江戸開府から百年経って元禄のころになると、戦国時代の気風もうすれ、幕藩体制も完備して、新たな価値観が生まれてきます。明治維新から百年経った平成の現代はどうでしょうか。明治維新の記憶は現代の人からは忘れられてしまって、残っているとすれば、遺伝子の中だけになってなってしまったかなと思われるくらい、平成の生活も社会思想も、明治維新のころのそれとは全く異なったものになってしまいました。しかしながら、過去の日本人の行動と思想は、平成人の心のどこかに、必ず残っているはずです。
皆さんもご存知の新井白石は、これからお話する石田梅岩と同時代の人と考えてよいでしょう。白石には『折りたく柴の記』という自叙伝があります。フランクリン自伝と比すべき世界有数の自叙伝で、桑原武夫によって現代語訳されています。その中にこんな話があります。
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「白石の父が、75才で高熱をだし危篤状態になった。かねてから『若い人ならともかく年のいった者が、命には限りがあることも知らないで、薬のためにかえって息苦しいありさまで死ぬのはみにくい。よく注意するがよい』といっていたので、(白石は薬を服用させようかどうしようか)と思ったけれども、あまり苦しそうなので、独参湯をしょうが汁に混ぜて飲ましたところ、病気は治ってしまった。後で、どうして背中を向けてばかり寝ていたのかと聞くと、『人は、熱にうかされると、とりとめのないことを口走るものだから、なにも云わぬに越したことがないと思って、皆に背中を向けていた』といった。
白石の父はその後も元気で、82才で亡くなりました。また、その友人に関という男がいました。七十才を過ぎた頃から、老いぼれて見えるようになったので、白石の父は、「一般に、人間の気力は年とともに衰えるものだが、老いぼれる時期になると、どんなに慎重にしていても、ぼけずにはすませられない。若いときから心掛けておけば、老いぼれる時期がきても、見る人に興ざめさせずにすむ。老人がぼけて見えるのは、云うべきでないことを云い、してはならぬことをするからである。要するによくもの忘れをするからだ。
老人には、古いことを尋ねて有益なこともある。年をとっても心に残っていることがあるから、それらのことは、人に問われた場合には、答えてもよかろう。世間の新しく珍しいことなどは、耳に聞いても、口からは出すべきでない。」といっています。徳川時代の初めに生きた人の言葉ですが、私たち平成時代の高齢者に対しても、なんと斬新なアドバイスではありませんか。徳川百年といえば元禄もおわりころですが、高齢者のボケが問題になっていたのです。調べてみますと、この時代にも随分長生きした人が多いですね。
白石のお父さんが超高齢期を迎えた元禄時代は、日本全国の耕地面積が、江戸初期の百五十万町歩から三百万町歩に倍増した時期です。米の生産は倍増したにもかかわらず、いまのように流通機構が整っていないものですから、国内では災害や飢饉が続発していましたけれども、所得も増え、都会では一般庶民の食生活も豊かになり、一日に三度米の飯を食べられるようになりました。やがてその後には低成長が続き、吉宗の米穀政策も失敗に帰することになるのですが、そのことには触れません。
生活が豊かになると、大衆の関心は健康と教育に向かうのが当然のことです。立川昭二の調査によりますと、元禄時代から養生書、今でいう健康ノウ・ハウものの出版ブームが起こり、薬ブームとなり、やがて江戸の商店街で十軒に一軒は薬屋だつたというのですから、その変わりようがどんなものであったか、お分かりでしょう。また、この時期から大衆の教育機関である寺子屋ができるのですが、徳川時代もずっと下がりますと、全国に二万ヶ所以上の寺子屋があったそうです。これはいまの全国郵便局の数とほぼ同数だそうですから、徳川時代の庶民教育が如何に盛んだったかお分かりでしょう。 |
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元禄時代になって、江戸、大阪、京都を中心として、町人文化が完成していきました。町人文化というよりも商人文化といったほうがいいかも知れません。そして彼ら商人のなかから、時代をリードする多くの実践的学者が輩出するのです。それは、ただ江戸や京都、大阪という大都会だけに止まらず、日本全国にわたる現象です。
西川如見は、一六四八年の生まれで七十七才まで生きた長崎の豪商で、著書として『町人嚢』や『百姓嚢』を残した人ですが、彼は「物を人々の利用に供して利得を得るのが商いで、わが国の物を持っていって、他国の人の物に替えるという、天下の財物を通じて国家の用に達するを、真の商人という(中島誠)」と、いっています。また、町人(商人)は、素朴でいてさまざまな不自由を我慢し、世間の評判に関係なくおのおの職分をつとめて、家業に退屈しないのが、町人の勇気というものであるともいっています。禁欲と勤労を勧める思想がここにも見られます。
彼ら商人たちは、その規模は今日の中小企業の枠を超えるものではなかったのでしょうが、商いの行動倫理を内なるエートスとして、やがて訪れる日本の近代化を待つことになるのです。そして、それをリードした知的プロフェッショナルの一人が、石田梅岩です。 |