16世紀のヨーロッパは、探検の時代でした。16紀の後半、スペインはすでにフロリダ半島に植民地をつくり、17世紀になると西部の町サンタフエに進出します。サンタフエは、現在でも西部の古都として、街のあちこちにスペイン様式のレンガ造りの建築物が多く残されており、同時にアメリカン・ネイテイヴズの生活様式もいまに伝えられていて、スペインとネイテイヴ・アメリカンの二つの異文化が融合した特異な雰囲気を醸しだしています。
一方イギリスは、みなさんご存知のキャプテン・ドレイクなど、十六世紀の終わりから何回かにわたって新大陸に向かって探検隊を送り、1584年に派遣された探検隊が現在のヴァージニアに上陸、時のイギリスの処女王エリザベスに因んでヴァージニアと命名しました。その後17世紀に入って1607年、ヴァージニアを入植地の拠点として、ジエームズタウンを建設しました。江戸幕府が開かれたのが1603年ですから、日本で幕府が開府したころ、アメリカ大陸ではヨーロッパからの移民が苦労しながらその生活の基礎作りをしていたということです。 |
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| ジエームズタウンの建設は、悪疫と飢餓に加えて原住民たちの脅威にさらされて、最初の入植者百人のうち、1年後の生存者は3分の1になるというように、大へん悲惨なものでした。しかしながら、その後も入植を続け、入植者の苦闘と努力の結果、10年後にはタバコ、トウモロコシ、ピーナッツ、ココアなど多くの農産物が収穫できるようになり、収穫量も年々増加して、その輸出額は急激に上昇し、これが入植者の勤労意欲を高め、さらにイギリスからの移住を増やすことになりました。当時、植民地建設には莫大な費用がかかましたので、その資金は株式会社組織で集められ、株主は移民に要した費用と農産物とを一定の年限にわたって受けとる仕組みになっていました。大陸に移りたいと思う人は植民会社に渡航費を払い、入植後は農産物を会社に提供し、会社はそれを株主に配当するという仕組みです。イギリス国王は、移民のための資金を提供することはなく、会社に特許状を下付して、植民地経営の権限を会社に与え、これを推進したのです。
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16世紀から17世紀にかけて、イギリス国教会の聖職者たちの堕落は、目に余るものがありました。ことに16世紀の中ごろからは、宗教改革を目指すプロテスタントに対する迫害が、激しさを増していきました。エリザベス女王の時代になりますと、イギリス国教会のカトリックとプロテスタントとの中道政策がとられましたが、それでも先鋭なピューリタンたちは地下運動を続けながら、やがて一六四二年のピューリタン革命に繋がっていくのです。メイフラワー号のアメリカ大陸到着は、それに先立つこと20年ということですね。
プロテスタントとは、ルターの宗教改革運動を機縁に成立したキリスト教各派の総称です。そのなかで、16世紀から17世紀にかけてイギリス国教会の改革を求めた人々を総称してピューリタン(清教徒)と呼びます。マックス・ウエーバーが近代社会を考えるうえで重要視したのが、プロテスタンテイズムであることは、すでにご承知の通りです。
イギリスのピューリタンは、二つに大別されます。イギリス国教会と厳しく対立している分離派と、国教会の体制のなかにあって宗教改革を実現しようとする非分離派です。メイフラワー号でプリマス植民地にむかった人々は分離派、後で述べるマサチュセッツ湾岸植民地を形成した人々は非分離派です。前者を『ピルグリム』、後者を狭い意味の『ピューリタン』と呼んで区別しています。 |
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イギリス国内で絶えず執拗な迫害の危険にさらされていたピューリタンは、最初からアメリカ大陸を目指した訳ではありません。17世紀のはじめ、彼らは迫害を逃れるため、先ずオランダのアムステルダムに脱出しました。イギリス海岸からオランダまではそれ程遠い距離ではないのです。脱出してオランダに来たものの、そこでの都会の生活には適応できず、オランダで生活を続けると、彼らの子どもが母国語である英語を話せなくなることや、農耕生活を主とする彼らにとって、都市では自分たちに適した職業を選ぶことが難しいなど、言葉の習熟や教育、職業選択についての色々な困難な問題がおこり、再度の移住先としていくつかの目的地が考えられましたが、最終的にはアメリカ大陸への移住が浮かび上がってきたのです。しかしながら、アメリカへの入植には、莫大な資金が入用です。それをどうにかクリアーして乗船できたのが、メイフラワー号です。
メイフラワー号は、イギリスのプリマス港を出帆、1620年12月22日プリマスに上陸しました。私は、プリマスという名前は出港地に因んで付けたものだと思っていましたら、そうではなくて、彼らが上陸したところもプリマスという名前だったそうです。偶然というものがあるものですね。ピューリタンたちの出国に際しては、信仰上の理由から国王の特許状を得ることができませんでした。それで、国王の特許状を持っているヴァジニア植民地に入植することにして母国を出発したのですが、出発がおくれたこともあって、アメリカ大陸に到着してからさらに南下してヴァージニアに向おうにも、それができなかったのです。といいますのは、メイフラワー号がアメリカに到着したときはすでに冬の季節に入っており、入植者たちも長い航海で疲労の極に達していましたので、それ以上の航海を続けることは到底不可能でしたから、やむなくプリマスに上陸して、ここに生活の場を築くことになりました。それがプリマス植民地です。
プリマスに上陸したときから十年後、非分離派のピューリタンたちが、新大陸に、国教会を改革するためのモデル植民地を建設したいという期待をもって、国王の特許状を得たうえで、マサチュセッツ湾岸植民地を開きました。後に、プリマス植民地はマサチュセッツ湾岸植民地に併合されることになります。
プリマスでのピルグリムファーザーズたちの生活がどんなに悲惨なものであったか、彼らのリーダーであったウイリアム・ブラッドフォードの記録を大西直樹の訳で紹介しておきましょう。 |
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| 「しかし、最も悲惨で嘆かわしかったことは、2、3ヶ月のうちに、一行の半分が死んでいったことである。とくに、1月、2月は冬の最中なので死者が多かった。それは、家もその他の施設も不足しており、またながい航海と不自由な生活環境がもたらした壊血病やその他の病気に感染したためであった。そのため、1、2月には、1日に2、3名の死者が出たほどで、百余名のうち、やっと50名が生き残ったのであった。その上、もっと悲惨なことには、この50名のうち6、7人しか健康ではなかった。」
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