物語 職業奉仕

第二話 ピルグリム・ファーザーズ


 
 ポール・ハリスは、その自伝『My Road To Rotary ( ロータリーへの道)の副題に、『 The Story of A Boy, A Vermont Community, and Rotary ( 一人の少年とバーモントの町とロータリーの物語)と書いています。ハリスがこの本で先ず書きたかったのは、かれの少年時代と彼が祖父母のもとで育ったバーモントの町のことです。ハリスにとって、バーモントの町なくしてロータリーはなかったのです。ニューイングランドのこの町のことは、いずれ後ほどお話しますが、十七世紀の初頭、イギリスの宗教弾圧から逃れて、メイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に新しい世界を求めたピューリタンたちの敬虔なこころが、ハリスの幼児体験の中になかったら、ロータリー・クラブは創立したとしても、職業奉仕という理念は生まれなかったかも知れません。
 
 第一話のなかで、マックス・ウエーバーがバージニアでバプテストの洗礼に立ち会ったことを書きました。ここでマックスは、敬虔な信者であることが、営業上の信用と一致するものであることを知って、帰国後フランクフルトの新聞に「・・・・確証されたクリスチャンは、有能なビジネスマン、それも資本主義的な観点から見て有能なビジネスマンである」と書いています。マックスは、ニューイングランドの敬虔なプロテスタントの行動が、企業の発展と決して矛盾するものではないということを、大陸への旅行で強く実感したのですが、その厳しいプロテスタントの禁欲的生活態度こそがポール・ハリスが少年時代に育ったニューイングランドの精神的風土でもあったのです。
 ボストンから南の方角に車で1時間ほど行きますと、人口5万人ほどの町プリマスに着きます。プリマスは、アメリカのホームタウンとよばれています。17世紀の初め、イギリスでの宗教弾圧を逃れ、信仰の自由を求めた一団が、イギリスのプリマスからメイフラワー号に乗ってアメリカ大陸を目指しました。アメリカの東海岸で、入江があって港にもってこいのところは、『マス』いう名がついています。プリマスがそうですし、ボストンからやはり一時間くらいのところにあるポーツマス、そうです、日露戦争の講和会議が開かれたポーツマスも、古くから良港として知られています。            
1620年12月22日、メイフラワー号に乗ったピューリタンたちが、66日間の航海の後、やっとたどり着いた新大陸に第一歩を刻し、上陸した場所をプリマスと名付けました。
 
 ポール・ハリスが育ったニューイングランドの宗教や生活を考えるには、どうしても宗教国家アメリカの、建国の歴史を無視することはできません。勿論、メイフラワーの物語は、時代が下るにつれて、多くのフィクションで飾られています。しかしながら、そのような物語を語り継いで、感謝祭を国家行事として現代に定着させたアメリカ文化の背後に、ニューイングランドの市民のなかに歴史とともに培われた良識があるように思われるのです。
 ニューイングランドのピューリタン的性格といえば、信仰、忍耐、勤勉、個人と社会の自由などが、特徴としてあげられています。それはまたアメリカ人の特性だというイメージがいつの間にかできあがっています。ポール・ハリスが創ったロータリーの、職業奉仕の原型もまたその中にあると思うのです。私たちもここで、ピューリタンたちの歴史を振り返って見ましょう。

ページのTopへ 

 16世紀のヨーロッパは、探検の時代でした。16紀の後半、スペインはすでにフロリダ半島に植民地をつくり、17世紀になると西部の町サンタフエに進出します。サンタフエは、現在でも西部の古都として、街のあちこちにスペイン様式のレンガ造りの建築物が多く残されており、同時にアメリカン・ネイテイヴズの生活様式もいまに伝えられていて、スペインとネイテイヴ・アメリカンの二つの異文化が融合した特異な雰囲気を醸しだしています。
 一方イギリスは、みなさんご存知のキャプテン・ドレイクなど、十六世紀の終わりから何回かにわたって新大陸に向かって探検隊を送り、1584年に派遣された探検隊が現在のヴァージニアに上陸、時のイギリスの処女王エリザベスに因んでヴァージニアと命名しました。その後17世紀に入って1607年、ヴァージニアを入植地の拠点として、ジエームズタウンを建設しました。江戸幕府が開かれたのが1603年ですから、日本で幕府が開府したころ、アメリカ大陸ではヨーロッパからの移民が苦労しながらその生活の基礎作りをしていたということです。
 
 ジエームズタウンの建設は、悪疫と飢餓に加えて原住民たちの脅威にさらされて、最初の入植者百人のうち、1年後の生存者は3分の1になるというように、大へん悲惨なものでした。しかしながら、その後も入植を続け、入植者の苦闘と努力の結果、10年後にはタバコ、トウモロコシ、ピーナッツ、ココアなど多くの農産物が収穫できるようになり、収穫量も年々増加して、その輸出額は急激に上昇し、これが入植者の勤労意欲を高め、さらにイギリスからの移住を増やすことになりました。当時、植民地建設には莫大な費用がかかましたので、その資金は株式会社組織で集められ、株主は移民に要した費用と農産物とを一定の年限にわたって受けとる仕組みになっていました。大陸に移りたいと思う人は植民会社に渡航費を払い、入植後は農産物を会社に提供し、会社はそれを株主に配当するという仕組みです。イギリス国王は、移民のための資金を提供することはなく、会社に特許状を下付して、植民地経営の権限を会社に与え、これを推進したのです。
 
 16世紀から17世紀にかけて、イギリス国教会の聖職者たちの堕落は、目に余るものがありました。ことに16世紀の中ごろからは、宗教改革を目指すプロテスタントに対する迫害が、激しさを増していきました。エリザベス女王の時代になりますと、イギリス国教会のカトリックとプロテスタントとの中道政策がとられましたが、それでも先鋭なピューリタンたちは地下運動を続けながら、やがて一六四二年のピューリタン革命に繋がっていくのです。メイフラワー号のアメリカ大陸到着は、それに先立つこと20年ということですね。
 プロテスタントとは、ルターの宗教改革運動を機縁に成立したキリスト教各派の総称です。そのなかで、16世紀から17世紀にかけてイギリス国教会の改革を求めた人々を総称してピューリタン(清教徒)と呼びます。マックス・ウエーバーが近代社会を考えるうえで重要視したのが、プロテスタンテイズムであることは、すでにご承知の通りです。
 イギリスのピューリタンは、二つに大別されます。イギリス国教会と厳しく対立している分離派と、国教会の体制のなかにあって宗教改革を実現しようとする非分離派です。メイフラワー号でプリマス植民地にむかった人々は分離派、後で述べるマサチュセッツ湾岸植民地を形成した人々は非分離派です。前者を『ピルグリム』、後者を狭い意味の『ピューリタン』と呼んで区別しています。
 イギリス国内で絶えず執拗な迫害の危険にさらされていたピューリタンは、最初からアメリカ大陸を目指した訳ではありません。17世紀のはじめ、彼らは迫害を逃れるため、先ずオランダのアムステルダムに脱出しました。イギリス海岸からオランダまではそれ程遠い距離ではないのです。脱出してオランダに来たものの、そこでの都会の生活には適応できず、オランダで生活を続けると、彼らの子どもが母国語である英語を話せなくなることや、農耕生活を主とする彼らにとって、都市では自分たちに適した職業を選ぶことが難しいなど、言葉の習熟や教育、職業選択についての色々な困難な問題がおこり、再度の移住先としていくつかの目的地が考えられましたが、最終的にはアメリカ大陸への移住が浮かび上がってきたのです。しかしながら、アメリカへの入植には、莫大な資金が入用です。それをどうにかクリアーして乗船できたのが、メイフラワー号です。
 メイフラワー号は、イギリスのプリマス港を出帆、1620年12月22日プリマスに上陸しました。私は、プリマスという名前は出港地に因んで付けたものだと思っていましたら、そうではなくて、彼らが上陸したところもプリマスという名前だったそうです。偶然というものがあるものですね。ピューリタンたちの出国に際しては、信仰上の理由から国王の特許状を得ることができませんでした。それで、国王の特許状を持っているヴァジニア植民地に入植することにして母国を出発したのですが、出発がおくれたこともあって、アメリカ大陸に到着してからさらに南下してヴァージニアに向おうにも、それができなかったのです。といいますのは、メイフラワー号がアメリカに到着したときはすでに冬の季節に入っており、入植者たちも長い航海で疲労の極に達していましたので、それ以上の航海を続けることは到底不可能でしたから、やむなくプリマスに上陸して、ここに生活の場を築くことになりました。それがプリマス植民地です。
 プリマスに上陸したときから十年後、非分離派のピューリタンたちが、新大陸に、国教会を改革するためのモデル植民地を建設したいという期待をもって、国王の特許状を得たうえで、マサチュセッツ湾岸植民地を開きました。後に、プリマス植民地はマサチュセッツ湾岸植民地に併合されることになります。
 プリマスでのピルグリムファーザーズたちの生活がどんなに悲惨なものであったか、彼らのリーダーであったウイリアム・ブラッドフォードの記録を大西直樹の訳で紹介しておきましょう。
 
 「しかし、最も悲惨で嘆かわしかったことは、2、3ヶ月のうちに、一行の半分が死んでいったことである。とくに、1月、2月は冬の最中なので死者が多かった。それは、家もその他の施設も不足しており、またながい航海と不自由な生活環境がもたらした壊血病やその他の病気に感染したためであった。そのため、1、2月には、1日に2、3名の死者が出たほどで、百余名のうち、やっと50名が生き残ったのであった。その上、もっと悲惨なことには、この50名のうち6、7人しか健康ではなかった。」

ページのTopへ 

 マサチュセッツ湾岸植民地の設立は1630年ですが、規模においてもプリマスの10倍はあり、確固とした法的基盤も持っていました。宗教的にも、非分離派の立場をとって本国との関係を保ちながら、一方では早くも、1636年に自前の牧師養成学校であるハーバード大学を設立して、聖職者の養成を始めるなど、プロテスタントとしての新国家建設に向けて、一歩一歩着実に前進していったのです。
 その後アメリカ大陸は、ヨーロッパ各国の植民地として、夫々の国の制度や生活習慣を取り入れて、新大陸での植民地経営に適応するように形を変えながら、母国とは異なった発展を遂げ、夫々独立した植民地経営を続けましたが、やがてそのなかから1776年7月12日、アメリカ13植民地が独立の日を迎えるのです。
 ピューリタンに限らず入植者たちは、生活の安定のために勤勉に働かなくてはなりませんでした。彼らを力ずけながら生活を支えたのが、ピューリタンの牧師たちです。そして、アメリカ建国以後も勤勉はアメリカ人の信条として受け継がれ、『勤勉なヤンキー』というイメージが定着していきました。ベンジャミン・フランクリンは、晩年の著書のなかで、「金持ちになりたいものにとって、アメリカは最高の場所である。とりわけ勤勉な貧乏人が安住できる場所で、アメリカ合衆国ほど下層労働者が衣食住に不自由せず、十分な賃金を貰っている国はない」と書いています。フランクリンは、独立前後の18世紀初頭に活躍した代表的アメリカ人で、アメリカ独立宣言に最初に署名した5人のうちの1人です。
 
 やがて十九世紀にはいりますと、ヨーロッパから大量の移民がアメリカ大陸を目指すようになります。例えば、1860年から40年間に合衆国の人口は、3100万人から7600万人になりましたが、増加した人口のうち1400万人は移民によるもので、しかもそのほとんどが都市に集中しました。彼等が、アメリカの工業化の下支えをすることになり、やがては大量生産大量消費の時代に入っていく訳ですが、そのなかで1880年台になって、都市化にともなう社会のいろいろな矛盾を直視して、その解決を図ろうとする新しい考え方が生まれて、来るべき新時代の準備を始めるのです。このような時代に、ポール・ハリスは大学を終えて、社会に巣立ったのです。
 
 イギリスの思想家カーライルをして『すべてのヤンキーの父』といわせたベンジャミン・フランクリンは、1706年ボストンで生まれました。彼の父ジョサイアはプロテスタントで、16822年に宗教的自由を求めて、イギリスからニューイングランドに移住しました。ベンジャミンは家が貧しかったので、満足に学校に通うこともできませんでしたが、ニューヨーク、フィラデルフィヤを遍歴し、印刷の技術を身につけ、22才でフィラデルフィヤに独立して印刷所を開業しました。やがて新聞を発行したり、毎日の生活信条を刷り込んだカレンダーを発行したりして、大儲けをしました。当時のアメリカにおける新聞の発行部数は膨大なもので、それだけ市民は色々な情報に飢えていたのです。ピューリッツアが新聞の発行で大富豪になったのも頷けます。
 フランクリンのカレンダーは、『貧しいリチャードの暦』と称するもので、カレンダーに教訓的な文章やことわざ、年中行事などを刷り込んで売り出したのですが、これが空前のベスト・セラーになったのです。いまでも教訓、格言、年中行事などが印刷してあるカレンダーがたくさん売り出されていますが、もとはといえばベンジャミン・フランクリンの考案によるものです。フランクリンは、それらの文章を通じて、勤勉や節約などの徳目を実行すれば、必ず成功を手に入れることができると訴えました。フランクリンがあげた徳目とは、節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、冷静、純潔、謙譲の十三項目です。イギリスの産業革命を成功させたのはプロテスタントだといわれています。その時代は、ヴィクトリア文化といわれる時代で、勤勉、禁欲、性的抑制、向上への努力など、社会的責任や厳格な個人道徳が強調された時代です。フランクリンが訴えた十三の徳目もその一つですが、イギリスから逃れて新大陸に生活の場を築いたピューリタンたちの子孫が、彼らの父親たちの、また祖父たちの敬虔な生き様を新しい国造りに生かそうとした意気込みのようなものが、感じられます。

ページのTopへ 

(菅 正 明)