■ 両親からのあいさつ ■

 私達の長男・空は、3歳頃まで大きな病気をすることもなく元気な子どもとして成長してまいりました。
 3歳半頃、体の不調を示すようになり、近くの病院で診てもらい、精密検査を要するその様子から大きな総合病院を紹介され受診しました。そこでの検査の結果、悪性リンパ腫であることが分かり、抗がん剤による治療を1年余り受けることになりました。
 母親は病室に泊りがけの付き添いをし、当時3歳の空は、つらい治療や副作用と闘いながら頑張りました。その甲斐あり、4歳半過ぎには寛解というほぼ治った状態にたどり着き、退院することができました。その後は、不安を抱きながらも定期的に通院し、検査結果は好ましい状況が続きました。

 ところが、小学校2年生の秋頃、風邪気味のような状態が続き、定期通院でいつもの病院を受診すると、肝機能が落ちているということで緊急入院しました。
 詳しい検査の結果、主治医からは「拡張型心筋症」という説明でした。はっきりした原因については特定できないが、抗がん剤の副作用が可能性としては考えられるということでした。
 このまま心機能の低下が進行していくと心臓移植しかないと告げられましたが、その頃はまだそれなりの配慮をすれば普通に近い生活をすることができるので、心臓移植については現実味を感じることはありませんでした。

 その後は、数年ごとに体調を崩して入院し、内科的な治療のおかげで持ち直し、退院するということを何度も繰り返し、そのたびに運動制限、飲水制限、塩分制限と投薬が増えていきました。
 小学校5年生頃、山梨大学医学部附属病院に転院し、引き続き内科的な治療を受け続け、入退院を繰り返しました。中学3年生の時、主治医から心臓移植登録の話を聞き、家族で話し合いの結果、登録を決意しました。最終的には、東京大学医学部附属病院での移植登録となりました。
 高校3年の冬、東京大学医学部附属病院において僧帽弁の手術を受け、血液の逆流が改善し、体調がある程度回復しました。その年の春、放送大学に進学して勉学を続けることにしました。面接授業も受けることができ、将来は、臨床心理士になりたいという目標を持つようになりました。

 しかし、昨年秋頃から体調を崩し、山梨大学医学部附属病院に入院し、今年2月には血漿交換療法も受けました。症状が改善したかと思えましたが、今年5月、再び重症心不全で入院。いつものように内科的な治療を行っても心臓の調子が持ち直してこないため、強心剤を常時点滴で投与することになりました。さらに、不整脈を発症し、強心剤を増やしましたが、このままでは不整脈が続き、心停止を起こす。そうなったら心肺蘇生をし、人工心肺で命をつないでも1週間が限度だと言われました。移植まで心臓やほかの臓器をもたせるためには一刻も早く補助人工心臓の装着が必要だとのことでした。
 ところが、頼みの東京大学医学部附属病院は補助人工心臓を装着した方々がすでに入院されており、ベッドに空きがない満床状態で、受け入れられる状況にないという連絡が伝えられました。
 しかしその翌日、東京大学医学部附属病院の主治医の先生のおかげで筑波記念病院で引き受けて下さる旨の知らせをいただきました。

 翌朝、緊急に筑波記念病院に転院し、数日後には先生方により補助人工心臓の装着手術を受けました。ほっとする間もなく、術後10日目に、胸に血の塊が見つかり、それを除去する緊急手術を受けました。その際、出血が止まらなくなるという予期しない事態になりました。ありとあらゆる手立てを講じていただきましたが、効果は見られませんでした。
 そして、生存の望みは1%しかないけれども、最後の止血手術を受けるため、手術室へ入りました。私たち家族は控室で祈るようにして待つこと数時間、主治医初め先生方のおかげで奇跡的に血液の凝固作用の回復に至り、その後一般病棟に移るまでに回復しました。
 現在、血栓対策、感染症予防、リハビリ、補助人工心臓のポンプの自己管理など、一喜一憂しながら一歩一歩治療と体力回復に向けて歩みを続けている毎日です。

 今年、改正臓器移植法が施行されましたが、何年も待ち続けることには変わりはない状況であり、補助人工心臓の耐久度、空自身の体力、心臓の状態には限界があり、そんなに長くは耐えられません。空自身の夢を実現させるためには、生き続ける必要があります。色々と悩み抜いた結果、本人の意志と家族の想いにより、アメリカでの心臓移植を決意しました。
 幸いなことに、空のことを心配し、支えてくださる皆さんのおかげで救う会が立ち上がりました。8月5日にはコロンビア大学病院から空の受け入れ決定の知らせをいただき、夢が現実に向かって動き始めました。
 無事に移植を終え、元気に山梨に帰る日を夢見て、これからも続くであろうつらい日々を乗り越えていきたいと思います。皆様のご理解とご支援、ご協力をいただきたく、よろしくお願いいたします。

2010年9月
中込 悦雄・千恵

■ 父の想い ■

 長男・空の誕生のとき、私は分娩室でその出産に立ち会っていました。第一印象は、「大きな赤ちゃん」。初めての産湯は、私が行なったのを覚えています。
 その後、すくすくと育ちましたが3歳頃、体の不調を訴え、悪性リンパ腫と診断されました。入院中のわが子は、まだ幼く、私は、成長の段階だからと、絵本や雑誌の付録、折り紙など小さい子の興味を持ちそうなものを毎日のように届けては、一緒に遊ぶようにして過ごしてきました。
 一年間の闘病の末、やっとの思いで退院することができ、保育園にも戻りました。その後、通院のたびに不安を抱きながらも、何事もなく過ごすことができました。

 小学校2年の秋頃。ただの風邪ではない様子に、不安いっぱいで受診すると、検査の結果「拡張型心筋症」と診断されました。この時から13年間の入退院を繰り返す闘病の日々が始まりました。一日一日、命をつないでいくという思いで過ごした毎日でした。
 私は、成長するわが子の将来を何とか夢と希望の持てる日々にしたいと寄り添ってきました。しかし、入退院の繰り返しという厳しい現実。通学もままならないほどの心機能の低下。徐々に選択できる将来は狭くなり、命をつないでいくこともか細く思われました。

 今年に入り、入院先の附属病院で心停止の危機に直面しました。希望が途絶えそうな時、筑波記念病院で補助人工心臓の装着手術を受け、命をつなぐことができました。
 しかし術後、胸に見つかった血の塊を除去する再度の手術。出血が止まらず、再三にわたって手術が行われました。それは、1パーセントの可能性に、家族と病院の先生方が挑むぎりぎりの挑戦でした。なんとかして、空の命と夢をつないでやりたい。胸が押しつぶされるような思いで祈った時間は、永遠のように長く感じました。そして、祈りが届いたのか、空の命は再び未来につながりました。

 そして先日、アメリカのコロンビア大学病院から心臓移植受入れの内諾とデポジットレターが届きました。すでに空の体は長年の闘病により、国内で長期にわたる待機に耐えられる体ではありません。補助人工心臓も血の塊ができやすく、長期間使用することができません。こうした現実を受け止め、私たちはアメリカでの心臓移植を決断しました。
 空の命をつなぎ、将来の夢を実現できるようにしたい。私たち家族の想いを実現できるよう、ご協力のほどを切にお願い申し上げます。

2010年9月
中込 悦雄

■ 母の想い ■

 空が3歳でリンパ腫を発症した時、
「この子を生かしてみせる」
「泣いたら負ける。いつも笑顔でこの子を育てていこう」と決めました。
 夫とも、「この子が一生病気とともに暮らすことになっても、二人で支え続けて行こう」と話しました。

 あれから17年。7歳で拡張型心筋症を発症し、徐々に心機能が落ちていく中、
「今、空が希望に向かって充実した生活を送れるように」
「ストレスなく、少しでも長くこの心臓を持たせるように」と彼の成長に寄り添ってきました。

 正直、怖くてつらくて、車を運転しながら泣いたこともありました。でも、空は死の恐怖や将来の不安や今現在の辛さに、耐えるしかなく耐え、それでも生きようと戦い続けていました。
「私たち両親が戦わずに、誰が空を生かせるものか」彼の姿に、私たちのほうが叱咤されました。

 今、果てしなく先の話だと思っていた、アメリカでの心臓移植が現実になろうとしています。渡航にも、移植手術にも、移植後の治療にも、多くのリスクが待ち構えています。それを思うと空も私たち家族も身がすくみます。でも、日本にいて補助人工心臓の血栓におびえ、何年も移植を待つ猶予は、空の心臓には残されていません。

「元気になって山梨に帰りたい。当たり前の青春を体験し、自立して、人の役に立つ仕事をしたい。」空の願いは私たち家族の願いです。多くの皆さんの温かい気持ちに支えられて、今前を向いていけることに感謝しています。
 これから、もっと多くの方々にご迷惑をおかけすることを、申し訳なく思っています。一つの命をつなぐために、どうか皆さんの温かい心をお寄せください。募金へのご協力を、お願いいたします。

2010年9月
中込 千恵

■ 姉から見た「空」 ■
―長女からのあいさつに代えて―

 空は、赤ん坊のころ、よく空を見ていました。
 窓の外に広がる青い空。それを、眺める小さな瞳。
 この子の目には、青空はどんなふうに映っているのだろう。それが知りたくて、ベビーベッドの上に乗りこんで、一緒に青空を眺めたのを覚えています。
 姉二人にスカートを履かされ、髪にリボンを付け、「そらみちゃん」と呼ばれて笑顔で振り向く空。気に入らないことがあると、爪でつねったり噛みついたり。どこにでもいる甘ったれの末っ子。小さな王様。それが空でした。

 空が3才で病気になり生活が一変してからも、私の中でそれはずっと変わりません。
 むしろ、闘病生活の中で経験した辛いことや悲しいこと、悔しいことなどを通して、空は、広く深い青空のような思慮深い青年になったと思います。
 自分に嘘をつかず、人の嘘を許さず、孤独や不安と共に生きる空の姿に、私は何度救われたかしれません。だから空には、独り立ちして自分の夢を追いかけ、自分の人生を生きてほしい。そして、それができると、私はこれまで信じて疑ったことはありません。

 空も、体調がすぐれない期間が長引くと、一時無気力になることもありました。内に秘めた言葉を吐き出すにも、話せる友とも疎遠になり孤独だったと思います。
 空の話を聞き、詩を書くよう勧めたこともありました。けれど、言葉を紡ぐにもエネルギーがいります。空の本当の声が聞きたいという私の想いとはうらはらに、進行する病状を目の当たりにして、かける言葉を飲み込むこともありました。

 18才で受けた東京大学医学部附属病院での手術の後、空はぽつぽつと詩を書くようになりました。私は「しめた!」と思いました。空の紡ぐ言葉は、小さいながらも確かに脈打つ空の心臓の鼓動のようです。時に不安や孤独に震えながら、生きていることを確かめるように脈打っています。空は、今、夢を持ち、本当の自分の人生を歩き始めたばかりです。

 しかし、空が自分の人生を歩むためには、どうしても心臓移植が必要です。それには、多くの方のご理解とご協力をいただかなければならず、救う会などで協力してくださっている皆様には本当に感謝の言葉もありません。

 ここに、空の詩を転記します。
 どうか、空の言葉が青空に届き、夢をかなえることができますように。
 何卒、皆様のご理解とご協力をお願い致します。

2010年9月
中込 ゆう



「空と私と君と雲」         2010.04.01中込 空

空と雲の画像

空があると
私は言う
あるだけさと
君は言う

じゃああれは何なんだいと
私は飛行機雲を指して聴く

ただの感情の残像さと
君は言う

街を見ながらポツリと
無くなったと君は言う
空気が無くなった
山が無くなった
此処に私の居場所が無くなったと

自分が居るよと
私は言いかけたが
言葉が
口の中で溶けて消えた

飛行機雲は
もう消え去っていた



■ 姉からのあいさつ 次女 ■

 私が5歳のとき、弟の空が生まれました。両親を独り占めする弟に嫉妬し、わがままを言ったり弟にちょっかいを出したり、というような幼少時代でした。
 弟が初めて入院したころは、何の病気かということも理解できず、ただ、母が家にいないことを毎日寂しがっていました。弟が退院し家にいたころは、姉弟喧嘩をしながらも弟や弟の友達と一緒によく遊んでいました。

 弟が拡張型心筋症で再入院したころ、私は小学校のクラブ活動に夢中でした。中学校でも部活動に熱中しており、ときどき親に連れられて見舞いや通院に付き合う程度でした。
 弟はそれまでも入退院を繰り返していましたが、私が高校に上がったころから長期入院を繰り返すようになりました。このころから、私はやっと弟の病気について詳しく知るようになりました。大学へ進み山梨を離れて初めて、家族のありがたみを知り、弟の状況についても以前より考えるようになりました。

 私は大学でも部活動をしており、最後の年の大会の直前に、弟が東京大学医学部附属病院で弁の手術を受けていました。移動の関係で手術当日に病院へ寄り、そこで初めて術後の弟の状態がどのようであるかを知りました。呼吸器をつけ、たくさんの機械に囲まれ眠る弟を初めて目の当たりにし、衝撃を受けずにはいられませんでした。
 同時に、それまで自分のやりたいことばかりして、弟の病気のことを大して理解できていなかったことに改めて気づきました。それから一年数ヶ月が過ぎた今年の初夏、弟は「バド」という補助人工心臓を装着しました。成功確率の低い装着手術や、その後の止血処置時も家族4人で病院に詰め、連日祈る思いで回復を待っていました。現在は、母が弟に付き添い、仕事の合間に父や私たち姉が見舞いに通っています。

「中込空くんを救う会」に携わってくださっている方々や職場の方々、そして、友人たちには本当に支えていただいております。
 そして、私たち家族を直接知らない皆様にもご協力をいただかなければならないということで、大変心苦しく思っております。それでも、弟が元気に走り回ったり、勉強したりできるようになることを、姉として切に願っています。

 空に、アメリカでの心臓移植を受けさせてあげたいです。
 皆様のご理解とご協力を、どうかよろしくお願いいたします。

2010年9月
中込 ふき