく改善している。政府や東京電力の対応に不十分な弱点があるにせよ、あるいは被害を過小に評価する傾向や一面的な報道がないわけではないが、「報道管制」などとヒステリックに批判すべきではない。今は責任追及の局面ではない。
 現地からの報道に接して、慄然とする。自然の猛威・巨大さを今さらながら思い知らされた。事故翌日の「朝日新聞」「天声人語」は物理学者寺田寅彦の警句──「国土全体が一つのつり橋の上にかかっているようなもの」であり、「つり橋の鋼索が、あすにも断たれるかもしれない」を引いている。私たちは、自然に対して謙虚に接しなくてはならない。自然の征服ではなく、自然との調和こそが切実に求められている。
 次に深く胸に刻み込まなくてはいけないことは、人間の社会は、〈信頼〉によってこそ成り立っていることである。普段は意識することもなく、当たり前のこととされている多くの関係やシステム、別言すれば法と法律によって支えられている。社会のシステムの不備や欠陥を是正し、変革する努力を、従来の常識や知識を根本的に検討・再考して発揮しなくてはならないが、その前提・基礎に社会と人間への信頼・愛を据えることが不可欠なのである。ここでも「自由」ではなく、〈平等〉が救援と復興の基軸である。コンビニに行けば商品棚に「平等に一人一個を」と表示してある。
 市町村の役所の書類もすべて消失したところもある。戸籍台帳も土地の登記簿もなくなった。私有地の境界石も家屋もろとも濁流に流され、土地そのものが70センチも沈下して海面下に消えてしまったところもある。どうやったら復元できるのか。難題と言うしかない。抽象的に言えば、〈土地の自治体所有〉を基礎とする防災都市の創造をめざす必要がある。復興のためには、〈被災生存権所得〉の新設・給付が必要である。
 防災都市の創造のためには、私権を制限しなければならない。16年前1995年の阪神大震災の直後に、私は「都市計画のために私有地が没収される『減歩』も問題になってゆく」と指摘した(「阪神大震災と土地の私的所有の限」)が、今回もさらに大きな規模でこの措置が必要となる。この考え方は、1923年の関東大震災の時に、内務大臣後藤新平が東京復興計画のなかで提起していた! 阪神大震災の直後に「朝日新聞」の「社説」が明らかにした。そこには「焼け跡を全部買い上げて土地整理をおこなう構想までが含まれていた」。
 より原理的に考えれば、人間は「大地の所有者ではない。大地の占有者である」という、マルクスが『資本論』に書き残した一句の真理性が迫真的意義を有している。
 災害救助や復興過程では言うまでもなく〈計画〉──正確に言えば「協議した計画」──が核心的要件となる。東京電力が14日から実施した「計画停電」がその象徴である。この用語に関して「読売新聞」「産経新聞」は一面トップの大見出しに「輪番停電」と書いた。東電もNHKも「計画停電」と表記しているのに、なぜ「輪番停電」と言うのか。「計画経済」へと連想が拡がることに本能的恐怖を感じているからに違いない。日本共産党の「赤旗」が、「輪番停電」と表記したことはしっかりと記憶する必要がある(翌日は「計画停電」と変更)。
 経済における〈計画性〉は、紀元前206年の中国前漢の古典『塩鉄論』で説かれていたのであり、ソ連邦の崩壊によって「計画経済」──正しくは〈協議経済〉に反発、嫌悪することは愚かな態度にすぎない。ここでも資本制経済のシステムの有効性が問われ、その限界が露わになっているのである。
 原子力発電所が存在がさらに事態を非常に危険なものとしている。今こそ、〈脱原発〉へと転換しなくてはいけないし、そのチャンスである。「安全神話」は木っ端微塵に砕けた。関係者は「想定外」を繰り返しているが、警告は前から発せられていた。この大惨事に直面して、なお原発を推進すると判断することは正気の沙汰ではない。山口県の二井関成知事は13日、中国電力が計画している上関原子力発電所の建設準備工事を当面見合わせるよう中国電力に要請し、中電は15日、工事を中止すると発表した。17日には、自民党の谷垣禎一総裁が「原子力政策を推進していくことはなかなか難しい状況になっている」と記者会見で明らかにした。
 ところが、「朝日新聞」は間髪を入れず「地震国と原発 どう共存するのか」とタイトルした竹内敬二編集委員の一文を載せて、「地震国日本でどこまで原発を増やすのか」などと間の抜けた問いを発している(12日)。さらに日本経団連の米倉弘昌会長は16日、東京都内で記者団に対し、福島第一原発の事故について「千年に一度の津波に耐えているのは素晴らしいこと。原子力行政はもっと胸を張るべきだ」「原子力行政が曲がり角に来ているとは思っていない」と述べた(他方、日本商工会議所の岡村正会頭は同日の定例会見で「放射能の放出は、国民が最も不安を抱く。正確かつ迅速な情報提供を望む」と要望。その上で「見直しの期間だけ〔原発建設が〕延伸されることは当然起こりうる」と述べた。世界の原発は431基)
 福島第一原発の事故は、国内のみならず直ちに国際的にも大きな影響を生んでいる。オバマ大統領によって、グリーンエネルギーとして原発の増設に踏み切ったアメリカ(原発104基)でも中国でも、重大な関心を寄せている。
 13日、タイのアピシット首相は、「日本の原発での爆発はタイの計画に影響を与える」と発言した。14日、オーストラリアの与党労働党のギラード首相が原発を推進しない姿勢を示した。15日、欧州連合(EU)欧州委員会は、EU域内にある原発の安全性を確かめるため、加盟二七カ国のエネルギー担当相や電力会社代表らを集めて緊急会議を開催した。ドイツやスイスは「原発回帰」政策を凍結した(EU域内で原発は14カ国143基、日本は54基)。
 同日、ベネズエラのチャベス大統領は、「初期段階にある原子力開発計画を凍結した」と表明した。同日、メキシコのエネルギー当局者は、新たな原発建設計画を保留し、原因究明後に今後のエネルギー政策を再検討する方針を示した(メキシコ紙「ウニベルサル」電子版)。
 民主党政権は、東アジア各国への原発輸出を経済政策の柱にしようとしているが、頓挫するほかない。全世界的規模で、〈脱原発〉へと潮の流れは転換しつつあるのだ。
 1979年のアメリカ・スリーマイル原発事故いらい持続的に反原発の声を形にしてきた反原発運動について、私たちはその先駆性・意義をしっかりと認めなくてはいけない。この点で、私自身も本誌も原発問題を主要課題としてはこなかったことについて深く反省する(私自身は時に反原発の集会に参加したことはあるにせよ、本誌ではわずかに原発のある東海村の村議相沢一正氏の連載を掲載してきた程度である)。
 だが同時に、言いにくいことではあるが、反原発運動の限界についても指摘しなくてはならない。反原発運動はなぜ、もっと大きく拡がることができなかったのか。仮に反原発の活動家が弾圧され、獄中に隔離されていたのであれば、国家やマスコミへの批判を強調することも正当な主張であるが、そうではない。言論の自由は保障されていた。国家やマスコミによる原発報道が偏向し歪んでいたことは否めないし糾弾すべきであるが、国家やマスコミの姿勢を許容したのは、日本の市民の責任なのである。国民の納得を不十分にしか得られなかったのは、「反原発」の主張に何かの欠落・不十分があったからではないのか。具体的には、原発に代わるエネルギーはどのように保障されるのか、生活スタイルはどのように変革しなくてはいけないのか、日本の産業構造はどのように変えなくてはいけないのか、これらの課題に踏み込んで解明し、代案を示すことができなかった、と反省する必要があるのではないか。ただ原発の危険性を警告するだけでは、決定的に不十分である。私たちは、「反原発」ではなく、〈脱原発〉として新しい質の運動を起こさなくてはならない。
 旧約聖書に書いてある「バベルの塔」の神話では、古代メソポタミアのバビロンで、天に届く高い塔を建設しようとした人間に対して、神が怒り、言葉を通じなくするように別々の言語を話すようにさせた。私はキリストへの信仰を抱いているわけではないが、原発はまさにバベルの塔である。言語の不通によって無謀な計画を邪魔するのではなく、理性の発揮によって断念しなくてはならない。
 〈脱原発〉のエネルギー政策を立案しなくてはいけない。その前提として〈脱経済成長・豊か精神社会〉の構想が求められている。
 私たちは今、大惨事に直面して、社会のあり方を根本から問い正す歴史的瞬間に立たされているのだ。 (2011.3.20 村岡 到『プランB』編集長)