物語 職業奉仕

第7話 石田梅岩


 
 江戸開府から百年経って元禄のころになると、戦国時代の気風もうすれ、幕藩体制も完備して、新たな価値観が生まれてきます。明治維新から百年経った平成の現代はどうでしょうか。明治維新の記憶は現代の人からは忘れられてしまって、残っているとすれば、遺伝子の中だけになってなってしまったかなと思われるくらい、平成の生活も社会思想も、明治維新のころのそれとは全く異なったものになってしまいました。しかしながら、過去の日本人の行動と思想は、平成人の心のどこかに、必ず残っているはずです。
 皆さんもご存知の新井白石は、これからお話する石田梅岩と同時代の人と考えてよいでしょう。白石には『折りたく柴の記』という自叙伝があります。フランクリン自伝と比すべき世界有数の自叙伝で、桑原武夫によって現代語訳されています。その中にこんな話があります。
 
「白石の父が、75才で高熱をだし危篤状態になった。かねてから『若い人ならともかく年のいった者が、命には限りがあることも知らないで、薬のためにかえって息苦しいありさまで死ぬのはみにくい。よく注意するがよい』といっていたので、(白石は薬を服用させようかどうしようか)と思ったけれども、あまり苦しそうなので、独参湯をしょうが汁に混ぜて飲ましたところ、病気は治ってしまった。後で、どうして背中を向けてばかり寝ていたのかと聞くと、『人は、熱にうかされると、とりとめのないことを口走るものだから、なにも云わぬに越したことがないと思って、皆に背中を向けていた』といった。

 白石の父はその後も元気で、82才で亡くなりました。また、その友人に関という男がいました。七十才を過ぎた頃から、老いぼれて見えるようになったので、白石の父は、「一般に、人間の気力は年とともに衰えるものだが、老いぼれる時期になると、どんなに慎重にしていても、ぼけずにはすませられない。若いときから心掛けておけば、老いぼれる時期がきても、見る人に興ざめさせずにすむ。老人がぼけて見えるのは、云うべきでないことを云い、してはならぬことをするからである。要するによくもの忘れをするからだ。
 老人には、古いことを尋ねて有益なこともある。年をとっても心に残っていることがあるから、それらのことは、人に問われた場合には、答えてもよかろう。世間の新しく珍しいことなどは、耳に聞いても、口からは出すべきでない。」といっています。徳川時代の初めに生きた人の言葉ですが、私たち平成時代の高齢者に対しても、なんと斬新なアドバイスではありませんか。徳川百年といえば元禄もおわりころですが、高齢者のボケが問題になっていたのです。調べてみますと、この時代にも随分長生きした人が多いですね。
 白石のお父さんが超高齢期を迎えた元禄時代は、日本全国の耕地面積が、江戸初期の百五十万町歩から三百万町歩に倍増した時期です。米の生産は倍増したにもかかわらず、いまのように流通機構が整っていないものですから、国内では災害や飢饉が続発していましたけれども、所得も増え、都会では一般庶民の食生活も豊かになり、一日に三度米の飯を食べられるようになりました。やがてその後には低成長が続き、吉宗の米穀政策も失敗に帰することになるのですが、そのことには触れません。
 生活が豊かになると、大衆の関心は健康と教育に向かうのが当然のことです。立川昭二の調査によりますと、元禄時代から養生書、今でいう健康ノウ・ハウものの出版ブームが起こり、薬ブームとなり、やがて江戸の商店街で十軒に一軒は薬屋だつたというのですから、その変わりようがどんなものであったか、お分かりでしょう。また、この時期から大衆の教育機関である寺子屋ができるのですが、徳川時代もずっと下がりますと、全国に二万ヶ所以上の寺子屋があったそうです。これはいまの全国郵便局の数とほぼ同数だそうですから、徳川時代の庶民教育が如何に盛んだったかお分かりでしょう。
 
 元禄時代になって、江戸、大阪、京都を中心として、町人文化が完成していきました。町人文化というよりも商人文化といったほうがいいかも知れません。そして彼ら商人のなかから、時代をリードする多くの実践的学者が輩出するのです。それは、ただ江戸や京都、大阪という大都会だけに止まらず、日本全国にわたる現象です。
 西川如見は、一六四八年の生まれで七十七才まで生きた長崎の豪商で、著書として『町人嚢』や『百姓嚢』を残した人ですが、彼は「物を人々の利用に供して利得を得るのが商いで、わが国の物を持っていって、他国の人の物に替えるという、天下の財物を通じて国家の用に達するを、真の商人という(中島誠)」と、いっています。また、町人(商人)は、素朴でいてさまざまな不自由を我慢し、世間の評判に関係なくおのおの職分をつとめて、家業に退屈しないのが、町人の勇気というものであるともいっています。禁欲と勤労を勧める思想がここにも見られます。
 彼ら商人たちは、その規模は今日の中小企業の枠を超えるものではなかったのでしょうが、商いの行動倫理を内なるエートスとして、やがて訪れる日本の近代化を待つことになるのです。そして、それをリードした知的プロフェッショナルの一人が、石田梅岩です。

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 石田梅岩は、いまの京都府亀岡市の中農の次男として生まれました。一六八五年の生まれですから、その四才から十九歳までが元禄時代に当ります。当時は、十石以上の年収がないと、農家の分家は許されませんでしたし、また、農村で小商売を始めることも禁止されていましたので、そのころの習慣に従って、梅岩は京都に丁稚奉公に出されました。初めての奉公は、主家の倒産でいったん家に帰ったのですが、二度目の奉公先である黒柳家では、中途就職であったにもかかわらず番頭に昇格し、店を取り仕切っていた主人の母親が臨終の床で「勘平(梅岩)の将来を楽しみにしていたのに、それを見ずに死ぬのは残念だ」といったくらい信用されており、梅岩もそれに応えるように仕事に打ち込んだのでした。しかしながら、奉公を続けながらも、かれの本当の目的は別にあったのです。彼は、生涯を人の道を説くことに捧げたいと思っていたものですから、仕事中も閑があれば読書に熱中し、ときには鐘を鳴らして聴衆に説いて廻ったこともあったそうです。
 当時の京阪地方では、商家のなかに学問・文化を求める風潮がたかまっていましたので、奉公しながら学問を続けるということが可能だったようです。梅岩は、「われ生質(うまれつき)理屈者にて、幼少の頃より友にも嫌われ、ただ意地の悪きことありしが」と話していますから、生まれつき人に嫌われるくらい理屈っぽい人だったのでしょう。彼のこの性格も、五十才台に入ってからは、全くなくなったそうです。このころから講義や著作など、梅岩の円熟した活躍期に入るのです。
 梅岩が心学社を開いたのが京都だったということには、それなりの意味があります。元禄時代の後、吉宗の改革も全く失敗して、幕府は経済的に益々無力化していきました。テレビ・ドラマでは、徳川吉宗が名君で、田沼意次は悪臣ということになっています。実際には、吉宗は頑固な守旧派で経済政策は失敗しましたし、意次はなかなかの政策マンで、行政家として意欲的でした。意次は、賄賂ばかり取っていた悪官僚になっていますけれども、当時の幕閣はみな付け届けで生活していたようなものですから、意次だけを責めるのはいささか筋違いというものです。
江戸商人は、数千人といわれる多数の幕府高官、将軍直参の家臣団、各藩大名の家臣団などと密接な関係にあり、その生活には奢侈・贅沢な生活習慣が定着して『宵越の金はもつな』の気風がひろまり、投機的な商売も広がっていました。心学は、この江戸という大都会の生活に対するアンチテーゼとして、当時の武士階級や商人たちに受け入れられたのです。
 梅岩が説いた心学の特質は、人生を悔いなく生きるためには如何にすべきかということを目的して学問・修行し、『あるべき』日常生活をすることにあります。心学社中に集まった人たちは、梅岩の指導を受けながら、それぞれの家業を続けると同時に、天下の泰平を助け、万人の福祉に奉仕する心構えで商いに励み、同時に世間の人々が互いに助け合う気持ちーこれを梅岩は『互いにする』といっていますーで暮らさなければならないと、教えています。彼の説くところはさらに、これは心学社中の相互間だけでは駄目なので、社会のありとあらゆる人々にたいしても、この心掛けを忘れてはならない。それが行動として表れると、勤勉、倹約、布施になるというのです。まさに、プロテスタンテイズムの禁欲主義そのものであり、ロータリーでの奉仕の精神です。
 
 梅岩の代表的著書は、『都鄙問答 四巻』です。この本は、1738年梅岩55才のときに刊行されました。彼が講義を始めたのは1729年ですから、それから十年たって彼の著作が刊行されたということです。この本は、それから明治維新までの百三十年間に十版を重ね、明治から昭和にかけて少なくとも十四種類が公刊されているそうですから、如何に多くの人々に読まれているかお分かりでしょう。
 梅岩が説いた内容には、宗教を思わせるものがありますけれども、その主眼点は、行動的な実践倫理です。彼が心学社を開く前、最後に師事したのは、京都在住の漢学者小栗了雲でした。了雲は、宋の性理学に精しく、仏教および道教にも精通していたそうですから、梅岩が若い時代に神道に傾倒していたことも併せて考えますと、心学が宗教的色彩を帯びていたことは、首肯できるでしょう。但し、宋学に精しい了雲の指導を受けたとなると朱子学でしょうが、梅岩の行動的倫理観は、むしろ陽明学に傾いているかも知れません。そうではあったかも知れませんけれども、梅岩にとっては、朱子学も陽明学もなくただ心学ありだったに違いありません。マックス・ウエーバーの流れを汲む、アメリカの社会学者ロバート・ベラーは、東アジアで唯一近代化に成功した日本の近代化成功の要因はなんだったかとして、その要因に徳川時代の文化的伝統、とくにそのなかで果たした宗教の役割を重視して、1957年『 TOKUGAWA RELIGION 』を刊行しました。池田昭の翻訳で、『徳川時代の宗教』として岩波文庫の一冊になっています。このなかで石田梅岩の事跡が大きく取り上げられています。
 石田梅岩の代表的著書『都鄙問答 四巻』は、「一つは、人間の本質を天地にまたがる性にもとめて、それを自得するよう修行すること、次は、その性理のさし示す通りに、人々が士農工商儒医などそれぞれの職分に応じた道を、すなおに践み行うに導くこと」を目的として、刊行されました。ここでは、『商人の役割についての項目』についてお話します。
先ず、『巻之一 商人ノ道ヲ問ウノ段』で、ある商人が「商人の道に叶うには、どうしたらいいのですか」と、質問します。梅岩は答えます。「商売の始まりは、余りある品と不足な品とを交換して、互いに融通しあうのがもとだ。」といって、先ずは、正確な勘定と正直な取引を重視します。よい品を、適正な値段で売りさばくと、買い手のほうも安心して買うことができる。かくて相互に信頼感が生まれるから、それだけでも住みよい世の中になる。こうして大いに儲けてもそれは欲心ではない。幕府は、こうして儲けた商人を『お取り潰し』にして、抑圧しようとしますけれども、もうそれだけでは『商』を抑えきれない時代が来ているのです。
 
 『巻之二 或学者、商人ノ学問ヲ譏ノ段』では、ある学者が商人に学問など不要だといいます。梅岩は、商人も学問を修めて正義の観念をみにつけよ、といい、「学問では、文字を学べ、孔子・孟子を知れ」という学者に対して、「言葉が生まれる以前から『道』はあったのだから、言葉や文字に拘ることなく道を求めるのが学問だ」と反発します。さらに学者が、「人を騙して儲けるのが商人ではないか、商人は右のものを左に移しただけで利を取るではないか、商家が破産したとき、こっそりととれ金を取るではないか」など、色々と攻撃してきます。梅岩はこれに一々反論しますが、要するに、商人が利益を得るのは、武士が禄をうけるのと同じで、「売利ナクバ、士ノ禄ナクシテ事フルガ如シ」といい、売利を計るには、心構えと基準が必要である。心構えからいうと、品物の品質と値段とに『真実』を尽くすこと、即ち正直が大切であり、買い手の身になって売る思いやりが、商人にとっての真実である。この『真実』こそ、商人の生命である。ものの値段は、ときの相場というものがあるから、変動するのはやむを得まい。それでも商人が悪いというならば、百姓か職人に転業する他はあるまいが、「それでは財宝を通わすものなく、天下万民が難儀すべし」と近代へと移りゆく社会での流通の重要性を説いていきます。梅岩はさらに「一家を治めるのも一国を治めるのも、仁をもととし、義を重んじなければならない点ではおなじである。商人のささやかな仁愛も国の役に立つべきだ。飢えた人を救うのは人の道であるから、商人もまた、その心がけがなくてはならない」と、実践的社会奉仕を説きます。商人に俸禄を下さるのは、買い手であるお得意先であるから、お得意先のために真実を尽くさねばならぬ。真実を尽くすためには、「倹約を守って、これまで一貫目かかった生活費を七百目で賄い、これまで一貫目あった利益を九百目に減らすよう努める。するとお得意先から高値で売るとクレイムがつくことはない。贅沢をやめ、普請好みや遊興好みを止めれば、一貫目の利益を九百目に減らしても、家は立派に立っていくはずである」というのです。まさに、プロテスタントの禁欲主義そのものです。
 これに続いて『巻之四 主人行状ノ是非ヲ問ノ段』がありますが、ここでは省略します。
この話の初めのほうで、心学社中の人々は、社中の門人相互の間だけでなく、社会のあらゆる人に対しても、『互いにする』心で暮らさなければならないというのが、その心構えだと書きました。そのひとつの例をご紹介して、石田梅岩の話を終わることにします。
一八五○年(嘉永三)、現在の山陽地方を中心に中国筋一体が風水害を受け、飢えに追い込まれた人々が、京大阪は天領だから救済が完備しているとの噂を聞き、大挙して京大阪を目指しました。この原稿を書いているとき、台風十八号が九州から北海道までゆっくりと北上、全国に大被害をもたらしました。ちょうど十八号と同じような台風だったのでしょう。これは、その視察を命じられた肥後細川藩の横井小楠が、家老の長岡監物に送った報告書の文面です。現代文に訳してご紹介します。

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 「中国筋から長門・周防(山口県)、三備(岡山県)、芸州(広島県)、は風水害の被害が特別大きく、そのために甚だしく困窮して、飢えた民が道路に充満しています。ほとんどの人々は、京・大阪を目指しており、二つの街は多くの流民でいっぱいです。大阪では、すでに先月のはじめ所司代に届出のあっただけでも餓死者二百人とのことでしたが、実際にはその五倍もあるそうで、私どもも大阪では、実際に餓死するものを目の当たりにして、なんとも気の毒でなりません。」
 被害者たちは、京大阪には救済設備が整っているというデマに惑わされて、二つの都市目指して歩いていったのですが、大阪にはなんの救援設備もなく、実際は千人も餓死しているのに、二百人しか報告がないというのです。ところが、京都に入ってみて、小楠は驚きました。小楠の手紙をお読み下さい。
 
 「大阪は、いまになってもなにもしていませんけれども、京都では去年の十一月から救援活動が始まっています。この救援活動は、例の心学社中のものが計画し、現在もこの社の人々が、担当しております。現在まで厳重に救済活動が続いているというのは、余程やり方がいいのでしょう。はじめ、町奉行所から米五百石と銀二十五貫目出して貰い、心学中の人々が京都の豪商に募金を呼びかけて、一万両ばかり集めました。三箇所に救援施設を作って、公平に救援活動を行いましたので、京都では餓死するものが一人もないそうです。私は学者をもって任じているものですが、こんなことまでは、全く気付きませんでした。道学者(石門心学社中の人々を指す)に一本取られました。」

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 石門社中の記録にも、社中の人々が集まって救援活動の計画をたて、十ヶ所の石門社の人々が夫々救援場所を分担して活動し、醵金も一万両を越えたと記録されています。「施すほうの気持や態度のどこにも、施すの、救うのといった優者の意識がなく、不公平なとり計らいがなく、貰うのに手間どる感じもあたえぬような、それこそ心学的な心構えがあった」と、石川謙も書いていますが、その通りだと思います。どうでしょう。まさに職業奉仕と『決議二十三の三十四条』の実践ではありませんか。

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(菅 正 明)